大人になってしまった未来に、価値なんてあるのか?
いつも始まる前から終わりを考えている。
いまかいまかと始まりを待つ観衆の中で、幕が開く前から終わった後のことを考えている。
最高の時間は永遠には続かない。いつか必ず終わる。楽しければ楽しいほどに、一瞬で過ぎ去っていく。
ここが幸せの天辺だなんて誰も教えてくれない。ずっと後になってから振り返って初めて、もう取り戻せないのだと知る。
過ぎ去った幸福は何よりも恐ろしい。あれ以上の最高はこの先の人生にないのかもしれないと思うと、もう。
君が思い出になる前に。想い出が光るまえに僕を見て。
その詩の意味が理解できた頃には、君とやらはみんな思い出になっていたし、想い出の光は強くなりすぎていた。
「おい。おいって」
久方ぶりに味わった気のする遠慮のない小突きを頭に受けて目を覚ます。
篠原じゃないか。高二の頃に同じクラスだった柔道部の。
「なんで授業の始めから寝てんだ? お前。早く回せって」
安っぽいコピー用紙に掠れた文字で数式が印刷された紙を篠原が机に置いた。
ごうんごうん、と音がする。最強か最弱しか調整の効かないボロクーラーの音だ。
ヘンテコなにおいがする。弁当と制汗剤と清掃用品のにおいがごちゃ混ぜになった妙なにおい。
窓から眠気を誘う日差しが入り込んでいる。そよとの風もない、午前十一時のやたらと大きな太陽の光。
(不定積分か……。まいったな、仕事で使ってるの微分ばかりだからあまり覚えてないぞ)
積分も使わないことはないのだが、どうも数字を扱う仕事をしていると微分ばかりが出てくる気がする。
偏微分方程式も確率微分方程式も専門だと胸を張って言えるくらいなのに、たかが指数関数の積分がもう怪しい。
平林先生が制限時間を十分と告げた。よく使う積分のおさらい程度でしかない小テストのはすだ。
こんなもの指先が覚えててしかるべきなのに、微分から導き出さないと回答できない。
12,3年前まではほとんど暗記レベルで覚えていたはずなのに思い出せない。頑張って頭を絞るとなんだか脳がかゆい。
そこまで────先生の眠たげな声が響く。いやもうちょっと時間をくれ。あと十分あれば完答できたと思う。
「はい、じゃあ回答配るからな~。答案隣の人と交換して採点してくれ~」
(あっ、あったな……和積交換公式とか……)
回答を見るとそんなのあったな、と思うようなことばかり書いてある。
昔は覚えていたのになんで全部消えてしまったのだろう。
しかし隣のヤツの答案も酷い。残念ながらこれでは0点だ。
「うわっ……そうだった、積分定数忘れてた……」
隣から小さな言い訳が聞こえてくる。いくらなんでもそれは酷い。
積分定数Cを書き忘れるのは数学が苦手とか以前の問題だ。もはや全くやっていない、全部忘れているレベルではないか。
0点の答案を隣の日岡に返す。バスケットボール部所属で高校三年間ずっと坊主だったクラスで一番陽気なヤツ。
だが何かが変だ。確か記憶では成績は中の上くらいだったはず────
「御薪(みかまぎ)……。もしかしてお前も?」
俺と同じ目をした日岡が小声で問いかけてくる。
ぱちんっ、と頭を包んでいたしゃぼん玉が割れたかのように立ち上がりクラスを見回す。
クラスを見ると何人も俺と同じ目をしている奴がいた。つまり────大人の記憶を抱えたまま過去の自分に戻っている奴の目だった。
***
土日はいつも昼過ぎまで寝ている。
だからこのジャンジャカうるさいスマホの音は切り忘れていたアラームだと思った。
「……あ? 日岡……? って誰だっけ……?」
急速に覚醒していく中で思い出す。そうだ、高校の同級生だ。
連絡が来るなんて卒業以来だからざっくり十年ぶりじゃないか。
汚れちまったな、と自分でも思う。こういう時にまず警戒してしまうのだ。
久々の友からの連絡は、詐欺か保険の勧誘かある党への投票依頼か────と嫌なことばかり出てくる。
「はい。どうした? 久しぶりだな」
『お~! 御薪~! 元気かー?』
「おう……。元気よ……」
『寝起き? ごめんなーいきなり』
時計を見ると今は土曜の朝十時だった。健康的な社会人だったら目を覚まして朝食を済ませていてもいい時間だ。
「いやいや、平気平気。今もう目が覚めた。なんか超久々だな」
『さっきまでLINEの連絡先整理してたらさ、御薪出てきてさー。なんか久しぶりに声聞きたいなーって思って』
どうやら損得の絡む連絡ではなかったと知り、ほっとすると同時に思い出す。
こういうことをしれっと言う奴だから人気者で誰とでも仲が良かったのだろう。
改めてアイコンを見ると小さな女の子を抱っこしている写真だ。
結婚して子供もいるようだが全く不思議ではない。当然だと思ってしまう。
「そっかそっか。俺も嬉しいよ。今ってどこで何してんの?」
『あー、俺いま新潟で塾の先生やってんだよね。小学生相手のね。一昨年開いたんだ』
すとん、と心に落ちる。きっと生徒から好かれるいい先生になっているだろう。なんて似合っている職業なんだ。
しかし新潟とは、随分と地元から遠く離れたところに行ってしまった。
卓球の軽いラリーのように、『お前はいま何しているの?』と当然の質問が来る。
「俺? 東京で銀行員してる」
『そっかぁ。御薪めっちゃ勉強できたもんな。そういう仕事しているよなー。そういや俺、もうすぐお盆でそっち帰るんだけど。せっかくだし飲みにいかね? なんか用事ある?』
「お盆? いいよ。土日なら空いてる」
『あ、いや待って。せっかくだからほら、二年七組だった連中に声かけてみない? どれだけ集まるかわからんけどさ』
2-7、なんて懐かしい響きだ。どうしてかは俺にはわからないし、きっと誰もわかっていないと思うが、不思議と仲の良いクラスだった。
高校三年間の中で一番居心地のいい時間だった。なぜだろう。嫌なやつがいなかったからだろうか。イジメや無視みたいな低レベルな動物的不和がなかったからだろうか。
確かに今になっても振り返るのは二年生の時のことばかりだ。先輩がいて、後輩がいて、クラスメートがいて。鼻の奥がツンとしてくる。
