闇に呑まれていた鬼の娘を500年かけて看病した仙人が、異国で恋愛小説の餌食に…… 作:時代に遅れている
畳の心地よい青畳の匂いが漂う、朝の木漏茶屋。
格子窓から差し込む柔らかな朝陽が床を穏やかに照らす中、部屋の隅では狸のフードを深く被った早袖が、小さな毛玉のように丸くなって「すー……すー……」と規則正しい寝息を立てていた。
そんな静寂とは裏腹に、部屋の中央に置かれたちゃぶ台の周囲は、朝からただならぬ熱気に包まれていた。
「いよいよ今夜やね、千代ちゃん! 長野原が魂込めて作ったでっかい花火、最高の特等席で見届けてもらうからな!」
宵宮が、夏の太陽みたいにハジける笑顔で拳を握りしめた。彼女の爛漫なエネルギーに引っ張られるようにして、対面に座る綾華も、静かに座っているがもその瞳を期待に輝かせている。
「はい。目狩り令が廃止され、こうして無事にお祭りを迎えられること、本当に嬉しく思います。……ですが千代さん、お顔が少し強張っているようですが、大丈夫ですか?」
「う、うん……大丈夫、大丈夫なんだけど……」
私は手元の湯呑みを両手で握りしめ、中の茶柱をじっと見つめた。
胸の奥が、朝からまるで早鐘を打つようにうるさい。五百年の漆黒の闇を耐え抜いたこの私が、ただ一人の男の顔を思い浮かべるだけで、どうしてこんなにも臆病になってしまうのだろう。
今夜、私は蒼雲に、自分の本当の気持ちを伝えるつもりだでいる。
「……ねぇ、二人とも。一応、作戦会議ってことで集まってもらったんだけど……根本的な問題としてさ。蒼雲、私の気持ちに『一ミリでも気づいてる』と思う?」
私の切実な問いに、宵宮と綾華は一瞬だけ顔を見合わせ、それから同時にうーんと小さく唸った。
「うーん、そうやなぁ……」
宵宮が腕を組み、うねる金髪を揺らしながらぶっちゃける。
「蒼雲って、千代ちゃんのこととなると、めちゃくちゃ過保護やん? でも、なんて言うか……あのお兄さん、自分の過保護さには無自覚やし、色恋沙汰に関してはちょっと……いや、かなり、鈍そう……鈍ぶくあらへん?!」
「宵宮さんの言うとおり、蒼雲さんは千代さんの気持ちには気づいてないように思えます。」
綾華も困ったように眉を下げて苦笑した。
「以前、八重宮司様も呆れたように仰っていましたが……蒼雲さんは、他者から向けられる『一人の少女としての好意』に対して、極度に疎いお方のようです。千代さんがどれほど健気に意思表示をされても、おそらくは『大切な友としての信頼』や『守るべき存在からの親愛』だと、ご自身の都合の良いように解釈されている可能性が非常に高いかと……」
「やっぱりそうだよねぇ!?」
私はついにちゃぶ台に突っ伏した。
あの不器用で頑固な仙人の顔が脳裏に浮かぶ。
私のために、あんな禍々しい本気の炎を出すまでして約束を守ってくれたのは気持ち的にはありがたいけど、それと同時に、自分のことは大事にしてないように思えて心配になる。
一緒に花火を見に行こうって誘った時、涙ぐむ私の手をそっと握り返してくれたあの温もりも、嘘じゃないって分かるのに、どうして自分のことを大事に出来ないの?というか、自分を犠牲にしてまで大切に一人の少女として扱ってくれている感覚はあるのに、どうして肝心の「恋心」にはこれっぽっちも気づかないの!?
朴念仁にも程がある。本人はこれっぽっちも「自分は鈍感だ」なんて思っていなさそうなところが、またタチが悪い。
「むにゃ……花火、うるさいのは、だめ……おんぶして……」
部屋の隅から早袖の呑気な寝言が聞こえてきて、少しだけ肩の力が抜ける。
突っ伏したままの私の背中を、宵宮がポンポンと力強く叩いた。
「大丈夫やって! 気づいてへんのなら、今夜の花火のドーンって音に負けんくらい、はっきりと真っ直ぐ言葉で伝えたらええんや! 鈍感な男の頭に、千代の可愛い本音を直接叩き込んでやるんよ!」
「言葉で……真っ直ぐに……」
私はゆっくりと顔を上げ、手の中の温かい湯呑みを見つめた。
茶柱は、ゆらゆらと揺れるお湯の中で、真っ直ぐに一本、天を突くように立っている。縁起が良いはずなのに、今の私の心は、その茶柱のようには堂々と胸を張れずにいた。
言葉で伝える。たったそれだけのことが、どうして刀を振るうよりも難しく思えるのだろう。
あの顔を思い浮かべるだけで、視線が泳ぎ、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。私がどれだけ背伸びをしても、あの人はいつも一歩引いたところで、私を「守るべき脆い少女」としてしか見てくれない。そのくせ、私の「生きて帰ってきて」という言葉一つで、命を削るようなあの禍々しい炎を平然と解き放ってみせるのだ。
私のことを、誰よりも特別に思ってくれている。その確信はあるのに、どうしてそれが「恋」という形にだけは結びつかないのか。本当に、本当に、タチが悪い。
「なるほど、そういうお伝えの仕方もあるのですね」
ちゃぶ台の向こう側から、感心したような、どこか夢見がちな呟きが聞こえてきた。
見れば、綾華ちゃんがふわりと白い扇子を広げ、琥珀色の瞳をきらめかせながら、深く何度も頷いている。その真剣すぎる表情は、まるで社奉行の重要な案件にでも向き合っているかのようだった。
すかさず、宵宮がにやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、ちゃぶ台越しに身を乗り出した。
「なーんか、綾華ちゃん。今の言葉、めちゃくちゃ実感こもってへん? ――ひょっとして、アンタも誰か狙っとるん?」
「は、ひゃいっ!? 狙うだなんて、そんな……っ!」
宵宮の直球すぎるツッコミに、綾華ちゃんは見たこともないような声を上げて飛び上がった。
扇子で慌てて顔の下半分を隠したものの、白磁のような肌は瞬く間に、髪飾りについている椿の花と同じくらい鮮やかな朱色に染まっていく。動揺を隠せない彼女の頭上で、ポニーテールに結ばれた青い髪が、まるで嵐に吹かれたように小さく揺れていた。
「違います、私はただ、その……! ですが、詩や舞で想いを伝えるのも、古風で風情があり、ありなのではないかと思っていただけでして……っ」
綾華ちゃんは、必死に話をはぐらかそうと、熱くなった頬をごまかすように言葉を紡ぐ。その仕草のすべてが、いかにも社奉行の箱入り娘らしくて、見ているこちらまで少し照れくさくなってしまう。
「あの、千代さん……どれが良いと思いますか?」
上目遣いで、すがるように私を見つめてくる綾華ちゃん。その瞳の奥には、私と同じように、大切な誰かを想って胸を痛める「一人の等身大の少女」としての純粋な光が宿っていた。
それまで腕を組んで面白がっていた宵宮が、ついに我慢できなくなったように、はぁー、と大げさに肩を落とした。
「綾華ちゃん……アンタ、千代ちゃんの相談に乗り(来)たんか、それとも自分の相談を(受ける側に)しにきたんか、一体どっちなん?」
「あ……」
宵宮のキレのあるツッコミに、綾華ちゃんはハッと我に返ったように小さく口を開け、それからいよいよ、扇子の後ろに完全に顔を埋めてしまった。
「いや、別に責めてるわけやないねんけど、気になるやん!」
宵宮は、慌てて扇子の後ろに完全に隠れてしまった綾華ちゃんを見て、悪戯っぽく肩をすくめた。責めるどころか、その瞳は完全に「恋バナに飢えた思春期の娘」のそれだ。
「なぁ?」
すかさず、宵宮が茶目っ気たっぷりに私へと同意を求めて、肘でツンツンと小突いてくる。
「ま、まぁね……」
私は湯呑みを抱えたまま、困ったように、でもどこか微笑ましい気持ちで苦笑いを返した。扇子の隙間から見える綾華ちゃんの耳たぶが、真っ赤に熟した夕日のように染まっている。
(多分だけど……旅人、だよね)
言葉にせずとも、私は確信していた。あの金髪の、世界を旅するひたむきな背中。一心浄土で私に寄り添い、万の願いを宿して神に挑んだ、あの凛々しくて優しい旅人の姿を、綾華ちゃんもまた、特別な眼差しで見つめていたのだろう。一人の少女として誰かを想うその初々しい姿は、なんだか自分を見ているようで、少しだけ親近感が湧いてしまう。
「まぁええわ! どっちにしろ、私が二人の恋が成功するように願って、最高のでっかい花火を打ち上げたるさかい!」
宵宮はぱっと両手を広げ、夏の太陽のようにカラリと笑った。彼女の放つ爛漫な熱気と言葉の力は、木漏茶屋の少し気恥ずかしい空気を、一瞬で前向きなエネルギーへと変えてしまう。
「もし、千代ちゃんの思い人が、その可愛い本音を受け入れんようなら――」
そこで宵宮はニヤリと不敵に笑うと、背中から弓を取り出して、引き絞るような身振りをしてみせた。
「弓矢でドッカーンや!」
「ちょっと、宵宮! 冗談でもそれは物騒じゃ」
思わず私が声を上げて突っ込むと、扇子の後ろから綾華ちゃんも「ふふっ」と堪えきれないように声を立てて吹き出した。
弓矢でドッカーン、か。あの一筋縄ではいかない、極度の朴念仁の顔を思い浮かべると、あながちそれくらい手荒な真似をしないと伝わらないんじゃないかと、少しだけ本気で思えてしまうのが可笑しかった。あの過保護な仙人のことだから、矢が飛んできたら「危ないだろう!」なんて言って、また私を庇うように抱き込んできそうなのが目に浮かぶ。
今夜、祭りの夜空に大輪の花火が咲く。
応援してくれる頼もしい友だちがいて、一緒に歩みたいと願う、世界で一番大切な人がいる。
「……ありがとう、宵宮」
私の心からの感謝に、宵宮はひらひらと手を振って、いつもの飾らない太陽のような笑顔を返してくれた。
「ええって、気にせんといて! 方針が決まったなら、後は実行あるのみや。……そのためには、やっぱり強力な助っ人の知恵が必要やろ? ――先生!」
宵宮が突然、部屋の入り口に向かって芝居がかった声を張り上げ、ビシッと大げさに指を差した。
(せ、先生……?)
