それでもダスカは走らない   作:シェーク両面粒高

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第22話 元の鞘/黒い澱

 正英をベッドに押し倒し、彼の両腕を手で押さえつける。元よりウマ娘とヒトの力関係上、彼に逃げ場はなかった。

 

「さあ、どうして怒ってたか聞かせてもらうわよ!」

「別に、スカーレットの勘違いだろ」

「アンタねえ……!」

 

 彼はこの期に及んでしらばっくれている。こんなに頑なな彼は珍しいから、絶対に裏に何かがある。それにやっぱり怒っている。

 

「ショックってなに!? アタシにあの子が手を繋いるとこ見られてたの、そんなに嫌だったの!?」

「…………」

 

 答えない。彼はそっぽを向いて貝のように口を噤んでいた。

 手で無理やりその口をこじ開けてやろうかしら……! 

 

「「…………」」

 

 埒が明かなかった。でも、ずっと口を閉ざしている彼を前にしていると、段々とこっちの激情の熱も冷めてきた。

 

「…………スカーレット?」

「悪かったわね。押し倒して」

 

 押さえつけていた彼の腕を開放し、お互い体を起こしてベッドの上で向かい合う形になった。

 アタシの頭も冷静になってきていた。中学までなら怒りや激情に任せて動いていただろうけど、大人になった今はこうして思考をリセットしてやり方を変えられるようになった。

 

「アタシ、なんか知んないけどアンタを怒らせたのよね。謝るわ。ごめんなさい」

「……いや、俺こそごめん」

「ねえ、正英。怒らないから、なんで怒ったのか教えてくれない?」

「…………」

 

 今度の彼は怒ったことを否定しなかった。

 

「……本当に、怒らないか?」

「そう言ったじゃない。何がショックだったの?」

「…………三己、信じるぞ……」

「? なんて?」

「……別に、幸せじゃなかったんだ」

「は?」

「あの子と手を繋いでたこと。スカーレット、幸せそうだって言ったけど、別にそうじゃなかった」

「……?」

「あの子とはお試しで付き合ってただけなんだ。だから──」

「お試しぃ!?」

「ちょっ!?」

 

 は? は? お試しで付き合ってた? は? 

 

「どういうことよっ! 説明しなさい」

「えっと……実は──」

 

 そうして彼は今までの事情を話し始めた。

 

 彼女の告白を断ったけど、サッカー部のキャプテン……幼馴染の先輩が出てきた手前断れずお試しで付き合うことになったこと。

 お試しで付き合うことは周りには秘密にしていて、手を繋いでデートをする以上のことはしていないこと。

 先日、1ヶ月が経過し付き合うのを終えたこと。

 

 そして何より、彼女に好意は全く抱いていなかったこと。最初から付き合うのを続ける気はなかったこと。

 たぶんそれが、アタシにとって一番大事なこと。

 

「そんな感じだったんだ」

「………………」

「……スカーレット?」

 

 でも、それはそれで置いといて。

 

「座りなさい」

「は?」

「そこに座るっ! 正座!」

 

 抵抗する彼をベッドから引きずり降ろして床に座らせた。その前で私は腕を組み仁王立ちをして彼を見下ろす。

 

 

「正英! アンタ、最っっっ低っ!!!!!」

 

 

「っ!?」

 

 びくっと肩を震わせた彼が驚いたようにアタシを見上げた。昔、アタシが説教していた時の幼い彼がうっすらと重なって見えた。

 

「あの子がアンタのこと好きでも、アンタが好きじゃないなら、はっきり断りなさいよっ!」

「いやだから、あっちがそう提案してきて──」

「関係ないっ! あのね、そうやって期待持たせる方があの子が可哀想だわっ!」

「…………」

「あの子の気持ちを本当に考えてあげるなら、ちゃんと最初の時点でフってあげなさいよ!」

 

 マネージャーもお試しで付き合うのはもしかしたら喜んでたかもしれない。でも、こうして結局フるのならその後が可哀想だ。諦めさせるなら期待を持たせるようなことをせずはっきりと最初の時点で諦めさせるべきだ。

 

 あの子、絶対に今はつらいと思う。最初にフラれるよりずっと。

 

「……先輩も出てきて頭下げられたら、断るの無理だ」

「はっ!? はああっ!?」

「な、なんだよ」

「アンタねえ……!」

 

 この期に及んでまだ言い訳をするなんて……! 

