「この制服も着るのもあと何回か。学院の四年間は短かったなぁ」
修了式の場でネアは呟く。緩やかな雰囲気の中で、昨年まではあった面倒な政治問題もなく学生たちが談笑をしている平和な空間がそこにはあった。
「これからもっと長い人生が始まりますよ」
テレナは小さく笑顔を浮かべてネアを見た。それは先輩が珍しく見せた甘えへのちょっとした小突きのようなものだった。
「面倒ね」
「……卒業後も、いろいろとできる範囲で気を配ってくだされば幸いです」
「あくまでティツン商会か、あるいは私のいる場所の利益のために動くわよ。業界全体に対してうまくやるとかの方向なら協力するけどあからさまな場合にはこちらも手を取れないし、丸ごと私たちが敵に回る可能性も忘れないでね」
「善処します。本当は総権国の経済を学んだネア先輩と新しく来る学生を会わせたかったのですが」
「本人以上に論文は雄弁よ。あれを読ませた反応を、いつか聞かせてくれればいいから」
ネアは学院を卒業するにあたって、総権国の政治と経済についての分析を行っていた。それは資料の不足のために完全とはいえなかったが、それでもテレナが見た中で最も精緻な論考だった。
女総権者の立場は二通りに解釈可能である。一つは権力を維持するために次々と政策を出さなければならない人物。この視点からすると、総権国の改革というのはエフナチェルカ一世に権力と忠誠を集中させるものだ。
しかし、ネアはもう一つの可能性を見ていた。つまり女総権者はやりたいことがあり、そのために動いているのではないかという視点だ。奇しくもそれはテレナやネアが関与したセラベールの改革から着想を得たものだった。
統合王国は植民地の問題を抱えていた。それを解決すると輸入による富の流出が生まれ、それを止めるために農業への注力と関税の引き下げを行う。そして農業のための人手は解体した植民地軍を活用し、減った税収は物品税の形で回収する。一つの問題を一気に解決するのではなく、吸収可能な部分がある複数の改革に分割する。
統合王国でもできたのだ。総権国ができない道理はない。そしてそれはおそらくもっと精緻に、複雑になされるだろうとネアは考えた。
ただ、その上で彼女が掴めたのは輪郭だけだった。それは財政分野に閉じたものではない。制度、外交、産業、物流の分野に間違いなく影響が及ぶことが理解された上でそれらは実行されている。一つ一つの改革は妥当か少し怪しいものがあっても、全体で見ればそれは何かを形作ろうとしているのだ。
その目標の一つが、東側における確固たる地位であるというのは間違いないように思われた。総権国の拡大は単なる土地の確保以上に、軍事的な力を示す意味がある。うまくやった国境地帯の領主にとっては誰に税金を納めるか程度の差しかないが、失敗した領主は大変なことになる。
共和王冠国と比して明確に優位な軍事力を持ち、冷海への接続口を広げ、大君侯国にも対等以上に渡り合う。その上で、総権国は西側と向き合おうとしている。
もしすでにあった総権国を、いかなる形であれ西側の勢力に並ぶようにするのであれば、確かにそうなるというのはテレナにも納得できた。聖座の代わりに宝座たちによって正当性を維持し、統合王国が失敗した権力の集中を実現する。冷海同盟の諸地域が個別にやっている経済活動ことを一つの強い意思のもとにまとめた政策とし、同君地域がハッヘンヴルト家によってまとまっているように、分裂する諸地域をまとめる名目として総権国という概念を用いる。
「……エレーリヤ・スカヴチナ。ガロテーエンの娘。私の調べた限りでは、一切の情報が出ませんでした。アニド卿の手紙もそうです。彼女がどういう立場にかつてあり、学院にどのような力を携えて来るのかは不明です」
「大変ね。でも、それは普通のことじゃない?」
「……どういうことです?」
「今回は相手がわかっているだけ幸いよ。例えばティツン商会に攻撃があれば、候補となる勢力は……まあ、固いだけでも両手の指では足りないわね。細かいのも含めれば百を超えるでしょうし、それらがまとまっていれば表面上の理由と実態の両側面から対応が必要」
「下手な王家以上の恨まれようですね」
テレナの言葉にネアは笑う。
「商会はそれだけ巨大なのよ。派閥の調整と新しい技術への対応、本業である物流に数々の支援。もちろんそれを支えるためには有力者への付け届けも不可欠だし、誰に渡すべきか知るためには常に世情を知らねばならない」
「国家じゃないですか」
「法はないわよ、一応規則は定められているけど守らなかったところで我々にできることは騎士団領の兵をけしかけるぐらい」
「軍事力もありますね」
「ただ騎士団領は一途なのよね、二重契約をしてくれないの」
「……そういう場合はどうするんですか?」
「素直に賠償金を支払うのよ。燃やされるより良い。とはいえ、それができないように準備をしていくのが重要なのだけれどもね……」
テレナは改めて、眼前の先輩がただの学生ではないことを思い出す。ティツン商会総経理の娘にして、統合王国にテレナたちが提示した経済戦略の立案者の一人。そして己の手を血に汚すことを厭わない冷酷な商人であり、それを自覚しながらも進める意思の持ち主だ。
「……また、どこかでお会いすることもあるでしょう」
そう言って、テレナは手を差し出した。
「もし寄る辺が失せれば、あなたを客人として歓迎するぐらいのことはできるわ。私の父か私がティツン商会にいればだけど」
ネアはその手を握る。
「そういう形では会いたくないものですね。結婚式の衣装を作る時にでも挨拶に行きますよ」
テレナが手を離すと、ネアは小首を傾げた。
「それぐらいは職人をこちらから派遣するわよ?」
「貧乏で領民からの信頼がある伯爵領だと、わざわざこっちが大きな街に出向いてまで服を買ったとかのほうがいい響きを出すことがあるんですよ。統合王国とはこのあたりの価値観が食い違う……というか、同君地域の中でも一定しないんですがね」
「面倒ね」
「ええ。あと一年で、私もそちらに行きます」
「先に待っているわ」
ネアはそう言って笑い、流れる音楽に合わせてテレナの脇をすり抜けるように歩いた。