まだ寒さが残る学院の隅の訓練場で、テレナは馬にまたがっていた。朝焼けが差し込む光とともに、矢を取り出して、シェプルスキアは息を吸いながら弓を引き、呼吸を忘れた頃に手を離す。遠くの的には、少し左にずれて矢が刺さった。
「やっぱり下手になってるな……」
シェプルスキアはそう言いながら馬を走らせる。必要なのは、騎兵相手にある程度の牽制を維持しながら逃げるための技術だった。 今のままでは息切れしている状態ではまともに当たることはないだろう。
シェプルスキアは弓騎兵としての最低限の訓練はできている。身体をひねって後ろ側を狙うこともできるし、むしろそれを主に練習していた。銃と違って、弓というのは続けざまに射ることができるのである。ただ、それは基礎に過ぎなかった。実際の戦場で相手を脅すためには、それなりの恐怖か、できれば実害を与える必要があった。
そうして、しばらくシェプルスキアは少し弓を持つ場所を変えながら矢を放っていく。シェプルスキアの持つ弓はイヴェリャン族がかつて東方の更に東にいた頃の手法で作られたもので、その上で彼女の肩幅や腕の長さ、手の大きさに合わせて調節されたものだった。
「どうだ、シェプルスキア嬢」
「……ヴィンサート教授」
用意していた矢を打ち尽くした時に、学院の教授であるヴィンサートはテレナに声をかけた。
「やはり、冬の間は忙しかったか」
「指揮の勘は、向こうにいたときよりも良くなっている自信あるんですけどね。それとテレナから聞きましたよ、学院のあたりで戦いは起こりにくそうだって」
そう言ってシェプルスキアは馬から降りる。その動作は長年の繰り返しのために滑らかで、学院の他の学生の模範とさせたいぐらいのものだとヴィンサートは考えていた。
ヴィンサートが鍛えているのは、将来的に将校となるような学生たちだ。彼らは確かに馬を走らせる場面が多いわけではない。今の軍制を考えれば、彼らが馬に乗るのは移動と儀礼のためというのが主になるだろう。
とはいえ、そのためにはきちんと馬に慣れておくことが重要であった。正しい乗り方をしなければ、馬にも人にも負担がかかる。馬から降りる時に外套を引っ掛けるようなことがあれば、古参兵からは侮りと嘲りの視線を向けられるだろう。
良い指揮官というのは、部下が自然と良い兵として振る舞うものだとヴィンサートは考えていた。ただ、それを実現するのは容易ではない。シェプルスキアは良く鍛えられていたが、それはおそらく天賦の才と呼ぶしかないものへの依存が一定程度あると考えていた。
「……ガルース卿の話か」
「ヴィンサート教授は知ってるんですか?」
シェプルスキアに尋ねられたヴィンサートは首を振って否定した。もちろん、もともと騎士団領にいた身であるし、同君地域の政治事情は教養として持っていた。だが、ヴィンサートはガルース・デラ・ハッヘンヴルトを知っていると言えるほどの知識はなかった。
「いいや。だが、ハッヘンヴルト家にとって統合王国を知るための重要人物なのは間違いない。学院が同君地域寄りになるのはあるが……それを加味しても少なくともハッヘンヴルト家側との関係を作っておきたかった、と見るべきだろうな」
「テレナたちが統合王国に色々とやっているのと、関係あります?」
「ないわけではない。が、正直なところ学院が統合王国や同君地域にどう見られているのかというのはわからない場所が多い。運営理事会のほうも、まだルメン・デリロスの冬の件について飲み込めているわけではないしな」
「……そうですよね」
「とはいえ、統合王国側がこちらに来たならばハッヘンヴルト家も対応する必要があるだろう。テレナ嬢たちがそうならないようにしているのは知っているが」
「敗北を想定することは、弱さではない」
「その通り。むしろ指揮官こそ自らが、あるいは友軍が負けた場合のことを考えておく必要がある。それに耐えうる人でなければ指揮官は務まらん」
それはヴィンサートが怠ってきたことだった。改革において、強い軍を作ることが求められると考えていた。そして彼はそれを実現した。そしてそのために多くのものを犠牲にしていたと気がついたのは後からだった。
「……気をつけます」
「うむ。とはいえ、学院の防備強化は今後も続けていく。会戦というのは両者の軍がそこになければ起こり得ないが、攻略というのはそこに要塞があれば起こり得るからな」
そう言って、ヴィンサートは丘の上の城塞趾を見上げる。もしここを取ることができれば、それなりに使えるだろう。ただ、そのためには十分な兵と砲が必要だった。軍隊であれば賄えるそれらも、一教育機関が揃えることは難しい。
「学院からの避難、というのはできないんですか?」
「全員を安定して受けられる場所がない。攻めてきたのとは逆の方向に逃げることになるわけだが、たとえば統合王国側から軍が来ていて、統合王国出身の学生をどこに逃がす?」
「……冷海同盟も、どこまでちゃんと面倒を見てくれるか信用できないってことですか?」
「そういうことだ。場合によっては彼らを人質にして戦況をややこしくするかもしれん。もちろん去るものを止めることはしないが、逃げられないものがいることを前提に動くべきだ」
ヴィンサートにとって、学院は望外に与えられた守る価値のある拠点だった。指揮官はその場所において最善を尽くす責務があり、そのためには兵の泣き言を無視しなければならない立場であった。
「わかりました。あと……これは言っていいのかな」
「忘れることもできるぞ」
「ああ、そうじゃなくて。総権国を軍事的に動かさないためにちょっと動けないかなって考えてまして」
「……介入を、止めるためか?」
教授感の情報共有の中で、統合王国に対して総権国がしているらしいことをヴィンサートはおぼろげながら聞いていた。そして間もなくやってくる総権国からの学生に対しては、既に警戒態勢が敷かれていた。
「はい。テレナがそうしたいって言ってたので」
統合王国の崩壊を総権国にとっての損とするためには、最終的に振るわれる可能性があると相手が警戒するだけの短刀がなければならない。イウェラ連隊がそれを担えるかは怪しかったが、大君侯国のメラドゥという名の将軍であれば可能性はあったのだった。