明るい壁紙といくつかの調度品、そして部屋に漂う茶の香りのおかげで、ヨルワ教授の部屋は相手を落ち着かせるような空間となっていた。ただ、シェプルスキアにとってここは訓練場のような警戒を途切れさせることができない場所であった。
シェプルスキアの父であるアズドは、傭兵団の団長としての仕事の傍らシェプルスキアに稽古をつけるほど、娘を大切に想う人物であった。ただ、その想い方は草の上で木刀を持った幼いシェプルスキアを籠手をつけた両手だけであしらうようなものであった。
あの時の微笑む父のような、静かで、しかし格の異なる相手に対しての敬意と懐かしさを感じさせるような、そういった微妙な空気をシェプルスキアは眼の前の相手から感じていた。長椅子に座り、淹れたての茶を学生に出すヨルワ教授は、朝の食堂で見せた厳格な雰囲気とは変わり、人の良さそうな中年女性としての表情を浮かべていた。
「ほらシェプルスキアさん、気を楽にしなさいな」
「はい」
「そういうふうにしていると、相手も怯えてしまうのよ?」
ヨルワ教授の言葉は、シェプルスキアにとっては篭手で殴られるようなものだった。指導のための手加減をされていることは明確だった。シェプルスキアはゆっくりと息を吐いてできるだけ身体の力を抜こうとしながら、心の痛みをこらえていた。
「押しかけてすみませんヨルワ教授、あとこれは食堂から持ってきた焼き菓子です。お茶に合えばと」
そう言って第二学年であるネアは小さな紙で作った箱を開けた。
「まぁ。新作かしら」
茶の匂いに合うような香ばしい香りに、ヨルワ教授は嬉しそうに言った。食堂の料理人の仕事は単純に学院の学生や教職員の腹を満たすための食事を作ることのみではない。学院を訪れる上流階級の人々を満足させるだけの味わいと技法を持ち、各地の料理の習得と鍛錬を欠かさない人物でなければならなかった。
午後の授業が終わり、日が暮れるまでの間に食堂には良い匂いが立ち込める。若い料理人の修行であったり、量は少ないが菓子類などを作ることで研究を行う料理人たちの試作品はその評価と引き換えに希望する学生や教職員に渡されることがある。
そうして、四人での茶会が始まった。シェプルスキアには会話の内容はとりとめのないものに思えた。最近の冷たい風と霧。今年の村落での葡萄の収穫。あるいはヨルワ教授の宮廷社交界での思い出話。
ただ、明確に避けられている話題があることはシェプルスキアにも理解できた。婚約破棄にまつわる騒動については、三人とも言及していないのだ。
楽しそうに声を出して笑うヨルワ教授が、好奇心の籠もった目で驚く表情を浮かべるネアが、そして真面目そうに頷くテレナが、それぞれ交わしている会話の水準はシェプルスキアの理解を超えていることだけは彼女にも理解できた。
「ああ、便りと言えば教授に確認を願いたいことがありまして」
「なぁに、テレナさん」
あくまでちょっとした会話、という流れの中でテレナは折った紙を取り出した。
「少し私の書いたものを見てほしいのです。父にいつものように送っているのですが、やはり実際に詳しい人が見ると礼式に則っていないところがあるかもしれないので」
「そんな、お父様への手紙なら正しさよりも愛情よ。娘からの手紙を頼りに仕事に励む父親なんていっぱいいるのよ?」
「そうかもしれませんね。父は寂しがり屋ですから、もし手紙が途絶えるようなことがあれば娘の身に何かがあったのか、と小さな噂や誤解になってしまいそうです」
シェプルスキアは、テレナの言い回しに覚えがあった。朝の食堂でヨルワ教授が語っていたものと同じだ、と気がついたシェプルスキアは二人の会話と表情に注目した。
「それは大変。しかし、お父様も学院の規則はご存知でしょう?送れない時もある、と」
そう言いながら、ヨルワ教授は手紙に素早く目を通していた。
「……大きな問題はなさそうね、ただ、いくつか単語を変えたほうがいいかもしれないところがある」
テレナが読みやすい向きにしたうえで机の上に置かれた手紙の語を指してなぜこの単語を使用したのか、と問うヨルワ教授に対するテレナの答え方は、シェプルスキアの微妙な勘に引っかかるものだった。
「なるほど、たしかに少し古めかしい言い回しかもしれませんね」
「そう。テレナさんの故郷はどこでしたっけ。同君地域のほうにあるのは覚えているのですが」
「そこの南の方です。エルンツィンガー伯爵領と言っておわかりでしょうか」
「ええ、あそこね!行ったことはないけど、友人がいいところだと言っていたわ」
「父に伝えておきます。喜ぶでしょう」
「そのあたりの言い回しなのかもしれないけど、やはり統合王国語で書くなら今風にしたほうがいいわね。学院で学んでいることを活かす練習にもなるし」
二人の会話は、シェプルスキアからすると剣で押し合うような戦いに思えた。ただ、どちらが洗練されているか断定することはできなかった。達人同士の稽古は、しばしば初心者にはわからないような一見単調なものに見えてしまう。逆に言えば、単調に見えるやり取りの裏に自分の理解を超えた技があることは珍しくないとシェプルスキアは知っていた。
「そこを直せば、私から手紙の確認の人には通していいと伝えておくわ」
「ご指導をいただき、ありがとうございます」
笑顔で感謝を示すテレナであったが、シェプルスキアはその腿の上で拳が強く握り込まれていることに気がついていた。
「シェプルスキアさん、いいかしら?」
「っ、なんでしょうか」
二人の観察に気を配っていたシェプルスキアは、ヨルワ教授への返答が一瞬だけ遅れた。
「友達の会話を見て学ぶというのはとても大事だけど、見られているって思うとどうしても会話ははずまないわ。だから、口元のあたりを少しだけ視線を動かしながら見るの。そうするといいわよ」
そう言ったヨルワ教授の顔の下半分を転々とするように、シェプルスキアは見る場所を動かした。
「そうね、もう少しゆっくりでもいいかも。おしゃべりはみんなが楽しくなるようにするのよ?」
「……ありがとうございます、勉強します」
「さっきよりもいいわね、緊張が取れている」
微笑んでいるヨルワ教授の恐ろしさを、シェプルスキアは良く理解していた。先程までテレナと気さくに話すようにしながら向けられている視線や目の動きをシェプルスキアに気取られることなく流し見のような形で確認し、そして具体的な指導までできる。明確な力量の差がなければできない芸当であった。