 

「先輩はいたかもしれないけど、これはアンタとあの子との話でしょ!」

「部活の人間関係ってのがあるんだって! 部活も総体だし、変な空気にはしたくなかったんだ。……スカーレットには分からないさ」

「っ!? バカっ!!!」

「っ……!」

 

 座り込んでまた至近距離で正英と向かい合う。今度は彼も視線を逸らさずこっちを見返していた。

 

「そんなの関係ないってさっき言ったじゃないっ!」

「っ! 俺、先輩のき……っ」

 

 彼は口ごもり言葉を飲み込んだ。表情が一瞬だけ硬直したように見えた。

 

「先輩の、なに!?」

「……なんでもない。あのさスカーレット、お互いがお互い好きじゃなくても付き合うのって別におかしいことじゃないだろ。とりあえず付き合って性格が合うとかどうか試すって普通のことだ」

「アンタの場合はまた違うでしょ! アンタは性格が合うとかじゃなくて、2人にお願いされて仕方なくって言ってたじゃない! はぐらかさないで!」

「…………」

「さあ、先輩の何が関係あるって言うの! 正直に言いなさいっ!」

「…………」

「正英っ!」

「………………先輩の……」

「先輩の!?」

 

 彼は視線を下げて、拗ねたようにポツリと零す。

 

「…………先輩の気持ち、分かるんだ。だから……」

「気持ちって……」

 

 誤魔化してない。本気で言ってる。それは分かる。

 

「先輩、あの子と幼馴染って言っただろ」

「さっき言ってたわね。小さい頃から一緒だったって」

「先輩さ、あの子のこと好きなんだ。サッカー部じゃ何人も気づいてる」

「えっ」

 

 さっきの説明ではその話は出てこなかった。

 

「そんな人がこういう提案するの勇気が要るって思わないか。俺はすごいって思ってさ。俺にはできないことだった。だから断れなかった」

 

 自分の好きな人を、違う人と付き合わせる。

 アタシ自身に当てはめる。もしアタシが正英を他の女の子と付き合うように動くとする。

 

 ……想像しただけで、胸がきゅっと締め付けられた。

 

「だとしても、よ。それでも断るべきだったわ」

「……厳しいな、スカーレットは」

「別れるとき、あの子大丈夫だった?」

「…………別れるときは笑ってたけど」

「けど?」

「別れて振り返ったら、たぶん泣いてた……」

 

 沈んだ声のトーン。ゆっくりと落ちた肩。

 

「なによ。ちゃんと分かってんじゃない……」

 

 この1ヶ月間の偽りの関係が、彼女にとって良くないことだと理解できていたんだ。

 

「分かってても一緒だ。スカーレットの言う通り、先輩なんて気にせず断るべきだったんだ」

「……ばか」

 

 距離を取って彼の姿を全身に捉える。拗ねたように顔を逸らしている姿が、今度は親に怒られていた子どもの頃の彼と重なった。

 

「今のところ、前みたいに接してくれてるんだ」

「……優しいのね」

 

 元の距離感に戻すって、ものすごく大変だと思う。それが振られた相手なら尚更。

 

「……やっぱり最低だな、俺」

「そうよ。反省しなさい。………………でも」

「……?」

「傷つけようと思ってしたんじゃないんでしょ。アンタのしたことは最低かもしれないけど…………やっぱりアンタも優しいわ。最低だけど」

 

 先輩を裏切れなかったってのもあるけど、マネージャーのことも考えていたのだと思う。

 

「………………」

「正英?」

 

 なぜかすっと背筋が寒くなった。真っ直ぐにこちらを見つめる正英の顔は無表情に近いものだった。

 

「別に優しくなんてない。俺はそんな人間じゃない」

「……え?」

 

 

 ◇

 

 

 正座を崩して胡坐にした。

 三己に言われたことを思い出して、半ばヤケクソ気味に自分の本当の気持ちを口にする。

 

「告られたのは嬉しかった。でも1年ちょっとしか付き合いないのに、俺の何を知ってるんだって思ってたんだ」

 

 スカーレットの表情が仮面を被ったように真顔になる。感情が読めなくてちょっと怖い。

 

