暖炉の側に議題は積もる 1
ぎょろり、と目を見開いた男だった。笑顔を浮かべてはいるが、それがもたらすのは安心感よりも恐怖に近いものがあった。
聖職者のつける丸い帽子は、枢要僧とまではいかなくとも上位の聖職者であることを示していた。黒に染まる僧衣は彼のよく焼けた顔と相まって、底知れぬ様子を生んでいた。
「……長旅で疲れましたでしょう、パゼルコ猊下」
手が空いていて対応ができるということで迎えることになったテレナは丁寧に統合王国流の礼儀に則って言う。
「パゼルコで構わん、抗議派の小娘なんぞにおべっかを使われるような身ではないのでね」
堂々とした大きな声だった。本人としては威圧的ではないのだろうが、威圧として相手が感じることを気にしていない様子だった。
テレナがちらりと視線を上げると、彼の後ろには若い女性がいた。修女の服装を丁寧に纏っていたが、その刺繍を見ればかなり上位の貴族のものであることが推察できた。紋章に詳しい人がいれば、彼女が統合王国のテワドレーム公爵家が用いる図像が刺繍の題材として使われていることがわかっただろう。
「……リュクバーン枢要僧から、私のことを?」
パゼルコにテレナは尋ねる。
「ああ、わざわざ出かける前にあの忌まわしい男から聞かせてもらったとも。あいつの同類だそうだな」
「ただの知り合いです。彼には以前、博物学者として私の友人が持っていた問題に良い答えをいただいたことがあったので」
「ふん」
かなり警戒されているな、というのはテレナにもわかった。ただ、それぐらいするのは当然だろうという理解もあった。彼は今のフェルヴァジュ管区で色々と嫌われているし、同じぐらい強く支持されている人物でもある。
「言っておくが、フェルヴァジュ管区の腐敗はフェルヴァジュ管区の問題だ。リュクバーンとかいう聖座のやつも、デリロスとかいう若い僧も、あくまで手助けに過ぎん」
テレナは頷く。なるほど、こういう態度で彼が動くからこそ、多くの人が聖座から来たリュクバーン枢要僧を支持するか、あるいはフェルヴァジュ管区側のパゼルコ監僧総代理を支持するかという誤った選択肢を前にすることになるのだろう。そしてその状態から抜け出すのは難しい。
「パゼルコ監僧総代理、よろしいでしょうか」
冷たく、テレナにとっては懐かしい声が彼の後ろから響いた。
「なんだねファーネスタ」
「監僧総代理とあろう方が、異宗派とはいえ若き乙女にそのように詰め寄ることについて周囲の目をお考えください」
「ほう、後輩をかばうか」
「そのようなわけでは」
「こいつのせいでどれだけフェルヴァジュ管区が大事になっていると思っている、ファーネスタ。君が誓願をすることになったのも、元はといえば彼女が学院で色々やったからだろう?」
「その上で、です」
「なるほど、そこまで言うのであれば」
パゼルコは乗り出していた身を引いた。落ち着いた表情を崩さないようにしながら、テレナはゆっくり息を吐く。なるほど、ファーネスタはこのような役もさせられているのかとテレナは軽く同情さえしていた。
「……しかしテレナ嬢、あのリュクバーンを苦しめさせたことについては礼を言うぞ」
「……彼のことが嫌いなのですか?」
「性に合わん。彼の賢さはどうにも不正を見逃すことを良しとするところがある。片足が教会を誤った方向に進ませるのであれば、それは切り取って火に放り込むべきなのだよ」
「委任状の権限と教会の法の範疇において、です」
ファーネスタは少し呆れたように補足をした。
「わかっているとも。法学の徒として、そして神と人とに仕えるものとして、そこを違うわけにはいかない」
それを言い切るなら信頼はできるか、というのがテレナの認識だった。少なくとも彼の利害とテレナたちがやろうとしていることは直接衝突するわけではない。将来的にフェルヴァジュ管区が統合王国の中に半ば組み込まれるような形になったときも、彼のような人がいれば一定の独立性を保ち続けることができるだろう。
「ファーネスタ嬢には侍女役としてテアリア嬢がつきます。よろしいですか?」
パゼルコは頷き、テレナとファーネスタが話せるように少し離れた椅子に座って足を組んだ。
「助かるわ。この男は頼りになるけど暴走しがちだし、あともう一人止める人が欲しかったのよね」
小声で言うファーネスタが彼の下で働くようになってからまだ半年も経ってないが、それでもなお彼女はいくつかの地方派とのやり取りを成功させていた。とはいえそれはリュクバーンが揃えた書類を持ち、淡々と相手の不正と腐敗を問い詰めるパゼルコの隣に立つというものであったが。
しかし、それはかなり政治的に重要な意味を持っていた。ファーネスタは自身が有力な地方派貴族の娘であったし、フェルヴァジュ管区の中で噂としてのみ語られるデリロスという男と非常に近い間柄であることも知られていた。
「……本当はリュクバーン猊下が来てほしかったんですが、忙しいですか?」
「ルメン・デリロスのお披露目があるから、動けない」
「……やっと動きますか」
テレナたちの計画において、かつてファーネスタの婚約者であった第三王子のルメン・デリロスがどういう立場となるかは無視できない要素だった。リュクバーンの下で冬に動くとなれば、それは統合王国の宮廷社交界を通して大きな動きが起こることになる。
しかし、それはあくまで社交界の出来事だ。また別の、統合王国の抱える大きな問題の解決はそれとは切り離された場所で行われている。
それは例えば各地の教会で進む計算であった。あるいは財務大臣が不在という名目で返答を先延ばしにする担当者がいる執務室であった。あるいは情報交換と外交のために国境を超えた学院で行われる会合であった。
「全てがあなた達の思い通りにはならないわよ、テレナ・ノイーズ・イルデネ」
それは単なる負け惜しみや脅しではなかった。統合王国のあちこちを旅した経験は、もとからあった彼女の教養と学院で学んだ知識とともに、急速に彼女を成長させていた。
「わかっております、ファーネスタ・イリイダ」
それはテレナにとっては喜ばしいことであった。そこにいたのはかつての傲慢な貴族の令嬢ではなく、有能だが問題の多い上司をどうにか落ち着けようとする若い修女であった。