「何かご用かね」
落ち着いた声が教授室の並ぶ廊下の響く。振り返った老人は、柔らかい声で後ろに立っていた二人の学生を見た。
「初めまして、ガルース・デラ・ハッヘンヴルト教授」
半歩出たレイルグがテレナより先に挨拶をする。
「レイルグ君だったな、フェバー教授の息子さんだろう?」
ガルースの言葉にレイルグは驚いた顔をした。レイルグは驚きを隠すような訓練を受けていなかったし、なによりガルースが自分の姓を知る機会はまだ来ていないと思っていたからだ。
「父をご存知ですか?」
「とは言っても名前だけなのだがな。彼の本を一冊読んだことがある程度さ」
そう言ってガルースは笑う。ただ、レイルグにとってこの言葉は明確な意味を持っていた。
同君地域の議場学者の少ない人が、レイルグを知っている。彼らのほとんどは学院の卒業生というわけではないが、学院の価値を深く理解していた。もしそこに、若く優秀な人物を送り込むことができたら、というのは議場学者の夢でもあった。
そして半ば偶然により、それは実現した。ただ、それはそれなりの政治的対価を必要とするものだった。レイルグは学院の基準からすれば、入れるべきか悩むような社会階層の出身だ。父親のフェバーは議場学者の中では少し知られた大学教授であるとはいえ、西側全体で通用する知名度を持っているわけではない。
だからこそ、彼らは手紙を使って作っていた人脈を活用した。レイルグを推薦した人の多くは議場学者の名義で署名をしたが、彼らは実際に統治者としても知られる人だった。そして彼らは、ハッヘンヴルト家がまとめようとしている諸邦で働いている人々だ。
もし自分のことをガルースが調べているなら、そのような背景も踏まえていると考えるのは当然だった。そして議場学はハッヘンヴルト家とあまり相性がいいものではない。
そもそもがティロの大学が議場学者を大学に集めたのも、ハッヘンヴルト家に持っていかれる金をどうにかしたいからだという話もある。レイルグ個人としては嘘だと思っていたが、実の議場学者たちはそれを前提に冗談を言っていたので半ば事実ではあるかもしれないというのが実際のところだった。
「そうですか。ああそうだ、先輩を紹介させてください」
「ルグスト四世の娘さんだろう?初めまして、ガルース・デラ・ハッヘンヴルトだ。ここでは教授として気軽にガルースとでも呼んでくれ」
「……テレナ・ノイーズ・イルデネです。よろしくお願いします、ガルース教授」
そう言ってテレナは手を伸ばし、相手の手を握る。熟練の外交官らしい、ずっとペンを握ってきた手だった。
学院において握手は平凡な所作だが、特別な意味を持つ。統合王国の宮廷作法においては、性別や立場を踏まえたより複雑なものが一般的だった。しかし実務者は握手を好んだ。それは相手を対等に見る意思の表明であり、自負と敬意を同時に示すものだった。
ガルースは学院のやり方を深く理解し、その上で伯爵令嬢相手にも対等な立場であると表明している。ただの握手であれば学院という場所でのやり取りに過ぎないが、ガルースがテレナの父の名前を知っているとなると意味が微妙に変わってくるのだった。
考え過ぎているな、とテレナは意識的に肩の力を抜く。重要人物について事前に調べておくのは社交の基本だ。シェプルスキアに言わせれば、会戦になってから相手を知るのは愚かな参謀のやることだと言うだろう。しかし相手を知ることは決して容易ではない。シェプルスキアの推測したその人であったが、テレナでさえ彼の顔を今日の大広間での紹介まではきちんと知らなかったのだ。
「テレナ嬢はここしばらく、面白い試みをなされているようで」
「どれのことでしょうか、最近は色々やり過ぎていて」
「セラベールの改革」
ガルースは小さな、しかしはっきりした声で言った。
「……どこまでご存知ですか?」
「パステリアス伯爵夫人から、あらましは」
それが学院の教授であるヨルワの社交界での名前だということは、わざわざテレナには確認するまでもなかった。
「……統合王国は崩壊しかかっています。しかし、それは恐ろしい獣です。傷ついた時の獣に手を出すべきではない」
「しかし、今討てるなら討つべきではないかね?」
ガルースはあくまでハッヘンヴルト家の代表として話す。たとえ彼がテレナの故郷の場所を知っており、その周囲にどのような地形があるのかを理解していたとしても、彼はそれを気にしてはならない。彼はハッヘンヴルト家のために動いているからだ。
「ルメン・デリロス。彼の動きが我々にも読めません。セラベールの改革を、彼は追い風としました。あの演説は読まれましたか?」
「ああ」
そう言ってガルースは頷く。彼女の対等な口調は、彼が長らく聞いていないものだった。この場において、ガルースは学ぶ側である。そして眼の前の乙女は、今の時点では利害が不一致の相手だ。
「彼は私たちがやろうとしていることを深く理解していました。その彼が明確な敵を見つければ、それを活用するでしょう。古典の演説において、敵を作るのは基本ですよね?」
「……統合王国の軍の全てが、ハッヘンヴルト家に対峙すると」
「軍だけではありませんよ。彼らは民を、市民を手に入れます。熱狂と支援がもたらすものを、私たちは百年前に経験しました」
大宗派戦争は、ハッヘンヴルト家を地に墜とした。かつて被っていた帝冠は今は宝物庫の中で眠るだけだ。その意味を、ガルースは理解する。
「……手を出すな、と?」
「少なくともまだ観察をするべきです。必要であれば、統合王国の実態についてお話できる範囲で説明します。解説は彼がしてくれますし」
そう言ってテレナはレイルグを見る。
「僕の父は間接的にはそうかもしれませんが、ハッヘンヴルト家に僕は忠誠を誓う立場にはありません。ですが、学者として嘘は申し上げません」
「……そうだな。教授として、君たちの報告を聞くべきだな」
「はい。学院はそういう場所ですから」
レイルグは言う。それは彼が学院に派遣された理由でもあった。そこは西側の三陣営の全てを動かせる場所なのだ。多くの国で実質的な権力を握るのは宰相の腹心であるように、彼らはどこに力をかければ全体を動かすことができるのかというのを知っていた。