「……やはり行動を多くの人に見せる立場でない限り、一貫性を前提とするのは危険ね」
教授室の並ぶ廊下の扉の一つの先で、テレナは壁の地図を見ながら言う。冬の学院の間に集めた情報は未整理のものも多かったが、それでも優先する分野を絞ってテレナは地図を更新していた。
「それで、今どうなっているの?」
隣から見ていたシェプルスキアが言う。しばらく護衛としてあちこちにいたおかげで何となくの空気はわかっていたが、それをきちんと言葉にできる力はシェプルスキアにはなかった。
「まず一つ、私たちが全てを操っているわけではない。とはいえこれはいいことよ、統合王国に大きな問題があると認識している人がかなりいて、それぞれの方法で対応しているということだから」
シェプルスキアから聞いたパゼルコの態度は、テレナの前で見せたものと一貫性を見出すことが難しかった。法理に基づかないことへの憎しみにも似た感情と、そこから外れるものを守らなければならないという意思。そのためには外側への敵意を隠さないことが彼の考え方なのであるとすれば、そこには高度な謀略があるということになる。
冬の学院には聖職者も訪れる。アニドが統合王国の僧たちから聞いた話では、パゼルコはそれなりに恐れられ、彼から逃げるためにリュクバーンにすり寄るものもいるそうだ。もちろんそうなればリュクバーンの手駒となり、表立った不正は減ることになる。それでもなおパゼルコの態度は彼らに恐怖を持続的にもたらすだろう。
そして明らかに、パゼルコの権力はフェルヴァジュ管区の上層部とリュクバーンが手を組んだことでもたらされたものだ。唆したのはリュクバーンかもしれないが、彼が教会の門を叩いた時期からしてフェルヴァジュ管区内部にも強硬策を取らなければ教会の権威が失墜すると考えていたものは少なくなかったはずだとテレナは考えていた。ただ、彼らについては学院から直接手紙を送るよりもリュクバーンに一旦話を聞いてから動くべきだとも読んでいた。
「そうすると、もう戦場の全部を見える高台にはいないってこと?」
シェプルスキアの言葉にテレナは頷く。
「それでもあちこちにいる伝令から戦況は伝わってくる。それに、私たちの視点は話が通じ合っていない陣営同士を見つけやすくしてくれるからまだここにいることには価値があるよ」
「つまり、テレナはまだ忙しいんだ」
「そういうこと。私は戦場に詳しくないけど、きっと混戦が起こったら取るべき方法も変わるでしょう?」
「逃げるやつらを後ろから狙ったり、あとはうまく敵の大物を狙えたらそれを見せるとかかな」
シェプルスキアはそう言いながら、確かに大きな盤面でやる会戦のようなものかもしれないと考えていた。彼女は眼の前の状態を乗り越えるのが得意だったが、決してより高いところからの視点を持てないわけではない。
テレナは頷いて、また地図に向かい合った。派閥の再編が起こりつつあるとはいえ、その影響が出るまでには時間がかかる。怠惰閥と名付けた多数派が明確に動き出した時には、すべての準備を終えていなければならない。熱狂というものは恐ろしいもので、普通なら不可能と思われたことを一瞬で成し遂げる。
共和王冠国の歴史の事例は、テレナにそれを示していた。ゾーデンツ三世亡き後、大宮宰ヤニレが成したことを改革として見るのであれば、それは絶対に平時ではなし得なかったことばかりであった。
狂気をもし誘導できれば、それは大きな力になる。狂気というのはそう簡単に誘導できないゆえに狂気なのであったが、流れというものは窪みに集まるものである。テレナはそれに賭けていたし、多くの人がさらに掛け金を積み増していた。
「あのさ、テレナ」
しばらく黙っていたシェプルスキアは口を開く。
「なに?」
「財政がどうにかなったら、それでハッヘンヴルト家は止まってくれるの?」
「……冬の学院で、できればそういう話をしたかったのだけど余裕がないのよね」
確かにハッヘンヴルト家に連なる参加者はそれなりにいた。ハッヘンヴルト家の会議で発言力があるだろう人物の名簿も作られてはいる。しかし、そこに介入して具体的にどうにかできるという確証がテレナには持てなかった。
「色々難しいんだね」
「ただ、いきなり攻めてくることはないはずよ。予兆はある。もし逃げられるのなら、その準備をしておきなさい」
「そうは言っても馬に乗って東に駆けるとかになるんだよな、あたしだと……」
シェプルスキアは一人の兵士としても悪い腕ではなかったが、それでもその肉体は乙女の範疇にあった。たとえ路銀がそれなりにあったとしても、女性一人がそのような旅をすることは容易ではない。かつてのテレナとシェプルスキアの旅は、かつてイヴェリャン団の傭兵だったものたちという目に見える安全があったのだ。
「必要なら計画ぐらい用意しておくわよ、前にアニド君に渡したものは使われなさそうだし」
「……そんなもの、作ってたの?」
「言ってなかったし、他の人に聞かれたら危ないものだからわざわざ言うこともなかったからね」
それは今から思えば稚拙なところもあるものだった。今ならもう少し派手な事ができるだろう。例えば問題が起こることに備えて、植民地総督として第二王子あたりを派遣することにし、彼の護衛としてアニドを置くような方法が今のテレナであれば思いつく。
「……作んなくていいからね、そのぐらいは覚悟の上で来ているから」
「下手な覚悟で領地を混乱に落とすべきではないわよ、指揮官が前線に立つのはそうしなければ兵が着いてこないからであって、率先して死ぬためではないわ」
「……わかってるよ」
そのことは理屈ではわかっていたが、シェプルスキアにとっては少し苛立つ事実だった。もちろん、シェプルスキアにはそれがテレナが語る貴族の責務のようなある種の欺瞞だということはわかっていた。そしてその欺瞞を信じた兵たちが強くあれることも理解していた。
シェプルスキアは大きな地図を見つめるテレナの背中が、ひどくちっぽけに思えた。テレナが壊そうとしているのは数百年間統合王国を支え続けてきてしまった嘘の一部であり、全体を壊さないために一部分だけ取り替えようという都合の良い謀略を彼女は目指しているのであった。