闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
許してください。
まだやってないことがあるんです。
数時間後。
肌を刺すような夜の冷気が立ち込める中、鳴神大社の裏手に広がる修練場には、剣戟の鋭い金属音と、激しい水飛沫が弾ける音が絶え間なく響き渡っていた。
「遅い! 将軍こ太刀筋は、そんな生易しいものじゃないぞ!」
俺は体内の仙力を極限まで練り上げ、手刀を振り抜いて高圧縮された水元素の刃を放った。
それはただの水ではない。五百年前にこの目で見た雷神の振るう『稲光』の速度と軌道を脳内で完全にシミュレートし、極限まで鋭利に研ぎ澄ませた、いわば疑似的な「一の太刀」だ。
「くっ……!」
旅人は額に滝のような汗を浮かべながら、手にした剣でギリギリのところでその水刃を弾き落とす。だが、殺しきれなかった重い衝撃が彼女の身体を吹き飛ばし、硬い石畳の上を激しく数メートル転がらせた。
「うわあああっ、旅人! 大丈夫か!?」
修練場の隅で震えながら見学していたパイモンが、悲鳴を上げて空を飛び回る。
「ちょっと蒼雲! いくら特訓だからって本気出しすぎだぞ! オイラ、旅人が死んじゃうかと思った……!」
「この程度で死ぬなら、あの一心浄土へは行かない方がいい」
俺は冷酷な教官の仮面を被り、倒れ伏す旅人へ向けて無慈悲な言葉を投げかけた。
「あの女が振るう『夢想の一太刀』は、あらゆる防御も回避も許さない、文字通りの『絶対』だ。それを凌ぎ、微かな隙を作り出すには、殺気を感じるより早く体が反応するレベルまで、本能と勘を研ぎ澄ませるしかない」
「……分かってる」
旅人は剣を杖代わりにふらつく足取りで立ち上がり、荒い息を吐きながらも、その瞳には一切の諦めを宿していなかった。剣を強く握り直し、再び真っ直ぐに俺を――いや、俺の背後にある『雷神の影』を見据える。
その不屈の闘志に、俺は内心で深く感心しながら、再び指先に恐るべき水圧の刃を形成した。
「いい目だ。……じゃあ今度はーー」
踏み込もうと重心を落とした、その時だった。
――ふわり、と。
冷たい夜の空気に、微かな磯の香りと、紅葉を揺らすような一陣の風が混ざり込んだ。
俺の仙人としての感覚が、頭上からの新たな気配を捉える。
「賑やかでござるな!」
「俺たちも混ぜてくれないか?」
月明かりに照らされた大鳥居の上。そこにひらりと軽やかに舞い降りた二つの影があった。
一人は、秋の風を纏う稲妻の浪人――楓原万葉
そしてもう一人は、弓を背負った海祇島抵抗軍の大将――ゴローだった。
「万葉! ゴロー! どうして!」
パイモンが目を丸くして、素頓狂な声を上げる。
「幕府軍に追われるお尋ね者の連中が、こんな大社のど真ん中まで堂々とやってくるとはな」
俺は指先に集めていた水刃をスッと霧散させ、鳥居から軽やかに飛び降りてくる二人を見据えた。
「風の導き……と言いたいところでござるが、海祇島にも『天領奉行に異変あり』との報せが届いたのでごさる。風向きが大きく変わる気配を感じ、居ても立っても居られず駆けつけた次第でござるよ」
万葉が穏やかに微笑みながら、腰の刀の柄にそっと手を添える。
「それに……雷電将軍の『夢想の一太刀』を仮想した特訓とあらば、拙者も素通りはできぬ」
その言葉の裏に宿る、静かだが深淵のような覚悟。
彼の親友がかつて真っ向から挑み、無念と共に散っていったあの絶対的な雷霆。それを今まさに乗り越えようとする旅人への、彼なりの強い連帯感であり、親友への弔いでもあるのだろう。その手は、決して揺らいではいなかった。
「俺もだ!」
ゴローがピンと張った尻尾を揺らし、闘志をみなぎらせて一歩前へ出た。
「将軍との決戦が近いんだろ? だったら、俺の弓も必ず役に立つはずだ。実戦形式の特訓なら、人数が多いに越したことはない!」
俺は二人を交互に見やり、そして、荒い息を吐きながらも頼もしい援軍の到着に嬉しそうに微笑む旅人を見た。
「……ふっ」
気がつけば、俺の口角は自然と吊り上がっていた。
