寝台の上で、テレナは寝返りをうった。涼しい学院のある地方でも、夏は寝苦しくなる。扉の近くにある水差しから飲むか、と思ったが身体と頭の重さがそれを拒む。
「……動いている、よね」
薄い亜麻布の下の身体には、うっすらと汗がある。目を閉じて、昔言われたことを思い出す。暗闇の中で動くことに慣れておけ、というかつての家庭教師の話。おかげでテレナは音の反響である程度周囲の様子がわかるようになっていた。もちろん、シェプルスキアのように音とかすかな光だけで夜間狙撃が可能というほどではないが。
心臓が鳴っている。脇の下の湿った皮膚は、滑りが良くなるほど汗が滴っているわけではない。耳の周りの血管の中には、きっと赤い血が流れている。切られればそこから勢いよく吹き出して、身体の維持ができなくなるような、そんなものが薄皮一枚の下でテレナの命を繋いでいる。
テレナは最低限の医学の知識がある。人間がどれだけ簡単に殺せるかも知っている。だから、もし学院に武力が向けられれば、自分が死にうる可能性も理解している。
「……気が滅入っているな」
目を開け、呆れたように口にする。思考を切り替える。上体を起こす。
窓の外の僅かな明かりが、暗闇に慣れた目でもかろうじて見える程度に部屋の中を照らす。他の五人は静かに寝息を立てていた。
学院は間違いなく備えていた。休日にシェプルスキアと散策した学院内は、やはりきちんとした整備が始まっていた。欠けていた石壁が積み直され、穴が塞がれ、腐っていた板が新しくされていた。どれも、普段の学院の活動には関係ないものだ。
それは、今日や明日のための備えではない。もっと長い期間、しかし実際に手を動かさねばならないぐらいの近さと脅威のもとにそれはある。
「……何を、考えている?」
テレナには、学院の内部の動きが読めなかった。絵を近くで見すぎている、と言ってもいい。もし名画と呼ばれているものでも、鼻がつくぐらいの近さで見ればそこにあるのは濁った色の凹凸だけだ。しかし一歩引けば、それが何かわかるようになる。
例えば本は、そういう一歩引いた視点を提供してくれた。誰かが現実の複雑な問題を整理し、わかりやすいように分類してくれている。地上の動物を類縁関係で結んでいくようなものだ。そうすれば、好きな大きさと細かさで観察をすることができる。
では、学院はどうだろうか。その中には明確な派閥は存在しない。意思決定を伝えなければならない相手もいない。数人が狭い部屋で会話をすれば、しばらくの方針を決めることができる。
大きな組織では、そうはいかない。統合王国では翌年の軍事予算を決めるために、大勢の人が動く。大臣が将軍と会議を重ね、官僚たちが飛び回り、商人が取引を求めてくる。だからこそ、彼らは役割を演じなければならない。
吝嗇な大臣を、名誉を重視する将軍を、規則にうるさい官僚を、策略を持つ商人を彼らは演じる。それは、性格というものを無視するためだ。
「仮想数学みたいな考え方は、こういう時に有用なのかもね」
呟くが、だれも応えはしない。孤独な中で、テレナは思考を回していく。今更になって学院が警戒をするのは不思議なことだ。もっと早くてもいいし、遅くてもいい。今である理由があるのだろうか。
おそらくないのだろう、と合理的なテレナの思考が告げる。たまたま今だったのだ。星の巡り合わせというやつだ。
なにかがある、とテレナの中の言語化できないものが告げる。誰かが危惧をしている。その情報を持っている、と。
学院が防衛をしなければならない可能性を、テレナは考えていく。少なくとも統合王国が関与しないわけがない。国境付近の要塞を取られるということは、統合王国にとっての危険に他ならない。もしそれに対応できないほどの混乱であれば、北側世界の均衡が崩れていることを意味する。
つまり、そこまでの事態が起こると考えている教授がいるのだ。あるいは、複数の教授が独立にその気配を感じていて、総合的にそこまでの事態に対応するための準備が始まっているのだ。
もちろん、歴史を見れば変化自体は珍しいものではない。ここ百年の均衡は例外的と言ってもいいだろう。そしてここ百年も決して安定しているわけではなかった。大規模な勢力の衝突がないだけで、戦火は決して非日常ではない。
ただ、学院のある場所が巻き込まれることは今までなかった。それが終わりうる。その場合、自分の今まで積み上げてきたものにどれだけ価値が残るだろうか。
テレナは、シェプルスキアのことを考えていた。彼女は全く異なる文化に触れて、それを吸収し、自分のものとした。あと数年あれば、学院を卒業する頃には、彼女は一流の淑女になっているだろう。社交界で東方からの部外者と言う立場も、あるいは学院卒業生としての立場も使いこなすような。
そして、それはかつての傭兵団団長としての腕を覆い隠すものではない。必要であれば彼女は銃を持ち、旗を振るい、馬を率いていくだろう。そしてその能力は、おそらく学院が存在しない事態になっても有用になる。銃の圧倒的発展でもない限り、馬の機動力は戦場において脅威となりうる。
一方で、自分はどうだろうかとテレナは考える。自らの立場は伯爵令嬢という生まれあってのものだ。ネアのように商業の経験はない。学問でやっていけるほどの知識や才能があるわけでもないだろう。テレナの技能は、貴族として生きることを前提として選択されている。
では、貴族がなくなれば。そのような例はないわけではない。古いが、例はある。都市国家における投票。聖座の代表者の選挙。珍しい例ではあるが、女性を含めて票を投じることができた例もある。そのとき、貴族制度はなくても良くなる。
これは君主を持たない共和制とはまた異なる。民主制。未だ紙上の議論のみに存在する概念。もちろん、多くの論者はこれと貴族制度の廃止を同時に扱うことはない。意思決定への市民の参与、あるいは宗教に頼らない権威の源泉としての提案に過ぎない。
ただ、とテレナの思考は恐ろしい方向に進む。そのような時、まともな国家を維持できるのだろうか。貴族はその血と名誉、そして地位によって役職に縛り付けられた存在だ。もしその鎖がなければ、だれがそのような処刑台に上がろうというのだろうか?