あまりに唐突な呼び名に、私は湯呑みを抱えたまま、頭の上に大きな疑問符を浮かべた。隣の綾華ちゃんも扇子を握りしめたまま、パチパチと目を丸くして瞬きを繰り返している。
完璧なタイミングで、ちゃぶ台のすぐ横の襖がガラリと左右に開け放たれた。格子窓から差し込む朝陽を背負うようにして、逆光の中にその狂おしいほどに見慣れた桃色の影が浮かび上がる。
「恋愛マスター……焜焜油揚げ先生……参上じゃ!」
紅白の鮮やかな巫女装束の裾をわざとらしくひらりと翻し、胸を張って現れたのは、他でもない鳴神大社の巫女――八重神子だった。
その神々しいまでの美貌には、これっぽっちの羞恥心も混ざっていない。むしろ、天下の雷神を論破した時以上の、底知れぬ自信と愉悦に満ちた満面の笑みを浮かべている。
「な、何やってるの、このバカ神子はぁぁぁ!!」
私の絶叫が木漏茶屋の天井に木霊した。
焜焜油揚げ先生って何!? 自分で言ってて恥ずかしくないの!? というか、いつからそこに隠れていたの!
「や、八重宮司様……っ!?」
隣では、完全に油断していた綾華ちゃんが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして固まっていた。ただでさえ旅人の件で真っ赤だった顔が、あまりの衝撃にさらに限界突破して、今にも頭の先から真っ白な蒸気が吹き出しそうなほど狼狽している。社奉行の娘としての礼儀作法も一瞬で吹き飛び、開いた口が塞がらないといった様子で神子を見上げている。
「ふふん、どうじゃ? 恋に悩める迷える子羊ども。この稲妻のあらゆる人間模様を見透かし、数多の娯楽小説を世に送り出してきた八重堂の編集長たる妾が、直々に特別講義を授けにきてやったぞ。光栄に思うが良い」
神子はツカツカと堂々たる足取りで部屋に上がり込むと、当然のように私の隣の特等席にどっかりと腰を下ろした。そして、実におもちゃを見つけた子供のような、きらきらとした意地の悪い視線を私と綾華ちゃんに向けてくる。
「ちょっと、宵宮! 先生って、まさか神子のことだったの!?」
私が裏切られたような思いで睨みつけると、宵宮はてへへと頭を掻きながら笑った。
「堪忍、千代ちゃん! いやな、今朝ここに来る途中で宮司様にばったり会うてな? 『千代が朴念仁への告白(作戦会議)をするんじゃろ? 妾も一枚噛ませよ』って言われて……。長野原の花火を最高のシチュエーションでドカーンと打ち上げるためにも、恋愛小説のプロの意見は聞いといて損はないとちゃうかなぁ思て!」
「損しかないよ! 神子が混ざったら、作戦会議じゃなくてただの私の公開処刑(おもちゃ)になるに決まってる!!」
私は頭を抱えてちゃぶ台に再び突っ伏した。
「ほれ、突っ伏している暇なんぞないぞ? さっさと準備じゃ」
神子が私の頭を軽く小突いてきた。突っ伏したまま顔だけを少し上げ、恨みがましい視線を送る私を、彼女はどこまでも楽しそうに見下ろしている。
「今夜の長野原の花火は一瞬。その須臾(しゅゆ)の光の中に、あの頑固一徹な朴念仁の心を打ち抜く完璧な盤面を描かねばならんのじゃからな。おもちゃのように扱われるのが嫌なら、妾を唸らせるほどの気概を見せてみよ」
「盤面って何よ、盤面って! 私はただ、普通に楽しく一緒に花火を見たいだけなのに……!」
「普通、とな? 相手はあの朴念仁じゃぞ?」
神子は呆れたように大げさなため息をつき、わざとらしく首を振ってみせた。
「あやつ相手に『普通』などという生温かい甘えが通じると思うておるのか? 百年や二百年、ただ黙って横に並んでおるだけでは、『今日も良い夜風じゃな、千代』とでも満足げに微笑んで、それで終わるのが関の山じゃ。汝はそれでも良いのか?」
「うぐ……っ」
言葉に詰まった。悔しいけれど、ありそうすぎてこれっぽっちも反論できない。
あの人は、私がどれだけ隣でソワソワしていても、本気で「仲の良い友人と風情を楽しんでいる」としか思わない男だ。一人の少女として扱ってくれてはいても、そこから一歩踏み出すための境界線が、彼の頭の中では信じられないほど強固にロックされている。
「あ、あの……八重宮司様」
蚊の鳴くような震える声で、それまで硬直していた綾華ちゃんが恐る恐る手を挙げた。まだ顔の赤みは引いていないというのに、その琥珀色の瞳には、信じられないほどの真剣な光が宿っている。
「その……恋愛小説のプロとしての視点から見て、やはり言葉で真っ直ぐ伝えるのと、先ほど私が申しましたような、詩や舞を用いるのでは……どちらが、その、効果的なのでしょうか……っ?」
「おっ、綾華ちゃん、いつの間にかしっかりガチ勢の顔になっとるやん!」
宵宮が嬉しそうにちゃぶ台を叩く。
「綾華ちゃんまで神子の毒気に当てられないでー! 先生って呼ばれて調子に乗ってるだけだから!」
私が必死に止めようとするのもどこ吹く風、神子はフフンと胸を張り、大層満足げに口を開いた。
「良い質問じゃ、神里の娘。教えてやろう」
神子は実にもったいぶった動作で私たちを見渡した。その瞳に宿る輝きは、お祭りを楽しむ子供のようでもあり、すべてを見透かす巫女の鋭さでもある。
「世の『自覚なき極度の朴念仁』という生き物はな、風情や芸術そのものを解する心はちゃんと持ち合わせておるのじゃ。美しい舞を見れば『流麗で実に見事だ』と心から称賛し、情緒ある詩を聴けば『深く心を打つ良い歌だな』と大真面目に感動する。……じゃが、問題はその先じゃ」
神子は一転して、哀れみの混じった呆れ顔でため息をついた。
「あやつらはな、その美しさや感動を『自分に向けられた恋慕』という、至極個人的な情愛の回路に結びつける機能が決定的に壊れておる。どれほど想いを込めて舞おうが、詩に恋心を滲ませようが、ただの『友人が素晴らしい芸を披露してくれた』という純粋な感銘だけで完結させてしまうのじゃ。向けられた好意を悪気なく友愛へと変換してしまう……これほど質(たち)の悪い生き物もおらん」
