統合共和国の蔦の館は大慌てになっていた。多くの職員が急いで美術品を梱包し、地下や郊外に移動させようとしている。喧騒に紛れて聞こえないが、屋外で耳を澄ませればかすかな砲声がする。ただ今日も開館日であるし、彼らは客を拒んではいなかった。
「大変なことになっているねぇ」
のんびりと長椅子に座り、一人の女性が足を組んで正面の絵を見る。
「何やってるんですか先生、散歩で行ける範囲に
そう言いながら、青年は彼女の隣りに座った。
「いい絵だと思わないかい?」
「……革命の時代、ですか」
青年の言葉に女性は頷く。描かれるのは様々な人々。本をと角灯を手に持った乙女がいる。法律を布告する官僚がいる。天秤を持った男が、銃を持った女性が、あるいは議論する二人を後ろ向きで宥める青年が。
「アレリアの描いたものの中で、私はこれが最高傑作だと思うね」
「批評家からは妥協した最初の全国民会の欺瞞を描くものだとよく言われますが」
その言葉に、女性は小さく笑った。
「寓意画については、君も当然知っているだろう?」
「ええ。ここに描かれている人の少なくない割合が実在したということも、彼らが最初の全国民会を代議士に代わって支配していたことも」
「うーむ、やはり最近の教育は良くないな、批判精神というものが養われていない」
彼女の言葉に青年は少しむっとした顔になった。
「では説明しよう。この絵にはかなり女性が登場している」
「画家が女流画家だったからでしょう」
「それもそうなんだがね、例えばあの角灯を持っている少女だ。覆いが外されている」
「……角灯主義への批判、ですよね」
「そういう見方もある。覆いをつけて、一部の人だけが光を操れた時代ではないというわけだ。しかしそれならなぜ別のものにしなかった?当時の小説である『墜ちる灯火』では極東方風の裸火の油灯が描かれているし、この絵が描かれた時代には様々な角灯より便利な明かりが使われていた。つまり覆いを外そうが、その本質は角灯なんだよ」
「はぁ」
青年は隣の女性が言っている言葉の意味があまり掴めていなかった。
「アレリアは蔓草党の党員ではなかったとされているが、彼らと深く関わりを持っていた。そもそもここ、蔦の館が占拠されたはずの前からずっとここにいるわけだ。おかしいと思わないか?」
「……あれ、そうですよね。この人って全国民会ができる前から宮廷画家をしていたわけで、特に転向をしたわけでもない」
「だから最初から彼女はかなりわかっていてこの絵を描いていた、と私は考えているよ」
「作家の戯言じゃないんですか?」
青年は出版社に務める人物だった。作家から原稿を手に入れて印刷所まで届けるのが彼の第一の仕事であり、第二の仕事は作家から目を離さないことだった。
「もちろん願望混じりなのはわかっているさ。しかし当時から女性は本を読んでいた。『墜ちる灯火』だって今では革命の聖典のように扱われているが、当時からすれば面白い風刺本に過ぎなかった」
「面白いのためにあんな危険なものを?」
「もっと危ない本だって当時はあったさ。それらのどれかが他の革命混乱期を引き起こしてもおかしくはなかった。でもあれが選ばれた。誰かによって」
「最近の学院陰謀ですか?」
「あれはかなり史実に基づいているよ、解釈の問題だ」
「そうですかね?」
「当時の統合王国は破綻しかけていたが、それに誰も気がついていなかったわけではない。王子が偽善を告発する前から財務大臣は変わっていたし、財政についての報告は出来上がっていた。学院を中心とした手紙のやり取りによって、全国民会が本来は果たすべきだったことなる社会階層の間のやり取りが促進された」
「……わかりにくい歴史ですね」
「歴史がわかりやすいほうが怖いだろう。それとも君は我らが統合民主国もわかりやすく滅ぼされたほうがいいと思うのかね?」
統合民主国に対抗するために
「そうは言っていません」
「そうかい」
そう言って、彼女は絵の鑑賞に意識を向けた。何度見ても発見がある。何人かがそれぞれの人物の題材について調べているが、この角灯を持った乙女についてはわかっていないことが多かった。例えばそのすぐ後ろに背中姿で写っているのは統合民主国の政治調整に尽力したアニド卿と言う人物だと言われている。
彼は決して歴史書に乗るような人物ではない。しかし当時の代議士たちにとってはそれなりに有名人だったようで、いくつかの書簡に名前が残っているそうだ。そして後に蔓草党と対立することになる派閥の人物もここには描かれている。
「……これを描いたアレリアという人は、彼らが手を取り合えると考えていたのでしょうか」
「取り合わなければ崩壊すると考えていた、という可能性もある。それは彼女にとって戯言だったかもしれないが、口にしなければ実現もしないようなものだ」
そう言いながら、彼女は自分が書いている小説について思い出していた。隠された謎を解き明かすという発想は彼女以前にもあったが、おそらく幸運も相まって彼女は成功を手に入れることができていた。
もちろん、そこには彼女なりの願望が込められていた。世界ははっきりとしていない。自分の知らないところで誰かが何かを決めているような印象が満ちていて、どれだけもがいても水底から浮かび上がれないような息苦しさがある。
自分の作品は彼らの生命を救う大気の成分になるわけではない、というのが彼女の信条だった。けれども、少しだけ苦しさを紛らわせることはできる。わからないということに苦しんでいるのはあなただけではないのだと。そして物語の中の登場人物のように、調査と分析を通せば、しばしば真実はすぐそばにあるのだと。
「……まあ、先生の新刊の印刷ができる場所はないですからね。どうしますか、彼らの捕囚になったら」
「向こうにも私の作品が好きな人がいるだろう。捕囚編を作るとするさ」
そう言って彼女は笑いながら、絵画の中で角灯を掲げる少女と目を合わせた。