扉を開けると、客は既に長椅子に座っていた。
テレナの観察眼はシェプルスキアほどではなかったが、それでもいくつかのことは読み取れた。見るからに丈夫ながらも傷のある服と外套、そして靴は家令というには実戦の香りを感じさせるものだった。日に焼けて皺の多い目の周りは、貴族というよりむしろ老農夫に近いものを感じさせた。
髭を剃ればあと十歳は若く見られるだろうという風貌であったが、口周りから顎に伸びた白い髭は、年齢と経験を示すための表現として機能していた。
とはいえ不清潔というわけではない。砂や埃が混じっているわけでもなく、どことなく上品さと落ち着きを感じさせる老人であった。ただ、緊張を解いてはいないようだった。
『お嬢。制服が似合っておりますぞ』
『エル爺、できたら他の人がわかる言葉にしない?』
二人が話しているのは一族の言葉であり、当然ながらテレナが知識を総動員しても短い会話に知っている単語は現れなかった。
「おお、すまない。ええと、……始めまして、お嬢様?」
少したどたどしさのある統合王国語で、エルガーツはテレナの方を見て言った。
「始めまして、エルガーツ翁。『それと、共和王冠国語でしたら私も少しだけ覚えがありますので、もしそちらでもよろしければ』」
『かたじけない、それとお名前を伺っておりませんでしたな』
「ちょっとテレナ!?」
驚いたようにシェプルスキアが言った。
「なによ、うるさいわよ」
「えっと、その、共和王冠国語を話せたの?」
「覚えたのよ、同君地域の東部では同系列の言葉もあるし。とはいえそこまで自由に使えるわけではないけど」
さらりとテレナは言ったが、もちろん言葉を覚えることはそう容易なものではない。テレナは統合王国語と故郷の言葉に精通し、それ以外にも北側世界の地域の公用語は話せていたが、それでも難しい話をできるほどの能力はなかった。また、本から学んでいることもあって発音はどうしても不正確で綴に引きずられる場面もあった。
「あたしが言葉上手く話せなくて苦しんでいた時にずっと統合王国語で話しかけてきたのはなんだったの?」
「そうでもしないと覚えないもの。無理にでも頭をその地域の言葉に切り替えるのが習得の早道よ」
『はは、お二人ともすまないができたらこの老人にもわかるように語ってもらえぬかな、年のためもあって、若い子たちの早口には耳が追いつかんのだ』
『嘘だぁ』
エルガーツの言葉に、シェプルスキアは言った。
『嘘ではないとも。そして、そちらの方はテレナさんと言ったかな』
『ええ、神聖なる冠の守護者たるハッヘンヴルト家の下にある諸地域の一、エルンツィンガー伯爵領を任せられたルグスト四世が長女、テレナ・ノイーズ・イルデネと申します。シェプルスキアの指導役を学院から仰せつかっておりますが、実際はお嬢様に助けられてばかりでございます』
テレナの説明を聞いて、シェプルスキアは肯定するように頷いた。
『……さすがに三人しかいない場だからといって、儀礼を忘れてもらっては困るからね?』
忠告したテレナの声を聞いて、シェプルスキアは逆らわないことを示すために大きく一回頷いた。
『お嬢が世話になっているならば、その恩は大きい。よろしければ、これからもシェプルスキアをよろしく頼む』
『ええ。……それと、差し出がましい申し出ではあるとは理解しておりますが、西方の儀礼には不慣れと見てよろしいでしょうか?』
『恥ずかしながら』
エルガーツはテレナを見て言った。さて、とテレナは少し状況を頭の中で整理し始めた。統合王国を中心とした「文明的」な価値観においては、エルガーツの振る舞いは粗野すぎる。特に通訳もなしにこのような行動をした場合には、微妙な行動が問題に発展しかねない。
もちろん、彼に敵意がないことはわかるし、礼を示していることもわかる。ただ、西側の文化におけるやり方ではないのだ。ただ立ってシェプルスキアの隣りにいるならまだしも、家令であれば実際の領地の話をすることもあるだろう。そのような情報交換の場において、細かな共通概念を持っていないことは分野によっては致命的だ。
そしてテレナは、この時までエルガーツが統合王国語を話せない可能性をすっかりと忘れていた。学院の入学条件に一定程度の統合王国語の技能が定められているのもあり、言葉の壁をあまり意識する機会がなかったのもその理由の一つであるが、テレナはそれが自分の準備不足だと素直に認めることにした。
『……短い時間ではありますが、最低限の指南をしてもよろしいでしょうか』
『エル爺、テレナはその点では信頼できるよ。あたしが保証する』
『願ってもない申し出であります。この老骨ではありますが、精一杯学ばせていただきます』
謝意を示すエルガーツを見ながら、テレナはヨルワ教授に対しての怒りを心のなかでゆっくりと燃やしていた。東方からの客人をもてなすための接待役、あるいは通訳として動けることすら見透かされていたのだろう。別に働くこと自体が嫌なわけではなかったが、この仕事から逃げられないような状況に追い込まれたことは不満であった。
『……とはいえ、基本的には通訳を介して話すことになるでしょう。最初の挨拶だけはできれば統合王国語か、相手に関連する地域の言葉で。簡単な会話であればシェプルスキアは通訳になるかもしれませんが、詳しい統治の話となった場合には遠慮なく私を呼んで下さい』
テレナは記憶から共和王冠国語の語彙のみならず総権国語まで引っ張り出しながら、どうにか言葉を繋げていった。基本的な外交用語を中心とした手引書で学んだために専門用語のうちはなんとかなったが、日常的な会話をされたらシェプルスキアとの間の確認に相当時間を取られそうだ、という程度の語彙しかテレナは持っていなかった。
『わかりました。作法について、気にかけるべきことはありますかな』
『基本的にエルガーツ翁もシェプルスキア嬢も来訪者の扱いとなります。いきなり刃物を相手の喉元に突きつけるようなことをせず、落ち着いて振る舞えば、概ね問題はありません。必要な時には私ができるだけそばにいて、指示をします』
『そのような野蛮なことをする人がいるのですか』
『いるのですよ。後で学院のシェプルスキアの話をいたしましょう。ただ、これは本人を通訳として挟ませてもらっても?』
頷くエルガーツを見ながら、シェプルスキアはどうにかして都合の悪いところは訳すときに省略しておこうと心に決めた。