「う……」
あまりに的確な『朴念仁万人』に対する分析に、私の隣で綾華ちゃんが小さく息を呑んだ。
彼女は手にした扇子をぎゅっと握りしめ、頭の中で誰か――おそらくはあの金髪の旅人の姿を思い浮かべているのだろう、身につまされたような、どこか切ない表情で視線を伏せている。
「なるほどなぁ……。風情が分かるからこそ、逆に厄介ってわけか。直球でいかんと、全部『ええ友達や!』で片付けられてまう国宝級の強敵ちゃうわけか」
宵宮が腕を組み、大真面目な顔で深く頷いていた。
私も神子の言葉を聴きながら、脳裏に蒼雲のあの少し呆れたような、でもどこか優しい微笑みを思い浮かべていた。
確かにあの人は、私がどんなに慣れない舞を見せても、きっと真剣な目で見届けて、終われば「良い舞だったな、千代」と、少しも揺らぐことのない綺麗な瞳で褒めてくれるに違いない。そこに私の『女の子としての決死の覚悟』が詰まっているなんて、夢にも思わずに。
私が再び頭を抱えそうになったその時、神子は開いていた扇子をパチンと小気味よい音を立てて閉じた。
「じゃからこそ、最初はそんな遠回しな手立ては伝わりにくいと諭すつもりじゃった。……じゃがな、千代。そして神里の娘よ」
神子は私たちを交互に見つめ、その唇の端を、どこか優しく、そして神秘的な弧へと言い換えた。
「言葉で真っ直ぐに心臓を射抜くか、それとも己の信じる美学と風情を貫いて魅せるか……。結局のところ、最後にどの手札を切るかは、汝ら自身が自らの魂で決めることじゃ。物語の結末を決めるのは、作者ではなく、いつだって渦中にいる生者たちなのだからな」
「自分で……決める」
私は手の中の、少し冷めかけた湯呑みを見つめた。
神子の言う通り、あんな朴念仁に詩や舞なんて高尚なもので挑んでも、気づかれない可能性の方が高いのかもしれない。普通に考えたら、宵宮の言うように言葉で真っ直ぐ伝えるのが一番確実だ。
……けれど。
私の胸の奥で、かつて影たちと共に過ごした五百年前の、あの穏やかで美しい稲妻の夜の記憶が、静かに波紋を広げていた。不器用で、武骨な私だからこそ、あえて別の方法で伝えてみたいという、小さな、本当に小さな衝動が、心の片隅で芽生え始めていることに気がつく。
(詩を詠むか、言葉で叫ぶか……。それとも……)
「むにゃ……もう、作戦会議は終わり……? お祭り、お団子……」
部屋の隅で、早柚がうとうとと身を震わせながら、小さな寝言を漏らした。
「ふふ、それじゃあ講義はここまでじゃ。今夜、長野原の花火の下で、汝らがどんな選択をするか……妾は特等席で楽しみにさせてもらうぞ?」
神子は立ち上がり、悪戯っぽく微笑みながら部屋を後にしようとする。
今夜、祭りの喧騒が最高潮に達するその時、私は蒼雲の前に立つ。
神子のアドバイスを受けてなお、私の心はまだ激しく揺れ動いていた。真っ直ぐな言葉をぶつけるべきか、それとも、私の想いを乗せた別の形を選ぶべきか。
その結末がどうなるのかは、まだ私自身にも、誰にも分からなかった。
ただ、窓の外から差し込む朝陽はどこまでも眩しく、今夜の決戦の時間を、一刻一刻と静かに手繰り寄せているのだった。
ーーーーーーーーーーーーー
茜色に染まりゆく稲妻の空が、次第に濃い紫の帳を下ろし始めていた。
お祭りの始まりを告げる遠くの喧騒や、屋台から漂う香ばしい匂いが、そよ風に乗って俺の鼻腔をくすぐる。周囲の木々にはぽつぽつと赤い提灯の明かりが灯り、夕闇の静寂を優しく照らし出していた。
「……………」
俺は約束の場所である木々の木陰に佇み、無意識のうちに己の右手の平を開閉した。先日の人形(将軍)との死闘で、禁忌の炎を限界まで解放した反動の熱は、今はもうほとんど引いている。千代に心配をかけるような無様な姿は見せられないと、自分なりに体調を整えてきたつもりだった。
懐中時計を取り出して時刻を確認する。約束の時間までは、まだいくらかの余裕があった。
「早く着きすぎたか……?」
誰に言うでもなく呟き、ぽつりと息を吐く。柄にもなく、数百年ぶりの「祭り」というものに対して、胸の奥が妙にそわそわと落ち着かない。じっと佇んでいる時間が、いつもより少しだけ長く感じられた。
――その時、トントンと小気味よい、しかしどこか躊躇いがちな足音が、こちらに向かって近づいてくるのが聞こえた。
「蒼雲!」
弾むような声に顔を上げると、木陰の向こうから彼女が姿を現した。
「待った?」
小走りで駆け寄ってきた千代は、少し上目遣いで俺の顔を覗き込みながら、はにかむように微笑んだ。
その瞬間、俺は不意を突かれたように、一瞬だけ言葉を失って立ち尽くしてしまった。
彼女が身に纏っていたのは、普段のものではなかった。
それは以前、まだ目狩り令が続いていた頃、気晴らしにと二人で密かに稲妻の街へ繰り出した時に買った、あの着物だった。千代の綺麗な髪の色によく映える淡い色彩の生地に、繊細な模様が施されている。慣れない着物の裾を少しだけ気にしながら、両手を前で控えめに合わせている彼女の姿は、いつもの名だたる魔物を斬り伏せる「鬼の武神」としての凛々しさはどこへやら、まるでどこかの奉行所の箱入り娘かと思うほどに、ひどく可憐で、新鮮だった。
「いや、全然」
俺はすぐに我に返ると、いつもの調子を崩さないように平然と答えた。
胸の奥が、夕暮れの心地よい暖かさとはまた違う、妙な熱を帯びてトクンと跳ねたような気がした。
「…………」
「…………」
流れ出す沈黙が、妙に重い。
お祭りの賑やかなお囃子が遠くから響いているというのに、俺たちの周囲だけ、まるで時が止まってしまったかのようだった。
千代はうつむいたまま、着物の帯の端を所在なさげに指先でいじっている。俺もまた、どこに視線を向けていいのか分からず、ただ所在なく佇むしかなかった。
(なぜだ……? なぜ何も喋らない……?)
