「確認ですが、ハッヘンヴルト家は動きませんよね?」
学院にやってきた教授であるガルースの部屋に入り、テレナは言った。
「……テレナ嬢。統合王国と同君地域の挨拶の違いの話を聞きに来たのではないのかね?」
「それは後で聞きます。いえ、別にそちらを先にしてもいいのですが」
テレナの態度にガルースは小さく笑い、彼女に座るよう勧めた。
「それでは、まずはテレナ嬢が見落としている統合王国の一体性の欠如ということについて話していこう」
テレナは息を吐いた。とはいえ、普通に面白そうな話であるので彼女は姿勢を正した。
「統合王国は実に広い。東西にも南北にも広がり、北に冷海、西に大西海、南に山脈を超えた先の教主国と大内海、そして東には同君地域と冷海同盟と面している。このような多様な地理のもとでは、多様な社会が形成される」
「議場学、ですか」
「そうだ。土地の気風というものは間違いなくある。もちろんそれがすべてを決めるわけではない。もしそうなら、かつて
「……ええ。ただ、私の知る限りルメン七世の時代に統合王国の作法や儀礼は統一されたと聞いています」
「首都から見ればそうだろうし、地方は首都からそう見られようとしていたのだよ」
「……上位の外交官は、首都にいるものでは?」
テレナの言葉に、ガルースは首を振った。
「テレナ嬢。もし、仮にの話だが、統合王国の一部で問題が起き、遠い首都ではなく、近くの血を頼ったとしたらどうなる?」
「歴史書で何度も見た光景ですね。ハッヘンヴルト家はそういうのが好きなのですか?」
「もともとはそのやり方でしか拡大できなかった、というのはあるだろう。しかし今なおそれを続けているのは、決して単なる怠惰ではないとも。それを維持するというのは、決して容易ではない」
ガルースはその裏で行われてきた様々なことを知っていた。婚姻というのは信用がなければ意味がない。ハッヘンヴルト家は子女を嫁がせた相手に多くのものを求めたが、ハッヘンヴルト家自体も多くのものを求められてきた。彼らにとって帝冠は素晴らしいものであったが、それだけのものではなかったのだ。
「……確かに。そう考えるとハッヘンヴルト家のために動く外交官は、統合王国を普通の貴族の目で見てはならないわけですね」
「そう。その目を鍛えるのは容易ではないが、テレナ嬢はある程度は有しているだろう?」
テレナは問われて、少し考えた。彼女の世界の捉え方は、ウィルトールから学んだものだ。ただ、彼について他の人から話を聞く限り、ウィルトールの目はテレナのものとは違っていそうだった。
彼は世界を愛し、同時に憎んでいた。だからこそ持ち得た視点を、彼はテレナに伝えようとした。結果としてテレナは奇妙な目を手に入れた。それは学院でも持つものがいない、特別なものだった。
「……結果的に手に入れたものですし、それが正しい保証はありません」
そう言うテレナに、ガルースは頷く。
「それでいい。さて、話を戻そう。統合王国の首都とそれ以外では、今なお様々な差異がある。法律の運用、税の制度、あるいは教会と領主の関係。それらを踏まえなければ、我々は本当に欲しいものを手に入れてもすぐに失ってしまう」
「反乱を起こされてはたまらない、と?」
「そういうことだ。できれば領主が税を払う相手が変わったぐらいに思ってくれることが望ましいのだが、多くの要因がそれを阻む。言葉、風習、宗派などだ。ハッヘンヴルト家の下に集う諸地域は様々で、寛容の精神が生み出されてはいるが限度はある」
「ハッヘンヴルト家が切り取るべき地域について準備が終わっていない以上は、まだ動かないと?」
テレナの質問にガルースは首を振った。
「我々が国境線の地域について、準備をしていないことがあると思うか?」
「……大変ですね、本当に」
テレナはここしばらくの地方民会の議員候補者名簿を見て調べることの難しさを感じていた。特定の一人から話を聞くのでは足りない。何人かからの手紙でも抜け落ちるものはある。その場にいてすらわからないこともあるだろう。
足りないことを前提として動かなければならない。その上で、取り違えた時に致命的となる要素を正確に把握する必要もある。
「だからこそ、ここは重要な場所なのだ。統合王国の変化を見ることができる」
「手紙が一日か二日早く着くだけでも違いますからね……」
ガルースはテレナの言葉に頷いた。総権国ほどではないが、同君地域も独自の手紙のやり取りができるようになっている。使節同士の連絡のために使われた予算は決して小さいものではなかったが、それでもそれらは必要とみなされた。
「……テレナ嬢。我々は伯爵領の一つや二つのために、統合王国を叩ける機会を無視はしない」
「わかってますよ」
「だが、個人としては抗おうとするものに対して敬意を払うべきだと考える」
「……あなたはそれを、他のハッヘンヴルト家の人の前で言えるのですか?」
「私がここにいるということは、ある程度は話を通せるということにならないかね?」
「あなたがここにいるということは、ハッヘンヴルト家はここに統合王国の軍隊が来たとしても構わないと思っているということです。要人が死ねば正当な反撃の理由が手に入るでしょう」
テレナの言葉に、ガルースは微笑む。彼にとって、テレナの考え方はまだ甘いものだった。かつてのガルースは彼女の逆だった。人間関係を信じ、その上でならあらゆる事が可能であるし、許されると考えていた。
しかし、実態は違った。動かすことのできない大きな土台があり、その上に人々がいるのだ。テレナは土台の方を見すぎている。だからこそ、それを動かすという発想が出てこないのだ。
「……ともあれ、地方民会と全国民会の様子を見るまでは動かないと言っていい。よかったなテレナ嬢、卒業はできるぞ」
「それは安心しました。故郷で死ねるのは良いことです」
ガルースはテレナの気持ちが完全に理解できたわけではない。彼の両親は同君地域内をあちこち動き回っていたため、ガルースの故郷は一つということができないほどある。ただ、守るものがあるということが力になることは、ガルースも知っていた。