「俺のって、どういうこと?」

「スカーレットなら知ってるだろ。昔の俺、いじめられて泣いてばっかだった。その頃はサッカーもしてなかったし」

「それはそうだけど……」

 

 サッカーを始めるまでは、砂場で独り延々と砂をいじっているような奴だった。

 

「高校で会った奴が見てるのは上っ面の俺だ。分け隔てなく優しくて、サッカーが上手いって後付けの松城正英()しか見てないんだよ」

「……正英」

「今回、先輩のことを考えたのは本当だ。でもこうして言うことを聞いておけば貸しになって取り入りやすいとか、マネージャーとは振った後の関係性とか距離感のこととか、自分の立ち回りのことばっか考えてた。……それでも俺は優しいって、スカーレットは言えるか?」

 

 平静を装って問いかける。彼女は反応なく、ただ真顔のまま静かに黙っていた。

 壁にかけられた時計の秒針が刻む音が嫌に大きく聞こえる。

 

「……それがアンタの本心?」

「ああ」

「ふーん。そう」

 

 スカーレットはおもむろに部屋を見回した。揺れた緋色のストレートヘアーがスタンドミラーにちらついた。

 少しだけ吊り上がった深紅の瞳が俺を刺した。

 

「アンタのこと、昔から変わらず純粋で素直な男の子と思ってたわ。でも違うのね」

「見込み違いだな」

「なんで今、打ち明けたの?」

 

 三己のことを話すか迷ったが、結局真実を明かすと決めたのは俺だ。それにスカーレットとの距離を再び縮められるという根拠のない口車に乗せられたなんて口が裂けても言えない。そんなの告白してるのと一緒だ。

 現状、俺たちは隣に住む赤の他人なんだ。だから失敗したって何も変わらない。

 

「疲れたんだよ。スカーレットの前でも誤魔化すの。……これが俺だ。ガキの頃にサッカーで揉めてさ…………周りから良いように見られたくて……見られないとうまくいかないから、こうやって良い奴を演じてる。内心は打算ばっかりだ」

「アタシにも嘘ついてたってことね」

「そうだ。……見損なったか?」

「………………見損なう、ね」

 

 スカーレットはむっとした表情を変えず、射抜くような視線を俺に送っている。彼女はこんな性格の人間、嫌いだろうから当たり前だ。

 

(ほら三己、やっぱりお前の見込みは間違ってるじゃないか)

 

 でもどちらにしろ、何もなく疎遠になってるだけだった可能性が高かったのだから、こうやって正直に話せたのは良かったのかもしれない。

 内心はほぼあきらめムードだった。

 

「アタシ、怒ってるわ。理由は分かる?」

「俺がこんなクソ野郎だったからだろ。見損なったよな」

「……──っ」

 

 いつもの勝気な目が更に吊り上げられる。そして息を大きく吸い込み──

 

 

「────バカっ!!! おたんこにんじんっ!!!!!」

 

 

「っ!?」

 

 

 彼女の覇気の込められた声で、サッカーで獲ったメダルとかトロフィーが入った棚がびりびりと振動した気がした。

 

「正座」

「え?」

「正座!」

 

 言われた通り胡坐から再び正座に戻す。

 

「なんっっっっっにも! 分かってないじゃない!」

「な、なんの話──」

「アタシが怒ってる理由に決まってるじゃない! 言っとくけど、理由は一つだけじゃないのよ! 正英、アンタねえ──」

 

「──アタシがそんなことで見損なうとか思ってんの!!!???」

 

 彼女は今日一番激烈に怒っていた。だからそれが本音だと理解するのと同時に、予想しなかった言葉に頭の理解が追いつかなかった。

 

「少しびっくりはしたけど、()()()()でアタシがアンタを見損なうわけないでしょ! 大体、いつからアンタと一緒にいると思ってんの! あ~もうっ、それが一番腹が立つわっ!」

 

 彼女も座ってるのに、今にも地団太を踏みそうな勢いだった。

 

「あのね、周りから良く見られたいなんて当たり前のことなのよ! 嫌なこと考えるのだって、良いとは思わないけどおかしなことじゃないわっ! さっきサッカーのこと言ってたけど、アンタだって色々なこと経験してきてんだから心の中で思うとこあるの普通でしょ! ……人間なんだから、綺麗なことばっかり考えられるわけないじゃない」

