「ちゃんと寝るんだよ」
「はい……」
「辛くなったら体調が悪いって断りなね」
「はい……」
朝早い時刻、統合王国へ向かう馬車を待たせてシェプルスキアはテレナに言い聞かせていた。シェプルスキアからすれば自分の目の届かないところにテレナが行ってしまうという心配は大きかったが、自分では統合王国の社交界を乗り切れないことはよくわかっていた。
「あとなにか面白いものがあったら買ってきて」
「あっちだと伯爵令嬢が買い物をするの難しいのよ……」
テレナは涼しい夏の朝風に吹かれて息を吐く。
「そうなの?」
「まず一つ、令嬢が市場に物を買いに行くことはまずない」
「……それぐらいはわかるよ」
そう言いながらも、シェプルスキアはかつての傭兵団時代に中途半端な弓の張りをした職人を追い詰めるために露天市に馬で行ったこともある。とはいえそれはあからさまに前提が違うだろうな、ということはシェプルスキアにはわかっていた。屋敷の下女が市場に食材を買いに行くようなものだろう、という納得とともにシェプルスキアはテレナを見る。
「ただし、確か統合王国にはそういう通りがあるのよね」
「通り?」
「そう。全ての貴族が職人を招くことのできるわけではない。高級な工房とその展示場が合わさったものと言えばいいかしら、そういう通りがあるのよ」
テレナが見たことがあるのは統合王国に旅行をしに行く同君地域内の貴族向けの小冊子に掲載された銅版画の様子だったが、それでも雰囲気は理解できた。
「土産屋?」
「違うけれども機能は似たようなものね、例えば地方の貴族に対して、王室……というより首都の貴族が力を見せつける方法にはどのようなものが考えられる?」
「軍隊の行進……というのは冗談として」
「手段の一つではあるけどね」
テレナは小さく笑いながら言う。事実、名誉ある連隊の一つである金旗連隊はそのような役割を持つために特に選抜された人員による部隊があるという。
「そこに富と文化があるということ。違いがそこにあるし、逆らう力も、逆らう正当性もないんだって思わせるんでしょう?」
シェプルスキアの言葉にテレナは頷いた。
「同時に貴族が頼ることになる職人たちを一箇所にまとめることができるから警備とかも楽になる。もちろん平民が買うのは難しいとかいうことにはなるけれども」
「……そういう場所のものって、それなりの値段がするんでしょう?」
「一つで家が建つ宝石ぐらいはあるでしょうね、どんな安くとも職人の一ヶ月の給与とかそのぐらいにはなるでしょう」
「うわぁ……」
シェプルスキアの金銭感覚は、西方の貴族と比べれば庶民的なものだった。彼女にとって装飾品は天幕の中で腕にあるものが作るか、あるいはすれ違った旅の商人から買うものだった。それはたとえ高価だとはしても、娘や妻が自分の金で買うか、あるいは少し懐が豊かな父や夫に買ってもらうというものである。そうすると、自然と値段は制限されるのだ。
「そっか、統合王国が大きいのって貴族がいっぱいいるからなんだ……」
「そういうことね、買う人がそれなりにいるなら高い値段をつけても売れるし、高い値段をつけていること自体に意味が出てくるのよ」
「……なんかさ、本当に安いのでもいいからほしいな」
「伯爵令嬢が友人の領主に生半可なもの買ったって統合王国で噂になるとあとあと面倒なのよ、なんとかしてみるつもりではあるけど期待はしないで」
そんな会話をしていると、アニドがテレナの横に立った。
「そろそろ出るぞ」
「はいはい。というわけで一人の女中として仕事をしてきますか」
そう言って、テレナは外套を羽織った。その服の下は清潔だが簡素な、学院の制服とは違うものだった。
「ま、俺も似たようなものだがな。まったく便利使いさせられるぜ」
そう言ってアニドは自分が乗る馬車にそそくさと移動する。学生向けのものではなく、警備の兵たちの指揮官が乗っているらしい馬車だった。
「それじゃあシェプ、鍵は任せた」
「はーい、いってらっしゃい」
そう言うシェプルスキアに背を向けて手を振りながら、テレナは馬車に乗り込む。これまた学生たちが乗るのとは違う、付添の女中たちのものだ。
「失礼します、お嬢様方」
そう言うテレナに、馬車の中でお喋りをしていた女性たちが視線を向ける。籠もったような香水の匂いにも、テレナは表情を変えない。
視線を感じながら、テレナは伏し目がちに周囲を確認する。綺麗な指先の人がいるということは、その人の仕事はあくまで儀礼的なものなのだろう。下級貴族の令嬢が上級の貴族の邸宅で作法などを学びながら過ごすことはよくある話だ。
となると、繋がるべきは実際に手を動かしている人。事前に追加の女中が来るという話はアニド経由で回されていたはずだが、ここにいる人々にそれがどれだけ伝えられているかはわからなかった。従者は目上の者に口を利くべきではない、などという観念が統合王国では珍しくない。そのために、言われずとも察して動くことが求められるのだ。
鞭が鳴らされ、馬車が滑らかに動き出す。緊張がまだ馬車の中に残っている。あまり気乗りするものではないが、この空気のまま数日過ごすよりは彼女たちの噂から統合王国の情勢でも知るべきか、とテレナは口を開いた。
「……皆様、楽しい会話を遮ってしまって申し訳ございません」
別にここで自分がいくらへりくだったところで全く問題はない、とテレナは理解していた。それで困るのはシェプルスキアの父であるエルンツィンガー伯爵であるが、彼は統合王国の社交界と繋がりはない。むしろ侮ってくれたほうが色々と楽になることも多いだろう。
もし伯爵令嬢がそのような振る舞いをするべきではない、という人がいればそのほうが楽だ。そういう真っ当な価値観を持っていて、それを相手に教えることのできる教育ができる家は名前を覚えておくに値する。さすがにテレナやアニドは統合王国の中にある膨大な貴族家を覚えているわけではない。その中で実際に力を持ち、決定をすることができるのはほんの一部であるし、大抵は家というよりも個人の才覚の問題だった。
「すみませんが、皆様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
そう言って、テレナは手が一番綺麗で刺繍が一番細かい服を着た女性に目を向ける。彼女が話し始めたところを見るに、選択は間違っていなさそうだった。