冷や汗が背中を伝う。かつて天守閣前で雷電将軍と刃を交えた時でさえ、ここまで胃が痛くなるような緊張感は味わわなかった。
俺の態度に何か至らない点でもあっただろうか。待ち合わせに早く着きすぎたのが良くなかったのか、それとも、さっきの俺の挨拶が素っ気なさすぎただろうか。心当たりを探れば探るほど、深みにはまっていく。
(いや、それより……まずはこの、耐えがたいほどにむず痒い空気をなんとかしなくては)
俺は小さく咳払いをひとつして、固まった思考を必死に動かし、なんとか絞り出すようにして言葉を紡いだ。
「……こうして、二人で街に出たのも久しぶりだな」
「そうだね……」
千代が小さく息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。夕暮れの茜色と提灯の淡い赤光に照らされた彼女の頬は、いつもよりずっと朱が差しているように見える。
彼女はほんの少しだけ首を傾げると、自らの結い上げた黒髪の、左の耳元あたりを細い指先でそっと触った。
「ねぇ、頭につけたこの髪飾り……」
そこにあったのは、精巧な細工が施された、小さな桜を模した髪飾りだった。
千代の艶やかな黒髪の中で、その薄紅色の細工が、お祭りの明かりを反射して健気にきらめいている。
「前に蒼雲がくれたものなんだけど……どう、かな?」
「――っ」
心臓が、本日二度目の奇妙な跳ね方をした。
そうだ、それはまだ鎖国令が敷かれていた頃、彼女の気晴らしにと、俺が街の露店で見つけてなんとなく手渡したものだった。まさか、あの時の他愛のない贈り物を、今日この日のためにわざわざ大事にとっておいて、しかもこの着物に合わせてつけてきてくれるなんて。
直視するには、今の千代はあまりにも眩しすぎた。
俺のために着飾り、俺が贈ったものを身につけて、少し不安そうにこちらの反応を待っている一人の少女。その健気な姿に、俺の頭の中は一瞬で真っ白になり、長年培ってきたはずの仙人としての冷静さはどこかへ吹き飛んでしまった。
「に、似合ってるんじゃないか……?」
喉の奥が妙につっかえて、声がわずかに裏返りそうになる。
俺の返答に、千代は一瞬だけ丸く目を見張り、それから、嬉しさを隠しきれないようにパッと顔を輝かせた。その満面の笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥の熱は、夏の夜のどんな花火よりも激しく、静かに燃え上がっていく。
「本当? よかった……」
千代は耳の尖った先端までほんのりと赤く染めながら、胸の前で小さく手を握りしめた。その仕草の一つ一つが、いつも俺の前で見せる勝気な彼女らしくなくて、どうにも目のやり場に困ってしまう。
「……よし、それじゃあ行くか。あまり遅くなると、屋台の通りが人で埋まってしまうぞ」
「うん!」
俺たちは並んで歩き出した。
稲妻城下へと続く石段を下りていくと、提灯の光はいっそう鮮やかになり、お囃子の音と人々の笑い声が、心地よい地響きのように押し寄せてくる。
人混みに入った途端、俺は自然と歩幅を狭めた。普段の戦装束ならいざ知らず、今の千代は慣れない着物姿だ。裾が突っ張るのか、いつもより心持ち小さな歩みで、俺の半歩後ろをついてきている。
「千代、歩きにくくないか? 人混みも激しい、無理はするなよ」
「大丈夫、これくらい平気だよ。……それより、蒼雲って本当に過保護だよね」
「過保護? 俺が?」
心外だな、と俺は眉をひそめた。
ある女性と交わした二つの約束――その一つが「ここ稲妻の地に居場所をつくり、元に近い平穏な生活を送らせる」ことだ。目覚めたばかりで、五百年の空白に戸惑う友人が、人混みで転んだり迷子になったりしないよう気を配るのは、契約を結んだ身として当然の義務だろう。それを過保護などと、千代は大げさすぎる。
「そうだよ。自覚がないところが、本当に……ねぇ」
千代は小さくため息をつき、それから何かを堪えるようにクスクスと笑った。
賑わう通りを進みながら、三色団子や緋櫻餅の屋台を冷やかす。千代は美味そうに団子を頬張りながらも、時折、遠い目をして何かを深く考え込んでいるようだった。その最中、彼女は何かを呟くように、小さく唇を動かしている。
(……何か、言葉の練習でもしているのか?)
その横顔を盗み見ながら、俺は微かな違和感を覚えていた。
今日の千代は、どこかおかしい。いや、おかしいというよりは、何か重大な決意を秘めているような、不思議な緊張感がその引き締まった横顔から滲み出ているのだ。影を無事に一心浄土から連れ戻し、目狩り令も廃止された。稲妻を揺るがした大事件は解決したというのに、彼女の胸中にある『戦い』は、まだ終わっていないのだろうか。
「……千代、どうかしたか? 何かあるなら――」
「違う違う! なんでもない本当になんでもってば! もう、蒼雲はすぐにそうやって心配するんだから」
千代は慌てて手を振り、俺の言葉を遮った。
「おや? そこのお二人は……」
不意に、屋台の並びから声をかけられた。振り返ると、的当ての遊戯――『射的』の屋台の店主が、目を丸くして俺たちを見ている。
「将軍様の目を覚まさせた、千代さまと蒼雲さまではないですか?」
「そんな大層なことはしていない。それより、これは?」
俺は店先に並べられた弓と的を見て首を傾げた。
「これですか? これは――」
「射的だよ」
店主の言葉を遮るように、千代が横から身を乗り出した。
「射的?」
「璃月にはないの? 弓で的を射て景品をもらう遊びなんだけど」
「少なくとも俺は遊んだことはないな……。店主、二人分頼む」
「え? あっ、はい。今すぐ!」
店主が慌てて弓と矢を用意する。
「蒼雲もやるの?」
「俺もやってみたいと思ってな」
俺の言葉に、千代は少し驚いたような顔をした後、挑戦的にニヤリと笑った。
「そう。じゃあ勝負しよ?」
「勝負? 俺と、か?」
「ふふん。武芸じゃあ戦ってくれないだろうし、いや、そもそも勝てないし。でも弓なら純粋な技術だから問題ないでしょ?」
「なんだ……俺は水剣でも飛ばして景品を総取りしようと考えていたんだが」
「…………………」
その言葉に、店主があわわわわ、と顔を引き攣らせる。
「大人気ないし恥ずかしいからやめて! というかお店にも迷惑!!」
千代が慌てて俺の袖を引いた。
「……景品を千代にあげるつもりだったんだが」
「そ、それでもダメ!///」
千代は顔を赤くして、俺を小突いた。可愛らしく叩いているが、結構痛い。
その時、周囲の客や通行人たちが、何やらヒソヒソと囁き合っているのが耳に届いた。
『バカップルだ……』
『おい、あれでまだ付き合ってないらしいぞ?』
『もう付き合っちゃえよ!』
稲妻の民の言葉は時折理解に苦しむ。怪訝に思いながらも、弓を構えた。
その後。
弓の勝負は結局決着がつかず、何度も的を射た結果……並べてあった景品が底をつきかけ、店主に泣きつかれるという事態に陥った。仕方なく、俺たちは二人で狐のお面を一つずつ選ぶだけにして、その場を収めたのだった。
「結局……狐のお面だけになったな」
俺が手にした狐の面を見つめて言うと、千代は自分の面を嬉しそうに胸に抱いた。
「そう? 私はこれで良いと思うよ?」
「なぜだ?」
「……だって、蒼雲と射的で遊べた証がこうして手に入ったし。ほら、見て?」
千代は自分の面と俺の面を指差し、とびきりの笑顔を向けた。
「お揃いだよ?」
「お揃い……お揃いっていいことなのか?」
心底不思議に思って首を傾げると、千代は一瞬呆れたような顔をし、それから頬を膨らませた。
「ムゥ……私は嬉しいの!!」
