「……ネア先輩?」
鍵のかかる部屋の長椅子に突っ伏す彼女を見ながら、シェプルスキアは声をかける。
「シェプルスキアさん……ちょっと辛いことがあって……」
「あたしで良かったら相談に乗るよ」
シェプルスキアにとって、疲れた兵の対応は重要な仕事だった。傭兵というのは、命を懸けねばならない。逆に言えば、その覚悟さえ決めることができれば簡単に強兵を作ることができる。イヴェリャン団と対比されるように西側で最強と呼ばれた傭兵団の一つは、騎兵に恐れず槍を掲げて勝利を掴んだ農兵たちを起源としている。
いくら参謀が計画を練ろうが、指揮官が怯えを出せば陣形が崩れることをシェプルスキアは知っていた。だからこそ指揮官を狙うことも珍しくなかったのだが、それは今の場合に使える方法ではないとシェプルスキアにもわかっていた。
「……それなりに積み上げてきた交渉が、頓挫しました」
「統合王国債、だっけ」
「そうです。話は聞きましたか?」
「正直わかんなかったな……。いや、必要だから借金をするのはわかるよ?」
「そうです。そして統合王国は、返すつもりの借金をちゃんとしています」
「いや、踏み倒されても貸した側が何もいえないことがあるのはわかるけど、それっていいの?」
「金を貸さないほうが面倒になることも珍しくないですし、税とか賄賂とかと似たようなものですよ。ルメン七世の時代には、それらに大きな違いはありませんでしたし」
「もしかして、統合王国って今のルメン八世の時代にすごい良くなったりしている?」
「それも微妙なんですよね……」
ネアは弱々しく言う。
「どのあたりが微妙なの?」
「ルメン七世のやったことを、肯定も否定もできないでいるんです」
「あー、後継者の面倒なやつだ」
「……シェプルスキア団長は、どうだったのですか?」
「あたしは……」
シェプルスキアは思い出そうとするが、父が死んだと伝えられてからの記憶はどうしてもぼんやりとしていた。頭から血を流して倒れていく将軍と、火薬の匂いは覚えているが、その前後はどうしてもわからない。参謀天幕があってよかった、とシェプルスキアは改めて思っていた。
「……すみません、尋ねるべきではありませんでした」
「いや、いいよ。あたしもちゃんと向き合っていかなくちゃいけないものがわかったから」
「辛いことから逃げることも、正しいことですからね」
ネアは言う。少なくとも、彼女は目前に辛いことを抱えていた。
ティツン商会に関わるという道は、ネアに用意されてはいた。少なくとも、凡百の人物より彼女は商会において洞察や経済への知識、あるいは商品が与える影響を知っていた。ただし、それは彼女に権限や地位を与えるのが相応しいことを意味しない。
次代の経理者、あるいは総経理の候補の妻として動くという事も考えられた。しかし、今の状況を踏まえると今の時点で決めた人物が将来的にティツン商会を経営していくことになるとは限らない。それなら統合王国や同君地域の貴族の名家と繋がるべきかもしれなかった。彼女が学院に進んだ理由の少なくない部分が、そういった打算だった。
ただ、ネアは出会いを持たなかった。奇しくも彼女の代は統合王国から来た、本来であれば学院の学びを受けるに足る水準ではないとネアが思う人がそれなりにいた。第三王子と公爵令嬢の取り巻きでもある。その中で、ネアは学びに集中することになった。
その成果の一つが、今回の冬の学院でティツン商会と統合王国の間で交わされた覚書だった。父に喜んでほしかったという娘らしい感情もあったし、一人の商人として大きな取引に関与できた喜びもあった。
ルメン・デリロスの発言が、その前提を変えてしまった。
本来であればもっと緩やかに進むはずだった統合王国における変化が急速な支持を得てしまう。一方で、それを止めようとする反抗も強くなるだろう。ネアは反抗勢力が最終的には敗れると読んでいたが、それは彼らのもたらすものを無視できることを意味しない。
「……ひとまずは父さんの側近みたいな枠である程度経験を積んで、見込みにあるやつを婿にでも捕まえるかな」
「やっぱり結婚するんですか?」
「さすがにしないと動きにくいからさ……いい相手だといいな……」
ネアにとって、それは自分がしなければならない仕事だった。楽しいに越したことはないが、やらないという選択肢はまずない。たとえ彼女が慎ましやかであれば死ぬまで暮せるほどの富を父にねだることができる立場であったとしても、そうしないことが自分の育った環境と学んだことに対する誠意だとネアは考えていた。
「統合王国は、大丈夫だと思いますか?」
シェプルスキアは言う。
「うーん、テレナさんたちのやろうとしていることはわかるよ。貴族への反感みたいなものを、ルメン・デリロスに集めてどうにかする。不満を解消するためには全国民会を作ることが必要ってすり替えて、彼らに実権を与えないお飾りの議会での議論をさせる裏で実務は地味な人たちが握る」
「さすがにテレナはそこまで考えているかな……」
「意識してはいるはずよ。そうでなければ、もう少し無邪気さが漂ってくるはずだもの」
ネアはテレナから何回か相談を受けていたが、その時のテレナの口ぶりはまるで大きな、しかし後ろめたい取引をするときの商人のものだった。自分の商品に自身はあるし、相手がそれを買うだけの理由を作ることもできる。しかし、そこに血が染み付いていることを理解しているのだ。
以前にネアが読んだ「墜ちる灯火」からは、そういった匂いがしなかった。ネアは古典が好きだった。そこには今では洗練の名のために切り落とされた、原始的な暴力の痕跡があった。
もちろん、ネアはそれを楽しめる立場に自分がいることを理解していた。暴力にも直接的な死にも触れることはない、恵まれた環境。命を絶たねばならなほどの責任を負うこともなく、旅をしたいという欲求をやろうとすれば叶えられる立場にいる。
だからこそ、無邪気にはなれなかった。彼女は冷海同盟と統合王国の間に張り巡らされた取引を捉えていたし、それが統合王国の情勢変化によって容易に冷海同盟に打撃を与えうることを理解していた。そしてそこには、ネアが密かに好んでいる人間の本性の、血の匂いの気配がしていた。