神に抗おうとする、人間のこの熱と意志。五百年前のあの絶望の時代にも負けないほどの光が、彼らの瞳には宿っている。
「いいだろう。お前たちのその実力、この俺が直々に値踏みしてやる」
俺は両手に水元素を纏わせ、先ほどよりもさらに濃密で暴力的な仙力を練り上げた。
夜空に青白い水飛沫が竜巻のように舞い上がり、冷たい月光を反射して刃のように鋭く煌めく。
「束になってかかってこい。一人残らず、雷神の前に生き残れるまで扱き上げてやる!」
「望むところでござる!」
「よし、行くぞ旅人!」
万葉の風が舞い、ゴローの岩が砕け、旅人の剣閃が走る。
それを迎え撃つ俺の圧倒的な水刃が、夜の境内で激しく交錯する。
再び数時間が経過し、夜明け前の最も深い闇と冷気が境内を包み込む頃。
彼らの動きは、見違えるほどに洗練されていた。万葉の風がゴローの岩を巻き上げ、その隙を縫って旅人の刃が鋭く死角を突いてくる。三人の呼吸が、まるで一つの生き物のように合致し始めていた。
「連携が取れるようになってきたな! じゃあ今度はーー」
俺は口角を上げ、彼らの連携を正面から打ち砕くべく、再び両手に極限まで圧縮した水元素の仙力を練り上げようとした。
――その、瞬間だった。
「蒼雲殿……その、『炎』は」
風の機微を誰よりも鋭く感じ取る万葉が、空中でピタリと動きを止め、驚愕に見開かれた目を俺の右手へと向けた。
「!」
万葉の視線を追い、己の右手を見た俺は息を呑んだ。
澄み切った青い水刃が形成されるはずの掌から、あろうことか、ゆらゆらと『炎』が漏れ出していたのだ。
水元素を操る俺の仙力とは完全に相反する、制御不能な異能の熱。それが、俺の意志を無視して唐突に暴走を起こした。
そのあり得ない現象に、俺の意識がほんのコンマ数秒、完全に手元へと奪われた。
「そこだ!」
雷神と相対するための極限の集中状態にあった旅人は、俺のその致命的な『隙』を見逃さなかった。
地を蹴る鋭い踏み込みと共に、銀色の閃光が俺の懐へと肉薄する。
「クッ……!」
咄嗟に防御姿勢を取るより早く、旅人の剣の切っ先が、寸止めで俺の胸元に重く、確かな衝撃を叩き込んだ。
「やった! 蒼雲に剣が届いたぞ!」
空中で見守っていたパイモンが、両手を挙げて歓喜の声を上げる。
「…………」
俺は胸への鈍い痛みを覚えながら、ゆっくりと剣を引く旅人を見下ろした。
確かに旅人の踏み込みは見事だった。だが、今の俺の隙は『本来あってはならないもの』だ。俺は咄嗟に右手を強く握り込み、暴走しかけた炎を強引に体内の奥底へと封じ込めた。
「……よし! 訓練はここまでだ」
俺は何事もなかったかのように平静を装い、短く告げた。
「まぁ、前よりはマシになっただろ。……これ以上は身体に障る。各自休め。以上!」
「ふぅ………ようやく休めるな……」
俺の終了の合図を聞いた途端、パイモンが安堵の息を吐き、旅人もその場に膝をついて荒い息を整え始めた。
「……流石、珊瑚宮様に認められた男、すごいな!」
ゴローが汗を拭いながら、感嘆の声を漏らす。
「お前に着いてきて正解だったぜ……なぁ、万葉。あれ? 万葉? どこに行ったんだ、万葉!?」
ゴローが尻尾を揺らしながら周囲を見渡すが、すでにそこに万葉の姿はなかった。
修練場から少し離れた、人気のない神櫻の裏手。
俺は冷たい石壁に背を預け、先ほど旅人の一撃を受けた胸の傷口……いや、熱を持ったまま痙攣する自分の右手を、左手で強く押さえつけていた。
「…………」
ギリッ、と奥歯を噛み締める。
手のひらに刻まれた見えない呪詛が、内側から肉を焦がすような痛みを放っている。
(……やはり、もう抑えが効かなくなっている)
何百年もかけて騙し騙し抑え込んできた『業』。それが、連日の極限の戦闘と仙力の酷使によって、いよいよ表面化し始めていた。先ほどの意図せぬ炎は、その明白な兆候だ。
雷神との決戦は二日後。そこまでは、いや、せめてあの一心浄土での戦いが終わるまでは、絶対に持たせなければならない。
