リュクバーンの講義は、一部の学生にとっては不人気であった。前提とする知識も多く、復習なしにはその本質を理解することができなかったからだ。もちろん、そうではない理由で嫌っている学生もいた。
「方針がわかりやすすぎるだろ、リュクバーンは」
授業終わりにテレナのそばに立って、目線を合わせないままアニドは言った。リュクバーンの政治的立場を知っていれば、彼の学院での授業が将来の北側世界を支える人材に対しての影響を踏まえたものであることは明白であった。
「おや、王室としては認められない内容が?」
「フェルヴァジュ統合王国が後の冷海同盟と組んだ理由はもっと複雑だ。それをあの授業では抗議派勢力がハッヘンヴルト家に対抗できるように支援した、という方向に持ち込んでいる」
「実態は?」
「借金」
「なるほど」
テレナはアニドの言葉に大きく頷いた。
「冷海に面する諸国家は、教主国からは遅れてはいたが新大陸への航路を確立していた。統合王国との衝突もあったがな」
「その衝突の解消、そして商業都市から統合王国が負っていた借金の減額と引き換えに軍事的な、あるいは政治的支援を与えたと?」
「俺の見方だとそうなる。もちろん、当時のフェルヴァジュ管区大監僧が熱心なハッヘンヴルト嫌いだったのもあるが」
「聖座内部の対立とみなしてもいい?」
「概ねそんなところだ。ま、だからこそリュクバーンには言えないんだろうがな」
「大宗派戦争を決定的に混乱させた理由だものね」
どうしても、枢要僧にも言えないことはあった。言葉巧みに当時の聖座の行動に触れることがあっても、例えば聖職者全般に対するものであったり、あるいは過去の実例であったり、そういう形で微妙な言及を避けていたのであった。
リュクバーンが語る宗派同士の争いも、アニドからすれば生易しいものに見えた。彼らが争ったのは経済的な、あるいは地理的な問題のためではない。寛容なんて言葉ではどうにもならない相互の憎しみと、復讐の連鎖なのだ。
「だからリュクバーンは不誠実なんだよ、もしあれを染められた僧衣を着て言っているのであれば聴衆も警戒するだろう。しかしそうじゃない」
「博物学者、あるいは歴史家として立たれているのであれば、立場も曖昧になるというわけね」
「そして聖座以外の勢力をある程度均等に分析できる。そりゃ今まで大宗派戦争の悪者側に置かれる発言を受けてきた学生たちにとっては都合がいいだろうよ」
「統合王国もしばしばそういう扱いされるものね」
「事実碌でもない事に手を突っ込んだわけだからな、金で買われて同宗派を殺したと言われればその通りとしか言いようがない。それが言えれば苦労はないんだがな」
統合王国の王冠は、管区大監僧の手によって新しい王の頭の上に置かれる。宗教的権威によって王の権威が正当化される、という形式を取っているのだ。
逆に言えば、王室は普遍派を批判することが難しい。自らの権力の源泉を否定すれば、それはすなわち王権の否定となる。そして普遍派の守護者を名乗る以上、統合王国は聖座に縛られている。
それを回避する方法の一つがフェルヴァジュ管区大監僧の任命権を王室が得ることであった。しかし第三王子の婚約破棄の影響を受け、それは聖座に戻っている。今後も聖座が王室の意見を強く参考にするだろし、大きく情勢が変わることはないだろうが、それでも難しい問題なのだ。
「王室も面倒ね」
「それをさらに厄介にしやがったデリロスの兄貴は……まあ、若さだと思いたいものだが」
「そういう話、よくあるものなの?こちらの方ではやっぱり道楽息子の話は聞くけど」
「まあ別に王室とて常に賢人ばかりではないからな、先王は……あれは、猜疑に狂った王と言われるところもある」
「一応はハッヘンヴルト家の側の私からすれば、あれだけの人を消しておいてよくまあ王国を維持できると驚くべきところもでもあったけど」
「強固なんだよ、人が利権を守ろうとして築き上げた砦ってやつは」
アニドはそれに縛られている立場であった。先王の血を引いている以上、何らかの立場を与えなければ王室としては侮られる。とはいえ、あまりいい場所につけてもいけない。宗教方面は一番楽な落とし所であったが、それは第三王子に割り振られてしまった。
アニドは今、どうにかして居場所を見つけなければならない立場にいる。王室の内情を全部暴露して逃げるというのも一つだが、それをしなければならないほど王室が危ないとはアニドには思えなかった。少なくとも、今のところは。
「とはいえ、もう夏も終わりで卒業でしょう?大丈夫なの?」
「まあ、最悪なんとでもなるだろう。あいつの望みは満たしてやっているし、こちらだって苦労した。強情なのはある意味では美徳だよ。そういうことにしたい」
「……大変ね」
アニドは王室の関係者として、テレナほどではないが動いていた。学院の詳しい情報をまとめて王室関係者に流し、帰ってきた指示に従って第三王子派閥に情報を回していた。
王室とて、第三王子を一人で学院に送るほど油断してはいない。同年代の王室に忠誠を誓っている家から学院に子女を送るように圧力をかけていたし、婚約者の作っていたファーネスタ閥ほどではないが統合王国王室派の緩やかな連帯が形成されていた。
「まあ、リュクバーンがこのあたりは責任持ってやってくれるからその対価として好きなことを学院で言わせてやろう、という気にはなるけどな」
「実際のところ、あの授業はどう?」
「面白くはあるぜ、ああいうふうに語ればいいんだなと参考になる」
「……そこまで見抜けるなら、そういう道もあるんじゃない?」
テレナと違って、アニドはかなり将来にまだ選択肢を残していた。
「悪くはないと思うんだが、学問をやるには学院の卒業生というのは微妙に難しいのさ」
「実務的にすぎる、とみなされると?」
「そういうこと。まああと三年あるんだ、まだゆっくりと悩みつつ、混乱がおさまるかどうかを確認してから動いても悪くないはずだ」
「だといいけれど」
「怖いこというなよ」
アニドはそう言いながらも、何か嫌な、怖い感じとしか呼べないものがどうしてもここしばらく背中から離れてくれないことを思い出していた。