千代はプイッと前を向くと、少し早足で歩き出し、それから小さく深呼吸をして振り返った。
お揃い……お揃い……思い出になるねってことで自分の中で落ち着かせることにした。聞いたら、機嫌を損ねる気がしたからだ。
「はぁ、気分切り替えよ。あのね、今夜の花火……宵宮が、一番きれいに見える特等席を教えてくれたの。打ち上げが始まる前に、そこに行かない?」
「ああ、お前がそうしたいなら、喜んで付き合おう」
「どこで見ると良いんだ?」
問いに、千代は人混みの合間から、遥か高くにそびえる影向山の頂を小さく見上げた。
「鳴神大社かな? 今なら神子もいないと思うし……。あっ、でも、ここからだと流石に遠いよね。もうすぐ打ち上げが始まっちゃうし、その着物じゃ階段を登るだけでも一苦労だし……」
千代は困ったように眉を下げ、自嘲気味に笑った。
確かにあの大社からであれば、稲妻の夜空全体を見渡せる最高の特等席だろう。あの喧しい女狐の邪魔が入らないというのも、静かに花火を鑑賞するにはこれ以上ない利点だ。
だが、千代の言う通り、このお祭り騒ぎの人混みの中を、登るにはあまりにも時間が足りない。普通に進めば、山頂に着く前に夜空に大輪の華が咲いてしまうだろう。
ならば、手段は一つしか残されていない。
「心配は要らない」
「え?」
千代が不思議そうに目を丸くした瞬間、俺は迷うことなく一歩踏み込み、彼女の細い身体を躊躇なく両腕で抱え上げた。
着物の美しい裾が乱れてしまわないよう細心の注意を払いながら、片腕を彼女の背中に、もう片方の腕を膝の裏へと滑り込ませる。文字通り、俺の腕の中にすっぽりと収めるような形だ。突風や急激な加減速があっても、決して彼女を落とすことのない、最も物理的に安定した保持の体勢――いわゆる『お姫様抱っこ』と呼ばれている。と神子に教えられた。
「ちょっ! ちょっと蒼雲!? 何してるの?///」
案の定、千代は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、耳の尖った先端から首筋に至るまで、一瞬にして茹で上がったタコのように真っ赤に染まった。
あまりの動揺からか、俺の胸元を手で押し、腕の中で小さく暴れようとする。だが、これでも何千年と生きてきた仙人の端くれだ。この程度の重みでびくともするはずがない。
「安心しろ、俺がしっかり持ってやる。千代はただ身を委ねておけば良い」
俺は彼女の激しく揺れ動く瞳を真っ直ぐに見つめ、言い含めた。
これから仙術を使って空中を移動するのだ。万が一にでも手を離してしまえば、それこそ大惨事になりかねない。過保護と言われようが、契約を交わした身として、彼女の安全を第一に確保するのは当然の義務だ。
「ひゃ、ひゃい………//////」
気圧されたのか、それとも諦めたのか、千代は蚊の鳴くような声でそう呟くと、嘘のように大人しくなった。真っ赤になった顔を隠すように、俺の胸元にこてんと頭を埋める。
その小さな頭の温もりと、なぜか先ほどから俺の胸に伝わってくる、早鐘のように激しく打ち鳴らされる彼女の心音を感じながら、俺は軽く膝を曲げた。
「行くぞ」
一言そう告げると、周囲の水の元素を足元に収束させ、青畳の匂いが残る城下町の地面を力強く蹴り上げた。
人々の歓声とお囃子の音が一瞬にして遠ざかり、俺たちは夜空を切り裂く一陣の風となって、薄紅色の神櫻が待つ影向山の頂へと、一気に舞い上がっていった。
「……よし、到着だ」
周囲の水の元素を霧散させ、俺は鳴神大社の境内へと静かに着地した。
影向山の山頂は、城下町の喧騒が嘘のように静まり返っている。狙い通り、あの耳敏い女狐の気配もない。ただ、神櫻の葉が夜風に揺れる擦れ音だけが、心地よく響いていた。
術の反動がないことを確認し、俺は腕の中にある温もりをそっと地面へと下ろそうとした。
だが、千代は俺の胸元に顔を埋めたまま、一向に足をつこうとしない。それどころか、彼女の身体はさっきよりも明らかに硬直していた。
「…………………」
沈黙を保つ千代の頭頂部から、冗談抜きで「プシュー」と白い蒸気が立ち上るのが見えた。
驚いて彼女の顔を覗き込むと、耳の尖った先端から首筋に至るまで、限界まで熟した夕日のように真っ赤に染まっている。目は完全に泳いでおり、呼吸は浅く、今にも卒倒しそうな有様だった。
「千代!?」
俺は慌てて彼女の身体をしっかりと支え、もう片方の手でその額に触れた。手のひらから伝わってくるのは、尋常ではない熱さだ。
「おい、しっかりしろ! どこか悪いのか!?」
ただ事ではない熱量に、俺の脳裏を最悪の予測が駆け巡る。やはり先日の人形(将軍)との死闘の無理が今になって祟ったのか。それとも、俺の術の制御が甘く、移動時の風圧が彼女の体に障ったのか――。
――ベシッ!! べしべしべしっ!!
「イタッ! 痛い痛い、なんだ千代? そんなに叩いて」
突如、腕の中の千代が、涙目のまま俺の胸元を両手で激しく叩き始めた。いくら弱っているとはいえ、そこは鬼の血を引く武人の力だ。まともに食らえば骨が軋むほどの衝撃が、容赦なく俺の胸板へと叩き込まれる。
「……もう! いきなり心臓に悪いことをしないで!!/////」
千代は耳の尖った先端まで沸騰したように真っ赤に染め上げ、俺を睨みつけて叫んだ。その瞳には、怒りと、それ以上の言いようのない羞恥の色がぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
「え? ああ、すまない……って千代。力が強い……まだ叩くのか?」
俺は痛む胸を片手で押さえながら、困惑とともに謝罪を口にした。
なるほど、「心臓に悪い」か。確かに、いくら勝気な千代とはいえ、事前の断りもなく急に抱え上げられ、そのまま凄まじい速度で空中へ引っ張り上げられれば、動悸が止まらなくなるのも無理はない。完全に俺の配慮不足だった。深く反省せねばなるまい――そう胸中で頷いている間も、彼女の手加減のない拳はベシベシと俺を叩き続けている。地味に効く。
やがて、千代はがっくりと肩を落とすと、叩く手を止めて俺の胸元に額を押し当てた。
「少しは気づいてよ……」
消え入るような、微かな呟き。夜風に溶けてしまいそうなほど、ひどく切なくて、もどかしい響きが、至近距離の彼女の唇から漏れ聞こえた。
「え? なんと言ったんだ?」
花火の打ち上げを待つ静寂の中、俺はその言葉の真意を掴みかねて、千代の顔を覗き込もうと耳を傾けた。体調の異変についての訴えだろうか。
「……もう良い!」
千代はぷいっと勢いよく顔を背けると、俺の腕から今度こそ完全に抜け出して地面に足をつけた。そして、まだ赤みの引かない顔を隠すように、少しそっぽを向いたまま、ぽつりと静かに言葉を繋いだ。
「それより……ありがとね」
「……?」
「影で色々と動いてくれたんでしょ? 私が社奉行で働けるように……」
彼女の視線が、恥ずかしそうに、でもどこか愛おしそうに、俺の足元へと向けられる。
神里家への根回しの件か。
現実に戻った際、腐敗した天領奉行の有様に千代が心を痛めているのは、その曇った表情を見ればすぐに分かった。五百年の時を経てようやく掴み取った彼女の新たな生を、そんな泥泥とした場所で汚させたくはなかった。だからこそ、信頼に足る社奉行の神里家へ、彼女の身元と居場所の手配を頼み込んだのだ。
それが、千代と交わした契約の履行であり、俺の果たすべき当然の義務。
「気にするな。お前が稲妻の地で健やかに暮らすためなら、これくらいは――」
俺が答えようとした、その瞬間だった。
ヒュルルルル……と、遥か下の城下町から、夜空を切り裂く甲高い音が影向山の頂にまで響き渡った。
――ドンッ!!!