「わかった。連絡先わかるやつからどんどん声かけてみる」
土日にこの時間で起きてしまったら二度寝するのが常だったが、俺は顔を洗ってLINEの友達リストを上から下まで寝ぼけなまこで眺めた。
顔文字にしてて男か女かもわからないヤツや、イニシャルだけで誰なのかもわからない連絡先ばかりで、日岡が言ってた『連絡先の整理』の意味がようやくわかった。
とりあえずはそうだな、クラスも部活も同じだったヤツらから順に声をかけていこうか。
***
当初は池袋あたりの居酒屋にでも集まろうという話だった。
しかし予定していた日の三週間前に声をかけたにもかかわらず、予想を大きく超えて15人も集まってくれることになった。
これは適当な店に入るのではいけない、と判断し店をしっかりと予約することになった。
LINEグループで誰かが提案した『豊葦原駅にある店がいい』という言葉に誰も反対しなかったのは個人的に嬉しかった。
俺たちが卒業した豊葦原高校が首都圏にあり、参加者の半数が東京在住なので今でも集まりやすかったというのも大きな理由の一つだろう。
かくして突発的に決まった俺たちの同窓会は、豊葦原駅から徒歩二分のシュラスコ料理の店で行われることとなった。
(すげぇ……みんなが酒飲んでる)
なんて思いながら自分もビールを口に持っていき、そっと周囲を見回す。
十年以上の時が経っている割にはみんなあまり変わっていない。顔を合わせた瞬間に誰が誰だかすぐにわかった。
俺の中ではみんな18歳で時が止まっている。それなのに当たり前のように酒を飲んでいるという事実を受け入れようとすると、ちょっと気が遠くなる。
一番変わったのは────平林先生か。
「先生、ありがとうございます。来てくれて」
「おぉ~。御薪、元気そうだねぇ~」
二年七組の担任にして数学教師だった平林先生は相変わらずの間延びした喋り方をしている。
誰が言ったか裏のあだ名は『黄猿』だった。目が特別悪いとかでメガネの上から黒いオーバーグラスをかけていたが、そこは変わらない。
変わったのはやはり髪の色で、真っ白になっている。俺たちの担任だったころがもう五十代半ばだったから、とうに引退していてお子さんも社会人になっているらしい。
しかし日岡はどうやって平林先生とコンタクトを取ったのだろう。さすがクラスで一番の陽キャ、そこも含めて訳の分からないコミュ力を持っている。
「先生、生徒の名前みんな覚えているんですか?」
「いや~、全員は覚えてないけどなぁ~、顔見れば思い出すねぇ」
「俺もッス。顔見た瞬間に名前思い出す感じです」
「でもな、御薪のことはよ~く覚えているとも。私のね、受け持った生徒の中でも抜群に頭が良かったな~。だけど生活態度が酷くて遅刻の回数も生徒の中で一番多かった」
「いやっ、あの! 家が遠かったんですよ! 俺いまは遅刻なんてしてませんから!」
「本当か~? 今日もお前遅刻してたじゃないか」
「へへっ」
「お~、銀行員なんだろ~? どうだ、もうそろそろ支店長になれそうか?」
「この年で支店長になるやつなんかいませんよ! それに俺、本社勤務なんでリテールの方にはいかないです」
「なんだぁ~? 丸くなったなぁ、御薪」
頭に『?』を浮かべていると、汗と酒のにおいが混ざりきった日岡が肩を組んできた。
幹事のくせにすっかり出来上がっている。
「そうでずよね! 先生!! こいつ丸くなっちゃって、昔なら××〇〇ってこう△△!?」
「酔いすぎだろ、なに言ってっかわかんねーよ」
「俺の知ってる御薪なら!? そんなもんすぐなったるわって言ってたもんな!? 髪もこざっぱりしてこの~!!」
「なんだこいつ~!!」
わずか15cmの距離で文句なく酒臭い息をまき散らす顔を遠ざけながら、ふと思う。
確かに────昔の俺ならそう言っていた。何を言われてもとりあえず『やってやるさ』と大口叩いて、試行錯誤しながら実践していた。
自覚はないが、もしかして俺の内側は結構変わってしまっているのだろうか?
「はーい!! 席替えしますよ~!! 同じ人とばっか×××△△しても〇〇〇なんだから!!」
半分くらい何を言っているかわからなかったが、日岡が向かい側の席の人間を移動させている。
移動が面倒なのでよかったが、還暦過ぎた先生に皿とグラスを持たせて移動させるなんてとんでもないやつだ。
「御薪、ひさしぶり。私のこと覚えてる?」
「ん?」
対面に座った女子の顔が思い出と一致しない。向こうは覚えているのにそれは失礼すぎるので、アルコールでぽーっとなっている脳を回転させる。
開始時に改めての自己紹介から始めたらしいのだが、ちょっと遅れてしまったせいで聞きそびれているのだ。
茶髪のショートパーマに切れ長の目、主張の強すぎない洒脱なピアスにこざっぱりとした化粧と、こんな片田舎では見られない垢抜けた女性だ。
本気で思い出せない、いやでもなんか声には確実に聞き覚えが────
「夏目さん!? みんな美人になったけどさぁ……いっとう変わったな!」
一年二年と同じクラスだった吹奏楽部の物静かな子。なぜか席が毎回近かったからよく話していた。
あの頃は結構なヤツが学校に3DSかPSPを持ってきていて、夏目も俺もポケモンをやっていたものだから一時期は毎日のように一緒にやっていた。
「私も? 私も美人になった?」
隣の西井がダル絡みをしてくる。クラスの中心人物で女テニの部長で、誰が言わずともクラスで一番可愛い女の子だった。
24歳の時に結婚したと聞いたとき、驚きと納得が両方あったことが懐かしい。既にもう子供が二人もいるとか。
「西井さん美人って言われ慣れてるっしょ」
「『さん』だって~!!」
すっかり酔いきった西井が肩をバシバシ殴ってくる。
昔はクラスメートのことなんか呼び捨てにしていたが、社会人になってから基本誰でも『さん』付けするようになってしまった。
というか今は『西井』ですらないのか。最初の自己紹介を聞いていないので今はなんという苗字なのかわからない。