(そうなれば、この一件が終わり次第ーー)
俺は自らの手を見つめ、静かに、誰にも告げることのない冷酷な決断を下そうとしていた。
その時だった。
「……何をしているのでござるか?」
風が凪いだ。
気配の欠片も感じさせないほど静かに、楓原万葉が夜の暗がりから姿を現した。
俺はひきつりそうになる顔の筋肉を無理やり緩め、痙攣する右手を着物の袖口深くへと隠した。
「いや、別に訓練に疲れて休んでいただけさ」
努めて平坦な、いつもの呆れたような声音を装う。
だが、風の機微から人の心音、さらには自然の淀みすら正確に読み取るこの浪人の前で、そんな浅い誤魔化しがどこまで通用するかは怪しかった。俺から漂う焦げたような血の匂いと、乱れた仙力の波長など、彼にはとうに見透かされているはずだ。
案の定、万葉は俺の隠した右手と顔を静かに見比べた後、ふっと悲しげに目を伏せた。
「………そうでござるか」
彼はそれ以上、深く踏み込むことはしなかった。相手が隠したいと願う痛みを、無理に暴き立てるような無粋な真似はしない。それが楓原万葉という男の優しさであり、同時に他者との間に引いた静かな境界線でもある。
どこか居心地の悪い沈黙を断ち切るように、俺はわざとらしく息を吐き出した。
「そういうお前こそ、何しに来た。ゴローが尻尾を逆立てて探していたぞ」
「少しばかり、語り合いたかったのでござる」
万葉は静かに歩み寄り、俺の隣、月明かりの差し込む冷たい石壁に背を預けた。
彼の視線は夜空の雲間を彷徨い、やがて、大事なものを仕舞う懐へとゆっくりと手を差し込んだ。
取り出されたのは、光を失い、冷たく濁った灰色のガラス玉――『主無き神の目』だった。
それは、かつて雷神の絶対的な武に真っ向から挑み、あの『夢想の一太刀』の前に散っていった彼の親友の遺品。万葉が肌身離さず持ち歩き、再び光を灯す者を探し求めている、重すぎる願いの抜け殻だ。
万葉はその神の目を、まるで今も生きている命を慈しむように、両手でそっと包み込んだ。
そして、俺の先ほどの『炎』に、理を超えた何らかの可能性を見出したのだろうか。すがるような、しかしどこか諦観の入り混じった静かな声で問いかけてきた。
「蒼雲殿、お主のその底知れぬ力ならば……あるいは。お主は、この神の目に光をーー」
「無理だ」
俺は、彼の悲痛な願いが最後まで紡がれるより早く、冷酷なまでに短く、絶対的な言葉でその淡い希望を切り捨てた。
「即答とは……少々驚いたでござる」
万葉は、俺のあまりにも冷たく早い返答に目を丸くし、手の中の抜け殻を見つめながら苦笑した。無理もない。藁にもすがる思いで尋ねたのだろう。だが、こればかりは慰めや誤魔化しでどうにかなる領域の話ではないのだ。
(神の目――)
俺は、月明かりの下で鈍く光るその灰色のガラス玉を見つめながら、内心で深く息を吐いた。
この世界における『神の目』の一般的な見解はこうだ。
――人生の最も険しい分岐点にて、その者の渇望が極致に達した時、神の視線が降りる。それが神の目である、と。
だが、その実態は決してそんなロマンチックな恩恵などではない。
それは、この世の理を統べる『天理』が、世界を変えかねないほど強烈な願望を抱いた者の運命を縛り付けるための鎖**であり、同時に本人に与えられた人生の道そのものなのだ。
故に、目狩り令などで神の目を不自然に奪われた者が、記憶を失い、発狂し、自分自身を見失うのは当然の帰結である。なぜなら彼らは、単なる魔法の道具ではなく、己の『運命そのもの』を力ずくで毟り取られたのだから。
天によって個の魂に結びつけられた運命。それを、完全に部外者である他人の俺が、外側から勝手に火を灯せるわけがない。その神の目(人生)は、散っていった彼の友人の生涯そのものなのだから。
――キラン……。
「……ん?」
俺が心の中で静かな結論を下した、まさにその瞬間だった。
万葉の手の中で完全に死に絶えていたはずの灰色のガラス玉の奥底で、ごく僅かに……幻かと思うほど微弱な、雷光のような紫の瞬きが起きた。
