「ふぅ……」
椅子に体重をかけ、ヨルワ教授は短い休息を取っていた。懐かしくなりつつあるパステリアス伯爵領の屋敷の忙しさとはまた違ったものがここにはあった。そして、彼女は単に外交技巧を、あるいは芸術を教えるためだけに呼ばれたわけではない。
第三王子ルメン・デリロスの入学の数年前に、統合王国の社交界が推薦した人物。ヨルワ教授にとって、婚約破棄問題は自分の立場を危うくするものだった。とはいえ、もはや彼女は学院の教授だ。統合王国のほうから責任を取れと言われたところで、何もできないのだ。
扉を叩く音がした。その叩き方を知っている人は少なかったし、無遠慮にでも入ることが許されていた。
「テレナです、失礼します」
そう言って、目の下に隈のある少女が疲れたように入り、長椅子に倒れ込んだ。
「……テレナさん、様子はどうですか?」
「聖座派閥はなんとかなります。エネト嬢も、少なくとも均衡を破綻させない程度には手伝ってくれるそうで」
「ありがたいわね」
「ええ」
疲れていたのは二人だけではない。かつてファーネスタ閥と呼ばれていた女子たちの一人、あるいは第三王子の友人である人物、はたまた学院の聖堂の僧。学院内の均衡を保つために、何人かのぎ性が必要となっていた。
「手紙の写しはこちらに。毎回字が汚くてすみませんね」
テレナは取り繕うことをやめていた。学院の実利主義は別に儀礼を無視するべきと言っているわけではなかったが、意味のない儀礼を行わないことを咎めない程度には既存秩序に反抗的であった。
「悪筆は読み慣れたものよ、大丈夫」
そう言ってヨルワ教授は身体を起こし、素早く文章に目を通していった。
「フェルヴァジュ管区大監僧に将来的に第三王子をつけることを前提としつつ、エネトを聖座とフェルヴァジュ管区大監僧との連絡役に、そして今のファーネスタをフェルヴァジュ管区大監僧を誓願証人として修女にする。一方でリュクバーン枢要僧の保証でフェルヴァジュ管区大監僧の任命権を聖座に戻しつつ、その介入を減らす……相変わらず、無茶な計画ね」
「今の時点でこういう予想ですよ、というものを用意しておかないと止まることが許されない人たちが多いのは頭が痛いですが、止まれない彼らだって辛いのでしょう」
「フェルヴァジュ管区を事実上王室派と地方派で固めさせるかわりに、その管区大監僧の任命を含めて普遍派を政治から引き離す……本当に上手くいくのかしら」
「少なくとも外野がそれで動いているなら、我々は学院内の問題を止めるまでです」
冬の会合の結果を共有し、その後の細かな交渉を行い、三地域をまたいで多くの手紙が行き交った。短刀が振るわれた可能性すらある。ただ、それでもなお綱渡りな結論しか出すことはできていなかった。
「それで、テアリア嬢に何をさせるの?」
「この噂を流してもらいます。具体的な手法についてはシェプルスキアが指導をしますよ」
「大丈夫なの?」
「嘘を見抜くのは上手ですからね、あとはそれが何によってなされているかをきちんと彼女が言葉にすれば」
「……天才の解剖みたいなことをするのね」
「神に愛されるものしか弾けないとされた楽器でも、楽器自体の改良と練習方法の確立があればちょっとした才能でどうにかなるようになるのです。知恵の光とはそういうものですよ」
テレナはそう言って、ヨルワ教授の手から紙を回収した。あくまでこれたテレナが書いた個人的な覚書でしかなく、それは誰かに見られることなどなかったのだ。
「さて、方針は決まったので動きますか」
「その前にしっかり寝たほうがいいわよ、一日ぐらい体調不良でも許されないかしら」
「ああ、必要であれば少し病にかかるのも悪くないでしょうね。問題はシェプルスキアが看病をしないかと言い出さないことですが」
「あの子は体力がありすぎるから、多少の心配事でもさせておいたほうがいいわよ」
「それで助かるのは教授でしょう、学生を教えるのを怠らないでください」
「厳格な教師の仮面を使ったのは間違いだったかもしれないわね、小さな援助は意外性をもって受け止めてもらえるけど、大規模な怠惰は仮面を壊してしまう」
「仮面を壊すな、ですか」
「ええ」
ヨルワ教授も椅子から立ち上がり、肩をゆっくりと動かした。
「最近どこかで聞きましたね、この手の話」
「どこなの?」
「……ああ、思い出しました。ネア嬢を覚えていますか?」
「ええ」
「あの先輩が会合で言っていたんです。財政に対してどのような政策を取るにしても、一貫した態度でなければならないと」
「仮面を舞台の上で付け替えると、観客は夢から覚めてしまう、ということ?」
「概ねその通りだと思います。上流階級というのは、夢を守らねばならない仕事なのですから」
テレナは上流階級の人間がそれ以外の人たちと同じであることを知っていた。舞台の上の役者が観客と同じであるように。違いがあるとすれば、そこには仮面があるということだ。
賄賂や不徳であればまだ良い。上流階級の献身であってもいい。神に認められた努力によって封ぜられるのもある。ただ、それらはあくまで上流階級というのが存在するという舞台設定があってこそ成立するのだ。
ではもしそうならなかったら、とテレナは思考を回してしまうことができる。その脚本が止まり、観客が石を投げ始めたら。思い思いにそれぞれが勝手に舞台に上がり、好き勝手行動し始めたらどうなるか。そこに劇はなくなってしまう。
下手な役者はたしかにいる。しかし、多くの人はそこにいるために様々な努力を重ねているのだ。服を纏い、言葉を洗練させ、身振りをふさわしいものにする。そのための苦労は、彼らが上流階級というだけの理由で支払うことを強いられている。
「……考え事ですか、テレナ嬢」
「ええ、少し。学院派が学院派であることをやめたらどうなるのか、などと」
「……どういうこと?」
「持った力を責任なく振るう、とでも言いましょうか」
「恥ずべき態度ね、それは」
「恥というのも仮面ですよ、そして仮面を外してしまったら、彼らを縛る脚本に従わなくて良くなるのです」
まだテレナにはしっかりと言葉にすることはできていなかったが、計算の問題で式を間違えていたと気がつく前のような嫌な予感があった。