「……テレナ?」
「今夜までに説明できるように全部頭に入れるから」
テレナは何冊もの貴族年鑑をめくりながら情報を頭の中に書き写すようにしつつ頁を捲る手を止めないでいた。
周辺の記事と知識を元に、その人物の枠組みを作る。本人の人となりについては最低限しかできないが、どのような振る舞いをすると予想されるかぐらいならテレナにも可能だった。
受けた栄典。一族の領地の変遷。役職の背景。一族の結婚相手の関係。学院の図書室は、そのような情報を膨大に蓄積していた。
「……こういうのを、ちゃんと誰かがまとめていればいいのに」
「毎年のように出る分厚い本に全部目を通して、その内容を一人づつ整理して、かつ同姓同名の人や誤字脱字すら超えて分類できる人がいたら、それだけで学院の教授にふさわしいわよ」
「そんな難しいんだ」
「それでもここは多少は楽よ、どんな本がどこにあるかの記録がきちんとあるから」
学院の図書室の書籍は、入れ替え可能な分野ごとの目録の形で保存されていた。容易に再製本ができるよう特殊な構造を持ち、装丁も簡素だが再利用可能なものになっていた。そうでない場所では、どこにどのような本があるのかを熟練した図書員が独自に記録することも多かった。
「そうなんだ……」
「理事議員の名簿は印刷室で見た時に覚えたけど、実際にこうやって見るとかなり重要なところにいる人ばかりね」
「そういう人って忙しくない?」
「ええ、普通ならこの時期には社交で忙しいはずね。とはいえ学院の理事という名義はかなり大きいのよ」
「そうなの?」
「献身を見せるだけで、北側世界全土の学院関係者を動かせるのよ。数十連隊にも匹敵するわ」
「……うん」
シェプルスキアは頷いた。シェプルスキアがどのように動いても動かせるのはたかだか数個連隊だが、テレナであればもっと動かせるだろうという確信があったからだ。
もちろん、それは指揮官として直接率いるわけではない。対立を別の要素で覆い隠し、渋る領主を説得するように別の弱みを持つ領主を動かし、連鎖的に大軍を作ることができるだろう、というのがシェプルスキアの見立てだった。
もちろん、そのようなことを問われればテレナは否定するだろう。そのような立場に立つこと自体が彼女の安全を脅かすものだし、たった一度の行動で信用という重要な資産を切り崩すことはまずないだろうというのがテレナの認識だった。
全てを賭けて手に入れなければならないものは、テレナにはない。一度の勝利で投じた額を取り戻せるような便利な遊戯は世界にはないのだ。ただ、それができるという事実は必要であればテレナは手札に使うだろうな、とシェプルスキアは考えていた。
「とはいえ、学院も今は立場が難しいからね……。どこも何かが変わりそうだと感じながらも何が変わるのかがわからなくて動けないのよ」
「ええと、リュクバーン枢要僧だっけ」
「あの人は聖座の中の改革者ね。学院の先というか、今の主流の角灯主義というか」
「ところでテレナ」
「なに」
「角灯主義ってなんなの?」
シェプルスキアに聞かれ、テレナは本を捲っていた手を止めた。
「何か、と言われると難しいわね。具体的な角灯主義者と呼ばれる人の名前は挙げられるし、ここ百年のそういう思想の流れみたいなものは軽くであれば説明できるけど……」
「あのさ、角灯ってあれだよね、明かりのやつ」
「ええ。松明とは違って覆いがついていて、光の届く方向を調整することができる」
「わかんないことを光で照らそうってやつでいいんだっけ」
「すごい雑に言えばそうね、雑だけど」
テレナは今の名簿調査の作業を頭の中で一旦止めて、シェプルスキアの質問に答えるべく思考を回した。
「……まずは原典を読ませたいけれども、それなりに分厚いし今となっては古いのよね」
「原典?」
「ヴェツァーの『戦争体系論』だけど、名前は聞いたことある?」
「ヴェツァーって人なら。肖像画が飾ってあるひとだよね」
「そう。あの髪の丸まったおじさん」
「おじさん」
シェプルスキアはテレナに頷いた。
「初代学院長の彼は、大宗派戦争において当時神聖連邦を構成していたいくつかの邦で働いた。その中で戦争とは表と裏、聖と俗、宮廷と戦場、男と女が全て関わるようなものだって論じた」
「……なるほど?」
「学院にも何冊かあるわよ、総権国語のやつがあるからシェプも読んでみたら?」
「ちょっとだけ話せるけど読むのできない……文字が変なやつだし……」
「聖語系のものとは異なるからね」
「一文字づつなら読めるけどさ。それで、どういう内容なの?」
「……内容が複雑なのよ、いわゆる角灯主義はその中にある角灯を掲げて民を導く先導者の姿を理念としていることが多いけど、あれは全体からすればほんの一節だし」
「聖典みたいだね」
「それ、私以外に言ったら大宗派戦争がもう一回起こるから注意してね」
「はい」
シェプルスキアは自分が口を滑らせたな、ということを自覚した。シェプルスキアにとって、宗教というのは文化の一つに過ぎない。一族のまじない、かつて大君侯国にいた時に定着した習慣、そして普遍派の強い共和王冠国の信仰。あるいはツィノドの地には聖座から見れば異端にもなりうる宗教があったが、シェプルスキアはそれを領主として黙認していた。
そのようなシェプルスキアにとって、聖典は文章を暗記し、必要に応じて取り出す本としての認識であった。それは他の本とそう違うものではなく、神聖として大切にする人がいるのは理解していたが逆に言えばその程度でしかなかった。
そのようなシェプルスキアにとってすれば聖語以外のものを認めようとしない一派や、内容を一言一句そのままに解釈して従おうとする抗議派の中の集団はよく理解できないものだった。
「……質問に答えること。あくまで学生として振る舞うこと。それぐらいの範囲であれば、大きな問題が起こることはないはず。向こうも多少変わった回答を求めているんだから、あまり気を使う必要はないわ」
「……テレナがそう言うなら、あたしは普通にやるよ」
「意味がわからなかったらちゃんと聞くのよ」
「大丈夫だって」
シェプルスキアが頷いたのを確認して、テレナは定例会合の参加者の情報を集める作業に戻った。