(……いや、まさかーー)
俺の仙人としての眼が、その一瞬の瞬きの奥に隠された『真実』を捉え、思わず息を呑む。
完全に終わったはずの命。途切れたはずの運命。
だが、違う。この神の目には……彼の友人の強烈な運命には、**未だ終わっていない『定め』が残されている。
それは他人が外から火を点けるようなものではない。時が来れば、己の意志で再び燃え上がるための、極小の種火だ。
「それではーー」
俺の沈黙を「交渉の余地なし」と受け取った万葉が、諦めたように神の目を懐へ仕舞い、別の問いを口にしようとした。
「待て、万葉」
俺は彼の言葉を鋭く遮り、その懐を真っ直ぐに見据えた。
「その神の目、大事に持っておけ」
「……え?」
万葉が驚いたように顔を上げる。
「そして、いかなる時も己の『心』に従って動け」
俺は先ほどまでの冷徹さを少しだけ緩め、かつて真っ向から雷霆に挑んだ名もなき武人への敬意を込めて、静かに告げた。
「そうすれば……その”友人”も、必ずお前に力を貸してくれるだろう」
「…………」
万葉は俺の言葉の真意を探るように、透き通る紅い瞳で俺をじっと見つめ返した。やがて、その瞳に静かな光が宿り、彼は胸元をそっと押さえて深く頷いた。
「……そうでござるか。貴方のその言葉、心に刻んでおくでござる」
「ああ」
俺は腕を組み、冷たい石壁から背中を離した。
「……で? そろそろ本題に入ったらどうだ?」
「ふふ、この話も拙者にとっては本命だったのでござるが……」
万葉は柔らかな笑みを浮かべた後、夜風がピタリと止むのと同時に、その表情から一切の温もりを消し去った。
まるで、名刀が鞘から抜かれたような、研ぎ澄まされた真剣な眼差し。
「蒼雲殿……お主は本当に、『浄化の力』を持っているのでござるか?」
その鋭い問いかけは、俺が袖の奥に隠し、懸命に抑え込んでいる右手の『炎』――俺自身の抱える致命的な業の核心を、容赦なく突き刺してきた。
「どういうことだ? 俺は千代をーー」
俺は眉間に皺を寄せ、あくまで心外だというように低く声を返した。
無意識のうちに、痛みを放つ右手を着物の奥へさらに深く隠し込む。
「確かに、千代殿をアビスの深淵から救い出したこと自体は、疑いの余地もない偉業でござる」
万葉の透き通るような声は、夜風のように静かだった。だが、その言葉の刃は一切の淀みなく、俺の急所へ向かって真っ直ぐに伸びてくる。
「しかし……海祇島で見せた、あの『何かに耐えるような姿』は何でござるか?」
風が凪いだ。
万葉の紅い瞳が、俺の瞳の奥底、決して触れられたくない暗部を静かに、しかし強烈な力で覗き込んでくる。
「お主は一体……何を隠しているのでござるか?」
「………………」
俺の喉は、干からびたように張り付き、声を出せなかった。
この浪人の目は誤魔化せない。風の音を聞き、万物の気配を読む彼には、俺が体内で必死に押さえ込んでいる不吉な熱と、その奥で蠢く『何か』の気配がはっきりと見えているのだろう。
だが、言えるわけがない。俺がひた隠しにしているこの呪いじみた痛みの正体を。
沈黙が重くのしかかり、息が詰まるような緊張感が二人の間に張り詰めた――その時だった。
「蒼雲!」
ふわりと、冷え切った空気を溶かすような、明るく弾む声が境内に響いた。
玉砂利を踏む軽やかな足音と共に、千代がひょっこりと神櫻の陰から顔を出す。彼女の屈託のない笑顔は、まるで分厚い暗雲の隙間から差し込んだ一筋の陽光のようだった。
「あれ、お取り込み中だった?」
俺と万葉の間に流れるただならぬ空気を察したのか、千代が少しだけ首を傾げて目を瞬かせる。
「いや、……」
俺は呪縛から解き放たれたように小さく息を吐き、右手の痛みを奥底へと封じ込めながら、何でもない風を装って千代を見た。
万葉もまた、纏っていた鋭い剣気のような空気を一瞬にして霧散させ、いつもの穏やかな浪人の顔へと戻っていた。
「何でもないでござるよ」
万葉は千代に向かって柔らかく微笑むと、再び俺の方へと視線を流した。
「蒼雲殿……千代殿が、待っているでござるよ?」
