テレナは絵画というものをそこまで見てきたわけではなかった。育った館には何枚かあったし、学院でもあちこちに絵が飾られてはいた。ただ、ここまで豪勢なほどに、あるいは粗雑なほどに扱われているのは見たことがなかった。
「あまりうろうろすると変なやつだと思われるぞ」
アニドは呆れたように言う。
「地方の小娘がこれを見て圧倒されないわけがないでしょう」
老人がいた。装いからすれば上流の貴族だろう。布一枚に身を包んだ女性たちは神話か劇の一場面だろうか。風景画があった。廃墟となった街と、そこに新しい家を建てる人々がいた。天秤を持つ商人が、剣を構えた騎士が、あるいは聖典の場面の一節があった。
テレナが抱えなければ持てないような絵が、数百枚。部屋の壁一面に、廊下に、はては床に積まれてそこにあった。
「気に入ったものがあれば買ってやろうか?」
「これ一つで……相場はどれぐらい?」
「ええと……」
アニドが言う統合王国の通貨を、テレナは頭の中で慣れ親しんだ同君地域の単位に変換する。並の職人なら十年働いて貯めるような額だが、貴族にとっては必要な出費となりうる。
「……燃やしたら楽しいでしょうね」
「やめとけ、良くない煙が出るぞ」
そう言いながら、アニドは記憶を頼りに歩いていく。蔦の館は改装と補修が繰り返されたせいで、様々な様式が一つの建物の中で楽しめるようになっていた。あるいは、慣れていても知らない場所に足を踏み入れれば迷ってしまうような場所だ。
「ここだな」
とはいえ、中の構造をある程度知っているならば手紙に書かれていた番号を参照にその部屋を見つけることはできた。
アニドは扉に耳をつけ、そしてゆっくり押し開ける。隙間から覗いた限りでは、中に人はいなさそうだった。
「入っていいものなの?」
「会いたいと言われたんだ、こっちから来てやった以上文句は言えんさ」
そう言ってアニドは扉を開ける。強くなった油と顔料の匂いを感じながら、テレナはアニドの後ろを歩いていく。
「……おや、お客さんじゃないか」
部屋の中にいた人物は、木枠に貼られた画布から視線を外さないままに言う。短く切られた紙と動きやすい服は、テレナにどこか親近感をもたせるものだった。
「お招きに預かり参上いたしました、アニドです」
「……アニドくん?」
筆を止めてゆっくりと調色板を置き、部屋の主は振り返る。前掛けを無視して飛んだ絵の具が見えた。背はアニドと同じ程だろうか。そんな事を考えながら、テレナはその風貌を見ていた。
整った顔立ちは、たぶん絵の題材にすれば美しいのだろうなとこの種の知識のないテレナにもわかるものだった。それがずいと近づいてくるのには驚いたものの、訓練のお陰でそれを顔に出さずにすんだ。
「おっきくなったね!お姉さんと同じぐらい?」
「もうお姉さんという歳ではないでしょう、リーディスワ夫人」
「あら、アレリアおねえさんって呼んでくれないの?」
「生憎、人妻を口説く趣味はないのもで」
アニドはリーディスワ夫人となる前からアレリアが苦手だった。彼女は人との距離感を惑わせる。彼女は狙った獲物に執着し、食い散らかす。アニドもおそらくは、本人の知らぬうちに何枚かは絵の題材にされているだろう。
「そんなぁ。ええと、そちらの方ははじめまして?」
「……テレナと申します。従者です」
「……同君地域のかたかしら?」
テレナが一瞬表情を固まらせたのを見て、アレリアはほほ笑みを浮かべた。
「なんでわかるんだよ」
「あらアニドくん、人にものを尋ねるときには相応しい言葉遣いがあるのでは?」
「……リーディスワ夫人、なぜあなたがテレナ嬢の出身を見抜けたのでしょうか?」
それはアニドにもわからなかった。テレナという名前は確かに同君地域らしい響きがしないわけではないが、統合王国でも同じ綴の名前はある。それに、テレナの発音には特別な癖はなかったはずだ。
「ちょっとした、共通の知り合いがいるのよ」
テレナはそれを聞いて顔を歪めた。それは貴族の令嬢らしからぬ行為であったが、そういう知り合いの繋がりなら遠慮することはない。
アニドがおそるおそる、手を差し出す。リーディスワ夫人の細長い、しかし筆を持って固くなった指先は、意識してみれば奇妙な形でアニドの手に絡みつくいた。
「ようこそ、アニド君」
「知っている人が結社の人で安心したよ」
「噂はかねがね。君が元気で私も嬉しいよ。そちらのお嬢さんも、統合王国に来て間もないだろう?僕の作業所でよければだが、ゆっくりしていってくれ」
態度が変わったな、とテレナは考えていた。おそらくこれが彼女の社交界での姿なのだろう。これは貴婦人方に人気が出るのも納得だ、と思いながらテレナは勧められた椅子に腰を下ろす。部屋の隅にあるのは応接用としては最低限だが、部屋の様子を見るに誰かをもてなすというよりも来客に座って作業の様子を見てもらったり進捗を説明するためのものと思われた。
「ここは話をできるのか?」
「僕の仕事場に来るような人はまずいないさ。最近の依頼人はわざわざここを訪れるほどでも、あるいはここを訪れることができるほどでもない」
テレナは頷く。彼女の立場は実に微妙なものだ。上位の貴族の場合、自分から作業場に出向くことはまずない。大抵の場合、画家のほうが荷物を持って彼か彼女の屋敷なりに向かうのだ。
一方で、部屋にある絵にはそうではないものもあった。モデルとなっている人物は、おそらく彼女の個人的な知り合いたちだろう。そういう人は、しばしば蔦の館に招かれるような立場にない。だからこそ、ここで誰が誰と出会ったかを確認できる人は最小限となるのだ。
「話しながら描くのをやめろ、俺とテレナ嬢をどうするつもりだ」
「人を覚えるのが苦手だからね、描いておかないと忘れてしまうのさ」
「忘れてくれ」
「……わかったよ、後で燃やしておくから」
「今燃やせ」
そういう二人の会話を聞きながら、テレナはアレリアを観察していた。宮廷社交界と邸宅社交界を渡り歩き、多くの人の心をつかむ画家。そして同時に結社のおそらく重鎮であり、自身の家庭教師であるウィルトールを知る人物。
「っと、冗談はここまでにしてちょっと俺達がしている仕事みたいなものの話に移ろう。統合王国の表の方には話は通せたんだが、裏の方にはできてなかったからな」
「僕は代表というわけじゃないけど、それなりの話はできると思うよ」
不敵に足を組むアニドに、アレリアは挑発的な笑みを浮かべた。