一瞬の静寂ののち、腹の底を揺らすような重低音と共に、暗闇に包まれていた稲妻の夜空が、鮮やかな黄金色に染まり上がる。大輪の華が弾け飛び、火花がサラサラと夜空を流れ落ちていく。
「あ……」
千代が、夜空を見上げて小さく声を漏らした。
次々に打ち上がる五色の光が、神櫻の淡い花びらを、そして彼女が身に纏う美しい着物を、万華鏡のように目まぐるしく、鮮やかに照らし出していく。
「綺麗………」
夜空を見上げたまま、千代がぽつりと呟いた。
万華鏡のように目まぐるしく変化する光の粒子が、彼女の潤んだ瞳に飛び込み、薄紅色の着物を鮮やかに染め上げていく。その横顔は、言葉を失うほどに幻想的で、どこか儚げだった。
「これが稲妻の花火か……」
俺もまた、胸の奥を震わせる轟音に身を委ねながら、きらめく光の雨を見上げていた。
故郷である璃月の『海灯祭』で夜空を埋め尽くす幾千の明宵灯(みょうしょうとう)――あの厳かで温かな黄金色の輝きにも、決して負けず劣らない。一瞬で激しく燃え上がり、世界のすべてを塗り替えるような眩い光。それはまさに、この国を生きる人間たちの、力強い『願い』の輝きそのもののようだった。
光の残滓がサラサラと夜闇に溶けていくのを見届けながら、俺は静かに息を吐いた。
「これで、俺の仕事は終わり……ここまでの長い仕事になるとは思ってみなかったが、ありがとう。ここでの出来事は、決して忘れることはないだろう」
影を無事に連れ戻し、千代の新たな居場所も社奉行に確保できた。五百年前の因縁に一つの決着をつけ、ある女性と交わした「千代を頼む」という契約をようやく全うできたという、確かな安堵がそこにはあった。俺にとっては、一つの大きな区切りとしての、純粋な感謝の言葉だった。
だが――。
「……………ッ!」
隣にいた千代が、まるで鋭い刃で胸を突かれたかのように、小さく息を呑む気配がした。
驚いて視線を下ろすと、彼女はきつく唇を噛み締め、両手を胸の前で固く握りしめていた。夜空で次々に弾ける大輪の火花が、彼女の激しく揺れ動く瞳を、そして今にも泣き出しそうなほどに歪んだ表情を、残酷なまでに克明に照らし出す。
「蒼雲、……稲妻人はね、想いを込めて相手に詩を詠むって風習があるの」
「千代、それは……」
彼女の纏う空気のあまりの切実さに、俺は本能的に何かを察し、言葉を返そうとした。だが、千代はそれを許さないほどに強い眼差しで、俺の言葉を真っ直ぐに遮った。
「黙って聞いて!」
「あ、ああ……」
気圧された俺は、ただ頷くことしかできなかった。
夜風が神櫻の葉を激しく揺らし、サラサラと音を立てる。城下町から響くお囃子の音さえも、今の俺たちからは遠く遠く離れてしまったかのようだった。
千代は深く息を吸い込み、弾ける火花の光を背負いながら、その唇から静かに、祈るような調べを紡ぎ出した。
「空に咲く 花のしづくを 見あげつつ
君へこぼるる こゝろ消えずに」
その声は、花火の轟音に掻き消されそうなほどに震えていた。けれど、俺の耳の奥には、彼女の魂の叫びとして、あまりにも明瞭に響き渡る。
「意味はね、空に咲く花のしずく……光の粒を一緒に見上げながら、あなたへの恋心があふれてくる。花火のように一瞬で消えることなく、ずっとこの想いは、私の胸の中に残っています……っていう意味」
一歩、千代が俺との距離を詰めた。
慣れない着物の裾を握りしめ、耳の尖った先端まで、顔のすべてを真っ赤に染め上げながら、彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめて叫んだ。
「蒼雲、私はあなたが好き! これからも、ずっとここで、この稲妻で一緒に暮らしてほしい!」
「…………………」
世界から、すべての音が消え去ったような気がした。
千代の言葉が、その真っ直ぐな眼差しが、俺の胸の奥へと容赦なく突き刺さる。
頭の中が、経験したことのないほどの衝撃で真っ白に染まっていく。
彼女がどんな想いで俺の贈った髪飾りをつけ、どんな覚悟でこの着物を身に纏い、どんな気持ちで俺の腕の中に身を委ねていたのか。
そのすべての意味が、今、パズルのピースが噛み合うように一瞬で繋がっていく。
(そうか……。アイツの忠告、ちゃんと当たっていたのか……)
脳裏を過るのは、ほんの数時間前――まだ太陽が天高くを照らしていた頃、この影向山の松の木陰で、留雲のカラクリ鳥と交わした、静かな、けれどあまりにも重い会話の記憶だった。
「蒼雲……璃月での出来事は知っているか?」
松の枝に止まったカラクリの鳥が、カチカチと精巧な機械音を立てて俺を見下ろしていた。その赤い硝子の瞳の奥から、遠く離れた故郷にいる旧友の、どこか険しい声音が響く。
「ああ、俺が封印したヤツが密かに復活したって話だろ?」
俺は腕を組み、右手の奥に燻る鈍い熱感覚を確かめながら、他人事のように淡く答えた。
「その通りだ。おそらく禁忌滅却の札、オセルの復活と同じ原理だろう。アレは……我々の手には負えない。帝君も神としての座を降りた……今ここで頼れるのは――」
「分かっている。そろそろ俺も、後始末をつけようと考えていたところだ」
俺は留雲の言葉を遮るように言った。自分が過去に遺した因縁だ。あの禍々しい禁忌の炎を再び完全に解き放つことになろうとも、俺自身の手で決着をつけねばならない。それが、俺の背負うべき宿命だと思っていた。
「本当に良いのか?」
留雲の声が、いつになく真剣な響きを帯びる。
「千代も過去と向き合い、前に進み出した。もう、俺と一緒にいる意味はな――」
そこまで言いかけて、俺は言葉を濁した。彼女はもう影を救い出し、社奉行という新たな居場所も見つけた。アビスの呪縛からも、五百年の孤独からも解き放たれ、稲妻の『今』を生きようとしている。ならば、過去の亡霊であり、これから戦地へ赴く俺が彼女の隣に留まる理由は、もうないはずだった。俺がどのような結末を迎えるにせよ、彼女をこれ以上、俺の因縁に巻き込むわけにはいかない。
「――そういう意味ではない」
カラクリの鳥が、羽を小さく羽ばたかせて俺の諦念を叩き切った。
「お前は過去のトラウマから、大切なものを得ることを恐れているだけだ」
「何……?」
「彼女はお前を好いているぞ?」
その言葉は、予想もしない角度から俺の胸の奥へと容赦なく飛び込んできた。
「留雲……お前まで、何の冗談だ?」
俺は思わず眉をひそめ、不快感を隠さずに声を低くした。千代が俺を信頼し、親愛の情を向けてくれているのは知っている。だが、それは五百年ぶりに再会した唯一の『友』としての情誼(じょうぎ)に過ぎない。俺のような無骨な仙人に、そんな世俗の男女が交わすような情愛が向けられるはずがないと、心のどこかで頑なに決めつけていた。
――いや、認めれば、またそれを失う恐怖に晒されるからと、無意識に心を閉ざして、都合の良い解釈の盾で覆い隠していただけなのかもしれない。
「本日の祭典で、告白でも起きた時、なんと答える?」
「俺は…………」
言葉が詰まった。あり得もしない仮定の話だと笑い飛ばすべきなのに、なぜか喉の奥が引き攣るように熱くなる。
「仙人である以前に、今まで日々を共にして過ごしてきた彼女を、悲しませるような答えは言わないことだ」
留雲の、どこか祈るような、そして諭すような重い言葉が、影向山の静寂に染み渡っていく。
「……そんなことには、ならないはずだ」
俺はそれ以上聞きたくなくて、突き放すように背を向けた。千代はそんな風に俺を見てなどいない。これは留雲の、あるいはあの女狐の悪趣味な勘違いだ――そう自分に言い聞かせ、思考を強制的に打ち切ったのだ。
カラクリの鳥は、それ以上何も言わなかった。ただ、遠ざかる俺の背中に向けて、
「……………全く、アイツは本当にいつになったら前へ進むのか」
という、心底呆れた、けれど酷く哀しげな呟きだけを残して。
――そして、今。
ドン、と夜空で弾けた大輪の花火の轟音が、俺の意識を強烈に現実へと引き戻した。
目の前には、耳の尖った先端から首筋までを限界突破したように真っ赤に染め上げ、目を瞑り下を向いたまま俺を真っ直ぐに見つめる千代がいる。となると、みんな気づいて……いや、留雲の言う通り俺は逃げていたのか、だが、ここで了承するのは……
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「………………っ!」
叫ぶように想いを告げた瞬間、私の世界は完全に静止した。
ギュッと目を瞑り、これ以上ないほどの羞恥心に襲われて、私は思わず下を向いてしまった。耳の尖った先端から首筋に至るまで、体中の血液が沸騰したかのように熱い。心臓の音がうるさすぎて、さっきから夜空で鳴り響いているはずの花火の轟音すら、遠い地鳴りのようにしか聞こえなかった。
下を向いたまま、私はきつく着物の袖を握りしめる。目を瞑っていても、目の前に立つ蒼雲の、あの圧倒的な存在感と戸惑いの気配が痛いほどに伝わってきた。
――沈黙。
一秒が、まるで百年にも感じられるような、息の詰まる静寂だった。
やっぱり、伝わらなかったのだろうか。それとも、あまりにも唐突すぎて、あの朴念仁を困らせてしまっただけだったのだろうか。不安の波が容赦なく押し寄せ、胸の奥がギリギリと締め付けられる。
「………………っ!」
耐えきれず、私は小さく息を溢しながら、弾かれたように顔を上げた。瞑っていた目を開き、涙の滲む瞳で、真っ直ぐに彼の顔を見つめ返す。
蒼雲は、彫刻のように端正な顔を強張らせ、見たこともないほどに真剣な、そしてどこかハッとしたような眼差しで私を見下ろしていた。その瞳の奥には、いつもの「守るべき友人を見る過保護な光」ではない、一人の男としての、激しい動揺と深い葛藤の炎が揺らめいているのが見えた。
彼がゆっくりと唇を開く。その声音は、いつもの大真面目なトーンでありながらも、どこか私の魂を震わせるような、特別な重みを孕んでいた。