その言葉には、「今はこれ以上追求しない。だから、あの笑顔の元へ行きなさい」という、彼なりの不器用な優しさと気遣いが込められていた。
「あ、ああ」
俺は短く応じ、万葉に背を向けて千代の元へと歩き出した。
背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、今はただ、千代のあの明るい笑顔を守り抜くことだけを考えようと、心の中で強く己を戒めた。
蒼雲と千代の二人の背中が、夜の境内の奥へと完全に消えていく。
それを見送った楓原万葉は、一人残された静寂の中で、小さく、ひどく物憂げな溜息を夜風に溶かした。
「……やられちゃったね」
不意に、万葉の背後の暗がりから、ひらりと木の葉が落ちるような軽やかな声が降ってきた。
気配もなく、神櫻の太い枝の上から音もなく飛び降りてきたのは、天領奉行の若き天才探偵――鹿野院平蔵だった。
彼は面白がるような、けれど獲物を逃したことを惜しむような、悪戯っぽい笑みを浮かべて万葉の隣に並び立つ。
「あのまま問い詰めれば、彼の抱える特大の『秘密』が聞けたかもしれないのに。あのお姉さんに、見事なタイミングで助け舟を出されちゃった」
「平蔵殿………」
万葉は困ったように眉を下げ、探偵の軽口を静かに受け止めた。
彼ら二人の視線の先には、蒼雲が隠し通そうとする途方もない暗闇と、いよいよ明日に迫った雷神との決戦の気配が、黒く重く渦巻いていた。
「千代、神子との用事は済んだのか?」
万葉たちの視線から逃れるようにして境内の奥へと歩きながら、俺は隣を歩く千代に声をかけた。袖の奥でまだ微かに脈打つ右手の熱を、千代に悟られぬよう意識の隅で必死に押さえ込みながら。
「うん、大丈夫だったよ」
千代は小さく頷き、それから少しだけ心配そうに俺の横顔を覗き込んできた。
「蒼雲こそ、大丈夫だった? 遠くから見てたけど……なんだか、結構大事な話をしてそうだったから…………」
「いや、本当に何も……」
俺は視線を斜め下へと逸らし、いつもの調子で言葉を濁した。
万葉に右手の暴走を見られたこと、そして俺の『浄化の力』の真実について勘繰られたこと。そのどれもが、千代にだけは絶対に知られてはならない、俺の独りよがりな秘密だ。彼女を余計な不安で揺さぶりたくはなかった。
だが、俺のそんな不自然な態度が気に入らなかったのだろう。
千代は「むぅ」と小さく唇を尖らせると、突然、身を翻した。
「よっと、」
――ひらり、と。
まるで重力を失ったかのように軽い身のこなしで、千代は玉砂利を蹴り、鳴神大社の回廊の屋根の上へと一跳びで舞い上がった。夜風に彼女の短い髪がふわりと広がり、月光を浴びて淡くきらめく。
「おい、千代! そんな所に登ってーー!」
俺は思わず心臓が跳ね上がり、上を見上げて声を荒らげた。
数千年の時を生きる仙人たる者が、屋根に登った程度で何を慌てているのかと、我ながら呆れるほど過保護な声だった。俺の頭では未だに彼女を『守るべき脆い存在』だと完全に誤認しているらしい。
屋根の上、瓦の端に危なげなく着地した千代は、不満そうに両手を腰に当て、月を背負って俺を見下ろした。
「もう、蒼雲! 私はもう、あの頃の、か弱いだけの千代じゃないんだよ?」
その言葉に、俺はハッと息を呑んだ。
月光に照らされた彼女の瞳には、かつてアビスの闇に呑まれ、狂気の中でただ苦しむだけだった哀れな犠牲者の面影はなかった。
そこにあるのは、五百年前の稲妻で、名だたる魔物をその一刀で次々に斬り伏せていった、誇り高き『鬼の武者』としての毅然とした輝き。
守られるだけの存在ではなく、己の足で立ち、己の意志で刃を振るう一人の立派な表現者としての気概が、彼女の小さな身体から満ち溢れていた。
(……分かっているさ。お前が誰よりも強い武人であることくらい)
俺は眩しいものを見るように目を細め、小さくため息をついた。
実際に見てみて思う、自分を捨ててまで他者の為に動ける奴は強い。
だから俺は彼女を助けたいと思えた。だから、今俺はここに立っている。
