「よぉ、世界最高の地位の椅子はどうだ?」
そう言って入ってきた男に、部屋の主の女性はため息を付いた。
「……なぜここに入ってこれたのですか。執務室の警備担当者に後で苦情を言わなければなりません」
「いや、俺はここの建物の資金提供者だからさ。それにまだあんたの仕事は始まってないだろ?」
「……ええ、就任式は来週。国際国家条約機構はついに立ち上がる」
「素晴らしい。ついにハッヘンヴルトは世界を統べたわけだ」
その言葉に、彼女は嫌そうな顔をした。
「……私の祖父が貴賎結婚をしたので、私はハッヘンヴルトの一員ではないのですが」
「そんなやつが学院に行けるかよ。俺と同級生だったってことは、それなりの地位ってわけだ」
そう言う彼は、北側世界においてかつての商会たちにも匹敵する富と影響力を持った財閥の長であった。石油、鋼鉄、通信、機械。彼の財閥はそれらの中の重要な領域を事実上支配しており、そこから得られた富を惜しげもなく社会に注ぎ込んでいた。
その成果の一つがここ、ケラフェツ近郊の土地である。かつて学院があった場所からそう遠くないところに、彼はこの高層建築を作った。それは幾度もの緩慢な戦乱を越え、どうにかして世界の中心を再構築するべく行われた交渉と妥協の結果の産物であった。
その過程で彼は相当の誘致を行った。裏でやり取りされた膨大な資金の出どころは不明とされていたが、その合計金額を考えれば出せる人は限られた。
「……ええ、そうね。世界の皇帝。素晴らしい響きよ。実態は酷いけれども」
「聖座があんたの裏にはついてるんだろ?あいつらと俺が手を組めばまあ大抵の厄介事はどうにかなるだろ」
「各地の軍事衝突を止めるために動き、貧困救済と経済成長を両立させ、そして理性の光を掲げる乙女となる。ええ、乙女よ。貴族としての責務すら果たせない、ね」
「……素直に俺と結ばれれば良かったんじゃないのか?」
「絶対ハッヘンヴルト家が色々と言ってくるから嫌なのよ。逃避行を二人でできるような立場じゃないでしょう?」
「まあ、密会がこんなところでないとできないというのがその証拠だな」
そう言って彼は笑った。二人とも、世界から見張られている人物である。世界中の政治指導者の妥協と取引の結果選ばれた女性と、世界の富の多くを動かせると見なされる男性。学院は彼らのような生まれつき未来を約束された人物の教育機関となっていた。
だからこそ、この部屋は二人が安心して話せる数少ない場所であった。念入りな盗聴対策が施されており、定期的に調査も行われる。この部屋の周囲は隔離されており、窓のように見えるものは人工的な照明だった。
「……正直言って、怖いのよ」
「今更か?」
「自分の立場をわかっていないと言えるほど、私は愚かじゃないと自分を信じている」
「まあ、そうだな。思想戦争を終結に導いたという貢献は、おそらく歴史の教科書に乗るだろう」
「あれだって誰もが終わらせたいと思っていたものを、部外者の立場から好き勝手に弄った結果よ。ハッヘンヴルトの威光なしにあれができたとは思わない」
「……だろうな。金持ちは貴族の血を欲しがった。ハッヘンヴルト家はその地位を失った後も、血を広げ続けた」
「婚姻によって世界を支配できる時代じゃないということから目を逸らしながらね」
「そうは言っても君の中に流れる血は神聖連邦から革命混乱期を通しても失われなかったものじゃないか」
「ただ古いだけよ、葡萄酒だって適切に保管されねば腐るというのに。その点、あなたはよく腐らなかったわね」
「やっぱり金にいい意味で頓着しないからだろうな。必要なところに金はかけるが、豪勢だの贅沢だのというのとは少し違う。これについては父を尊敬するしかないな」
彼の父は世界を飛び回り、各地で企業を立ち上げていた。そしてそれらは次第に一つの塊となり、世界の富の一欠片を、しかし全体から見ても目に見えるほどの量を占めるほどになった。そして彼は兄弟たちとともにそれを受け継ぎ、更に巨大なものとした。
「……そうね。あなたの寄付は世界を動かしている。そして更に上手いのが、あなたは寄付を使ってより大きな金を動かしているということ」
「世界とはそういうものさ。必要なところに払う金を惜しまなければ、より大きな物を手に入れられる。それをある程度繰り返せば、富が富を生むようになる」
「そういうものを批判して生まれた陣営すら、富の前ではへし折られたものね」
「いやぁ、評議会共和国の統制主義を壊すのには時間がかかった」
彼は革命混乱期の前から争われる二つの経済政策の系譜のうち放任主義を信じるものであった。そしてそれゆえに、自由に伴う責務をよく理解していた。もっとも裕福な人物の一人である彼でさえ寄付をするのだから、他の資産家もそうしないわけにはいかなかった。
「……でもあなたは、放任主義も壊したでしょう?」
「いや、それを壊したのは俺じゃなくてあんただろ。俺の寄付に対して散々批判してくれやがって」
「個人の意思に左右されるものに世界は頼るわけにはいかないのよ。国家とは個人ができないことをやるためにあるの」
「かつて平民ができなかったことを、貴族がやったようにか?」
「……昔はね。今は違う」
彼女はそう言いながら、執務室の壁に貼られた世界地図を見た。
「もはや一方的に誰かから奪える時代は終わった。永遠の成長は破綻を招くだけ。だからあらゆる手を使って人々が少ない資源で満足するようにする必要があるし、出生率の高い地域に医療支援と家族計画を提供する必要がある」
「……陰謀論者が聞いたら大喜びだな」
彼はそう言いながら、既に頭の中でこれをどう支援するかを考えていた。必要なのは単純な金銭ではない。金があろうができないことはある。必要なのは、それができる人材を、そこに作り上げることだ。
「聖座の担当者との折衝は、あなたがやるの?」
「俺は顔と口先だけの人間だからな、そういうものは得意中の得意だ」
「……ありがとうね」
彼女は小さく呟いた。
「ま、俺は未練がましい男なんでね。好いた相手の手助けぐらいはするのさ」
「本当に未練がましいわよね。早く適当に結婚しておけばよかったのに」
「もう俺も爺さんになりそうだからな。今更俺と結ばれたいってやつは遺産目当てだろうし、その遺産とやらもかなり微妙なんだよな」
「……あれだけの寄付をして、大丈夫なの?」
「今はな。少し入る金が滞ると危なくなるが、まだ大丈夫だ」
「もし困ってもこの建物は返さないからね」
「わかってるさ」
そう言いながら、彼はどの王も、あるいはかつての皇帝さえも座れなかった玉座を見た。執務用に座り心地がよく、この下の階にある事務室でも使われていそうなものだった。