テレナはその男の噂を知っていた。北側世界稀代の数学者。由緒正しい天体軌道予測の系譜にある人物だ。北側世界を転々とし、一時期は総権国の海軍に雇われた時期もある。当時彼が導出した潮汐の影響についての分析手法は、今では広く用いられる海事表にも採用されている。
シェプルスキアは目の前の相手が傲慢で不遜に見えるが、それが許されるだけの実力があると判断した。彼には派手な飾りも下げた剣もない。しかし彼を侮るものを、彼は許さないだろう。その神経質さは一つのことを追い求める探究者に相応しいものだと考えたが、シェプルスキアの知る人間関係の中では彼のような人物が評価されることはあまりなかった。
「あー、ネア嬢。そちらの二人はシェプルスキア嬢とテレナ嬢だな。第一学年の」
ガルドーは一人一人を指しながら言った。もちろん、面識がないはずのシェプルスキアとテレナはわずかに驚いた。
「師匠、しょうもないことをして客人を驚かすのはやめてください」
「驚かすとは何だ、彼らは入学式の時に名乗っていた。それを聞く機会がこちらにはあった。紹介はそれで済んでいるだろう。社交界の流儀とは違うと言いたいのか?」
彼は多くの地を渡り歩いてきた。そして彼はただ敬意を払うべき知性を持つ人にのみ頭を下げてきた。もちろん、それが社交界において危ない事態を招いたことは幾度かある。しかし彼のその自信と数学界への貢献は、せいぜい彼を免職させるさせる程度で済んでいた。そして彼の師の世代にも弟子の世代にも、彼を評価し、自身の元へ招こうとする人たちがいた。
「……それでメルジュ君、ガルドー教授と私を引き合わせて何をしたいのかね?」
ネアは呆れたように、しかし教授の前での丁寧さを保って言った。少なくとも、最初ぐらいはそのような形を取るのが礼儀である。
「とすると、後ろの第一学年の二人は付き添いか」
ガルドー教授は二手先を読むように言った。
「私の後輩らしく、いろいろなことに首を突っ込んでいるの。最近も学院で起きた問題の始末に追われていたらしいし」
口を挟む間合いが読めずあたふたするメルジュを見て、テレナは息を吐いた。とはいえこの種の微妙な間合いを読んで突撃することにはある種の感覚が必要になるし、生まれつきそのような才覚に恵まれることは稀だ。結局は経験を積まねばならない。
「あらゆる繊維と織物を支配しようとする商会の娘の弟子らしいな」
「私はあまり教えていないわ、彼らが暴走しないように忠告することの方が多いぐらいよ」
ネアと話すガルドーは、最近やらかしがちな弟子のメルジュがまた変なものを持ってきたのではないかと訝しんだ。ティツン商会は数学界に多大なる貢献をもたらしてきた。資金の提供である。どれだけ素晴らしい数学的発見も、それが評価されるためには出版が必要だ。ティツン商会はしばしば後援者として出版費用の肩代わりをする事があった。
かつてのガルドーも、その恩恵を受けた一人である。そのような投資を行って成功させるティツン商会にガルドーは敬意を払っていたし、その総経理の娘についても多少は気にかけていた。
ただ、ネアには数学者となりうる才覚はなかった。もちろん、その頭脳は明晰である。ガルドーの新しい論文であれ、半日の講義があればそのあらましを理解できるだろう。ただ、自分から何かを作り出せるほどではなかった。あくまで彼女にとって、数学は受動的な教養でしかなかった。
「……先生が前に悩んでいた問題を、テレナさんに相談してはと思って」
「ああ、あれは純粋に技術的問題だろう。数学者の範疇ではない」
「どういう問題か、お伺いしても?」
テレナの質問に、ガルドーは机の上から紙を一枚引き抜いて渡した。
「……沸騰機関、ですか」
テレナはそれを見て、すぐにそれが機構の設計図面であると理解した。
「改良ができないか、と言われていてな。これでもいくつかの学術協会には借りがあってな、多少はまともに取り組もうとしたのだが」
図面のそばにあった式をテレナは見たが、それが何を意味するかはほとんどわからなかった。力学の一種のように見える。流体だろうか。
「メルジュ君、説明してあげたまえ」
「僕がですか?」
「物を書かない数学者に意味はない。いかなる素晴らしい思考があれども、それが実用されなければ数学者など哲学者や神学者よろしく、権威にしがみつかねば生きていけなくなる。だからせめて、誰かが有用な使い道を見つけ出せるようにと言い訳ができる程度には言葉を学んでおけ」
「わかりましたよ……」
そう言ってメルジュはぶつぶつと紙を見て唱えていた。
「ええと、これは中に入っている蒸気がどのように機械を動かすかを書いています。冷却時の圧力と熱の関係が問題なんですよね」
メルジュの説明を聞き、ガルドーは難しそうな顔で一応頷いた。
「熱を運動と見なすと、膨大な量の計算が必要になる。それを整理するための級数解析を行いたいのだが、具体的に熱がどのように蒸気に作用するのかがわからなければ実際には機能しない。そしてなお悪いことに、密封でどれほど抜けるかも計測できないと来た」
「運動と見なさないのは?」
ネアが言った。
「相互作用をどう表現するかだ。物質としての熱は物質の隙間に浸透する以上、逆二乗則を成り立たせる余地がなくなる。結局、これは技師の問題だ。おおかたメルジュのやつはティツン商会のあたりの技師と繋げようとしたのだろう?」
「ああ、私じゃなくて商会の話をしたのね」
「ネアさんは商会でも期待されているって聞いたんですよ!」
「……いい、メルジュ君」
ネアは、声を交渉時の商人のものに切り替えた。彼女の知る最も頑強で、面倒で、そして理詰めをしていく商人のものだった。彼女の義理の祖父、先代のティツン商会総経理である。
「私の立場は、君と同じだ。ただの平民に過ぎない。その血に名誉が流れているわけでもない。だからこそ、あらゆる行動に貴族以上の責任が伴うのだ。ここにいる以上、君も同じ振る舞いをする必要がある。ガルドー教授ほどの力がないのであれば、更にだ」
「……はい」
詰められてしゅんとなったメルジュからネアは視線をガルドーに向けたが、ガルドーは静かに頷いただけだった。