「ん?」
月光を背負う千代が、瓦屋根の上からすっと小さな手をこちらへ差し伸べてきた。
「登ってきて」
「……わかったよ」
俺は短く笑みをこぼし、その手を取るまでもなく風に乗って軽やかに舞い上がり、彼女の隣へと降り立った。夜風に揺れる髪を見やりながら、呆れ半分に口を開く。
「まさか、お前がこんなおてんばだったとはな」
「見て?」
俺の軽口には答えず、千代は夜の闇に沈む眼下の景色を指差した。
「おお……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
「ここからだと、稲妻の街を一望できるんだ。どう? 綺麗でしょ?」
天守閣の威容から、遠く花見坂の細かな灯りまでが、まるで星屑を散りばめたように瞬いている。かつての凄惨な戦火の跡を隠し、人々が寄り添って生きるその温かな光の海は、確かな息吹を感じさせた。
「ああ。……良い街だ」
俺が静かに同意すると、千代は膝を抱え、少しだけ躊躇うように視線を泳がせた。
「ねぇ、蒼雲。宵宮が言ってたんだ。稲妻の目狩り令が終わったら、祭りででっかい花火を打ち上げるんだって……」
千代の声が、急に小さく、消え入りそうに揺れた。俯いた彼女の横顔が、月明かりの下でもはっきりと分かるほど、みるみるうちに朱に染まっていく。
「だから、その………」
彼女は深く息を吸い込み、意を決したように顔を上げた。
「一緒に……。一緒に、花火を見てくれない……っ!?」
「!」
俺は思わず目を丸くした。
控えめで、いつも一歩引いて誰かを思いやっていた彼女が、ここまで強い感情を顕わにしてハッキリと意思表示をしてくるとは思ってもみなかったのだ。
これからの稲妻に訪れるであろう平和な空を、友として、ただ純粋に俺と共に分かち合いたい。そのひたむきで真っ直ぐな願いが、痛いほどに伝わってくる。
(だが、今の俺に、彼女のその誘いを受ける資格などーー)
無意識のうちに、己の手のひらを見下ろしていた。
この手は、かつて最も守りたかったはずの大切な者の命を、どうしようもない運命の果てに、自らの手で奪い去った血塗られた手だ。
俺には、光り輝く祭りの空の下で、こんなにも無垢で純粋な一人の少女の隣に並び立ち、共に明日を笑い合うような資格はない。俺はただ、暗がりから彼女たちの平和を繋ぐための歯車であればいいのだ。
断ろう。そう思い、拒絶の言葉を紡ぎかけた、その時だった。
――ぎゅっ。
俺の青い着物の袖口が、震える小さな手に強く引き寄せられた。
「…………」
視線を落とすと、そこには、息を呑むほど切実な表情を浮かべた千代がいた。
紅く染まった角の下で、彼女の瞳は今にも零れ落ちそうなほどの大粒の涙をいっぱいに溜めて潤んでいる。耳の先まで真っ赤に紅潮させ、それでも決して視線を逸らさず、すがるように俺の袖を力強く握りしめていた。
拒絶されることを酷く恐れながらも、絶対にこの手は離さないという彼女の不器用な震えが、布越しに直接俺の心臓を掴んできた。
鬼の武者としてではなく、ただの一人の少女としての、ひどく脆くて、いじらしい姿。
その涙ぐんだ瞳に見つめられた瞬間、俺の中で固く閉ざしていた罪悪感の鎖が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
(まだ……離さなくてもいいか)
俺は、自分がどこまでも救いようのない甘い男であることを自覚しながら、小さく、そして柔らかく息を吐き出した。神子にどれだけ朴念仁だと罵られようが関係ない。ただ、この少女の切実な願いだけは、俺の過去の罪など脇に置いてでも叶えてやりたかった。
「ああ」
俺は、袖を握る彼女の小さな手にそっと自分の手を重ね、夜風に溶けるような穏やかな声で約束を交わした。
「見に行こう。一緒に」
稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。
-
璃月篇(海灯祭)※この話の本編
-
引き続き稲妻篇