学院において、以降の学年と比べると第一学年の授業の内容は多岐にわたる。もちろん専門的な水準に到達することはないが、片端から様々な分野の暗記と実践を重ねさせ、学ぶための姿勢を身体に染み付かせていくという形式が取られている。とはいえ、学生の進捗に合わせていないわけではない。
「統合王国語ってやっぱりよくないよ……」
午前後半の講義のために移動したシェプルスキアは、隣りに座ってきたテレナに愚痴を吐いた。シェプルスキアは統合王国語について会話はともかく読み、あるいは書くための技能が不足しており、そのための授業にさきほどまで出席していたのだった。
「いいじゃないの、こっちは古典の読解よ」
ただ、学生の水準に合わせて用意される授業に苦労するのはテレナも同様であった。テレナはなまじこの種の文字がかかわる分野が得意であるせいで本来第二学年向けの授業を受けており、その上で訳文を言うようにと教授から当てられることも多かったのである。古典悲劇における韻の問題はそこまでテレナにとって面白いものではなかったのもあって、彼女には精神的な疲れが少し出ていた。
「テレナはそういうのが得意だからいいじゃん、あたしは発音だけは達者って言われたよ」
「まあ統合王国語は何もかもが面倒だからね……」
この学院の通用語であり、各国の宮廷でも広く用いられる「文明的な」言語である統合王国語は多くの問題を抱えていた。音綴の不規則な不一致、装飾としての黙字の多用、古典から借用されたものの異なる活用がされた結果もとの意味から真逆になってしまった単語などなど、初学者にとっては決して易しいものではなかった。
「でもさ、次の授業は好きなんだ」
「博物学?前までは退屈そうにしていたのに」
「世界には変なものがいっぱいあるって思うとさ、楽しくなって。課題もあまり出ないし」
「それが理由じゃないでしょうね……」
珍品の収集は趣味としては珍しいものではなかったし、それらを体系的に分類する試みはいくつかの分野で進められていた。例えば統合王国の王認学術協会では「科学及び技術の分類体系」として全二十六巻予定の大型本が発行延期を重ねながら三巻まで出版されていたし、動植物の総目録の作成と適切な命名についての議論はここ数年各国の学者たちの議論の対象であった。
講義が行われる教室は男女で座る席が分かれていたが、境界に座ればちょっとした会話をすることはできたし、男女間の会話も珍しいものではなかった。
「おっテレナ嬢に
二人にそう声をかけた男子学生が首に巻いているスカーフには統合王国王室の象徴でもある花の紋章が刺繍されていたが、花弁の数は王室のものとは異なっていた。庶子の証である。シェプルスキアにはそのような紋章学についての知識はなかったが、それでも自分の名前がかなり宮廷風の統合王国語で話されたことは理解できた。
「どうもアニド君、親戚の兄貴分がやらかしたらしいけれどもご機嫌いかが?」
テレナにそう言われ、アニドと呼ばれた青年は嫌そうな顔をした。
「いや知らねぇよ、どうせ色ボケして女に引っ掛けられたんだろ」
「かもしれないわね」
テレナは口では笑ったが目は笑っておらず、アニドも同じような目で呆れ笑いをしていた。
「……どういうこと?」
シェプルスキアはテレナに小声で聞いた。
「アニド君は婚約破棄した王子の
「……偉くない?」
シェプルスキアはぼんやりと頭の中で家系図を思い浮かべ、先王の孫かと納得して言った。
「別に。父さんのほうは結局機会を逃して権力を掴めなかったわけだし、デリロスの兄貴とはそう話すわけでもなかったから」
アニドは不満そうに言った。第三王子であろうとも呼び捨てにできるほどの間柄であるというのはシェプルスキアにも読み取れた。
「それで、これからどうするのさ?」
婚約破棄の騒動の影響はまずは類縁者に来るだろう、と推察したテレナは聞いた。
「どうするも何も、こっちは兄貴のお目付け役でもなんでもないからさ」
「……なるほどね。私で良ければ、相談には乗るから」
「……せいぜい取り込まれないようにするさ、あと俺は婚約者がいる女に手を出すようなやつじゃないからな」
「はいすみません」
テレナはさっと立ち上がって謝罪のために頭を下げた。庶子、つまりは愛人の息子にこの手の話と受け取られかねない言い方を振ってしまったことを詫びるテレナに、気にしないと示すためにアニドは小さく首を振り、互いに誤解を招くようなことはなかったと確認をすると、アニドは男子側の席へと行って軍人志望の同級生たちと話を始めた。
シェプルスキアは何かやり取りがされたらしいことは朧げに掴みながらもぽかんとしていたが、すぐに気を取り直してテレナの方を見た。
「……婚約者、テレナにいたの?」
少し驚いたように、シェプルスキアが聞いた。
「そりゃまあ、いるわよ。学生の半分ぐらいにはいるんじゃないの?」
「……まあ、そっか」
「冷海同盟の女子学生とかは夫探しで学院に来ることもあるわね。次男や三男にとってはむしろそっちと結婚したほうが頼れない実家よりも有用だし」
「なるほどね……」
このあたりの感覚はじっくりと作っていくしかないのだろうな、とテレナは息を吐いた。
「シェプルスキアは、何かそういう話とかないの?」
テレナに聞かれ、シェプルスキアは少し悩んだ。
「うーん、傭兵団時代には下手に結婚するとその相手の勢力が傭兵団の中で強くなりすぎたりしたし、何よりあたしがあちこち行っててそういう話をする暇がなくて」
「ツィノド女領主としてならどう?共和王冠国の事情に詳しいわけではないけど、婿入りを希望する人は少なくないと思う」
「いつ焼け野原になるかわからない国境地帯に来てもらうなら、こっちが持参金用意しないといけないぐらいだよ。そこまでの蓄えはない」
イヴェリャン団とその中心であったイヴェリャン族は共和王冠国に定着するに当たってその名前を現地風のイウェラというものに変え、傭兵団もイウェラ連隊と名を変えた。それは不安定な放浪からある一つの土地に根ざした軍事集団への移行とも言えたし、共和王冠国側からすれば扱いにくい傭兵を契約に基づく軍務として動かすための改革の一つであった。
ただ、その領地は決して豊かでも安全でもなかった。南からしばしば押し寄せる南側世界の、大君侯国の軍勢を消耗させ、軍団が到着するための時間稼ぎという側面も存在した。それでもなおシェプルスキアは王冠と契約を結び、新たな祖国を防衛する責務を負うことを選んだ。
「……大変ね」
「でも、あたしは本当に運が良かったよ。ここで学ぶこともできてるし。先週の授業でやった植物の病とか面白かったな」
「実際に起こると全然面白くないけれどもね。っと、先生が来たわよ」
動物の頭蓋骨を両の手にそれぞれ持った教授が教室に入ってくると、空気が一気に張り詰めた。学生たちは紙束と筆記用具を取り出し、それぞれの学びのための準備をした。