学院の教授であるヨルワは、その部屋に入ってすぐにその水準を理解した。ヨルワの知る限り、ここまでの念入りさを持って社交界を捉えている人物はいなかった。
それはある意味では当然のことだった。貴族の一番の仕事は社交界に出ることだという冗談があるが、それは冗談でしかないのだ。もちろん、酒と交流に重点を置く貴族はいる。それにのめり込む人もいるだろう。彼らが本業をおろそかにし、浪費を重ねているのは事実だがそれは多数派ではない。
そして多くの場合、社交には戦略性がない。まるで軍隊でも動かすかのように精緻な計画と様々な予測を重ねている様子は、ヨルワの知る社交の形とは異なっていた。手紙を中心としている点では、むしろ同君地域のそれに近いかもしれない。
「……どうですか、ヨルワ教授」
アニドは聞く。ここに呼ばれたヨルワは学院の教授というよりも、かつて邸宅社交界の主催者だったパステリアス伯爵夫人として立っていた。
「本来は経験豊富な引退貴族あたりがやるものだけれども、学生でもなんとかなるのね」
「フュルシーアとファーネスタとエネトと、それにテレナがいますからね、どうにでもなりますよ」
南方街との内通者、地方派の有力者の娘、聖座の外交官の手先、そして北側世界有数となっているかもしれない政治的打ち手の名前をアニドは言う。
「あなたも、その名前の中に入れておくべきね」
「俺はそんなやってませんよ」
「嘘ですね」
黙って部屋の隅で作業をしていたテレナが言う。
「ほら、テレナさんもそう言っていますよ」
「……生まれが生まれだからだよ、それは能力の本質じゃない」
「全てが最初から運命ならあらゆる努力が無駄なんてことはないでしょう、それと同じで立場をきちんと使えているならそれは十分能力ですよ」
そう言いながらテレナが書いているのは手紙だった。いつものテレナのものと筆跡を変え、検閲を通らない経路で回りくどく届けられるはずのものだった。差出人を偽装して暴走しかねないと思われる人物に送っている、統合王国の体制についての批判とその解決のために今は待つべきではなかろうかと問う文である。
「とはいえ、あなたの従兄のルメン・デリロスさんは……ああいえ、彼の扱いはどうなるのでしょうね?」
「聖職者だから卿とかもいらないだろ、ルメン・デリロスだけでいいし、俺ならデリロスって呼ぶな」
アニドの言い方は、貴族の慣習からは外れたものだった。しかし昔一緒に遊んでもらった従兄に今更堅苦しい呼び方ができないという立場を取り、そして相手がそれを咎めなければ許されるというものでもあった。
「彼は、あなたのような事はできませんでした。少なくとも教師として最低限のことを教えられたとは思いますが、彼があなたのように学んだことを真に活かせるようになるにはまだ時間がかかるでしょう」
社交界の規則というのは絶対的なものではない。もちろん大半の参加者はその規則を苦労して学び、そして表面的に模倣することしかできない。一部の熟練者はより洗練された、規則の本質を理解して振る舞うことができる。
そしてそれを超える、規則を作れる側となる人物は限られていた。例えば社交界で大きな影響力を持っていたかつてのヨルワであればそれは可能であった。パステリアス伯爵夫人の邸宅で出された菓子や、そこで流行した絵画の様式や詩の言葉選びは、統合王国の文化面に小さくない影響をもたらしていた。
だからこそ、ヨルワはその工作の深さを理解する。彼らは間接的な影響まで起こってほしいと思いながら動いている。
「とはいえ困難は人を成長させますよ、先生」
アニドは先の冬の学院でそれを学んだ。だからこそ、相手が自分を上回る可能性を常に想定していた。
「……敵は、いるの?」
ヨルワは聞く。
「今のところいませんね、結社も派閥も、基本的には私達のことを悪くないと思っています」
テレナは言う。学院からの手紙はどちらにも内通者だとわかるような形で行われていた。例えば統合王国において手紙を検閲できるだろう人間には、事前にアニドが学院で知り合った人経由で話を通して情報収集のために見逃してくれという話を通している。
一方で、「結社」の構成員たちには手紙が検閲されているので本当に言いたいことは言えないということを暗号的なものも含めてほのめかしている。これらを手紙だけでできるのは、冬の学院でアニドが苦労して様々な人と会話をし、信頼を勝ち得たからだった。
「次の重要な会合は修了式です。その時に統合王国の打ち手からの使者と、リュクバーンが来るようにしています」
「……ええ、それは知っている」
アニドが言わなくともヨルワはそういった儀礼の手紙をやり取りする役目だった。だからこそ、普段は顔を見せない人物がやけに来ることに気がついていた。ただ、その原因が彼らであるとまでは読めていなかった。
もちろん、それはヨルワが学生を過小評価していたわけではない。単純に、ここまで統合王国の中枢に入り込み、動かそうとしているとするはずがないと考えていただけだった。
たとえ敵国であっても、ここまでのことはしないだろう。もしやるとしたら、それはもっと小さく、そして静かなものになるはずだ。崩壊しつつある構造を再構築する手間は、混乱を必要なところに起こすために必要な作業と比べ物にならない。
「それと、良い地図ね」
ヨルワは壁にかけられた地図を見る。テレナが何度か書き直したそれは、今の統合王国の派閥を示していた。王室派の内部の混乱の原因である宮廷社交界の背景にある領地問題は、丁寧に記録を分析して明らかになったものだ。
ルメン七世の時代に、地方派の有力貴族は宮廷に招かれ、様々な職を与えられた。そのために、いわゆるかつての地方派の中でも王室派と近い利害を持ってしまったものは少なくない。そうして支配が弱まった地域は、王室の統制下に入ったのだ。
その流れを踏まえれば、その過程で起こった混乱を分析できる。収穫量の長期的な変化から天候による部分を取り除けば、納税方法の変更などの影響がはっきりと分かるようになる。
「重要なのは、誰が何をできるかをきちんと理解することです。そして全体の変化をその人に伝える。あなたがこの仕事をしたから、世界はこう変わったんですよと伝えれば、責務を果たしている人はさらに献身をしてくれます」
テレナは呟く。ヨルワは、そういった言葉の恐ろしさを知っていた。彼女自身がそれをしばしば使っていたからだ。あなたの作り出す作品は私の心を動かした、と語ったことは少なくない。それがたとえ長期的に見て社交界で自分の評判を高めるような人物を自身の邸宅社交界から生み出すための言葉であっても、多くの人はそれを頼りにまた次に進むことができてしまうのだった。