「エルガーツ翁、調子はいかがですか」
テレナは侍従室にいたエルガーツに共和王冠国語で声をかけた。彼はあまり積極的に出歩いて社交的に振る舞っているわけではなかったが、それでも重要な会合には顔を出していた。
「実に良いよ、テレナ嬢。学院は実に配慮が行き届いている」
「そう言いますと?」
「通訳になりうる人が多いし、そうでなくとも知っている言葉で話せる相手が珍しくない」
「異言語の学習は嗜みの一つですからね。特に同君地域では」
多数の国家と民が入り交じる同君地域においては、統一された言語という概念が微妙なものとなっていた。もちろん主流言語と呼べるものはいくつかあるのだがそれ以上に宮廷言語としての統合王国語が広い地域で使われていること、そして民や地域の問題と言語の問題が結びついていることもあって多様な言語を扱えないと近隣地域との取引一つできないという有り様であった。
逆に言えば、それは複数の言語を操る人材がそれなりに存在することを意味する。テレナの父は同君地域内の三つの言葉と怪しい統合王国語を話すことができた。とはいえ三つの言語のうち二つは類縁であり、残り一つも統合王国語と似た要素が多かったために実質的には二組の言語と言うべきであったが。
「とはいえここまで統合王国語を聞けば多少はわかるようになるさ」
「そういうものですか?」
「傭兵時代は様々な語を並べて買付けをしたものさ」
「……ええ、その当時の話はたまにシェプルスキア嬢から聞きます」
テレナにとって、シェプルスキアの話はかなり刺激的なものだった。銃弾の飛び交う戦場で隣にいた人がいつの間にか死んでいたことをなんてことのないように語る自分よりほんの少し歳上というだけの少女は、テレナの好奇心を呼ぶには十分だった。
ただ、シェプルスキアが戦場という地からの視点で語るのに対し、テレナはまた別の考え方と捉え方を持っていた。
「そういえば、お嬢は言葉についてはどうなのかね」
「話すのはかなり良くなってきています。とはいえ私も統合王国語で生まれ育ったと言うほどではないので、そのあたりの微妙な癖を見抜かれることはあるでしょう」
「今の時点でも、やり取りには問題はないと?」
「そうですね。あくまで東方からの客人としてであれば許容されるか、むしろ褒められるほどの流暢さと言えるでしょう」
そう言いながら、テレナは先日顔を合わせた総権国の外交官を思い出していた。それまでテレナにとって総権国は遠い東の果ての国家であったが、彼と会って以降は本の上の言葉ではなく実際にあるのだという実感を抱くようになってきていた。それがどこまで相手の計画のうちかはわからなかったが、それでもテレナにとっては恐ろしいものだった。
テレナから見て、シェプルスキアは決して愚鈍でも無知でもない。変わってはいたものの恵まれた自分が受けた教育を差し引た時、素質のみで言えばテレナの上を行く分野が多いだろうというのがテレナの見立てだった。そのシェプルスキア以上の能力を持った人間を継続的に西側に送り込める総権国の計画性は、たとえそれが少ない外交官による戦略的な印象の操作だとしても非常に高いと言うしかなかった。
この点、共和王冠国は西側との接触が少ない。シェプルスキア以外にも学院に来ている子女はいるが例えば統合王国の貴族に嫁ぐことを前提として語学教育の一環として学院で学んでいるような例もあり、正直言ってテレナからすればそこまで学院の力を理解している人がいるようには思えなかった。
「……やはり、西方にとって我々はあくまで異人なのでしょうな」
「ええ。操る対象、あるいは排除すべき存在……。内側に入ることは、あとしばらくはできないしょう」
「理解している。一代でその土地に馴染むつもりもないが……そう言われると辛いものがあるな」
「それに下手に学院のやり方に慣れすぎても問題でしょう。ツィノドの人々にとっては結局馴染みのない手法を取る領主が就くことになりますが、西方のやり方はどうしても地理的な要素に依存したものがあります」
「具体的には、どういうあたりかね?」
「そうですね……三陣営の均衡、というのはどうでしょう」
「統合王国、同君地域、そして冷海同盟か」
「ええ。その三つは様々な方法で争い、時折小競り合いの範囲の戦争をしていますが、いずれも大規模な全面衝突には至っていません。あくまで小さな地方同士の争いであり、上位の勢力では和平を表では唱えています」
「裏では傭兵団に資金を回しながら、か」
「それが我々の語る平和というものです」
「素晴らしいものだな」
エルガーツはそう言って皺のある顔に嘲るような笑みを浮かべた。
「衝突は様々な形を取ります。新大陸における現地人への支援、分離勢力への武器供与、あるいは国境での関税や港湾都市付近への軍艦の派遣など。西側では暴力自体が恐れられているからこそ、その需要は少なくなってしまっているのです」
「価値を高めるために売り惜しむようなものか」
「その通りですね。なので軍はその実力以上に華美さと見栄えが重視されます。もちろんそのためには規律が必要ですし、規律のある軍は強いのですが」
「……そうだな、イヴェリャン団もイウェラ連隊となるにあたっては多くのことを変えていかねばならない」
エルガーツはそう言いながら、領地のことを考えていた。今まで戦しか知らなかったというほどではないが、それまでの兵士の指揮や糧食の買付とはまた別の知識と技能が統治では必要となる。今は武力がそれを支えているが、これを次第に信頼と定着した権力へと切り替えていく必要があった。
「まあ、シェプルスキア嬢ならやってのけると思いますよ。彼女は私が見た中でもかなり優秀な人物だ。もう少し安定した地域の男性領主であれば、私も嫁ぎ先として考えたのですがね」
「はは、伯爵令嬢を迎えるには我がツィノドは小さすぎる」
「……そこなんですよね、シェプルスキアの力を活かしたかったらもっと大きめの舞台が必要になる。とはいえそれが彼女の幸福になるとは限らないのが難しいところですが」
実際、テレナも自分の力を発揮するのであれば社交界に率先して出て繋がりを作り、ゆくゆくは派閥と呼べるようなものを構築することが最適であることは理解していた。それでもなお、彼女はあくまで伯爵令嬢の、あるいは伯爵夫人の静かな立ち位置を望んでいた。