「ありがとう千代。お前の気持ちは伝わった。……だが、答えは少し待ってくれないか?」
「え……?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
待ってほしい、という言葉が、遠回しな拒絶のように思えて、私の視界が微かに歪む。やっぱり、あの人にとって私は、ただの過去を共にした友人でしかないのだろうか。せっかく紡いだ詩も、決死の告白も、彼の心の殻を破ることはできなかったのだろうか。
そんな私の不安を見透かしたように、蒼雲は一歩、私との距離を縮めた。
彼は私の両肩にそっと手を置く。その手のひらの、いつもの武骨で、でも堪らなく愛おしい温もりが、着物越しに私の肌へと染み込んできた。
「お前がこうして覚悟を見せてくれたのに、俺が覚悟を見せないのも変な話だろ」
蒼雲は俺の目を真っ直ぐに見つめ、一言一言を噛み締めるように続けた。その瞳に宿る光は、かつてどんな魔神や厄災を前にしても決して揺らがなかった、あの孤高の仙人の、本気の輝きだった。
「近いうちに、璃月で海灯祭が開催され、そこでも花火が打ち上がる。そこで――俺の答えを聞いて欲しい」
「海灯祭、で……」
彼の言葉の真意が、ゆっくりと私の胸の奥へと染み渡っていく。
拒絶されたわけではなかった。あの人は、私の命がけの想いから、もう逃げないと決めてくれたのだ。私が五百年分の覚悟を持ってぶつかったからこそ、彼もまた、己の過去やトラウマ、仙人としてのすべてを懸けた『本気の覚悟』を持って、私に答えを返そうとしてくれている。
そのことが分かった瞬間、私の胸の奥の涙は、温かな希望の熱へと変わっていった。
ヒュルルルル……と、再び夜空へ昇っていく光の粒が、私たちの影を神櫻の根元に長く伸ばす。
ドン、と弾けた大輪の花火が、蒼雲の決意に満ちた横顔を、そして私のまだ赤みの引かない顔を、眩いばかりの五色に染め上げた。
「……うん。分かった。待ってる、私、いくらでも待つから」
私は小さく頷き、今度こそ、心からの微笑みを彼に返した。
今夜、この稲妻の空に咲いた花火の下で、私たちの時間は確かに新しく動き出した。その結末がどうなるのかは、まだ誰にも分からない。けれど、次に訪れる璃月の海灯祭の夜空の下で、蒼雲がどんな言葉を私に紡いでくれるのか――。
舞い散る神櫻の花びらの中に、私たちは静かに、けれど決して消えることのない、未来への確かな約束を刻み込むのだった。
数日後。
潮風が心地よく吹き抜ける離島の港には、璃月へと出港する準備を進める南十字星の船が停泊していた。
水面が朝陽を反射してきらきらと輝く中、俺は出立の時を待っていた。
「先に行くの?」
少しだけ名残惜しそうな、けれどどこか晴れやかな声に振り返ると、見送りに来てくれた千代が立っていた。
「ああ。先に行って、璃月でやることがあるからな」
俺が封印した『アレ』の残滓の処理。そして、来るべき海灯祭に向けて、俺自身の決着をつけるための準備だ。
俺は千代の顔を見て、ふと気になっていたことを尋ねた。
「お前の方は大丈夫なのか? 将軍から、出国の許可は得ているんだろ?」
鎖国令が解かれつつあるとはいえ、まだ完全に自由な往来が保証されているわけではない。だが、その心配は杞憂だったらしい。千代が口を開くより早く、背後からひどく聞き慣れた、からかうような鈴の音が響いた。
「ああ、無論じゃ。親友である千代を助けてくれた御礼として、二人が親密を深める機会をと――」
「神子? 何勝手なことを言っているのですか?」
優雅に扇子を揺らして現れた八重神子の言葉を、冷ややかな声がぴしゃりと遮った。
見れば、神子のすぐ後ろに、稲妻の絶対的統治者であるはずの雷電将軍――影の姿があった。
「安心してください、蒼雲。此度は鎖国を解除しても本当に大丈夫かどうかの確認も兼ねておりますゆえ、出国の許可などという堅苦しいものはいりません。……それは、私も例外でなく」
「いや、一国の神がフラフラと出国するのは、それはそれで大問題だろう……っていうか」
俺は影の言葉に突っ込みを入れかけ、思わずその顔を二度見して絶句した。
彼女の顔には、どこぞの祭りの出店で買ってきたような、少し間の抜けた『狐のお面』が斜めに被せられていたのだ。天下人の威厳も何もない。
「なんだ、そのお面は……」
「これですか?」
影は至極真面目な顔で、お面の位置を少し直しながら答えた。
「神子が、『最近の城下ではこのようにお面をつけて回るのが大流行している』と教えてくれまして。民の視察に出るには、流行を取り入れるのが一番自然であろうと」
「…………」
俺は、隣で口元を隠し、肩を震わせて必死に笑いを堪えている女狐をジト目で睨みつけた。
相変わらず、関係性は昔から何も変わっていないようだ。影の世間知らずにつけ込んで、適当な嘘を吹き込んで遊んでいるのだ。
「おーい! 蒼雲! 何してるんだ? 行くぞ〜!」
船の甲板から、旅人と共に身を乗り出したパイモンが、元気よく手を振って俺を呼んでいる。どうやら、出航の準備が整ったらしい。
「はいはい。今行く」
俺は小さく息を吐き、呆れ顔を引っ込めて、改めて目の前の少女に向き直った。
千代は、神子と影のやり取りに苦笑しながらも、そのまっすぐな瞳で俺を見つめている。
「それじゃ、またな」
「うん、またね」
千代は大きく手を振り返してくれた。
その笑顔には、もう五百年の暗い影はない。ただ、未来の約束を胸に抱いた、等身大の少女の輝きがあった。
俺は背を向ける。
次に会う時は、黄金に輝く明宵灯が空を埋め尽くす、俺の故郷で。
遠ざかる稲妻の地を背に、俺の胸の中には、これから始まる新たな日々への、静かで確かな熱が灯り始めていた。
璃月編ミスリード
崩壊していく空間。一歩も動けないほどに破壊し尽くされた大地の上で、禍々しい影が嘲笑うように嗤った。
「何千年と眠ってやったかと思えば……結局はその程度か?」
その声には、圧倒的な支配者の余裕と、底知れぬ失望が混ざり合っている。影はさらに、抗うことすら許さない絶対的な圧力を以て、目の前の男へと宣告した。
「受け入れろ、己が使命を、力を。お前にはそれが……」
だが、影の言葉は唐突に遮られた。目の前で崩れ落ちそうになっていた男の身体から立ち上る、異様な気配に気づいたからだ。
「何をするつもりだ!?」
「……ハッ! 貴様なんぞの負け犬に、泣き面晒して教えに従うなど――」
全身の骨が軋み、肉体が引き裂かれるような激痛の中、男は血に塗れた唇を歪めて、狂おしいほどに不敵な笑みを浮かべた。その身体を包み込んでいるのは、命を燃料にして激しく燃え盛る、禍々しい赤黒い炎。ボロボロになった衣の隙間から覗く肌には、無数の傷が刻まれていたが、その瞳だけは決して屈することのない鋭い光を放っている。
「あってはなるものか!」
その瞬間、男の身体から底なしの深淵――アビスの瘴気が爆発的に溢れ出た。それと同時に、あらかじめこの空間の全域に張り巡らされていた、法術の紋様が、地響きと共に青白い光を放って脈打ち始める。
「心配するな、これは我が嫌いでたまらん、もう一人の我、蒼雲も決めたこと……」
男は、自らの内に潜むもう一つの人格、呪われた己の半身を自嘲するように呟き、空間を侵食していく光の鎖を見つめた。
「ある一定量以上のアビスを纏いしものを封印する法術」
男の足元から伸びた幾条もの光の楔が、男自身の身体と、そして目の前の影の足元を確実に捉え、絡みついていく。
「これで貴様と我は、一生出られることはない………地獄までお供してやる。父上殿?」
その捨て身の目論見に気づいた影の余裕は一瞬で吹き飛び、空間そのものをへし折るかのような、絶望と怒りに満ちた怒号が響き渡った。
「そこまでして使命を放棄するか!!!」
激しい光と闇の濁流が、すべての音と景色を飲み込み、世界を完全な混沌へと突き落としていく――。
すまんな………千代。
視界が完全な暗黒へと塗り潰されていく刹那、俺の脳裏に鮮明に蘇ったのは、あの影向山の頂で、夜空の花火に照らされながら必死に想いを伝えてくれた、お前の真っ赤な顔と、笑顔だった。
約束は、果たせそうにない。
次の海灯祭で、俺の本当の覚悟と答えを聞かせると誓ったのに。俺はお前を利用していたことを謝罪しなければならないのに。あの時、小さな手を握り返して、待っていてくれと言ったのに。俺の不甲斐なさのせいで、また一人、この世界の光の中に置き去りにしてしまう。
後のことは留雲、お前に託す。
俺の代わりに……俺が伝えるはずだった本当の答えを、千代に聞かせてやってくれ。彼女のこれからの歩みを、どうか支えてやってほしい。
そして、神子たちも……千代の、これからの稲妻での生活をお願いする。
彼女が五百年の傷を乗り越え、ようやく見つけることができた大切な居場所を、どうか守ってやってくれ。
御礼もろくにしないままで、本当にすまなかった。
俺を縛る因縁が、肉体を、魂を、永遠の闇の底へと引きずり落としていく。意識が遠ざかる最後の瞬間まで、俺の胸の奥に残り続けていたのは、あの稲妻の夜空に咲いた、一瞬の、しかし何よりも温かい光の記憶だった。
おまけ2:告白の背後で動きし者
それは、お祭りを目前に控えた日の昼下がりのこと。
千代が宵宮や神里綾華、そして突如乱入してきた八重神子と共に、木漏茶屋の部屋で熱い「作戦会議(という名の女子会)」を繰り広げていた、まさにその背後での出来事である。
「もし、千代ちゃんの思い人が、その可愛い本音を受け入れんようなら――」
ちゃぶ台を前に、宵宮がニヤリと不敵に笑いながら、背中から愛用の弓を取り出して引き絞る身振りをしてみせた。
「弓矢でドッカーンや!」
ふすま一枚を隔てた廊下の影で、お茶の準備をしていた社奉行の宿老――トーマは、その物騒極まりないセリフを耳にした瞬間、手にしたトレイを落としそうになりながら冷や汗を流した。
(ま、まずい……! もし相棒がヘマをしたら、本当に爆破しかねないぞ……!)
