驚異に挟まれ流言を囁く 1
貴族の令嬢には、本来であれば帰宅や来訪に伴う面倒な儀礼というものがある。とはいえ、テレナとアニドはそれをすり抜けることができた。なにせそこにいるのは継承権も持たない青年と、彼についている臨時の女中なのだから。
「いやぁ、家に歓迎されない身分というのは辛いぜ」
馬車の中で足を組んでアニドは言う。服装としては少しいいところの地方貴族か富裕層の二男か三男といったところである。統合王国においてどのような身なりをしているかというのは、かなり性格に身分や地位を反映してしまう。逆に言えばそのあたりを乗り越えるだけの覚悟と知識があれば、自分の正体をごまかすことは難しくないのだ。
「大変でございますね、アニド卿」
そう言うテレナは、女中としては上等な格好をしていた。アニドが少し知り合いに頼んで、できるだけ綺麗な状態で戻すと言って借りてきたものである。服を一夜のために作ることすら珍しくない統合王国において、洗うことを前提とした服は真の上流を意味しない。とはいえ、そのような真の上流というのはしばしばどこにもいないのであったが。
このような面倒な階層は貴族の余力を反抗ではなく内部対立として解消するものとして設計されていたが、実態としては貴族の本職である統治にすら割く余裕すらも奪っていたのであった。それは財務表には現れないものであったが、貴族として生きる者たちの魂には刻み込まれていた。
「……その呼ばれ方は背筋が嫌な感じになるな」
「しかしアニド卿、
「……面倒事にはなりそうだがな」
アニドは息を吐いた。首都から馬車でそうかからない場所にその目的地はある。蔦の館。統合王国における、文化中心地の一つである。そしてそれは同時に、北側世界において何が流行で、何が上品で、何が知的で、何が教養かを定める場所でもあった。
「というより、本当にこれで大丈夫なの?」
テレナは馬車の背もたれに体重をかけて言う。一応、この馬車は王室のものである。より厳密には王宮であるが、ほとんどの人は王室と王宮の区別をつけていない。そして王室の一員であるアニドは、当然ながら王宮の資産を使うことができるのだ。もちろんそれは無駄遣いができるというわけではないが、空いている馬車と御者にちょっと走らせてくれと言うぐらいは王室が持たなければならない余裕からすれば手間にも入らない。
「何の問題が?」
「一応蔦の館は余人の入ることを許されない場所でしょう?」
「そんなわけないだろ」
アニドの言葉に、テレナは首を傾けた。テレナの知識はアニドから少しの会話と、同君地域向けの小冊子から来ているものであったために実際の詳しい状態を知っているわけではなかったが容易に入れるような場所ではないように思われた。
「……建前というものすら、ないの?」
「考えてもみろ、あそこに部屋を持っているのは統合王国の誇る奇人変人たちだぞ?彼らを排除せず、他の普通の人を追い返すいい口実を作れるなら教えてくれ」
「確かに」
テレナは頷いた。貴族が庇護する必要がある能力を持つという人物は、たいていは貴族に庇護されなければ問題を起こすのだ。そして大抵の場合、彼らは貴族を動かせるほどの力を持たない。単純な頭脳だけで渡り歩けるとなれば、学院の教授であるガルドーを含めて北側世界には十人いるかどうかだろう。
「まあ、それに俺の顔を覚えているやつはそれなりにいるだろうから困ることはないだろ」
「学院に入る前のアニド卿、あまり想像できないな……」
「嫌がらせか?」
「滅相もありません」
テレナは表情を整えて言う。
「……他の奴らに吹き込まれる前に説明しておくとだな、俺は乳母に育てられて、それなりの教育は受けたんだが、それは父さんの侍従がやったことだったんだよ。だから俺は、直接父の腕に抱かれたこともないし、ましてや祖父の腕にはない」
「……大変ね」
「かわりにそれなりの人に抱きしめられたぞ、巻き込んでおけば将来的に役に立たないわけではないだろうという微妙に打算的で、かつ俺なんかみたいな庶子に頼らなくちゃいけない奴らにな」
そう言ってアニドは笑い、そして黙った。
「でも、そういう人が今の統合王国を動かしているのでしょう?」
「そうだよ、だから手紙の宛先のそれなりの割合と知り合いとして手紙がやり取りできたわけだ」
「そのあたりは強みね。……あなたの苦労が、報われますように」
安易な慰めも、同情もテレナにはできなかった。祈りにも似た願いが、テレナにできる背いっぱいだった。
「報われるだけならそう難しくはないさ、うまくやれば一生遊んで暮らせる」
「死に方は選べないけれどもね」
「その通り。楽しく首を落とされる生なら、俺は意地汚く生きていたいのさ」
「……それはそれで、辛い生き方よ」
テレナはそうして生きている人々を知っていた。彼らは領地にいた。街にいた。館にすらいた。貴族もそうなる場合がある。彼らは死ぬという選択肢すら思いつかないほどの立場にいる。
死ぬという選択は、あるいは殺されてもいいという決心は、それ自体が高度な知性の産物なのだ。だからこそ一度落ちてしまえば、殺すことも死ぬことも恐れなくなる。そうなった者たちを相手にするためには、命を賭す兵士を必要とした。
「だろうな、だからこそ生きるに相応しいものにしないといけない」
「せめて何か形見か、換金できるものを肌見離さず持っておきなさい」
「参考にさせてもらうよ」
アニドがそう言うと、馬車が止まった。
「到着しました、坊ちゃま、それとテレナ様」
そう言って御者が扉を開けると、アニドは馬車の床を軽く蹴って地面に降りた。行儀がいいものではないが、このぐらいの横着を咎められるような場所ではなかった。
「どうもな。っと、これで息子さんに何か買ってやってくれ」
そう言ってアニドは銀貨を投げる。それをすっと手を伸ばして静かに、しかし素早く掴む御者の肉体がある程度鍛えられているというのはまだ馬車の中にいたテレナの目にもわかった。
「しかしアニド坊ちゃま、息子は今ちょうど色々と難しい時期なのですよ。不器用な父親の贈り物など受け取ってくれるかどうか」
「そういうもんは後になってからわかるものも多いのさ」
アニドはそう言ってテレナの手を引き、蔦の絡む建物の前にある門へと進んでいった。