冬の学院で行われる会議も序盤が終わり、来客の顔には疲れが見えることも珍しくなくなっていた。些細な一言が大きな問題を生むような場では、あらゆる行動に精神を注がねばならない。心に病を抱える統治者や外交官が少なくないのも当然であった。
数ヶ月の冬の間に、その年の情勢が決定する。特に学院の卒業生はその統合王国語の能力と知人の多さ、そして洗練された戦略眼のために外交官となることは珍しくなかったため、冬の学院の役割は大きかった。
そして、全ての交渉が成功するわけではない。それでも、彼らは感情を表に出すことはできないのだ。
「ネア先輩?」
シェプルスキアは学生ぐらいしか入らないような寮の屋上にいたネアを見つけて声をかけていた。
「……なんだ、シェプルスキアさんですか」
驚いたネアは、シェプルスキアを見て警戒を解いた。人の少ない場所は秘密の偶然の出会いに使われることが珍しくないため、もしそういう場所に出くわした場合に気まずくならないかと考えていたのである。
「どうしたんですか?」
「色々と交渉をね。機械を導入するなら関係を考えるとか言ってきた同業者組合があったのよ」
ネアは先ほどまでしていた繊維関係の取引の話を思い出して語調に怒りを込めていた。
「……仕事の話、ですか?」
シェプルスキアは競合が生まれたとみなされたのではないか、と考えていた。糸紡ぎは手間がかかるがかなり誰でもできる仕事である。それを高速でされれば、困る人も少なくないだろう。
「そんなはずはない。ティツン商会が導入した糸撚りの機械は、今までなかったものを作るだけ。正確には今までにも作れないわけじゃなかったけど、効率と速度に問題があった」
「……ということはあれですか、難癖?」
「その通り。シェプルスキアさんはこのあたり、直接的に話せるから助かるわ」
「テレナはどうしても言葉をその通りに受け取りませんからね」
「だから疲れるのよ、嫌いじゃないんだけどね」
ネアはそう言って笑った。ネアはテレナに比べれば、このようなやり取りを得意としていなかった。とはいえ学生としては一流であったし、テレナという異常な存在を比較対象とした場合にはおかしくなるという話である。
「……テレナから、ネア先輩には婚約破棄関連の情報を伝えてもいいと聞いています。
「ありがたいけど、なぜ?」
「テレナは、ネアはそれを使えるから、と言ってた」
その言葉を聞いたネアは少し考え込んだ。ネアは別にそこまで権力があるわけではない。今はティツン商会総経理の娘であるが、もし商会内部の派閥争いに父が負ければ単なる商人の娘になってしまう。そうなった場合にも贅沢はできないが一家が暮らしていくには十分な蓄えがあったし、そうならなければネア自身もティツン商会に参加する可能性はあった。
学院が共学という方針を打ち立てて以降、北側世界にはしばしば女性の影が見えるようになった。もとより夫の後ろで糸を引く妻の話はよくあるものであったが、学院の存在もあって表立ってそのようなことをする女性も現れるようになってきていた。
とはいえ、ネアはそこまで表舞台に立つつもりはなかった。趣味の古典をのんびりと翻訳でもして、そこに出てくる土地に旅ができれば満足であった。もちろん、それが望めるというだけでも自分が恵まれていることは理解していたが、その立場を捨てるつもりはあまりなかった。
テレナから情報を聞かされた場合には面倒なことになるな、とテレナは考えることができていた。情報の出所が事実上シェプルスキアとなる以上、ヨルワ教授の、つまりは学院派とみなされることになる。学院の思想をそれなりに受け入れる素地のある冷海同盟において、学院派はむしろ停滞や後進と見做されることもあった。
「……詳しくお願い」
「まずは三人の関係だけど……」
シェプルスキアは自分の理解している範囲で話をしていった。シェプルスキアは政治技巧を理解しているわけではないが、誰がどのような人物で、どの場面で嘘を吐いていたかはある程度読むことができた。
「……つまり、実際には穏便にやりたいと?」
「そのはずです。無かったことにはできないけど、婚約を延期するとか第三王子のルメン・デリロスが僧になるとか、そういう形には持っていけるんじゃないかって」
「まあ、それならなんとか上手くいきそうね……」
「そうですか?」
「それぞれの派閥が勝利を持って帰れるような、つまりはどうとでも解釈できるやり方になるわよ。戦争をしたくて戦争をすることは、したくないのにすることよりは少ないもの」
「……あたしはずっと、そういう場所で生きてたからよくわかんない」
「そういう生き方もある、と私は覚えておくわ。シェプルスキア嬢……いえ、ツィノド女領主」
「……ありがとう、ございます」
シェプルスキアにとって、自分の存在を記憶されることは重要なことだった。遊牧民時代の文化を引き継いでいる彼女には、戦士は語られるものだという意識がある。
西方では、他にも多くの人が語られる対象となる。官僚がいる。作家がいる。画家や音楽のような芸術で名を残す人がいる。俳優や歌手が新聞に名前を踊らせ、犯罪者が悪名を轟かせる。
それはシェプルスキアにとって物語の氾濫だった。その中では、ちっぽけな一人の名前など気にも止められない。テレナと何度も訪れた図書室に並ぶ無数の本を見て、故郷を離れた寂しさも混じった中でネアの言葉はシェプルスキアに響いた。
「……どうしたの?」
「いえ、問題ありません」
ただ、それで流されるほどシェプルスキアも甘くは無かった。相手を褒めることは取り入るための第一歩だ。それが単なる友好であれ、あるいは策謀の上であれ、言葉は過度に受け止めすぎない方がいいことをシェプルスキアは理解していた。
「でも、具体的な交渉はこれからよね」
「そうだとテレナも言っていました。あの三人ならもう直接顔を合わせることがなくとも、具体的な話ができるほどの情報を交換したと」
「そのあたりは経験者のいいところね、商会なんて書面と握手なしにはなにも信じないわよ」
「大事ですよね、そういうもの」
「だからシェプルスキアさんも言葉は学んでおいた方がいいわよ、紙は剣に比べて錆びにくいもの」
「でも、燃えますよ?」
「剣だって火に入れたら切れ味が落ちるでしょう?」
そう言いながら、ネアは小さく笑った。