何やら俺と話したそうにしている夏目は西井とは対照的にあまり酔っていない。酒に強いのか、あまり飲んでいないのか。
「今もポケモンやってる?」
10年以上振りに再会してまず訊いてくるのがポケモンのこととは。
笑ってしまうが俺と夏目の繋がりってそこが一番強かったもんな。
「俺~? いや……もうゲームは何年もやってないな」
「…………そっか」
夏目の表情にはほんの一抹の寂しさが浮かんでおり、それを誤魔化すようにレモンサワーを口元に持っていった。
気持ちはなんとなくわかる。クラスメートの大半が結婚して大人をしっかりやっていることは喜ばしい反面、少し寂しくもある。
学生時代は永遠に俺ら子供なんだってなんとなく思っていたよな。
「御薪って結婚してるの?」
「いいや、してないよ」
「あれ? 高校生の頃さ、一個上の子と付き合ってたじゃん。仲良かったんでしょ?」
「いや、あの子は……」
「あっ────ごめん。忘れてた」
ほろ酔いがはっと醒めたかのような夏目の顔に、なんと言っていいかわからずつまみを口に持っていく。
女子の情報網ってすげえな。学年も違っていたし俺も特に言いふらしたりしてなかったのに、付き合っていたことどころかそこまで知っているとは。
やめようや、楽しい再会の日に。話題を変えなくては。
「しかしいや、マジで変わったな。びっくりだわ」
記憶の中の夏目は重ためのボブカットに黒縁眼鏡をしていて、いつもノートの端になにやら落書きをしていた。
偏見なのは重々承知だが、典型的な『進学校の真面目女子』みたいな感じだったのに。
ああ、わかる。寂しいな、なんだか。ビールを一杯空けるとなんだか煙草が吸いたくなってきた。
「目の手術してさ。あと鼻少しいじった」
へぇ、と返事しながら別に言わなくていいのにと思う。女子的に気になる話題だったのか、どこのクリニックでやったとかいくらかかったとかを周囲の女子と話している。
そういえば俺の妹も大学生のうちにガールズバーでバイトして金を貯めて目を切開していた。今となってはこれくらいの整形なんて結構カジュアルなものなのかもしれない。
「夏目さn……夏目っていま何してんの?」
「レノミーで働いてる。一昨年からね」
「…………。レノミーってあれか! 転職の会社! えっ、職場どこ?」
「丸の内だよ」
「東京駅の丸の内中央口出てってこと?」
「そう」
「あ~!? 俺んとこの隣のビルじゃんか!」
「ね。私もさっき思った。会わないもんだね」
それも仕方のないこと。雨の日でもない限り、大手町・丸の内あたりを歩いているサラリーマンやOLは大概スマホ片手に心を閉ざして歩いているのだから。
ましてや俺は時差出勤しているうえに週二回しか出社していないので、あのエリアに勤めている人間の数を考えれば、偶然すれ違っても気付かない可能性の方が高い。
「なんか楽で稼げる仕事紹介してくれよ」
「あるかもしれないけど……御薪はたぶんそんなとこ行ったらすぐ辞めると思うな」
「どゆこと?」
「なんかそういう印象だったってこと! 学生時代のままならね」
「ふーん……?」
こいつも昼休みに皇居の周辺を散歩したりするのかな、と思っていると日岡がべろべろのまま立ち上がって『注目』と叫んだ。
平林先生が先に帰るらしい。お金を置いて帰ろうとしていたが、全員一致で『俺たちに出させてください』ということになった。
先生はその時が一番嬉しそうな顔をしていて、黒いオーバーグラス越しに細めた目が見えた。
そのあとは何人か帰ったが、二次会で安居酒屋に入ってまた酒を浴びた。
三次会でカラオケに行き、干支一周前に流行っていた曲を遠慮なく歌った。
フランプール、オレンジレンジ、ポルノグラフィティと、学生時代はどこに行っても流れていた曲だ。
軽音楽部に所属していてメンバーも全員同じクラスにいた俺は、当時演奏していたマイナーバンドの曲を入れてちょっと顰蹙を買った。
カラオケも終わり、完全体になった俺たち9人の酔っ払いは勢いそのまま懐かしき母校へと歩いて向かった。
毎日通っていた道は当時と変わらないように見えて、よく行ってた総菜屋やラーメン屋がぶっ潰れていて、やがて豊葦原高校の大樹が見えてきて────
***
豊葦原高校の正門から進むと右手に東校舎、左手にグラウンドがある。
直進すると北校舎と中庭があり、中心には豊葦原高校名物の大樹がある。
大樹の根に腰を降ろし上を見上げると、青々とした生命力に溢れた葉の隙間から漏れる陽光が顔を撫でる。
北校舎そばの裏門近くにある自転車置き場にチャリを止めていたから、三年間毎日のようにこの光を見ていた。
「────これが俺の覚えていることだ」
根に腰掛け周囲を見回す。あの日同窓会に来ていたメンバーのうち8人ほどが、その目だけは大人のまま高校生の姿で立っている。
昼休みに入り、『覚えているか?』と声をかけて反応したクラスメートだけを連れてきたのだ。
果たして頷いたのは同窓会に来ていた者だけだった。
「俺もそうだ。同窓会に来ていた人がタイムスリップしたってこと?」
こんなに挙動不審な日岡は初めて見た。同窓会では伸びていた髪が見事な坊主に戻ってしまっている。
「いや、それだと人数が足りない。平林先生もいないし……昨日学校に不法侵入したヤツらじゃないか? あとこういうのはタイムスリップとは違う。身体も若返っているからな、タイムリープってんだ」
立ち上がってここに集まった連中の顔を見ると、当たり前だがみんな不安が隠しきれていない。
何が起きたのか、元に戻れるのか。なんの説明もなく人生で一番意味の分からない状況に放り出されてしまったのだから無理もない。
(みんな何も喋んねーな……)
せっかく集まれたのに、こういう時になんでもいいからとにかく意見が出ないと場が停滞してしまう。会社の無意味な定例ミーティングでもそうだ。
話しやすくなるように空気を変えないと────たまたまそばにいた夏目が目に入った。
眼鏡の鼻ブリッジを指で押し上げるのではなく、両手で眼鏡の両フチを押し上げる変わったやり方。
