「ネア先輩、どういう感じですか?」
後ろの扉から入ったテレナは、部屋の隅に座っていたネアに聞く。教室の前方では男性が聖語で貿易の話をしていた。
「同君地域の議場学者の話ね、テレナさんなら顔に見覚えない?」
テレナはそう言われてじっと演者を見たが、小さく首を振った。去年の冬にテレナはティロで少なくない学びを得たが、そこで全ての議場学者と知り合いになったわけではない。
「ここに大臣が来ていると聞いたのですが」
テレナが挨拶をしたいと思っているセラベール卿はひっそりと来ているようだったが、ネアは首を振った。
「いるかもしれないけど、わからないわ。彼の名前を私はほとんど聞いていないし」
ネアは言う。彼女は商業分野の人名についてはそれなりの覚えがあったが、それでもセラベールという名前はテレナ経由で初めて知ったものだった。
「そうなるとまあ、ちょっと荒技を使いますか」
「荒技?」
「そろそろ彼の話も終わりますからね」
途中からの流し聞きであったが、テレナはその内容を理解できた。なぜ冷海同盟が新大陸で成功しているかという話だ。彼はそれをある種の放任が売れる商品に利益を注ぎ込まなければ次の商売に繋がらないという相互に冷酷な環境が招いたものだと分析している。
そうして彼の話は拍手とともに終わった。ここに集まった貿易と経済、そして財政の専門家にはなかなか興味深い話だったようだ。
人々が席から立ち上がろうとしたところで、アニドが箱を抱えて部屋に入ってきた。
「間に合ってよかった、ちょうどセラベール卿の報告書の第二草稿と、第一草稿への批評の小冊子が届きました。欲しい方は……」
そう言うアニドの隣で、フュルシーアが手早く本を配っていく。そしてその中で、挙動不審になっている男性をテレナは見つけていた。
恰幅の良い、肥満とも言えるような体型。回って正面から見れば、上等だが絢爛ではない服を着た男だった。胸につけている貝細工は、かなり腕のいい職人の手によるものと見て取れた。ただ、少なくとも前提知識なしには、彼がかの統合王国の財務大臣であるとは思えなかった。
「セラベール卿でしょうか?」
「あ、ああ。ええと貴女は」
「テレナ・ノイーズ・イルデネと申します。アニド卿の学友です」
アニドの名前を聞いた途端、セラベールの顔色が青くなった。少なくとも役者には向いていないな、というのがテレナの直感だった。彼は素直すぎる。
「何の、用事があるのかね。私は……忙しい、んだ」
「セラベール卿……いえ、セラベール先輩に少しお話したいことがありまして」
「私は……出来の良い学生ではなかった。今の地位だって、押し付けられたようなものだ。そんな私が、君のような優秀な若者に、何を話せばいいんだ」
卑屈ではないな、とテレナは考える。これは彼なりの誠意だ。もともと緊張に強いわけではなく、だからこそ出世を嫌っていた。実際のところ、彼自身が行った仕事というのは少ないはずだ。彼はあくまでわかりやすく潔白な代表者であり、実際に手をインクで汚すのはもっと別の人達だ。
とはいえ、彼の手は長らく持っていただろうペンのたこと染み付いたインクから見てわかるように、実務者のそれだった。それはテレナやアニドが真に敬意を払うような人物のものだった。
「賄賂を、あるいはその職ならではのちょっとした利益を選ばないというのは、色々と意見もあるでしょうが、貫き通すことができたのであれば強さであると思いますよ。それがたとえどのような意図であっても」
「……かも、しれんがな。私はずっと帳簿しかつけてこなかった人間だ。税の案など私よりもっと上等なものを出す部下がいる」
「それを判断できるのは十分ですよ、大臣のうちどれぐらいがその分野に詳しいと思っているんですか」
「……テレナ嬢は、統合王国の出身ではないね?」
「……ええ」
おそらく、彼からみて統合王国に詳しい人がするべきではない間違いをしたのだろう、とテレナは考えた。あるいは彼が知り、かつアニドが頼るような統合王国出身の学生がいなかったのかもしれないが。
「自分の知らぬ分野でも、良い統治をするものはいる。だが、半端に知ったものが同じほど良い統治をすることはもっと難しいのだよ」
「口を出さずにはいられないから、ですか?」
「……そうだ。だから私は、これで正しいのかと思いながら毎回署名をしている。きっとそれは私より優秀な人が作ったもので、私が考える程度の問題は既に議論され尽くしていて、それでもなお選ばねばならないものなのだろう。それは、わかっているとも」
「それが、大臣としての務め、ですか」
「ああ、成るものではない。私をこの席に押し上げたやつらも、アニド卿も、私は恨みたいとも」
恨んでいる、とセラベールは言わなかった。あるいは言えなかったのかもしれない。それは実際に口にしたセラベールでさえ曖昧なものだった。
「……私たちとて、財務大臣が社交界で狙われるのは前提の上でした。一見すれば、税の問題は全てあなたのせいになる」
「わかっているとも。そしてそれは誤解ではない」
「誤解ですよ。あなたを騙そうが、脅迫しようが、統合王国の税制が今の方向から動くことはない。アニド卿だって、具体的な形を考えたわけでも、あなたを名指しで財務大臣にするように提案したわけでもない」
テレナが提案し、アニドが書いたのは、あくまでセラベールという人物について評価するようにという財務関係者への依頼だけだ。その過程で問題が見つかれば、セラベールは財務大臣となることはできなかっただろう。
「……テレナ嬢は、私に力がないと言いたいのかね?」
「そこに立ち、何もしないということは、無力を意味しません。それが成せる人は僅かです」
「……ありがとう。それはそれとしてだが……アニド卿を呼んでくれないか?」
「構いませんが」
そう言って、テレナは彼を置いて本を配っていたアニドを引っ張ってきた。本来であれば社交上の細かな紹介が入るのだが、そこは学院という場所と卒業生と在校生の関係ということでテレナとアニドは手早く済ませた。
「……アニド卿は、何が望みなんだ?」
「セラベール財務大臣と似たようなもんですよ、俺は平穏が欲しい。そのためにならどんな苦労も厭わない」
「……そうか」
セラベールは、小さく笑った。