「ねえ」
集中したテアリアの脳裏には、筋のように
「ねえ、テアリア」
左下に動いた駒は定跡に沿って追い詰めることができる。その途中で自分の駒を一つずらすことができる。あとあと役に立つだろう。ただ、シェプルスキアのやり方にはたまにテアリアに馴染のないものが混じっていた。強い打ち方というわけではないが、どう対応すればいいのかは読みにくい。
「聞いてるの?」
「……ごめんなさい、忘れていました」
盤面の向かいのシェプルスキアの声に気がついたテアリアは、やっとそう言って相手を見た。怒りとか悔しさとかそういったものを一旦置いて集中するために、
「そこまで考えているの?」
「逆かもしれないわね。私、こういうときにぼんやりしちゃって」
「テレナもいつもぼんやりしているように見えて色々考えているから、そういうものかと思って」
そう言いながらシェプルスキアは駒を動かす。角灯の灯りが揺れる談話室にいるのは二人だけだ。
「テレナさんといえば、最近は試験前みたいになっていません?」
既に寝息を立てているであろうテレナは、最近疲れを見せていた。シェプルスキアはさらに図書室やヨルワ教授の部屋に彼女が行っていることを知っていたが、それを軽々と口外しないだけの理解があった。
「……テアリアさんの、色々だって」
「私の名前を使う、と言っていたものよね」
「うん。寝ないと頭が回らないから、そういうことをやる時はできるだけ早く横になるようにしているらしい」
「……具体的に、どういうことをやっているか聞いていい?」
「博物学者のリュクバーンって人に、シェプルスキアっていう東から来た統治者の代筆人として、テレナって学生が手紙をやり取りしているらしい」
「……そういうことに、なっているの?」
「そういうことに、なっているの」
もちろん、手紙を読みうる人物は誰もがそんなことはないと知っていた。テレナはあくまで冬の学院にいた時にたまたま話したことのある相手について学院の授業ではわからないところがあるから調べて欲しい、という内容のやり取りをしているのだが、そこで軽く触れられる学院の生活の話やリュクバーン枢要僧の助言には婚約破棄事件の始末のための計画が書かれていた。
「でもテレナさんって、そこまで議論できるだけの知識があるのですか?」
「共和王冠国みたいな地域における馬の品種改良とかのあたりで議論をしているらしい」
「ああ、それはシェプルスキアさんが戻ったらやろうとしているもの?」
「……の、一つかな。テレナが題材に使っただけで、それがどこまでうまくいくかはわからないし」
「それと手紙も安くはないでしょうし、時間もかからない?」
「聖座の配達人を走らせているんだって」
「……よくやるわね、あの人も」
テアリアが呆気に取られたのも無理はない。北側世界に大きな影響力をもたらす宗教組織が長年をかけて作り上げた配送制度を、なんと抗議派の成人もしていない少女が使っているのだ。
「そんなにすごいの?」
「カロネとかが知ったら殴ってもおかしくないわよ、あとあなたも一応は普遍派でしょう?」
「といっても別にお世話になっていたツィノドの教会の補僧さんは別に聖座に行ったこともない人だし……あたしにとっても聖座に馴染みがあるわけじゃないから」
「聖座も大変ね」
遠くの地の聖職者に思いを馳せ、テアリアは息を吐いた。
「テアリアさんも普遍派でしょ?」
「私は……そうね、うん。でも、正直なところあまり信じていないわ」
「そうなの?」
「あの女と同じものを信じたくはない、というのはあるのかも」
「ああ……」
婚約破棄事件の重要人物の一人、エネトは聖座枠の推薦によって学院に来た人物であり、しっかりと普遍派の教えを体現している人物であった。二人が噂で聞く限りでは真面目で静かな少女であったそうだし、あの半年と少し前の舞会でおきた事件以降にも変な噂が流れてくることはなかった。
婚約を破棄した相手と口づけをしただの夜の逢瀬をしただの、そういった話が一切流れてこなかった。とはいえかつての婚約者のファーネスタとの間にもそのような話はなかったために、異常であるとはみなされていなかった。
学院において、婚約破棄事件は旬の過ぎた話題であった。ただ、それは一晩経った熾火のように、まだ熱を持っていた。もし誰かが息を吹きかけ、小枝を足せば、十分燃え上がるだけの熱だ。
「ところでテアリアは、婚約破棄の話をどういう風に思っているの?」
シェプルスキアは、今でも正直なぜその事件が起きたのかを理解していなかった。テレナが注目していたのはその事件がどのように影響を与えるかであるし、事件の原因となるような人物には近寄れないような雰囲気ができていた。ただ、冬を超えて破棄が成立することが確定したために状況が変化していた。
「……聖座が仕組んだものだと、思います」
「その理由は?」
「……勘、というよりは強いですけど、私はエネトを信用できる人だとは思っていない」
「あたしはちゃんと見たことないけど、どういう人?」
「……静かで、そこに気が付かれないように座っている人。積極的に何かをすることもしていない。声をかけられても無視して、殴られても殴り返さないような」
「殴られても、ね……」
シェプルスキアは学院の学生たちの身体能力をだいたい把握していた。かつてファーネスタ閥と呼ばれていたような先輩たちの細い手首では、正しくやらなければ精神的な侮辱以上のことをするのは難しいだろうと考えていた。
ただ、それを乗り越えられるかどうかは難しい。シェプルスキアは耐える力がある方だと思っていたが、それでも名誉を傷つけられた時に攻撃をするのを耐えられていないと言われれば反論はできなかった。感情と異なる価値観を優先して行動することは、容易にできることではない。たとえそれが、戦場で経験を積んだ人物であっても。
「……私は、今となっては彼女たちといっしょにはなれないし、私もなりたくないけど」
「テアリアは、ちゃんと自分で進むべき道を選べる人だよ」
「そうだと、いいのですけれども」
そう言って、テアリアはシェプルスキアの打った手を見た。少なくなった駒は、テアリアが打ち間違えなければきちんと取りきれるような配置になっていた。