そうだよな、こういう子だった。悪者になることは十分覚悟のうえで、極めて自然に夏目の眼鏡を外す。
「あ~、なるほど。ようやく顔が一致した」
夏目の重たい前髪を持ち上げて半分以上本心の言葉を口にする。その場にいた全員が口をあんぐりと開き、どこかふわついていた意識が『今』に集中する。
狙い通り────そう思う前に一切の手加減がされていない腹パンを夏目から送られた。
「うぐぇっ」
「昨日言えなかったけどさ! 昔からノンデリだった! だからまだ独身なんだよ!!」
「そんなこと……」
それって同じく独身の夏目にも返ってくる言葉なんじゃないの、とは言わない。
いやしかし本当に痛い。こうなることを狙っていたとはいえ、悪いことをしてしまった。
「あるって。お前一年の頃に大遅刻して教室来たときあったろ。先生になんて言ったか覚えてる?」
にわかに緩くなった空気の中、一年も同じクラスだったテニス部のお調子者である戸叶が話し出した。
遅刻は週三でしていたので覚えていないし、何を言われるか想像もつかないが、これでいい。ようやく場の空気が動き始めた。
「覚えてねえ」
「うんこしてました! だぞ、全員の前で!」
「別にうんこくらいみんなするだろ」
「そういうとこだぞ」
先ほどまで真剣に話していたせいで、つられて真面目な表情をしていたみんなの顔に笑顔が戻る。
だいぶ話しやすい空気にはなってくれた。夏目に眼鏡を返して小さく謝ると向う脛を思い切り蹴られた。
「でもこれ、誰かに相談した方がいいのかな────」
本当に微かに、西井が隣にいる日岡と話しているのが聞こえた。
「絶対にダメだ!!」
思わず半ば本気で怒鳴ってしまい、全員の視線が集まる。
気が付いたのが11時で昼休み前だったのは幸運だった。おかげで間を置かずに一番言いたかったことを何よりも先に言える。
「十中八九信じてもらえないだろうけど、俺たちが未来を知ってるってバレたらほぼ確実にろくなことにならねーぞ」
「なんで? だってこんなの誰かに相談しなきゃどうしようもなくないか?」
「あのな……。コロナウィルスは武漢で発生したってみんな知っているのに中国は『発見と起源は別物』って言ってWHOに圧力をかけただろ。ロシアはウクライナ侵攻の一日前に『侵略的戦争は絶対に行わない』って言っていたし、ずっと『戦争』とは言わずに『特別軍事作戦』と言ってるだろ」
「それがなに?」
「事実がどうあれ大真面目にそう主張する国がすぐそばにいて、俺たちはそれがいつ起こるかを知っているんだ。未来を知っている人間を奪うためならなんだってしてくると思う。日本だって実際どう動くかわかったもんじゃねーぞ。未来を知っている俺たちの価値は、もはや俺達自身でもコントロールができないほどに高いんだよ」
こんなことはお勉強が得意なこいつらなら落ち着いて考えれば分かるはずだ。
これから先に起こる悲劇もブレイクスルーも全て知っている俺たちを悪用する方法などいくらでもある。その悪意を全て予想できるか、防げるかとなると非常に難しいと思う。
短期的に見れば未来を知っていることは利益を生むが、長期的に見れば俺たち全員に破滅的かつ最悪の結末をもたらすような気がしてならない。
「あとからごちゃごちゃ言うの嫌だから、先に言っておくけど……簡単に金持ちになろうとするなよ」
何人かがドキッとした顔をしている。責めるつもりはないから名前は書かない。同じ状況になれば誰だって一番最初に考えることだからだ。
今のうちに親を説得して仮想通貨にぶち込んでおけばあとは寝てても大金持ちになれるのだから。
「俺一人だけ過去に戻ってなくて安心してるけど、人数が多いってのはそれだけリスクも大きいってことだからな。一人バレたら芋づる式に俺ら全員捕まるだろうよ」
「…………そんな簡単にバレるかな?」
戸叶が先ほどとは打って変わって小さな声で訊ねてくる。そういえばこんなヤツだった。
ふざけている時の声はスピーカーよりもデカいのに、真剣な場面での声は死にかけの老人よりも小さいという、目立ちたい場面と目立ちたくない場面を明確に使い分けるタイプ。
そういう性格だから本番に弱かったのか、戸叶は大学受験で三浪もしていて成人式にも行けなかったという。
「いきなり高校生が金融取引に参入して、買う商品が全部大当たりってなったらすぐに目を付けられるだろうな」
「インサイダー取引ってなんだかんだバレるぜ」
同じバンドのドラムだった国枝の援護の言葉は非常に説得力がある。なぜなら彼は現役の弁護士だから。まぁ別にインサイダー取引ではないのだが。
これだってちょっと考えればわかることだ。俺らよりずっと賢い人間が行った犯罪も、予想もつかない糸口から掴まれて白日の下に晒されている。
俺たちが未来人だと誰にもバラしてはいけない。バレるような行動をとってはいけない。俺が考える俺たちの身を守るためのルールだった。
「……俺たちは過去を変える目的でやってきた未来人じゃないし、物語の主人公でもない。何かの偶然や事故でここにいる。だから特別な動きをする前に、必ず俺たちの頭を突き合わせて考え尽くすべきだ。逆を言えば、普段は普通の高校生らしい生活をした方がいい。短期的な自分の利益を求めて行動すれば、確実に俺ら全員破滅するぞ」
SFが結構好きでこれまで沢山の作品を読んできたが、己の利益のために未来を軽率に変えようとする人間は大抵ロクな目に遭っていなかった。
運命によって罰せられるというスピリチュアルな話ではなく、たったいま俺が話したように現実的な追跡によって未来人だと知られて、普遍的にこの世界にも存在する悪意によって狩られていた。
「……そんなことしなくたって、お前らみんな立派な大人になってたんだから」
そう、これこそが一番大事な点だ。世界を変えようとしなくたって、未来を変えようとしなくたって、このまま大人になれば彼らは文句の付けようのない立派な社会人になっていた。
改めて書き記しておくと、豊葦原高校はここらでは一番の公立高校で、高二の夏休み明けには文理共通で積分をやらされるくらいの進学校だ。
