「調子はどうですか?」
そう言って、部屋の主であるヨルワ教授は微笑んだ。課題の提出が概ね終わったシェプルスキアとテレナは、少し疲れながら長椅子に身を沈めていた。
「あたしもそうだけど、テレナは最近疲れてますね、姿勢も悪いし試験中に寝ていることもあるし」
「ちゃんと書き終わってから寝ているからいいでしょ……」
そう言いながら、テレナはあくびをした。もちろん、上流階級同士の会話においてはあるまじき行為であるが、ここはヨルワ教授の部屋で、ここはあくまで個人的なやり取りの場であるという建前の上であれば許されるだろうというのがテレナの読みだった。
そもそも、考え方によってはヨルワ教授はテレナよりも立場が下である。ヨルワ教授は冬の学院での会合の重要な要素として東方からの客人であるシェプルスキアを招くという形を取っており、テレナはそのシェプルスキアの紹介者だ。テレナは請われて招かれている側なのである。
「……ところで、今回の本題はおそらく王室派と地方派の落とし所を決めることね」
そうヨルワ教授が言うと、今まで緩んでいたテレナの目のまわりに少し力が入った。
「えっ、じゃあ王や公爵が来るの?」
「王は無理でしょう、この近くを通るように旅程を調整するぐらいはできるかもしれないけど」
シェプルスキアにテレナは少し呆れながら言った。とはいえ、それなりの人間を代表者として連れてくるだろうとはテレナにも予測できた。
「公爵は来るようよ」
「……本当ですか?」
テレナは姿勢を直し、ヨルワ教授を見た。公爵は上位の貴族である。その権力は由来にもよるが小国の代表に相当し、国内でも小さくない勢力を持つことになる。そしてそのような人物の権力の源泉の一つは社交界だ。
雪に閉ざされる冬は、社交のための季節だ。統合王国の王宮や同君地域内の主要都市においては、多くの客人が泊まり込んで様々な交流を行うことも珍しくない。そのような場所で公爵がいなくなるということは、その後の一年間の社交界において一定の力が削がれてしまうことを意味する。
逆に言えば、公爵──ファーネスタ・イリイダの父であるテワドレーム公爵がそこまでして来るだけの何かが、ここで開かれるのだ。
「手紙が来ているから、間違いないわ。それとシェプルスキアさんの保護者の方も訪れるそうよ」
「来るんだ。……というか、誰が来るんだろう」
少し驚いたように言ってから、シェプルスキアは悩んで首をひねった。
「エルガーツという方ね。ヴィンサート教授が名前を知っていたから、きっと有名な方なのだろうけど」
「ああ、エル爺か」
テレナは一瞬わからなかったが、確か共和王冠国の方の言語だと高齢の人物に対する愛称があったなと記憶の片隅から思い起こした知識を元に意味を捉えることができていた。
「……誰?」
それはそれとして知らない名前であったので、テレナはシェプルスキアに小声で聞いた。
「イヴェリャン団総参謀、今はイウェラ連隊の連隊長補佐?」
「階級としては、統合王国ですと中佐か少佐に相当ってところかしら?」
ヨルワ教授が言うと、シェプルスキアは頷いた。
「中佐が大佐の補佐で、少佐が兵上がりの指揮官だよね、なら少佐かな?」
シェプルスキアの頭の中にはかなり複雑なはずの三地域の軍制が丸ごと入っていた。それはテレナから面倒な本を読んでもらったからでもあった。
統合王国の「歩兵の鍛錬と運用のための国王勅令集」、騎士団領の「ヴィンサート教典試論」、あるいは同君地域の各地の軍をまとめつつも批判をした「ハッヘンヴルト家の下の諸軍とその改革」といった当時の基本的な軍事関連の書籍をテレナは教養として読んでいたし、シェプルスキアは専門分野の学習として彼女の音読を聞いていた。
とはいえ、それらはシェプルスキアに対して直接的に自身の連隊を強化するための案を与えたわけではなかった。それらの制度は強い産業、多くの人口から選抜された若者、あるいは地域に根ざした伝統への信頼に基づいたものだった。
しかし、シェプルスキアはそこから二つの方向の学びを得ていた。一つは各地域がいかにして軍を構築し、動かしているかについての実践的知識である。共和王冠国の軍制は未だ発展途上にあり、シェプルスキアはある種の軍事教官としての役割も期待されて学園に派遣されていたのである。
それと同時に、シェプルスキアはそのような軍隊固有の弱点についてもいくつかの洞察を得ていた。もちろんそれは決して容易に突くことのできるものではないし、たとえシェプルスキアの率いる連隊が訓練され、流動的に全体を一体として動かせたとしても、数と規律に勝つことは非常に困難だ。
ただ、一気に巨大になった組織においては中間にいるべき経験者の不足が起こることをシェプルスキアは読み取るようになっていた。なお、シェプルスキアは直接本から文字を読むとどうにもぼんやりとして集中できないということで、一時期のテレナは喉を少し痛めて香草を練り込んだ蜂蜜飴を舐めるまでになっていた。
「……わかったわ。つまり、シェプルスキアの軍事における指導役の人ね」
「たぶんそういう感じ」
テレナの確認に、シェプルスキアはそう言って頷く。
「強そうね」
「うーん、腕力だけなら私でも勝てるんじゃないかな……」
そういう意味で言ったのではなかったが、と思いながらテレナはシェプルスキアの腕を見た。
シェプルスキアの身長は女性にしては高いし体格もしっかりとしているが、それでも一般的な男性を少し上回るだろうか、というぐらいである。
そのシェプルスキアが勝てるというということは、肉体的武勇の方面で優れているわけではないのかもしれないと考えていた。そもそも役職名からして総参謀である。
参謀というものはテレナの知る軍では確立されたものではなかったが、しばしば軍隊内部に存在する助言者、あるいは階級の隙間にある存在として見ることができた。古代の英雄たちの戦争でいうところの、若き将軍を窘める老兵のような役割である。
「あれ、総参謀ってことは参謀が複数いるの?」
「イヴェリャン団のときは参謀天幕みたいなものがあったよ、今は各地に散らばってたまに会議をする領主の集まりみたいになっているけど」
「共和王冠国の制度はよくわかっていないのよね……。読んでも複雑だったし」
そこまで言って、テレナは部屋の主であるヨルワ教授を無視していたことを思い出して慌てて様子を確認した。幸い、ヨルワ教授は話し合う若い二人の学生を微笑みながら見ているだけだった。