「……全国、民会」
エレーリヤは、聞き慣れないその言葉を口の中で転がす。彼女は廃止された地方民会を知っている。それは統合王国の各地が王に必ずしも従属する立場ではないことを示すためにかつて存在したものだ。ただ、それを全国規模に拡大するという発想は今までエレーリヤにもなかった。
「つい最近生まれたものだ。まだ新聞を読んでいないのか?」
そうアニドが言うと、シェプルスキアはすっと新聞を差し出した。この空き教室の中には三人しかいない。エレーリヤからすれば中心人物と見ている統合王国王室の人物からの招待であったし、立会人としてはシェプルスキアが立っていた。少なくともエレーリヤにとって、十分な条件のはずだった。
「私の故郷の
素早く法案に目を通しながらエレーリヤは言う。
「あー、レイルグ君がそのあたりは詳しいんだがな。少なともここの案ではそれぞれの階層の代表者と市民から選挙で選ばれた代議士が入ることになっているが」
「……これは、先輩たちが作ったのですか?」
「俺は作っていないぜ」
アニドは正直に言う。ただ、彼は誰がこの法案の骨子を作ったのかを知っていた。統合王国ではバシェツ卿の名前で進んでいる、実際には彼の部下や友人が執筆しただろうこの文面は、かなり議場学的な背景を持っている。
「……作った人を知っていますか?」
エレーリヤの質問に、アニドは社交界でいつも浮かべるような曖昧な笑みを返した。
「……レイルグ先輩、ですね。同君地域の議場学者たちの代表が、統合王国を変えようとしている」
「だとしたら、どう思う?」
「それを明かせば、統合王国内部は混乱します。この法の支持は失われるでしょう」
「それはいい」
アニドは笑顔を浮かべた。
「……なんですか」
「もし、そうすれば何が起こる?」
アニドの言葉に、エレーリヤは考える。そしてその答えを、相手が知っていることにたどり着く。
「……わかりません」
「彼らは裏切られたと感じるんだよ。そうして敵を探す。犯人はわかりやすいね」
「同君地域と統合王国の衝突ですか?」
「それで終わればいいが。おそらく冷海同盟は両者のどちらも勝たないように介入してくるだろう。そうすれば総権国は自由に拡大ができるというわけだ」
「……そんなことは、考えませんよ」
エレーリヤはそう言ったが、自分の中でそれが正しい道だと考えはいた。彼女は総権国のために学び、総権国のためにここに来た。祖国のためになるのであれば、何をためらうことがあろうか。
「なるほど、総権国の考えはその程度か」
「なんですか」
アニドの言葉に語気が荒くなったエレーリヤを見て、シェプルスキアはかわいいなと考えてしまった。彼女はまだ若い。戦場の匂いもしない。アニドからすれば、本当の社交界を知らないとも言えるだろう。
だからこそ、こういった挑発に引っかかる。相手のを侮り、警戒を解いてしまう。それはシェプルスキアの父であるアズドが参謀天幕の助けを得てたまに成功させた、複雑な謀略にも似ていた。
「考えてみたまえ。この状況をなぜ総権国だけが理解していると考える?もし同君地域が、この状況を理解していたら?」
アニドはゆっくりと語る。
「……同君地域は、全国民会法をなんとしてでも通そうとする。そのためなら多少の妥協はする」
「そうだ。そしてどちらのほうが統合王国に近い?どちらのほうが交渉に使える手札を多く持っている?」
エレーリヤの中で思考が固まっていく。総権国は追い込まれている状態にある。そして、今の時点では総権国のほうが明確に統合王国に食い込んでいるのだ。もし毛皮売りに対する反感が起きれば、統合王国における総権国の立場はほぼ崩壊する。それはエレーリヤも、彼の父である外交官のガロテーエンも、その役割を失うことを意味する。
「……総権国に、黙って見ていろと、アニド先輩は言いたいんですか」
「いや、俺は特に何も言わない。ただの学生相手に何かを言ったところで、意味があるわけじゃないだろう?」
アニドは眼の前の相手を、概ね把握していた。間違いなく有能だ。若さと経験の少なさがあるが、逆に言えばアニドが勝てているのはそれぐらいに過ぎない。あと数年彼女が学院で学べば、テレナに並ぶ指し手になっているだろう。
エレーリヤの思考をアニドが誘導できているのは、事前にテレナが作った計画を共有され、かつ彼がそういった芸当に慣れているからにほかならない。そうでなければ、総権国が作り上げたこの相手には勝てないとアニドは考えていた。
「……詳しく教えて下さい、アニド先輩。この法案を読む限り、投票で決まる代議士の議席は多数ではありますがそれだけで過半数を取れるわけではありません。とはいえ、それ以外の席も様々な派閥から選ばれるでしょう。そうすれば、どこかが手を組んで法律を通せる。これでいいのですか?」
「それがいい、という前提で作られているんだろうな。まあ今後色々議論は進むかもしれないが」
「もっと国王の正当性を示すような、あるいは代議士が中心となるようなものにしないのはなぜですか?」
エレーリヤの言葉を、アニドは最もだと考えていた。おそらく十分に強い指導者がいるのであれば、それは正解なのだろう。だが、統合王国は総権国ではなかった。既にルメン七世が強い指導者になろうとして、古い貴族のやり方で失敗していた。
「……順番が逆だ。主張したいものがあり、それを形にするために全国民会を作っているわけじゃない。全国民会を通過したものが、統合王国の意志となるようになっている」
そう言いながら、アニドは総権者となろうとしているのかもしれない人物のことを考えていた。全国民会の設立は学院の鍵のかかった部屋の手紙によって成立したものだ。そしてそれは、ルメン・デリロスという存在を前提としている。
もし「墜ちる灯火」の通りの国ができたとしたら、それは総権国に近いものなのではないか、とアニドは感じていた。むしろあれは総権国のようにわかりやすい代表者の下に力を集めようという発想であり、結社というのは結局は自分たちがのし上がりたい中流階級なのではないかとまで考えて、アニドは小さく首を振った。