そんな高校を卒業して同窓会に喜び勇んで参加するような連中なのだから、ここにいる全員がそれなりの社会的地位やキャリアを築いていた。
下手なことをすれば、手にしていた未来さえも塞ぐ羽目になってしまう。
今の言葉が一番効いたようで、各々の表情に落ち着きが見える。
「いや……。御薪がいてくれて助かったよ。とりあえず、明日の昼休みにまたここで集まろう。案外今日寝たら元の時代に戻ってたりして」
日岡の言葉が解散の合図となり、ひとり、またひとりと去っていく。いま話してもこれ以上の何かが出るとは思えない。
とりあえず今日のところは家に帰って、懐かしき母の手料理を食べ、実家の風呂に入って頭を冷やして考えた方がいい。
「…………。俺、食堂行くわ。腹減ったし」
「あ、俺も行く。ってかお前らも行くっしょ」
国枝が声をかけたのはボーカルの小野とベースの室田だった。
クラスが同じということもあり、二年生の頃は毎日一緒に食堂に行っていた。
今になって思うと、よくこんな毎日一緒にいて飽きなかったものだ。
全員気が強くて喧嘩なんかしょっちゅうしていたのに。
「賢いノンデリって珍しいよな」
「うるせえな」
こんな気の置けないやり取りが今でも自然にできるくらいには、長い時間を共に過ごした。
自然と歩みが食堂へと向かっていることに歩き始めてから気付く。もはやこの学校のどこに何があったかも曖昧なのに。
痴呆症になっても手は自然と動く老いた職人もこんな感じなのかと、全てが懐かしい道程に思った。
***
中学の頃、同じハンドボール部のヤツらと一緒にガガーリンと名付けたザリガニを打ち上げ花火の上に乗せて木っ端微塵にぶっ飛ばしたっけ。
なぜか学校にバレて人生で一番先生に叱られた。もうザリガニぶっ飛ばしませんって反省文に書いたら追加でこってり絞られた。
それでいて勉強はやたら得意だったのだから本当に手の付けられないワルガキだったのだろう。中学・高校と俺は無敵だったような気がする。
「カカカ……カツカレー350円!?!? そうだっけ!? うわ、アイスも全部100円だ!!」
いよいよもって苦しさを感じ始めた物価上昇よりずっと前であり、学食ということもあって異様な安さだ。
食べたいものを手当たり次第注文しても1000円いかないではないか、と財布を開くと3200円しか入ってなかった。
(無敵だと思ってたけど……しっかり金はなかったんだなぁ)
月の小遣いはいくらだったか。3000円か5000円か、覚えてはいないが足りないとずっと思っていたことだけは覚えている。
それなのにギターの弦は無駄にこだわって高めの『エリクサー』を買っていたからいつもカツカツだった。
アイスと牛乳を我慢してカツカレーのみ注文する。この食堂のおばちゃんがまた超人で、勤続30年がなせる技なのか、生徒を一目見ただけで適切な量のご飯をよそってくれるのだ。
おかげで食べ盛りの運動部も、線が細めの文化部も、結構大食いの俺も、全員が満腹になって食堂を出ていける。
まさしく今ちょうど食べたい量だけあるカツカレーを持って、三人のいる席に着く。
「うん、うまいうまい。今でも結構いけるな。それとも舌も少年時代に戻ってんのかな」
「社食とかねーの?」
焼き魚を食べる小野が訊いてくる。
そういえばそうだった、こいつはいつも魚類。国枝は麺類、室田は肉と、俺らのバンドは食の好みがバラバラだった。
「あるけどな……。下のコンビニで適当に買ってきて食いながらパソコン見てるから味あんまわからん」
「みんな立派な大人になってたって言うけど、まぁ社畜だよな」
せっかく美味しい飯を食べてるときに不味くなるようなことを言わないでほしい。
しかし、いつからだろう。休憩時間や金よりも仕事を優先するようになったのは。
おにぎり二つにサンドウィッチ、それに野菜ジュースを買うと軽く800円近くになってしまうのに、いつから気にしなくなったのだろう。
「御薪オッスオッス!」
「おっ……瀬古だ……」
「ほんとだ、なんかすげぇ痩せてるな」
同じ軽音楽部の瀬古が声をかけてきたが、別クラスの彼は当然俺たちに何が起きているのかを知らない。
大人になった今でも瀬古とは付き合いはあるのだが、大学生の頃にラーメンにはまってから肥大化してしまったため、この頃の痩せた瀬古はなんだか新鮮だ。
「おっ、大丈夫か大丈夫か。空気バッチェ冷えてるってはっきりわかんだね」
(こいつこの時から淫夢語録使いこなしてやがる……)
典型的なオタクだった瀬古はネットミームに敏感で、現実世界でもバンバン語録を使い倒していた。
悲しいのがこれから十数年、つまり大人になっても淫夢厨であることか。
というより、十数年もこんなミームが続いていることを嘆くべきなのだろう。
大人になって流石に現実世界では瀬古も言わなくなったものの、LINEのやり取りなんかでは油断すると出してくる。
「あれ、話したっけ。俺さ、瀬古と今でもよく会ってスーパー銭湯とか巡ったりしてんだよね」
やっているゲームが同じだったので、社会人二年目くらいまでは一緒にゲームをやっていて、なんとなくゲームから離れた後もサウナ好きという共通点でよく会っていた。
今でも月一でサウナで有名な池袋のあそこや上野のあそこに行ってはオッサン蒸し器に入って汗だくになっている。
「……いやすまん、マジでお前らなんの話してんの?」
「…………。俺は友達に恵まれたってことだよ」
混乱している瀬古だけでなく、一緒に昼飯を食べていた三人にも向けて誤魔化さずに言う。
高校生の頃もふんわりとそう思っていたけれど、そんな小恥ずかしいことを言えるはずもなかった。
大人になっても言う機会がなかったが今なら、この懐かしい空気の中なら素直に言える気がした。
なんだそりゃと笑う────今でも付き合いのある親友たちに、久しぶりに酒抜きで心から笑えた。
***
大人になり面倒な試験から解放されてからの方が知識欲が強くなるというのは『あるある』なのだろうか。
