「ねぇサーシャ。男装をしてみる気はないですか?」
「……はい?」
誘拐事件から少しだけ経ったある日の事。
湯浴みを終えて寝衣に着替えた姫様が、突然そんな事を言い出した。もう嫌な予感しかしない。
「いえ、最後まで聞いてください。そうすれば真面目な提案だと分かりますから」
「その前置きの時点で真面目な話題だと取り繕っている気もしますが、一応聞きましょうか」
既にジト目になっている私を気にする事なく、姫様は続きを話し始めた。
「つい先日私たちは誘拐され、オークションにまで出てしまいました。昨日もその時の事を反芻して愉しんでいたのですが、ふと気づいてしまったんです」
「何を噛み締めているんですか貴女は? この先本当に真面目な話題になるんですよね?」
「はい、勿論です。すなわちサーシャ、あなたの顔が大勢の方に知られてしまったという話です」
「私の、顔ですか」
空中分解しそうな始まり方だったが、出てきた問題はなるほど真面目そうな話題ではあった。これで見られる事に目覚めてしまったとか言われたらどうしようかと思ってた。
「私は一応皇女だとバレないようにツインテールで妹キャラを演じていましたが、サーシャは姉という設定だけ。服装も髪型も、特に変えてはいなかったではないですか」
「あの時は私より姫様をどうにかする方を優先していましたからね。けど、あの場の私だと気付いた所でこの先何か問題があるのですか?」
別に私の正体からあの時のピンク髪の少女が皇女だとバレるのを危惧しているわけではないだろう。それはもう済んだ事になったのだし。
「問題大アリです。あの場にいた方と今後お会いする事があったとして、その時にサーシャは元奴隷として見られる事になるのですよ? なんと由々しき事態なのでしょう……!」
「もしかして、そんな身分の者が皇女のお付きにいるのはおかしいという話ですか?」
「いえ、サーシャだけそんな目で見られるのは大変いただけないという話です」
よし、もう真面目さの欠片もなくなったな。
どう聞いても世間体とか評判ではなく私怨でモノを話している姫様がどう悪足掻きをするか、楽しみになってきたくらいだ。
「なのでこれから私と共に衆目に晒される機会があれば、その時は男装して別人だと主張するんです! そうすればその様な邪な目を向けてくる輩もいなくなるでしょう」
「姫様ならともかく、その後ろに仕えているだけの人間に民たちはそこまで意識を向けていますかね……?」
「分からないですよ? ちゃんとあなたにも需要がある事は先日証明されたのですし」
「認めません、認めてませんからねアレは。あと需要って言うのを止めてください」
余計な事を思い出したせいで鳥肌が立ってしまった。確かにアレみたいなのを避ける為なら男装もアリかと思ってしまったけども。
「……ん? それだけなら別に変装で良いのでは。性別まで変える必要ってありますか?」
「あります。私が見たいからです」
「……もしかして、私の知らない内にその類の薄い本を見たりしました?」
「え、やはりあるんですかそういうのも?!」
しまった、藪蛇だった。けれど私の記憶なしで姫様がまたストライクゾーンを広げている方が問題かもしれない。このままだと性癖だけでなく恋愛対象まで歪んでしまいそうで怖いんだけど。
「というか、サーシャは前世で男の人だったんですよね。その時の感覚が懐かしくなったりはしないのですか?」
「……全くならないとは言いませんが、過ぎた事ですし。その辺りの変身願望みたいなモノはないですよ」
以前にも言った通り今は身も心も女性として生きているが、確かに記憶の中に男だった頃の感覚も残ってはいる。
けれどそれは「そんな時もあったよね」位の遠いモノであり、前世の例えで言うなら学生時代の感覚に近い。楽しかったなと懐かしんだりする事はあれど、あの頃に戻りたいと本気で思う事はない。なので別に男に対する憧れとかもそんなにはないのだった。
「でもサーシャ、前世を思い出してからは時折言動が荒々しくなるというか、男らしさを感じる時があるのだけど」
「それを引き出した元凶が何を言ってるんですか。姫様の見ていない所ではちゃんと淑女として通っていますからね?」
自分で言うのも何だが、これでもこの若さで皇女の世話係を任せられている身だ。同僚や上司からはお淑やかな才女として高評価を戴いているというのに、その姫様は納得いっていないようだった。
「そんな淑女が鍵のかかったドアを回し蹴りでぶち壊したりするでしょうか? 間違いなく前世の感覚でやってましたよね?」
「……痛い所をつかないでください」
しゃがみ込んで私の足首に目を向ける姫様。そこには先日の事件で負傷して以来、白い包帯が巻かれたままになっている。
余談ではあるが、あの屋敷から逃げる際に酷使し過ぎたようで、緊張の糸が切れた後はしっかり歩けなくなっていたのだ。
医者によると後少しで足の大事な何かも切れていたかもしれないと言う事で、肝を冷やしたのは記憶に新しい。そんな事になれば姫様の傍にいられなくなってしまうし、アドレナリンの出過ぎも問題だと実感した一件だった。
「ふふ、冗談ですよ。無理をしすぎるのは望ましくないですけど、あの時来てくれて嬉しかったのは本当ですから。ちょうど、サーシャもいてくれたらって思っていましたし」
「はぁ、それならよか――待ってください。私もって言いました今? それ本当に助けを喜ぶ人間の思考ですか?」
もしかしなくても救助ではなく道連れを求めてたのか。やはりあんな状況でも姫様は姫様だったようだ。間に合ってよかった本当に。
「そういう意味があるのも否定はしませんが、助けに来てくれた事もちゃん喜んでいましたよ? それこそ童話に出てくる王子様みたいな登場でしたし。もしこれでサーシャが前世のように男の人だったら私、惚れていたかもしれません」
「何を言ってるんですか、姫さ……」
冗談を続ける姫様に呆れていると、しゃがみ込んだままで此方を見上げてくる姫様と目が合った。
上から見下ろす形になっているのでその大きな胸元にも意識がいきそうになるが、それよりもヤバいのが彼女の瞳だった。
「というわけでサーシャ。男装、してみませんか?」
「…………」
悪戯に笑う姫様のその目は、冗談というにはどこか熱を帯びすぎていて。ハイライトが消えかかっている癖に、何故かその眼光に射抜かれたような感覚が身に走った。
この感覚は覚えがある。すなわちあの屋敷で感じたのと同じ、身の危険っ……!
「……言いたいことは分かりました。けれど、百歩譲ってするとしても普通の変装にします。男装は絶対にしません」
「もう、サーシャはイケズなんですから」
「何とでも言ってください。ほら、もうお休みの時間ですよ?」
口を尖らせる姫様に就寝を促しつつ、5歩くらい距離を取ってから考える。
女性だからこうして姫様の世話係を務められると分かっているが、もし前世の様に男だったら果たしてどうなっていたのだろうか。
「もしかするとその時は、今より愉しく淫らな関係になっていたかもしれませんね?」
「姫様、力なしで私の思考を読まないでください。あと別に今もそんな関係じゃないですからね?」
ベッドの中で笑みを浮かべる姫様はどこまでも楽しそうだ。その姿は確かに私から見ても魅惑的だと思わなくもない。そういう意味でも今世は女性に生まれて良かったと、息を吐く私だった。