「何度やっても慣れないわね、こういうのは」
ヨルワ教授は自分の教授室の長椅子にもたれかかりながら言った。
「なら初めて参加した学生がちょっとした過ちの一つや二つをしてもおかしくないですね」
「ええ、それぐらいなら許容するわよ」
嫌味混じりの言葉をさらりと返され、テレナは息を吐いた。実際のところ、テレナとシェプルスキアは何回か致命的ではないが誤解を招くような行動をしてしまったことがあった。もちろんそれはお互い様なのだが、二人の立場が守られたのは学生という立場のみならず後ろにいるヨルワ教授の影響力によるところがあった。
「実際のところ、婚約破棄の案件はどれぐらい動いているんですか?」
シェプルスキアが東方関連の交易や軍事派遣についての会合に顔を出していた裏で、それは確実に進められていた。しかし、担当者同士の実務的な協議に学生が入ることは難しいものがあった。以前テレナとシェプルスキアが手伝いの形で参加した会合は、高位の人物が集まっていたからこそ格を保つためにある程度の部外者を入れざるを得なかったのだ。
「基本的に婚約は一旦解消されるも再度結ばれる可能性を残しつつ、学院を卒業させるつもりのようね」
「つまりは先延ばしですか」
「ええ。きちんと解決できるような方法がない以上、今はそうやって時間を稼いで落ち着かせるのが一番」
「理屈ではわかるんですけどね……」
テレナはヨルワ教授にそう言って、隣で寝息を立てているシェプルスキアを見た。テレナがシェプルスキアより体力の消耗を抑えられているのは純粋に慣れによってどこで力を抜けばいいかを理解しているためであり、それであっても気を抜けば倒れそうなほどであった。
「それと王は個人的にいくつかの地方の屋敷の管理をテワドレーム公爵に委ねるそうよ」
「……あれ、ああいうのって整備の負担が大きいから王室としてはあまり持ちたくないって話を聞いたけど」
テレナは前に読んだ王室の資産状況を思い出していた。テレナの領地とは金額事態には大きな違いがあったが、それでも項目は似たようなものだった。そして特に統合王国では見栄えの文化的重要性の高さから、そういった別荘のような屋敷は来客がいないときでも常に整備され、急な事態にも対応できるようになっていた。
そのためには、多くの使用人と資材の蓄積が必要になる。計画された学院の会合ですらテレナの出身のエルンツィンガー伯爵領の予算からすれば悲鳴が出るような額なのである。たとえ体力のある王室であったとしても、その負担は小さくなかった。
「地方の教育機関とかに使うみたいな話も聞いたわよ、学院に進める子女は限られるから」
「遺児基金制度でしたっけ」
「そう。学院が始まった時に統合王国側の出資者が要請したものの一つね」
百年ほど前に学院が設立された時、様々な理念が各方面に向けて唱えられた。今の同君地域や冷海同盟に相当する地域に対しては統合王国語と統治に必要な技術を教える私塾としての側面があり、統合王国側からは戦争で父を喪った息子や娘の中でも優秀なもののための学び舎として出資が募られた。このような呼びかけに賛同した上流階級によって構成された運営理事会は、構成員や席の数を変えながらも存続している。
「あのあたり、詳しく知らないんですよね。今ではその枠の外の統合王国の学生の方が多いでしょう?」
「学年に五人ぐらいね、かなり厳しい選抜になるし、学力以上に家柄も重視される」
「困っている子女を救うというよりも、貴族家がなくなって困る王室による支援という側面が大きいと見ても?」
「当時の頃はそうだったらしいけど、今は……かなり複雑ね。その枠を使うとどうしても下に見られるなんてこともあるらしいし」
「面倒なことですね……」
「学院の入学者選びなんて面倒の塊よ、テレナさんみたいなわかりやすく勉学のできる子であったり、シェプルスキアさんみたいな明確な推薦があればまだしも」
「共和王冠国の王冠教育委員会議長、でしたっけ」
「ええ。学院とは少し方針の違う人だけどね」
王冠教育委員会は共和王冠国の議会に付随する数多の委員会の一つである。それぞれの委員会は王冠と議会にのみ忠誠を求められる独立性の高い専門機関であり、他国における大臣に相当するような役職であった。
「確か普遍教育主義者ですよね、覆いを外そうとしているという批判が学院卒業生からあるような」
「基盤を作るというのは大切よ、覆いで闇を維持しなければ光の意味がなくなると考える人達とはまた違ったものなの」
「……ヨルワ教授は、角灯主義ではない?」
テレナは、おそるおそるといった感じで口を開いた。
「角灯主義なんてものはないのよ、あるのは数多の意見だけ。敵からすればそれらは全部角灯主義になるかもしれないけど、共通点なんてものはない。互いに言い争っている二人の人物が、同時に角灯主義者だなんて呼ばれるのはよくある話でしょう?」
「そうかもしれませんけどね……」
「それに、角灯主義者が『戦争体系論』を読んでいるかというと話は別よ。角灯という動機は、原典から離れて使われている」
ここで言う動機というのは音楽用語だな、とテレナはあたりをつけていた。繰り返される要素であり、その曲の特徴を示すことも多い。角灯という言葉は初代学院長の述べた背景から切り離され、無知を照らす光という要素だけが持て囃されている。
「しかし、あの本はもはやかなり古いでしょう。当時の情勢で書かれたものですし、戦争のあり方も変わってしまった。貴族の兵と傭兵の時代は終りを迎えつつあります」
「そういう時代だからこそ、率いる人の存在が重要になってくるのでは?」
ヨルワ教授の言葉を聞きながら、少しだけ意識を取り戻したシェプルスキアはうつらうつらとしながら寄りかかっていたテレナから離れた。
「シェプ、寝るならちゃんと寝台に行ったほうがいいわよ」
「っ……ごめんなさ、いえ、申し訳ありませんヨルワ教授……」
瞬時に周囲を認識したシェプルスキアは、自分の醜態に気がついてヨルワ教授に頭を下げた。
「いいのよ、私だって本来は教授としてあるまじき様子だもの。教授室からは人払いをしてあるから、気を楽にしなさい」
「はい……」
そう言われたシェプルスキアであったが、やはり場を支配する力がこの人にはあるのだという警戒のために眠い目を無理に開けて身体を伸ばすように動かした。