学生時代は理系だったのに大河ドラマにはまって日本史にのめりこんだり、将来金にならないからと無視していた文学の知識が面白く感じたり。
大抵のことはそうなんだろうが、自然と手にしていたモノは失ってから貴重なものだったと気が付く。
(こうやって聴くと授業って面白いな……)
たぶんこれまでで一番授業を真剣に聴いている。学生時代はほとんど黒板を見ていなかった現代文の授業にのめりこんでいる。
俺はクラスに一人はいる『特に勉強しなくても現代文が得意な奴』だったので、学生の頃は国語の授業なんて全く聴いていなかった。
大概の生徒は聴かなくてもわかる授業なら手元で別のことを勉強していた。内職というやつで、今も周囲を見ると教科書を立ててその裏で数学の問題を解いている生徒がチラホラいる。
俺の授業を聴け、と怒る先生とは折り合いが悪くて、何はともあれ好成績を褒めてくれる先生とは良好な関係だった覚えがある。
大学にはいわゆるモグリと呼ばれる、生徒ではないおじさんおばさんがそこそこいたが、教授も知っていてスルーしていた理由が今ならわかる。
真剣にやっていることを真剣に受け止めてくれる人は、たとえルール違反であろうとも追い出す気などしないだろう。
(俺の筆箱……。あっ、クルトガだ。あったなこんなの)
プリントを配り始めたので筆箱を漁るともうそれだけで懐かしい。
文房具には金をかけないタイプだったので、本屋で働いていた母親が持って帰ってきた雑誌の付録の筆箱をそのまま使っていたのだ。
中には昔流行っていたシャー芯がちょっとずつ回るタイプのシャープペンが入っている。
大人になってからこんなの見ないぞ、と思ったが普段はボールペンとメモ帳を使っているからシャープペンのことが頭から抜けているのだ。
(あー……消しゴム穴だらけ……)
中学生の頃から使っていた消しゴムのカバーを外すと鉛筆でつついた黒い穴がたくさん空いていた。
義務教育は一切授業を聴かずとも教科書を見るだけで全部わかったので、授業中に暇を持て余して消しゴムを突っついていたのだろう。
こういうことはいつの間にかしなくなった。あまり中身が成長した自覚はないのだが、大人になって意味のない行動をしなくなった気がする。
(みんな可愛いな……高校生ってこんな子供だったっけ)
教室を見回して素朴な感想が浮かぶ。将来は何者かになろうと必死に勉強している生徒も、今だけのゆっくりとした時間を無自覚に過ごしている生徒もみんな可愛く見える。
女子は制服を着ているとそれだけでなんだか天使に見える。特別女子高生が好きというわけでもないのだけれど、そう感じてしまう。
男子は背伸びしておしゃれをしていてもイガグリ坊主でもみんなジャガイモに見える。昔は流行に敏感なヤツはすごく大人びて見えたのに。
男だ女だと感じる前に、心が彼ら彼女らを子供だと感じて可愛く思えてしまう。
椅子に背中を預けてポケットに手を入れると、ゴツゴツしたガラケーとやたらキーホルダーの付いた家の鍵が手に触れた。
鍵に何かが巻き付いている。そうだ、有線イヤホンだ。この時はまだiPhoneを持っている奴は流行の最先端扱いで、Bluetoothも一般には浸透していなかった。
音楽のサブスクなんてものはなくて、CDをTSUTAYAで借りてPCに取り込んでせこせこと変換してから携帯に入れていた。
マップのGPSはガバガバだし、腕時計には時間と日付しかないし、便利なAIもないし、UberEatsもないし、あれもないしこれもないし……。
不便としか言いようがないこの時代に、どうして幾度となく戻りたいと思ったのだろう。
今のことを振り返るという珍しいことをしているうちに身体がぽかぽかとしてきた。
授業を面白いと思ったのは本音なのだが、この眠気には逆らえそうもない。
***
ホームルームが終わった。今日は9月の11日、テスト期間でもないので部活の時間だ。
文化祭は先週だったようで、俺は大いに楽しんでいたらしい。なんだかほっとしたような、残念なような。
放課後の軽音楽部の動きは三つに分かれる。部室で練習するか、公民館や楽器店のスタジオで練習するか、放課後の教室で練習するか。
ほとんどの場合は教室で練習していて、後ろのロッカーには家から持ってきたアンプが置いてある。
あんまり音を大きくしすぎると書道部あたりから文句を言われたことを今になって思い出してきた。
「ねぇねぇ」
クラスメートが各々部活に行って教室が空くのを待っていたら夏目が後ろから声をかけてきた。
席替えをしてもなぜか毎回近くの席にいて、放課後はこうして声をかけてきたものだ。
これって結構凄い確率だと思うが────いや、でもクラスに40人の人間がいたら誕生日が同じ人間がいる確率は9割近いという話もあったっけ。
それこれとはまた話が違うと思うが、ちょっとあとで計算してみよう。
「DS持ってきてる?」
「DS……あっ。カバンの中にあるわ。そうだったな」
すぐに3D機能を使わなくなった3DSがしっかりカバンの中に入っていた。
やっていたのはなんだったっけ、と何も考えずにソフトを抜く。
「あっ、馬鹿!」
「え?」
「スリープにしてたんじゃないの?」
「やべ。そうだったかも……」
ハードは3DSでも入っていたのはDSのポケモンブラックだった。
たしか高一の頃に買って、同じタイミングで夏目もやっていると知ってから仲良くなったんだっけ。
「どうする? やる?」
「いやー、いま切っちゃったし……あんま覚えてないから、今日はいいや。御三家でなに選んだかも忘れた」
「ポカブだったよ。ぜったい攻略にはミジュマルの方がいいのに。てか御三家の中でみずタイプだけずっと優遇されてるからね」
両手で眼鏡のフチを持ち上げて、ちょっと早口でそんなことを言う夏目の姿に思い出す。
俺は見た目が気に入ったポケモンを使うのに対して夏目はガチガチのガチ勢で、対戦で使うポケモンもドラゴンタイプと600族ばかりでボコボコにされまくった記憶がある。
「部活いくんだろ。吹部。ティンパニーだったよな」
