学院の修了式は、他の大学や教育機関に比べれば簡素なものだ。それは厳粛な儀式というよりも、制服で行われる
「あの人、入学の時に見たきりだけど学院長だよね?」
「そう。あちこち回っているから学院にはまずいない学院長よ」
テレナはシェプルスキアにそう言いながら、特にやることもなく立っていた。一応、卒業試験として短い論文を書く必要はある。それは自分の学びと将来の進路を踏まえたものだが、その形態は様々だった。
新しく出た聖語の分厚い数学書をまるまる一冊故郷の言葉に翻訳したり、たった十二行の詩を提出したり。もう少し実務的なところで言うと、橋の計画を立てた人がいたそうだ。図面というよりも、いかにして周囲の関係者を説得するかを述べたような。そしてその分量や質は、そこまで重要視されていなかった。
何を学んだかをわざわざ形にして示したり、あるいは外部から評価されなければいけないような人物を学院は育てるつもりはないという意思表示であればよかったのだが、テレナからすれば危ない能力だが面倒な家柄の子女にそれらしい経歴を与えるという側面のために卒業のための条件は甘くされているのだろうな、と考えられるものだった。
それに、成績優秀者の表彰なども行われない。単純に学力や知識で競う場であれば、そのようなこともできたのだろう。とはいえ、ここは非常に政治的な場だ。
「……お疲れ様です、エネト先輩」
「ありがとうね、テレナ嬢」
聖座から来て今の厄介事の原因となった修女に、テレナはすれ違いに声をかけた。飾りのない、そして決して高価な布ではない制服は、そのせいでむしろ彼女の生真面目さと丁寧さを強調しているようだった。ちなみに、今日のテレナはシェプルスキアとお揃いのイヴェリャン団の文様が入った刺繍入りスカーフをつけている。
エネトは立つ場所を決められていた。今日の式典では、第三王子と公爵令嬢、そして修女が直接顔を合わせる機会がない。一方で、その全員と顔を合わせることができるように動ける人間はそれなりに存在した。
例えばアニドは既に第三王子の側に他の王室派の学生たちと共にいて、何かあった時に王子を取り押さえることができるような場所にいる。かつてファーネスタ閥と呼ばれた取り巻きの集団を失ったとはいえ、公爵令嬢のまわりには何人かの女子学生がいた。そのうちの一人はテアリアだった。
彼らは別に、常に関係者の周りにいなければならないわけではない。少し移動して友人や先輩と話したり、あるいは別の重要人物の近くを通ったり。テレナはシェプルスキアを連れた状態でこのような人の多い場所でそこまで派手な動きをするつもりはなかったが、それでも警戒はしていた。
前の晩夏の
もちろん、そのような暗闘に関わっている学生は少数派だ。そうでない多くの人たちは、もっと個人的な行事としてこの修了式を捉えている。
泣いている女子学生がいた。ああ、こういう時に泣けるのは武器にもなるが扱いが難しいなと思っているとさっきまでテレナの後ろを歩いていたはずのシェプルスキアが消えてその泣いている学生の隣りにいた。
「大丈夫ですか?」
そう言ってシェプルスキアが差し出した布で、相手の学生は涙を拭っていた。
「はい……えっと、ありがとうね、ございます」
「何かあったの?」
「先輩が……先輩が……」
ああ、確かに別れとなると辛いな、と理解できる程度にはテレナには人間性があった。そのような感情は必要な時に持っておかなければならない。シェプルスキアのそばにテレナはすっと寄って、周囲から相手を隠すような形になった。
特にしなければならないことがあるわけではなし、と遠くで聞こえる祝辞を聞きながらテレナはその女子学生の零す言葉を聞いていた。
とはいえ、内容を要約すれば一文で終わる内容である。指導役だった第四学年の先輩が卒業してしまうというのだ。地理的にもう会うことも難しいのだという。
「手紙とか、いっぱい送りなよ。きっと先輩も慰めになるから」
「そうですね……」
テレナはシェプルスキアの話し方を観察していた。シェプルスキアの言ったことは、きっとその学生だってわかっているのだろう。しかしそれを自分の中で考えるのと、第三者から保証されるとでは意味合いが変わってくる。
もしこれを自在に操れれば、相当なことができるよなとテレナは考えていた。かつて世話になった家庭教師は、それに近いことができる人物だった。相手の思考を誘導し、向こうから答えを導かせる。優秀な打ち手が相手に上手く負かされることができるようなものだ。
しかし、そのためにはある程度の実力差がないといけない。相手に悟られないように悪手を打つというのは能力が拮抗した状態では難しいのだ。そして、テレナの家庭教師はテレナを誘導することができなかった。
今思い返せば、そのような予兆はあったように思える。きっと彼はテレナが世の不条理に怒りを抱き、人間があるべき姿を奪われている様子に憤るようにしたかったのだ。それは失敗した。
テレナにとって、どのようにあるべきかということより重要なのは今実際にどのようにあるかということであった。理想は重要である。目標がなければ進むことはできない。とはいえ、今いる場所を知らずに進むぐらいであれば止まっている方がよっぽどいいとテレナは考えていた。
「ほら、残り時間も短いんだから、その先輩と最後に話せること、いっぱい言ってきな」
「はい!」
そう言って小走りに去っていった学生を見て、シェプルスキアは笑みを浮かべていた。
「第三学年かしらね」
「そっか、普通は指導役って一つ上の学年がやるんだよね」
「それも比較的真面目で優秀、かつ政治的に問題を抱えていなくて、既に十分な学力があるような人が」
「テレナがあたしの指導役になったの、やっぱり学院って色々考える人がいるんだな……」
「それと第二学年の学生が忙しかったせいじゃないかしらね、ここしばらくは統合王国からの学生の割合が多かったらしいし」
シェプルスキアはどうも納得できなさそうな表情を浮かべていたので、テレナはあとで卒業生の名簿でも一緒に見に行くかと考えていた。