 

(“『それぐらいでスカーレットはお前を嫌うようなやつか?』”)

 

 三己の言葉が過ぎる。

 

 ……こんな俺でも受け入れ──

 

「さっきも言ったけど、それぐらいで見損なうとか思われてんのが心外だわ!」

「スカーレット…………」

「というかアンタ、そういう考えなら今まで色んなことの本音アタシに隠してきたでしょ! 本性とか心の中がどうより……隠されたり、正直に話してもらえたかったことにも怒ってるし、悔しいの! 分かったっ!?」

 

 口調や場面だけを見れば叱られ説教されているが、彼女の話す内容は逆のように感じた。

 

「ごめん……ごめんな、スカーレット」

「ええ。きっちり反省しなさい。猛省よ、猛省」

「……分かった」

「これからはアタシの前じゃ繕わないこと。本音で話してよ。いい?」

「……ああ。そうするよ」

 

 彼女への気持ちは伝えられないが、それ以外のことなら言う通りにしようと誓った。

 

「さっき小さい頃サッカーで何かトラブルがあったみたいなこと言ってたけど、何があったの?」

「…………」

「正英~、アンタほんのついさっき──」

「分かった。話す、話すから」

 

 スカーレットに小学校高学年から中学始めぐらいまでの揉めごとについても話した。そして高校においても、実力が抜けてる俺がうまくやっていくにはこういう立ち回りしかないと思っていたことも。

 彼女はウマ耳をずっとこちらに向けたまま微動だにさせず、文字通り耳を傾けてくれていた。

 

「なるほどね。確かにアンタ、ゴール決めた日って機嫌悪かったこと多かったものね」

「は?」

「もしかして気づいてなかったの? 最初は不思議だったけど、その内アタシには分からないこと色々あるんだろうなって気にしないようにしてたのよ」

「…………」

 

 彼女の前では完璧に繕ってるつもりだったが、そうではなかったみたいで居心地が悪くなる。隠し通せてると思ってた自分が恥ずかしい。

 

「…………なあ、スカーレット」

「なによ」

「この際だから言うけどさ……」

 

 

 

 ◇

 

 

 正英は頭をぼりぼりと掻いてから、言いにくそうに口を開いた。

 

「……また、前みたいに戻れないか。最近俺たち全然会話もしてなかったし。いや、俺が付き合ってるから気を遣ってくれてたのはもう分かってるんだ。でももう別れたからさ、前みたいに……」

「…………」

 

 思いもしない提案だった。彼がそう思ってるのが跳び上がるぐらい何よりも嬉しいのと思うのと同時に、このまま素直に頷くのもどうなの、と心の中の素直じゃないアタシが問いかけてきた。

 

「……アンタがどうしてもって言うなら、仕方ないけどいいわよ」

「本当か!? は~、良かった…………」

 

 何よそれ……まるでアタシと話せなかったのが滅茶苦茶淋しかったみたいじゃない。

 

「やっぱりアンタ、昔と同じでアタシが面倒みないとダメそうだしね」

「…………」

「?」

「いや、うん。……あのさ、スカーレット最近放課後どこ行ってるんだ? 塾以外の日も帰り遅い日あるだろ」

「気づいてたの?」

 

 正英が付き合ったからFKBに入ったとは思われたくないけど、別に今となったら隠すことではないし話すことにした。

 

「FKBレーシングクラブっていう、ウマ娘のアマチュアレースクラブに入ったのよ。偶然、あるきっかけがあってね」

「! レース走ってるのか……!?」

「ええ。まだ本番のレースはまだだけどね。アタシの他には年上の大学生や大人も多いし、どちらかっていうと体を動かすことが主のゆる〜いクラブよ。そんな驚くこと?」

「………………いや、いいんだ。そうか。もしかしてさ、カレー食べに行ったのってそのクラブの?」

「そうよ。同学年のウマ娘が一人いてね、その娘と。……なによ、もしかして気になってたの?」

「え。ああ、えーっと……まあ……」

 

(正英、アンタ…………もしかして嫉妬し……いやいや、都合の良い妄想は……!)