「よく覚えてるね。自分のポケモンは忘れてるくせに」
「…………。まだなんかあるか?」
教室から人がはけるのを待って椅子に座っている俺を夏目がまた眼鏡を上げて何か言いたそうに見ている。
あまり大きな声で何かを言うタイプではなかったが妙に目力のある子で、向こうに用があるときでも相手からこうして御用聞きをさせていた。
「さっき殴っちゃってごめんね」
「あー……いや、あれは完全に俺が悪い」
「あれワザとだった?」
「いや全然。素だよ素」
「……ノンデリのくせに繊細だよね」
「は?」
「でももうやめてね。鼻がコンプレックスだったからこういう眼鏡にしてたの!」
「ごめん……」
更にもう一度、顔と比べてちょっと大きい眼鏡の位置を直した夏目は部活へと行ってしまった。
思えば物静かな性格というのは単なる第一印象で、この頃から結構激情的な一面は持っていた気がする。
眼鏡姿もよかったけど、とか思っていることをそのまま言わなくてよかった。それこそノンデリの極みなんだろう。
しばらく待っていると、やがて教室に残ったのは俺ら軽音部の四人だけになった。
「…………なんか雲がデケェ」
窓から見える空は夏の終わりということを差し引いてもクリアな蒼穹で、浮かぶ雲は悩み事など一切ないかのように白い。
「あー、わかるな……。この時間の空なんかもう何年も見てない気がする」
「俺、結構外に出るから見てるけど、なんかそうだな。デカい気がするな」
国枝と小野が言葉は違えどそれぞれ同意してくる。二人とも職場は東京で、弁護士にコンサルと昼間に空を見上げる余裕のない仕事をしている。
「東京の空が狭かったんだよ。雨後の筍みたいにドデカビルがにょきにょき生えててさぁ」
「詩人か〜?」
「室田はどうなんよ? 職場は東京じゃないだろ」
「開業したばっかだから最近はそれどころじゃねえ」
室田は三十歳になる前に歯科医を開業した。開業医として相当若い部類だと思うが、父親も開業歯科医なのだとか。
親子そろって相当歯が好きなのだろう。
「借金もあるし個人事業主だから税金のこともあるし……ってか」
「いや~……勢いで開く前に御薪に相談しときゃ良かったかな」
「税理士とかじゃないからその辺はわからんよ」
「でも俺よりはそういうの詳しいっしょ? 開いた場所の近くに二軒歯科医あるんだよな~……うちの嫁さんは大丈夫大丈夫って言うけどさぁ」
「まぁ子供いないうちはいくらでも無理できるっしょ」
そうだなワハハと終われないのは、まさしく数か月前に国枝の子供が生まれたからだ。
奥さんの体調が落ち着いたタイミングでここにいる三人で祝いの品を持って国枝家を訪問したのだ。
「お前んとこの赤ちゃんな。そっくりだったな」
国枝は見事な天パで、しかもしょっちゅう麺類を食べているせいであだ名は『焼きそば』だった。
天パは遺伝しないでくれと言っていたが見事なまでに遺伝しており、一人で産んだんじゃないかと思うほどに似ていた。
焼きそばだ天パだとからかっていたのに、くるくる髪の毛の赤ん坊は本当に可愛いかった。
たぶん天パの赤ちゃんって世界で一番可愛い生き物なのだろう。
「ん……ああ」
だから天パなんだよと言いたくなるほど髪の毛をぐしゃぐしゃにして国枝はうつむき生返事をした。
落ち着いて国枝の立場に立って考えてみると、冗談じゃないだろう。
本人は隠しているつもりだったが、生まれたての娘にデレデレだった国枝の姿は昨日のことのように思い出せる。
「もし仮にどうにもならないとして……。また同じ道を歩めばいいだろ」
だからこそ俺は真っ先に『余計なことをするな』と全員に忠告したのだ。
不測の事態では常に最悪を考えて動け。この場合の最悪は戻れないこと。
原状回復をしたければ────特に国枝のように順風満帆な道を歩んできた人間にとっては、余計な真似をして未来をズラすことは絶対に避けなければならない。
「もしかして……俺また司法試験受けなきゃいけないの!?」
「いいじゃん、次は刑事の方にいけよ」
「いやまた弁護士になるかなぁ……。民事の方も大概カスばっかだったのにさ」
「でもそうしなきゃお前、嫁さんに会えないだろ」
国枝の妻との出会いは大学で、同じ学部学科であったことがきっかけだった。
二人同じタイミングで司法試験に合格して弁護士になり、その一年後に結婚式を挙げた────と結婚式で聞いた。
「そうだよなぁ……えっ、てかそもそもまた法学部受けるとこから? そっから? そっからやり直し?? かァ~~~~」
せっかく難関大の法学部に入ったのにな、と笑っている場合ではない。俺だって難関大に入ったのに消えてなくなった。
そのあとに取ったCFPも証券アナリストも統計検定も情報処理検定も簿記もTOEICとTOEFLのスコアも全部消えた。
残っているのは高校受験前に取った漢検準2級しかない。消えたものを考えると物凄く憂鬱な気分になってきた。
「これ俺もやり直しだよな……。いやもうこの際だから就職先変えちまおうかな」
小野の深いため息はまるで十年後の憂鬱の前借りのよう。こんな会話をしていると特に変わりないはずの空までもぼんやりとした色彩に見えてくる。
「コンサルってキツいのか?」
「コンサルって言うと聞こえはいいけど、やってることは常駐ベンダーだからな。客先の都合に振り回されまくる日々よ」
就職先の名前だけで見れば小野が一番だったように思う。なにしろ東大生の就職先ナンバー1の会社に新卒で入ったのだから。
だが確かに、言われてみれば会社の名前で鼻高々だったのはせいぜい一年目までで、あとは会うたびに仕事の話は減っていった。
「夏目の言っていたこと真に受けるわけじゃないけど、気付けば俺だけだな。独身は」
「俺は御薪が一番早く結婚すると思ってたけどな」
「なんで?」
「なんでって、そう感じたってだけだよ。俺あんま思ってること言葉にするの得意じゃないんだよ」
それでよく弁護士をやっていられるものだ。そういえば親にもそんなことを言われたような気がする。
