地図を前に、議論は淡々と進んでいった。
「ですからフェナテリア女卿、全国民会はあくまで市民の意思を反映させるものであり、市民が王の代わりになるものではないのです、今のところは」
そう言いながら、テレナは自分が持っている伏せ札を改めて確認する。全国民会はもしその気になれば貴族制度を壊すことも、王を退位させることもできるだろう。それは法の問題ではない。
究極的には、あらゆる規則は暴力と権威によって保証されている。つまり市民からの信任という名分があり、それをもとに軍が動き、宮廷を包囲すれば、王はその椅子から退かねばならない。そこまでの熱狂を生み出せる人物は、今のところはルメン・デリロスしかいなかった。
「しかしそれは市民を軽視しているというわけではない。僕は今まで声が届かなかった層の代弁者として振る舞い、彼らを暴走させず、理性と知性による改革に導く」
デリロスの言葉の裏には、自分を犠牲にするという最後の手段があった。そうすれば、例えば自分の兄が、第一王子が正当性を持って統合王国を動かすことができる。デリロスは兄たちが自分とは違うものを見ていると走っていたが、愚かとまでは思っていなかった。
彼らは学院で学んだわけではない。しかし、それよりも濃密な時間を宮廷で過ごしているはずだった。そしておそらく、デリロス以上に貴族たちからの信頼を得ている。もし彼が代議士長となったとしても、二人の兄がいなければ王室との問題は起こるし、解体するという選択はデリロスにとってもあまり選びたくないものであった。
「……その統制のために新聞と全国民会の票を使う、か。なかなか面白いし、統合王国の積み重ねてきたものがあればあるいは可能かもしれんと思わせる程度にはもっともらしいな」
エフナチェルカは呟く。もちろん、全てが計画通りに行くことなどないと彼女は経験から知っていた。それでもなお、事前に想定しておくことは重要だと知っていた。
今回の冬の会合もそうだ。おそらく北側世界の国家指導者の中で、ルメン・デリロスと接触しているのはエフナチェルカ唯一人である。もちろんここにいるテレナも繋がりはあるが、彼女はあくまで今は伯爵令嬢、そして未来の伯爵夫人に過ぎない。動かせるものが大きく違うのだ。
それに、エフナチェルカにはまだ多くの隠していることがあった。もしルメン・デリロスが成功すれば、その成功を北側世界に広めるつもりであった。総権国においても全国民会と類似の制度を形だけでも導入することによって、北側世界に混乱をもたらすことができる。
西と東から挟まれる同君地域の被害は大きいだろう。ただでさえハッヘンヴルト家の支配は揺らいでいるのだ。帝冠の庇護者という正当性は日に日に薄れつつある。その中で曖昧な至上権よりも市民の力が上だと隣国が認めた場合、同君地域は角灯主義者たちの手によって緩やかに崩壊していくだろう。
エフナチェルカはそれを直接食い散らかすつもりではなかったが、助けを求められれば支援のために軍を出すつもりはあった。あるいは、ハッヘンヴルト家の側についてもいい。彼女には子はないが、必要であれば養子を取るなりするだけの余裕はあった。
そうすればハッヘンヴルト家に総権国が支配されるのではないか、という危惧も彼女は封じていた。国家を大規模に動かせるほどの権力を持った総権者は自分が最後だとエフナチェルカは考えていた。安定した国家においては、そのような強権を振るう正当性が消える。
そして新しい総権者の周りにいるのは、血縁ではなく実力で勝ち上がった人々だ。彼らは自分の家族を多少優先するかもしれないが、それ以上に自分たちと同じように勝ち上がった人物に親近感を抱くだろう。そのように官等表のあり方を調整したのはエフナチェルカだった。
「ひとまず出御会議が始まって、ルメン・デリロスが演説をして、そこの投票で全国民会の最初の代議士長がルメン・デリロスとなる。これは今のところ、多くの派閥がそれぞれに考えていることです」
テレナはそう言いながら、地図の上にある図を示した。議席を模したその絵では、半分を超える勢力にルメン・デリロスを示す色が塗られていた。
「例えば、テワドレーム公爵のような地方派がそれに乗りるうかね?」
エフナチェルカは問う。
「これを和解の先にある関係の深化と仕立て上げます。地方派の一部とはある程度同意が取れていますし、彼らの選択をテワドレーム公爵は否定できないでしょう。少なくとも三人がフェルヴァジュ管区の教会で働いたことで、この案件は解決したことになっています。それに管区を通して縁のある娘のためにもなるとなれば、彼も同意するでしょう」
「……統合王国の問題は、そこだな」
地図を見ながら、エフナチェルカは言った。よくできている地図だからこそ、疑り深い人物は一瞥しただけで自分の想定がどの程度織り込まれているかを推察することができる。
「そこ、とは?」
テレナは尋ね返す。
「これらの策略は、全てルメン・デリロスにかかっている。もし彼が致命的なことをして信頼が損なわれれば……」
そう言って、エフナチェルカは机を挟んだデリロスと正面から視線を合わせた。彼の目は揺らいでいなかったが、それは彼の自信ゆえではなかった。エフナチェルカは彼の瞳の中に、ある種の覚悟を見ていた。
「そのようなことにはなりません」
嘘だ、とエフナチェルカは感じていた。ルメン・デリロスは愚かな人物ではない。そして彼には自分とは違って余裕がある。エフナチェルカでさえ自分が追いやられた時にどうなるかを考えているのだ。彼がそうしない理由はなかった。
「……それを信じよう。もし君が代議士長になったら、ぜひ招いてほしい」
「総権国は遠き地ゆえに、手紙が届くのが多少遅れるかもしれませんが」
「なあに構わん、まずは隣人たちと話し合いをしたまえ」
エフナチェルカはそう言って笑顔を浮かべた。彼女が求めていたものの一つは、新しい統合王国、あるいはフェルヴァジュの地にできる国家による、総権国の承認であった。そしてその約束は、あくまで口頭ではあるがここで交わされることとなった。