このままでは、ただでさえ色恋沙汰に疎い朴念仁の蒼雲が、文字通り「木っ端微塵」にされかねない。危機感を覚えたトーマは、すぐさま木漏茶屋を抜け出し、このお祭りに合わせて稲妻に滞在していた「相棒」たちのもとへと走った。
「――ってことがあったんだよ!」
城下町の片隅、人目のつかない路地裏に集まった面々に向けて、トーマは息を切らしながら事の顛末を報告した。
「え、えぇ………」
話を聞いた金髪の旅人は、引いた引きつった笑いを浮かべながら、片手で額を押さえた。想像以上の物騒さに、さすがの彼も言葉を失っている。
「宵宮のやつ……相変わらず大胆だなぁ」
旅人の隣でふわふわと浮いているパイモンが、小さな腕を組んでうなった。
「でもよ、花火くらいならお祭りの景気づけに――」
「いや、それだけじゃないんだ」
トーマは深刻な顔で首を振り、パイモンの言葉を遮った。
「オレ、道ばたで出会った八重宮司が、嬉々としてあの女子会に連行されていくところも見たんだ。もし、おれたちの思惑通りに相棒がすんなりOKを出さなかったり、千代さんを泣かせるようなことにでもなれば……」
「過負荷反応でドーン、だね」
ひらひらと手を振りながら会話に混ざってきたのは、天領奉行の同心でありながら、なぜかここにいる鹿野院平蔵だった。彼は楽しげに顎に手を当て、探偵特有の鋭い笑みを浮かべる。
「長野原の特製花火と、宮司様の雷元素の術……。二人は大して傷はつかないだろうけどさ。せっかくのお祭りの雰囲気は、間違いなく最悪なものになる」
「はわわわ! マズイ、マズイぞ!!」
平蔵の具体的なシミュレーションを聞いて、パイモンが空中でジタバタと足を動かしながら慌てふためいた。
「せっかくの千代のやつの命がけの告白が、大爆発で台無しになっちゃうぞ! 旅人、なんとかしないと!」
「そこで、オレに考えがある」
トーマは不敵に微笑むと、旅人とパイモン、そして平蔵を手招きして声を潜めた。
「二人の告白ポイントを、あらかじめ『鳴神大社』にするように仕掛けるんだ。あそこなら稲妻全体を見通せるし、宵宮の花火を見るのにもこれ以上ない特等席だからね。そこで、オレたちが見張りをするんだよ。相棒が余計なヘマをして爆破されないようにね」
「おお! それはいいアイデアだな!」
パイモンはパッと顔を輝かせたが、すぐにハッとして眉を寄せた。
「でもよ、どうするんだ? 鳴神大社に行ったら、それこそあの耳敏い宮司さまが待ち構えてるんじゃないか?」
「ふふん、そのための手はもう打っておいた」
トーマは胸を張り、親指を立ててみせた。
「事前に『若(神里綾人)』に頼み込んでおいたんだよ。宮司様と将軍様、お二人でじっくりと『今後の稲妻の政(まつりごと)について語り合う場』を設けてもらった。さすがの宮司様も、将軍様が直々にお相手となれば、途中で抜け出すわけにはいかないからね。これでしばらくの間は、大社は完全に空っぽさ!」
「なるほどね。社奉行の若領主まで巻き込むとは、相変わらず根回しは完璧だ」
平蔵が感心したように口笛を鳴らす。
「よし! ならオレたちは急いで大社へ先回りして、物陰から二人を見守るぞ!」
「うん、蒼雲がちゃんと千代の気持ちに向き合えるように、裏でサポートしよう」
パイモンとトーマが拳を握りしめて熱く意気込む中、旅人が少し申し訳なさそうに、苦笑いを浮かべながら手を合わせた。
「ごめん、この後、綾華と城下を回る予定があるんだ……!」
「あ、そっか! 旅人はお嬢とお祭りを回る約束が。悪い悪い、それならそっちを最優先にしてくれ! ここはオレたちに任せて、デートを思いっきり楽しんできてくれ!」
トーマが爽やかな笑顔で旅人を送り出す。
ちなみに、一緒にいた鹿野院平蔵は「僕はここで野次馬をするより、遠くから静かに結末を見守るのが探偵としての性分だからね」と飄々とした態度でどこかへ消えてしまった。
結果として、影向山の影へと向かったのは、パイモンとトーマ、そしてトーマの熱い呼びかけに応えて集まった社奉行の隠密や勇士たちの大勢だった。彼らは鳴神大社の境内、薄紅色の神櫻の巨木の陰や社殿の茂みなど、あらゆる物陰に一糸乱れぬ動きで息を潜め、じっと「その時」を見守ることとなる。
そして――。
ヒュルルルル……ドンッ!!!
夜空を切り裂く甲高い音のあと、お腹の底に響く重低音とともに、暗闇に包まれていた稲妻の空に大輪の華が咲き誇った。長野原の花火が、ついに打ち上がったのだ。
その頃、甘金島。
賑やかなお祭りの屋台が立ち並ぶ通りから、少しだけ離れた海岸沿い。
「…………………」
宵宮は一人、屋台の近くに佇みながら、夜空を鮮やかに彩る自慢の花火を見上げていた。
次々に弾ける五色のきらめきが、彼女の夏の太陽のような瞳に美しく映り込んでいる。
(うまくいったやろか、千代ちゃん)
花火の轟音に掻き消されないよう、胸の奥でそっと千代の告白の成功を願う。
昼間、木漏茶屋の女子会で「受け入れんようなら弓矢でドッカーンや!」と不敵に笑い、裏でトーマたちを「まずい、本当に爆破される!」と大慌てさせていた張本人は、今こうして、一番平和に、遠い島から友達の恋路を見守っていた。
武器を構えることもなく、ただ純粋に祈るような笑顔を浮かべる彼女こそが、この慌ただしい夜の背後において、実は一番安全な場所にいる、誰よりも優しい応援団長だった。
稲妻篇が終わったら続きは何が良いか 選択によって稲妻篇の最後が変わる。
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璃月篇(海灯祭)※この話の本編
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引き続き稲妻篇