 

「なあ、そのクラブの練習見に行ってもいいか?」

「別にいいけど、アンタ部活あるんだから無理じゃない?」

「部活休みのときにするよ。また予定教えてくれないか」

「いいけど……」

「じゃあ今日もそのクラブの練習日だったのか?」

「まあ、そんなところね」

 

 そう訊かれて改めて今日の謎のウマ娘とのことを思い出した。なんだか遠い昔のようだけど、このことについてもこれからどうするか考えないと。

 

「だから今日そんな恰好で、髪の毛もツインテールだったんだな。……あ、そうだ」

 

 立ち上がった正英は自分の机の引き出しからラッピングされた紙袋を取り出して渡してきた。

 

「これ。誕生日プレゼント。今年は呼んでもらえなかったし、いつ渡していいのか分かんなくてさ」

「正英……ありがとう」

 

 誘わなかったことに対して流石に罪悪感が芽生えた。彼に断りを入れて袋を開けると、青と白のシュシュがそれぞれ2組1セット入っていた。

 

「スカーレット、青と白好きだろ? それに最近髪をかき上げること多かったし……暑くなってくるし、どうかなと思って」

「ありがとう。嬉しいわ。……大事にする」

 

 彼には淡泊に聞こえたかもしれないけど、内心は飛び跳ねるぐらい嬉しかった。走るときに使おうか、家でいる時に使おうか、それとも彼と一緒に出かける時に使っても……手首に巻いてもいい。頭の中で使い方を巡らせながら、胸にぎゅうっとそれを抱いていた。

 

 そしてふと、あの理由を訊いていないことに気づいた。

 

「話戻るけど、なんであの時怒ってたの? お試しだから恋愛感情は無かったのは分かったけど」

「……言わなきゃ駄目か?」

「…………」

「分かった。言う、言うから……スカーレットの目にそういう風に映ったのが、何と言うか……その…………スカーレット、分かんないのかよ、分かってくれよって……」

「……え?」

 

 それってその、拗ね──

 

「正英! スカーレットちゃん、ごはんできたわよ! 降りてきなさーい!」

 

「「!」」

 

 扉の向こうの階段の下から、正英の母親の声が聞こえてきた。

 

「これでいいだろ! ほら行くぞ」

「あっ! ちょっと正英!」

 

 その場にいるのを我慢できず逃げるように飛び出た彼の後を追って、階下へと向かった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「はあ……」

 

 無意識のため息が口から零れる。最近、日に日に多くなってきた気がする。

 

 FKBから学生寮への道のりも半分が過ぎ、今は中心街から少し離れた並木道。春先の桜の面影もなく、夕日の光で鈍く照り返す葉桜が揺れていた。まだ明るいとはいえ、日は傾いてきていて草木の影は色濃くなっていた。

 

「…………」

 

 最近は考えごとばかり。

 少し前、コーチたちからRUC(Retired Umamusume Cup)について話があった。普通のアマチュアのウマ娘と違い、トレセン経験者のわたしがレースに出るとしたらにRUCになるのだ。その名の通り、トレセンに籍があったウマ娘専用の大会だ。去年クラブに入ったのが夏前でちょうど予選が始まる頃だったので登録はしなかった。

 今年は普通にそれに出ようと思っていたけど、ひとつ大きな問題があった。それは登録は本名で行うということ。つまり私はパーマーではなく“メジロ”パーマーとして出ることになる。

 コーチたちとスカーレットを除く他のクラブの皆にはメジロのウマ娘であることを明かしていない。それがバレてしまう。しかもレースに行ったら絶対にメジロのウマ娘として見られるし……加えて、メジロ家にも話がいくだろう。

 

 

 もしRUCで全国に行って良い成績を残せれば、メジロの家も私を認めてくれるだろうか。誇りに思ってくれるだろうか。

 

 全部放り出して何もかもから逃げ出した私を。

 

 メジロパーマーは、メジロ家のウマ娘だと。

 

 ……もしそうだったら、どれだけいいか。

 

「でも、そんな簡単な話じゃない……分かってる……」

 

 RUCには元トレセン生しかいない。普通に中央で勝ち上がったり、重賞で実績を残したウマ娘たちがゴロゴロいる。普通にやってたら、学内レースでろくに勝てず中央から去った私が勝ち上がれるレベルじゃない。今だってトレーニングはしてるけど、頻度と時間はもとより、トレセン生時代よりは強度も落ちている。タイムだって遅くなっている。勝ち上がって全国で成績を残せる見込みは低いのは明らかだ。

