「……修正が必要な場所には書き込んでおいた。下線が引いてあるところはかなり違和感がある。それ以外は最悪直さなくてもいい」
そう言ってテレナはシェプルスキアに紙を渡し、寮の談話室の長椅子へと倒れ込んだ。
「……ありがとう」
「少しだけ目を閉じるから、読み終わったら起こして」
テレナの呼吸はすぐに穏やかなものになった。
「シェプルスキアさん、今日も……って、課題?」
談話室に入ってきたテアリアはシェプルスキアの手の中にあるものを見て言った。
「うん。テレナに見てもらった」
「……そう」
テアリアはシェプルスキアの友人のつもりであった。同時に自分の筆力がテレナに劣る事も知っていた。
呼吸をする。相手が強い手を打ってきた時に頭を冷ますような方法で。そうしてから、手を考えていく。言葉にするようなものではなく、
「……テアリア?」
「何でもないわ。見せてもらってもいいかしら?」
「……いいよ」
テレナがなにか言わないかな、と思ったが寝ているところを起こしたほうがよっぽど色々なことを言われそうだと判断したシェプルスキアは、隣にテアリアが座る場所を作るべく少しだけ動いた。
「それにしても、シェプルスキアさんは本当に文章が上手になりましたね」
「そうかな、こんなに修正されているけど」
「修正されるということは、方向性がちゃんとあるということですよ。何もわからずに打った手は、悪手とは言いませんの」
「どういうこと?」
「もし動かす駒と動かす向きを賽で決めたら、そこには相手の意図も遊戯としての面白さもないでしょう?」
「……つまり、あたしが打てているのはなんとなくそれっぽい手だってこと?」
「少なくとも遊戯の規則を理解している、ということですのよ。三つの打てる手があったら一つは悪手。一つは善手だと祖母が言っていましたわ」
「もう一つは?」
「慣手。よくある打ち方で、最善ではないものの悪くはないもの。そして別に悪手だって、三つの中で最も悪いというだけ。もっと悪いものもあるのよ」
「そういうものかな……」
「ええ。……というより、この言い回しとかどこで学んだの?」
テアリアはシェプルスキアの書いた文章の一節を指した。どこかで聞いたような言い回しだが思い出せないところからすると、あまり有名でない古典からの引用だろうか、と考えてのことだった。
「ああ、それは前にテレナに読んでもらったことがあって」
「読んでもらった?」
「大支配地時代の包囲戦の話。作者は忘れた」
「あのねぇ……」
テアリアはため息を吐いた。
「最近は元の文章で直接読んでもらっても多少は分かるようになった」
「……聖語で?」
「うん。一文一文を頭の中で繋げるのが難しかったけど、慣れてしまえば好きな順番で強調したいところから言えて面白いよね」
聖語は多くの活用を持った言語であるが、その使われた時代と地域、そして階層の多様性ゆえに比較的単純な構造をしていた。細かい文法的要素があり、今なお変化を続ける統合王国語に比べれば確かに学ぶのは簡単かもしれない。
「どうやって学んだの?」
「一冊を何回か読んでもらった。一回目は聖語そのまま、二回目は翻訳と解説をお願いして、三回目はもう一度そのまま」
「そんなので聖語がわかるようになったら誰も古典の授業で散々な結果にならないわよ」
そう言うテアリアに、シェプルスキアは不思議そうな顔をした。
「……二人ともかなり異常側の人間だったわね」
「テアリアさんもそうだと思うよ?」
「どこがよ」
「あたしは、誰か一人のために危険なことをするような勇気はない」
テアリアは、それがシェプルスキアの地位ゆえでもあることを理解していた。テアリアはまだ社交界入りもしていない少女である。政治的に力を持つ家柄なわけでもない。ファーネスタを慕うという立場ですら、自分で手に入れたものではなかった。
シェプルスキアは違う。彼女は父がいた時から草原を駆けていた。名誉のために手段を尽くした。そして、その結果得られたものを責任を持って受け取った。一緒に過ごして、
「……それは、シェプルスキアさんが多くのものを抱えているから。貧しいものは全てを差し出せるけど、富めるものは一部しか出せないこともある」
「聖典か何か?」
「ええ。後でテレナさんに聞いたら教えてもらえると思うわ」
もちろん、もとの話での意味は逆だった。たとえ僅かな額の硬貨に過ぎなくとも、その人にとっては全財産なのであれば、それは主に憐れまれるに足るものだと。そう、テアリアは憐れまれたくはなかった。
持つものが傲慢であってほしかった。力を気ままに使い、その責任など考えることもなく、それこそが強さだと言わんばかりにしてほしかった。いや、そう考えなければファーネスタに耐えられなかったのだ、とテアリアは気がついた。
「……ファーネスタ様は、変わってしまいました」
「どういうこと?」
「自分の失敗だと、言っていました。前ならその責任を私達に押し付けていたのに。そのために私達がいたのに」
「……うん」
シェプルスキアは、そう語るテアリアにかけるべき言葉を知らなかった。下手な同情の言葉を投げかけたところで、彼女が慕う人が失ったものが取り返されるわけでもない。むしろ、自分はファーネスタから奪った側であることをシェプルスキアは知っていた。
シェプルスキアの向かいで寝息を立てる少女は、学院における役者の一人だ。婚約破棄の問題の波及を最小限にするために動き回り、そして誰にも褒められることなく統合王国の崩壊を防いだのかもしれない。あるいは、本来であればすぐに消えるはずだった火に余計なことをしたのかもしれない。
そして、シェプルスキアは自分の名前をテレナが枢要僧のリュクバーンと手紙をやり取りする際に貸していた。もちろん、誰もシェプルスキアが実際に手紙の内容に関わったとは思ってないだろう。
ただ、それでも名前に意味があることをシェプルスキアは知っていた。王がたとえ一文字も書かなくとも、その指輪の印章によって証された文書は王の声となる。もちろんそのような時代は既に終りを迎えており、文書一つであっても多くの手続きと官僚、そして法がその正当性を担保するようになっていたが、今なお領主にとって、あるいは貴族にとって名前というのは貸した側が責任を持たねばならないものだった。