学院を卒業してから来た最初の冬で、テレナは学院に行くことは叶わなかった。
「……なんでここにいるのよ、テレナ」
ネヴォエリ王国の宮廷で、カロネはもう懐かしくありつつある顔を見ていた。ちょうどそこに立っているところからして、わざわざカロネの今の仕事と予定を調べた上で来ていたのは明白だった。
「仕事よ仕事。ハゼウ伯爵夫人として、夫が周辺地域から孤立しないように少し離れてはいるけど影響力のある王国の人たちとのつながりを作っておくのは重要なの」
「ああ、結婚おめでとう……」
「ありがとう。……今は女官?」
「ええ。知っているでしょうけどハッヘンヴルト家のお嬢様の指南役を今はしている」
「いいじゃない」
「あまり良くはないわよ。……少なくとも彼女は賢いから」
「賢い女性が生きやすい世界ではないからね」
テレナはそう言って、息を吐いた。今なお知識のある女性というのは、知識のある男性と比べて好かれるものではない。堂々と女が知恵をつけることは堕落への道だというものはさすがに少なかったが、それでも古くからのしきたりを重んじる地域では、あるいは危険なことができる余裕のない場所では、女性は血を繋ぎ、子を育てることが優先されていた。
テレナはそれを悲劇だとは思うが、間違っているとは言えなかった。あり方に対して正誤を問うのは、宗教の仕事だ。それは角灯を持っている人がやってはいけないことだ。闇については、闇の専門家に任せなければならない。
「……ところで、その夫は?」
「今は色々と挨拶回りよ。もし軍を統合王国に派遣するとかになったらこのあたりの将軍たちの傘下に入るでしょうし、その時にある程度相手の顔と人となりを知っておけば少しは部下をまともな戦いで死なせることができる」
「……死なせないのが指揮官の仕事なんじゃないの?」
「指揮官は勝つのが仕事で、そのために死なせることを厭わないだけ。兵は領民を守るためには死なせなければならないのよ」
テレナはそう言いながらも、その責任を嫌でも感じていた。彼女は直接手を血に染めた経験はないが、自分の行動が流血を引き起こしたことは知っていた。統合王国では各地で暴動が起き、今のところはなんとか落ち着いてはいるが相当に苦労している様子だった。少なくとも新聞にはルメン・デリロスが自ら暴動の中に入り、代議士長として双方を制止する様子が版画入りで刷られていた。つまり、そういう物語に頼らなければ統合王国の統合は保証されないようになってしまっているのだ。
それを作った首謀者の名簿を作れば、その中にテレナが入るのは間違いなかった。テレナは統合王国の全てを作ったとは自惚れていなかったが、自分が何もしてないと考えるほど盲目でもなかった。
「……ネヴォエリ王国も、少なくない兵が統合王国との国境にいます」
「あのあたり、食べ物とか大丈夫なの?」
「実際に国境にいるのは少数で、それ以外は兵舎にいるはずだけど、それでも慣れない場所の兵たちは決して楽ではないはず」
「……辛いわね」
「もちろん彼らが何もなく戻ってくるのが一番なのだけれども、そこに行ってしまうだけでネヴォエリ王国から働き盛りの男がいくらか消えることになるのよ」
「そこに兵を置かなければ統合王国が攻めてきた時に対応できない。一方でそこに兵を置けば統合王国は警戒する……どうしようもないわね」
「もちろん色々と動いてはいるわよ。あまり詳しくは言えないけれど」
「互いに秘密を持つ身ですからね」
そう言いながらも、テレナはおおまかな関係を掴んでいた。同君地域の各地で学院を卒業した人達がいる。彼らは統合王国の学院派と連絡を取り合い、いかにして緊張を維持しながら兵をこれ以上置かないようにするかの調整をしているようだった。
「……他の学生の話は、聞いた?」
カロネがテレナに尋ねる。
「田舎の伯爵夫人に何を期待しているのよ」
「学院では色々とやっていたじゃない」
「三つの勢力がせめぎ合う場所で、紙と郵便が使えたあの頃とは違うの」
「……そういう場所に、テレナさんなら行けるんじゃない?」
「……行けるけれども、それをすると私はハゼウ伯爵領に手を出せなくなるのよ」
「……そう」
カロネはテレナが背負っているものをちらりと見た。それは夫への愛であるとか、支配できる領地の存在ではないだろう。自分の力が万全に使える場所よりも、自分が大切にしているものを守ることのできる場所にいようとしている。少なくとも、カロネにはテレナがそうやって無理をしているように思えた。
けれども、その無理をしなければ彼女は守りたいものを守れないのだ。それはカロネが神を信じ続けるように、テレナにとって大切なものなのだろう。
「まあ、私は楽しいわよ。カロネは?」
「……最近、教え子のために本を書き始めたの」
「いいじゃないの。どういう本?」
「……折れそうな苦難の前で、冷酷な世界の中にあって、それでも神の前で良くあるための物語」
「いいじゃない、悪い本に手が止まらなかった少女とは思えない」
テレナが意地悪そうに言うと、カロネは深く息を吐いた。
「……書いたものをどうやって本にすればいいかわからないけど、今の学院に手紙を送ったら届くかな」
「早めにしたほうがいいわよ、そろそろ彼らも卒業するから」
今はフュルシーアとレイルグは第四学年になっていて、彼らのすべきことをしている時期だった。テレナが受け取った手紙には新しく入ってきた第一学年に部屋に招くに値しそうな学生がいたという。少なくとも、これで総権国から来ているエレーリヤが一人で部屋を維持する必要はなくなりそうだった。
「そうね。きっと完成までは時間がかかるから届く宛先を教えてもらわないと」
「あの二人、卒業しても一緒にいるのかな……」
テレナからすればある意味では理想の一部を持っている後輩を、テレナは思い出していた。
「とはいえ受け入れてもらえるかしら?」
「フュルシーアの故郷の南方街に?それともレイルグの故郷のティロに?」
「どちらもよ」
「まあ、彼らは自分の居場所がなかったら作るでしょう。幸い、世界は変えられるんだから」
百年前、宮廷で女性がこれだけ堂々と振る舞うことができるというのは想像すらできないことだった。学院の存在は娘、妻、そして母でありながらも同時に様々なことができる可能性を拓いた。それは男が息子や夫や父でありながら様々な職に就くように、役割をただ一つに定めないという道を示したのだ。