 

 そこまで考えて、また自己嫌悪に陥る。家に泥を塗り砂をかけて逃げ出したのに、未だにメジロ家から認めてほしいと希っている自分がどうしようもなく卑しく思える。

 

 ……メジロのウマ娘も、関わる人たちも、みんな優しい。ずっと私のことを気にかけて、心配してくれていた。私に対して、恥だとか認めてないとか思ってない……と思う。

 しかし一方で、それが嫌だと感じてしまった自分が確かにいた。優しくされるのが痛かった。心配されるのが悔しかった。気にかけてくれることへのありがたさや嬉しさの一番奥底に、それらの感情はほんの僅かな澱となって、隅に溜まる埃のように積み重なってっていった。その結果が自主退学だ。

 

 

 もう終わってる。挽回の機会は無い。分かってる。こんな大会で活躍したって、何の意味もない。

 

 ……でも、もしかしたら、と考えてしまう。一縷の望みがあるのだと思いたい自分がいる。

 

 そんな悩みがまずひとつ。

 

 

「…………」

 

 

 あとこれは悩みとは違うかもしれないけど…………クラブのレースでスカーレットに負け続けてること。

 彼女が速いのは最初から分かってたけど……

 

 ……羨ましい。あれだけ走れるなら、アマチュア大会でも……中央でだって。いらないのなら、私に…………そうすれば、私もメジロのウマ娘として──

 

「…………はあ。最低だ、ほんと」

 

 私の身体から伸びる影はより一層濃く見え、深く吸い込まれそうだった。穴が開いているようにも、怪物が大きな口を開けているようにも見え、足を踏み入れれば飛び降りればどこまでも落ちていけそうだった。

 

 変なことを考えていた自分に気づき、慌てて顔を上げるとそこには複数の人影が立ち止まっていた。

 

「オイッ!!」

「見つけたぜえ……メジロパーマー」

「っ!? あ、あなたたちは……!」

 

 私の進行方向に立っていたのは例の不良ウマ娘……ピアスとマスクだった。

 無意識に身構えて体勢を低くし、いつでも逃げ出せるようにした。

 

「……なに? 今更なんの用? 今度こそ警察呼ぶよ」

「ハアッ!? 別にウチらはお前に用なんて──」

 

 

「はあい。初めまして」

 

 

「……へ?」

 

 2人の間を割って前に出てきたのは、金髪の二つ髪をしたウマ娘だった。私と同年代ぐらいだろうか。片手はパーカーのポケットに、もう片手には先程まで口に咥えていたであろう青色のロリポップキャンディがあった。白い陶磁器のような肌が夕日の陰影と見事なコントラストを作っていた。

 後ろの2人とは違いどこか品の良さがあるけれど、一方で底知れない得体の知れなさも感じる。……表現が難しい。両極端なものが奇跡的なバランスで釣り合っているとでも言ったら良いか。

 

「用があるのはわたしなんだ」

 

 彼女は笑みを浮かべて友好的に話しかけてくる。後ろの不良たちとは雰囲気が全く違う。柔和で和やかだ。

 

「…………あなたは?」

「わたしはレン。ねえ──」

 

 レンは私の影へと足を踏み入れ、全身を影に潜ませた。彼女の全身が墨に塗られたように黒く陰る。

 

 穏やかな気配が一瞬で消え失せる。

 

(……!)

 

 ぞわっと、鳥肌が立つ。

 

 その深い穴から、怪物の口から、彼女の極彩色の瞳がこちら側を覗き込んでくる。

 逆に、私の奥底までを見通されてる感覚に襲われる。

 

 

 彼女は変わらず、笑っている。

 

 

「──強くなりたくない? 速くなりたくない?」

 

 

「…………え?」

 

 

 影ごと地面に縫い付けられたように体が動かない。

 

 

 レンはキャンディをひと舐めし、そしていとも簡単に噛み砕く。

 

 

 黒く塗られた世界の底から、一対の極彩色がぎらりと光る。

 

 

 奥底の黒い澱が揺れる。波打ったそれの波紋が、ゆっくりと広がっていく。

 

 

「わたしが強くしてあげるよ。一緒に走ってた娘……ダイワスカーレットに勝てるぐらいには、ね」

 

 

 

 

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