「ええと、一昨年って言っていたよな……」
テレナは図書室の積まれた紙の束から、学術協会の出版物を探していた。気体に関する研究が行われているという噂を聞いていたが、実際にどのようなものが書かれているかテレナは読んだことがなかった。
「こちらではありませんか、テレナさん」
柔らかい声がした方を向くと、そこにはテレナが何度か顔を合わせた人物がいた。聖座からの推薦による学生にして修女でもあるエネトである。
「ああ、たぶんそれです。……どうですか、おじさまの授業は」
テレナはエネトから差し出された冊子を受け取りながら言った。
「あなたがあの人のことをそう呼んでいるって噂は聞いたわよ、やめときなさい」
「恐ろしい、私の知り合いが悔悛にでも来たのですかね」
「抗議派がどうかは知りませんが、悔悛は主僧以上にしか許されないのよ。私のような修女ではとても」
「ああ、それは申し訳ありません。不勉強でした」
やらかしたな、とテレナは考えていた。この種の軽いやり取りにおいて、不勉強はかなり不利になる。わかった上でやっているわけではないのだなと思われては、やり取りが上流の諧謔ではなく下流の悪口に変わってしまう。
聖座は明確な階層構造を持つ組織だ。それを否定した抗議派においては罪を告白する悔悛は特別でも、あるいは誰かにのみ許されたものでもない。しかし普遍派において、それは主の弟子たちの後継者のみが許された、神聖なものであった。もちろん、それゆえに秘密を守ることは神聖な義務となっていた。
「……おじさまは忙しいようで、あまり話すこともできないそうなの」
「学生が講義期間中に保護者と接触しては学院という場所の意味が薄れてしまう、ということでしょう。難しいものです」
「ねえ、あなたなら彼と会えない?」
「……いくらでも手はあるでしょう。夜に抜け出すなりすればいい」
「ふふ、それはさすがに寮監も厳しいわよ。仲睦まじい婚約者たちや、将来的に契りを交わすような二人でもない限り、夜の会合にはうるさいの」
「そういうものですか」
「あなたも、もう少し上の学年になったらわかるわよ」
「……ええ」
二戦二敗。今日は調子が悪い、とテレナは息を吐く。とはいえ別にここで負けることで失うものがあるわけではない。所詮は遊戯に過ぎないし、図書室でたまたまであった学生二人が話しているだけなのだ。
「それで、おじさまに詳しく聞きたいこととかあったりしない?」
「エネト先輩がその冊子を持っている時点で、私にあまり選択肢はないんですよね」
素直にテレナは諦めることにした。授業終わりにリュクバーンに聞いた学術協会の出版物を、自分より早く探して見つけているのだ。つまり、何らかのやり取りのための手段があることになる。それが隠されて渡されている手紙か、あるいは聖座に繋がりのある家の学生への依頼かはともかくとして、だが。
それなのに、エネトは直接リュクバーンに会おうとしている。それも、あくまで間接的に。テレナという第一学年の学生と話しているところでたまたまリュクバーンの講師室に招かれるようにすればいい、ということだろう。学院の教授たちであっても、後輩といっしょに歩いているエネトを止めるのは少し難しくなる。
公的には、エネトを始めとする婚約破棄事件の関係者は拘束はおろか軟禁もされていない、ということになっていた。もちろん、彼らは慎ましやかにするべき時を知っていた。あるいは、彼らにそのような依頼をするだけの力が学院の教授陣にはあった。
「……あなたにとっても、悪い話ではないと思うわよ。テレナさん」
「私は積極的に関与したいわけではないのですよ、勘違いされがちですが」
「あら、自分は役者になり得ないと?」
「脇役がせいぜいで、脚本家を気取るなどとても、という話ですよ」
「文才はあると思うわよ、そうでなければおじさまがあなたの事を気に入らないもの」
「……過分な評価ですね」
北側世界における最も有力な外交官の一人に褒められているという事実は、テレナにとって嫌なものを感じずにはいられないものだった。もちろん、それがどの程度の称賛なのかは読み取れない。ただ、最上級のものではないだろう。
ここで素直に喜べるか、あるいは否定できるのであれば楽だったのに、とテレナは笑顔を浮かべながら考える。客観的に見れば、リュクバーンは現在、非常に厳しい状態にある。
短い間とはいえ、彼は学院に縛り付けられている。彼にとって学院はいくつもある舞台の一つに過ぎず、エネトも駒の一つでしかないはずだ。しかし、それでもここでの一戦が統合王国という北側世界最大級の賞品にかかっているのであれば彼が出てくるしかない。
その場において、もし腕の良い若手がいるのであれば取り込むか、そうでなくとも力量を確認したいと思うだろう。テレナは自分がそこまでの立場にあるか怪しくは思っていたが、それでも条件を絞れば自分は十分呼ばれるだけの場所にいるとは理解していた。
抗議派の家という出身。あるいは第一学年の女子学生という立場。今までにリュクバーンとやり取りしていた手紙。それらが絡み合って、テレナを学院におけるリュクバーンにとっての重要人物の一人に押し上げた可能性は十分ある、というのがテレナの結論だった。
「だから、私を彼のところまで連れて行ってほしいの」
「後輩に付き添われるのは、問題ないのですか?」
「私は修女、信仰のために身を捧げる端女に過ぎませんから」
しおらしさすら感じる優しい声で言い、エネトは頭を下げた。それはエネトの本心でもあった。彼女はリュクバーンを信じている。自分の行動を最も上手く活かし、多くの人のために用いることのできる人であると。
もしエネトがもう少し敬虔であれば、あるいはリュクバーンの薫陶を受けていなかったら、それを彼が神の恩寵を深く受けているからだと言えたかもしれない。ただ、彼女はリュクバーンが神に愛されているとは思っていなかった。
聖座の権威を切り売りし、反対派を静かに席から外していった。もちろん、その程度の闘争は聖座の歴史を見れば珍しいものではない。枢要僧の席に座るまでに手を血で汚したことのある男は、決して少なくはないのだ。
それでも、リュクバーンは理念をしっかりと持っているとエネトは信じていた。人を救える組織である聖座を残すために、彼は立っているのだ。エネトが彼を支える理由は、それで十分だった。