「それじゃあ現状を説明していくぞ」
鍵のかかった部屋の中で、アニドが地図といつもこの部屋にいる顔ぶれを見ながら言う。たまに来ている第四学年のネアはいなかったが、第三学年の三人と第二学年の二人は集まっていた。
「セラベール卿。エラウム伯爵家の二男。学院卒業後には財務局で働いていた。信頼を得て金庫番を務めることもあった。エラウム伯爵家は王室とかなり近い上、安定した基盤がある。それもあって彼は賄賂を受け取っていないという話だ」
「そんな事ができるんですか?」
そう言うのはレイルグ。彼の知る限り、あらゆる役職には賄賂とまでは言われなくとも何らかの役得、すなわち特別な利益が付随するものであった。もちろん多くの人がそれを腐敗であり、不正であると主張してきたし、事実ルメン七世の時代にも賄賂を受け取ったとして多くの人物がその職を追われた。
一方で、それは公的に保証されているはずの僅かな給与では生きていけない人物にとって不可欠なものだった。同時に、それは資金と実力を持つ人を巻き込むための手法でもあった。そのあたりは本当に複雑であるが、少なくともレイルグの知る限りでは賄賂を受け取らないことは、あるいはそう振る舞うことは間違いなく受け取るよりも多くの問題と敵を生む選択だった。
「うまくやったんだよ。彼自身はそもそも出世に興味はなし、自分の立場をうまく活かして信用を手に入れ、最低限の作業だけしてあとは趣味の貝細工でもしていたかったそうだが……」
「条件からすると、彼以外はいないのよね」
テレナは言う。彼の選定に鍵のかかった部屋から送られた手紙が与えた影響は間接的なものに過ぎない。もともとテレナは彼の名前を知らなかったし、アニドも聞いたことがあるだけだった。
しかし、その立場と潔癖に見える背景は多くの派閥にとって都合が良かった。王室派にとっては裏切りようのない血であるし、学院の繋がりも彼を悪くない人物だと判断した。実務家の多い銀行では購官貴族は多かったし、彼の控えめな態度を実際に彼を知る人は嫌ってはいなかった。
「だが、問題は地方派だ。今の時点ではテワドレーム公爵が中心となって人を送り込んでいるが、どうしても影響力に欠ける。ただ、今後の改革を考えると地方派にとっても有利になるようにしておきたい」
アニドはそう言って、手紙の一つを部屋の中心にある机の上に広げた。
「今の財務大臣の関係者の名簿がついてきている。彼が就任するにあたり、ある程度の人を慰留させる必要がある。しかしその過程で安易に利益をばら撒くことはできない」
「賄賂を受け取らない財務大臣なんて、冊子では面白いですが貴族にとっては面倒でしかないでしょうしね」
フュルシーアは手元の紙に文章を書きながら言った。
「フュルーちゃん、何書いてるの」
隣りに座っていたシェプルスキアが覗き込みながら言う。
「今度流そうと思っているやつですよ、どうせ貴族が敵に回るなら、財務大臣を市民の味方にしてしまおうと思いまして。どこまで効果があるかはわかりませんが、そういう彼の背景をまとめた物語も作ったらいいんじゃないかと故郷の方に送っておきます」
「そのあたりは勝手にやってくれ、どうせ読みきれないなら何でもばら撒いてせめて都合の悪い方向に進みにくいようにするぐらいしかできないからな」
アニドに言われて、フュルシーアは頷く。ウォルセラルを中心として、様々な出版物や印刷物が統合王国に出回るようになっていた。そしてそれは、首都以外の地域をも対象としていた。
単純に思想を広めるか、あるいは扇動するためであればまず出回らないようなところに様々なものが流されていた。聖職者の腐敗を暴く英雄の物語が、贅沢を止めて領地を見回る貴族の成長譚が、あるいはもっと根本的に普段は文字を読まない層に向けたわかりやすい短編集が、半ば利益を考えないで刷られていた。
もちろん、それは無謀な浪費でも、あるいは向こう見ずな投資でもない。統合王国の問題は、商人たちにとっては既に知られていたことだった。そして国庫支出の問題である植民地問題を解決するとなれば、自動的に貿易に南方街が絡むことになる。すなわち、彼らは利益を手にできるだろうことはすでに決まっているのだ。
そうなれば、問題は次に移る。たとえ利益を手にしても、それを奪われないようにしなければならない。市民とやらの暴動で、手近な異邦人が狙われるのは常だった。だからこそ、新しい体制に彼らは積極的に入ろうとしていた。
そのきっかけの一つは、テレナが構想した法の前の平等にあった。権力を縛るためには、より大きな権力が必要である。しかし、大きな権力はしばしば暴走する。だからこそ、せめて恣意的な運用を制限する必要があった。
「財務大臣は腐敗した貴族を敵に回すわけだし、給与も本来より低くなくちゃいけなくなる。統合王国の崩壊という現状を見れるだけの人材をそう言う扱いしなくちゃいけないのは辛いけど……」
そう言いながら、テレナは鍵のかかる部屋へとやってきていた手紙の内容を思い出していた。
「ま、そういうのは案外結社の奴らが好きな問題だからな」
アニドが言う。実際のところ、既に地方からも腕利きの実務者が集まりつつあった。
「すぐに音を上げるんじゃないの?」
「案外どうにでもなるもんだ。それに音を上げる事自体は悪いことじゃない」
「問題の大きさを把握できた上でなら、そうだけど」
そう言って、テレナは壁の地図を見た。聖座と財政という二つの点に切り込んだ。しかし、それはまだ始まりに過ぎない。たった一つの問題で統合王国は崩壊しうるが、そういった問題を統合王国は数多く抱えているのだ。
新しい財務大臣の話とて、どういう邪魔が入るかわかったものではない。今の時点ではその意味をわかるほど賢しければその人は珈琲を控えるだろう、というぐらいの難解さであるが事態が進むにつれ、それはわかりやすい側面が増えていく。
フュルシーアが対応しようにも、それには限界がある。わかりやすすぎる真実と囁く噂を前に、印刷物は無力なのだ。ともかくできることは、手紙を書いてあちこちに回し、そしてどこで自体が詰まっているかを確認してそれをどうにか解消できそうな人に伝えるという役回りだった。