角灯の下で乙女らは学ぶ   作:小沼高希

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日常の学びは不穏を隠す 2

メルジュ少年に引率され、テレナとシェプルスキア、ネアの三人は歩いていた。

 

「ところで、なぜネア先輩はメルジュ君と?」

 

テレナは未だに不機嫌そうな顔をしているネアに声をかけた。ネアは自分が数学が得意だとは思っていなかったし、知っている知識も教養の範疇であると考えていた。それなのにただティツン商会と繋がりがあるからという理由だけで、ゆったりとした夕食の時間を邪魔されたとネアは考えていた。

 

「前に冬の学院でちょっと数学系の会合があったでしょう?」

 

テレナは頷いた。主に経済分野の専門家を各地から集めて行ったヨルワ教授主催のものだったが、もちろんそれ以外の数学分野についての議論も広範に行われた。

 

「あれで来たティツン商会の一人が、メルジュの話をガルドー教授にしたのよ」

 

「それでガルドー教授が興味を持ったと?」

 

「そんなところね。基本的にあの人が外と繋がるのはたまに手紙のやり取りをする程度だから、珍しいことと言えばそうなのだけど」

 

「……ところで、いいですか?」

 

テレナとネアの会話を、シェプルスキアが遮った。

 

「なに、シェプ」

 

振り返りつつ、テレナが言う。

 

「ガルドー教授って、どういう人なの?」

 

「すごい人なんですよ!」

 

嬉しそうにメルジュが言う一方で、テレナとネアは難しい表情を浮かべた。

 

「仮想数学、と呼ばれる分野の第一人者……というか、彼以外に仮想数学をまともに扱っている人がいない、というべきか」

 

「仮想?」

 

テレナの言葉に、シェプルスキアは首を傾けた。

 

「例えば、ここに四人が歩いている。そこで五人が去ったら、残るのは何人?」

 

「……数の問題だよね?」

 

「ええ、そうよ」

 

シェプルスキアは混乱しながらも、首を振った。当然の話だ。四から五を引くことはできない。ありえない計算でなにか答えが出たとしても、そこに意味はない。

 

「いいえ、負の一です」

 

「帳簿上ならそういう数は意味があるわ。借金、あるいは負債として」

 

メルジュの言葉に、ネアが補足した。このようなものを数と呼ぶのであるとしたら、その数の取扱いは商業の分野では長らく行われてきたものだった。しかし、そのような手法はあくまで便宜上の、あるいは誤った計算を実用上無理に採用していると数学者からみなされることも多かった。

 

「ああ、なるほど。……でも、人数には使えない、よね?」

 

「そう。だから仮想数学なんて呼ばれている。数をただ紙の上の文字として扱うもの。……言うなれば、陣棋(シャセ)に近いわね」

 

テレナはシェプルスキアに言った。

 

「戦争と兵じゃなくて、盤面と駒と見るように?」

 

「まさにその通り。実用性は皆無、ただの遊戯に過ぎないなんて意見もあるわ」

 

テレナがシェプルスキアにそう返すと、メルジュが不満そうに足を止めた。

 

「僕はそうは思いません」

 

「ええ。あくまでそう言う人もいる、という説明になるわ。ただ、そのあたりをきちんと説明しておかないとこの東方から来た領主様は面倒よ?」

 

テレナはシェプルスキアのほうに視線を向けながら言った。

 

「面倒、ですか?」

 

「その計算が具体的に何を意味しているのか、実用的な場面は作れるのか、なんて延々と聞いてくるのよ。それが嫌だから、あくまで仮想のものとして始めていると言っているの」

 

「……なら、いいです。そういう使う人がいるのは、わかります」

 

そう言ってメルジュは歩き出したが、やはり不機嫌だった。

 

「……謝るよ、メルジュ……なんて呼べば?」

 

言葉の表現がわからず、シェプルスキアはテレナの方を見た。

 

「統合王国語で、年下の少年となると君とかそのあたりね」

 

「……メルジュ君、ごめんなさい」

 

「いや別に……師匠も別に気にしないと思うし」

 

素直に謝られた経験が少ないのか、メルジュはシェプルスキアの行動に対してわずかに怯えと不安が混じった感情を持っていた。確かに一般的な貴族というものは謝罪を弱みと見なす傾向が強い。ただ、シェプルスキアほど堂々としていれば、逆にそれは自らの過ちを認める美徳にすらなりうるのだ。

 

「……師匠、お客さんです」

 

扉をメルジュは乱暴に叩き、少し待ってから開けた。明らかに中の人が反応しないだろうと考えている行動だ。

 

「うわぁ……」

 

部屋の中を見て、シェプルスキアはうめいた。ヨルワ教授の部屋とは違って、内装は雑然としていた。机の上と床に紙が散らばり、棚には本が乱雑に積み上げられ、コップと食べかけの何かが乗った皿が雑に置かれていた。

 

「床にある紙は踏んでもいいですが、あまり場所を動かさないようにしてください」

 

「私がものを考える時みたいね」

 

散らばった紙を見ながらテレナは言った。文字は読める程度のものだったが、書かれている数式が何を意味しているかは全くわからなかった。式変形がされているのはわかる。この種の数学記号の意味はわからなくはないが、実際の計算ができるかは別だ。

 

「ねえ、これって何を意味しているの?」

 

シェプルスキアは、机の上にあった図を見てメルジュに聞いた。

 

「彗星の軌道です」

 

「へぇ」

 

「力学の問題を数学の手法にしているんです。それで師匠はあの『天上と地上の運動の統一的諸原理』を書き直しました」

 

「正式名称は『自然に対する数学を用いた哲学的思索を通した万物の運動、すなわち抵抗のない天上および抵抗のある地上の運動、そしてその背景にある統一的諸原理について』。シェプは読まなくてもいいわよ」

 

テレナはその長い本の題名を一度も噛まずに言い切った。大宗派戦争時代に戦火を逃れ冷海の北側へと避難した数学者がわずか一年で書き上げたという大著だ。そしてその評価は数学と天文学で高いのに対して、具体的にその本を読破したことは少ないことでも知られていた。

 

なにせ内容が難解すぎるのである。今ではこの部屋の主であるガルドーによって数学的に書き表す方法が定着した様々な法則や現象は、より難解な幾何学と哲学的な言葉によって覆い隠されていた。発売当時に聖座がこの裏に隠された異端的信仰がないかどうかを枢要僧に確認させ、彼が難解さに発狂死した、あるいは解読できない己を恥じて自害した、という噂もある。

 

なお、この実態は純粋にその枢要僧が老齢だったからというのが一般的な意見である。そして解読は彼ではなくその弟子によって行われ、その解説書がかなり広く受け入れられたという話がある。

 

「ああ、課題の答えでも聞きに来たか?自分で考えろ、頭脳は使わなければ衰える一方だ」

 

そう言って長椅子から起き上がったのは、恰幅のいい男性だった。

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