いや、母親だけは『そうすべきだ』というニュアンスだったか。思えば母は────家に帰れば10年以上会っていないお母さんがいる。
時が止まる気がした。家に帰ればなんていうが、俺の実家なんてものはとっくの昔に消滅していたのに。
「マッチングアプリでもやれば? 遊び用じゃなくて、月額料金がかかるちゃんとしたヤツ」
「…………。あ……。まぁ、気が向いたらな」
話を振ったのは俺の方なのに、心底どうでもよくて適当な返事をしてしまった。
社会人になって少しの間やっていたが、すぐにやめてしまったのだ。
結婚を前提とした男女の出会いも、『俺の職業や年収を知った上でここに来たんだよな』と目の前の女性に感じることも、なにもかもウンザリだった。
たぶん向いていなかったんだろう。色んなことを要領よくこなしてきた自信があるが、唯一恋愛だけは気疲れが勝った。
と、話をぶった切って考え込んでいたら教室の扉が開いた。
「あの~……先輩?」
「おい、三上じゃねーか!」
軽音楽部一年生の三上が入り口にいて、大人の記憶を持っているはずの先輩たちが手をワキワキとさせながら少年の顔で絡みに行っている。
小野に肩を組まれて上級生の教室に連れ込まれ三上はずっとへらへら笑っているが、別に下手に出ているのではなく生来こういう性格なのだ。
卒業した後もときおり軽音部の同期や先輩である俺たちに声をかけては忘年会やら何やらを開催してくれる後輩オブ後輩。
三上のおかげで俺たちは卒業後も緩く繋がりを持てていたこともあり、アラサーになってもずっと可愛がられている。
「どうした? プリッツ食う?」
「あっ、いただきます。えへっ。いや、今日先輩たちが部室予約してたのに使ってないからどうしたのかなって」
「えっ、そうだっけ」
「覚えてねえな……さすがに」
部室にはドラムがあるが、バンドの数は10以上あるため基本的に日付を書いたホワイトボードにバンド名を書いて予約するという制度だった。
使ってないとなるともったいないので様子を見に来たのだろう。しかし文化祭が終わった直後なのになぜ予約をしていたのか、もう完全に忘却の彼方だ。
「来月先輩たちFIREBIRDに出るんですよね?」
「うわっ、あったな~~」
高校の軽音楽部の生徒は小っちゃなライブハウスに出演料を払ってエントリーするのが通例だ。
聞いたこともないバンドのステッカーだらけの重たいFIREBIRDの扉を開き、チケットを買って半券でドリンクと交換する。
こぼす馬鹿が必ずいるから会場の床はいつもべたべたで、運が悪いと最前列の柵もべたついている。
ヤニ臭い楽屋で他の高校の軽音楽部と交流して、時には地元の大学生とも仲良くなったりした。
楽屋にいると排気口からライブ中の演奏がそれなりの音量で聞こえてきて、あの雰囲気がたまらなく好きだった。
そうだ、三上は先輩同級生後輩のライブ全てを律儀に見に行ってたっけ。そういうとこだよな、と思う。
「行くかぁ」
部室の予約をしていて、メンバーも全員揃っているのに使わないのはあまりにも不自然だ。
ギターケースを背負うと、会社に持っていくカバンよりずっと重いのになぜか軽く感じた。
***
軽音楽部の部室にはドラムと中古のアンプ、そして何代か前の卒業生が置いていったアコースティックギターがある。
エレキよりも固い弦にびっくりしながら銀杏BOYZの『BABY BABY』を弾き語りしたっけか。
いつの間にか誰かがこのアコギを手入れして弦を換えてくれている。軽音楽部七不思議のひとつだ。
「ギター弾くの何年振りだろ、俺」
「もう持ってないのか?」
「いや、あるよ。リビングの……テレビのそばに飾ってる。結構おしゃれなんだよな」
「あー、弾いてないなそりゃ」
本当に毎日弾いているのなら、多少邪魔でもソファの隣に置く。
大学生になって買った9mm滝モデルの高価なギターは完全なインテリアとなってしまった。
この頃に使っていたギターはハードオフで買った中古の安いストラトキャスターで、それはもう乱暴に使っていたものだ。
「お前ドラム叩けんのかよ」
「ウチの妻とたまにスタジオ行くからな」
「えっ、嫁さん軽音部だったの? なんか、運命の相手って感じがするな」
「つーかツーバスじゃなかったんだな、ウチ」
「公立高校にしちゃ頑張ってるだろ。防音の部室もドラムセットもあるんだから」
ギターケースから取り出したマルチエフェクターの電源を入れる。この頃はまだ個別のエフェクターを買う金なんてなかったからマルチで頑張っていたんだ。
細かく調整した音響効果を00~99までの100個登録できるが、本番で1→5→2の順で使うとしてワウペダルを踏み間違えるのが怖く、曲で使う順にエフェクトを登録していた。
そのせいで割と100個中70個は毎回埋まっていたが、00番はクリーン×ディレイのエフェクトだった。
(ultra soulのイントロか)
誰もが知っていてかつ演奏難易度が低いテッパンの曲をどのバンドも一つや二つは持っている。
『完全感覚Dreamer』『イチブトゼンブ』『イケナイ太陽』『大切なもの』『瞬間センチメンタル』、聴きなれたそれらの曲を大人になってからも時折Spotifyで聴いていた。
6弦から1弦まで順に鳴らすとチューニングが半音ずれている。思い出した、文化祭のラストでやった曲がSum41の『88』だったんだ。
Sum41解散しちゃったんだよな、と考えながらチューニングを終え、試しに『ultra soul』イントロを弾いてみるとびっくりするほどスムーズに指が動いた。
「おいマジか……! 身体が覚えてる!!」
左手の指先をよく見ると皮が固くなっている。ギターやベースを弾いていると何度も指の皮が剥けてやがては固くなってくるのだ。
右手の中指の皮が固いのはタッピングをよくしていたからだろう。まさか、とギターソロを弾いてみると、こちらもギターを見なくても弾けるくらいには指が勝手に動く。
この身体が、17歳の頃の俺が覚えているのだ。
「10年後もこんなふうにいられるかな、か……」
「あん?」
何事かぼやいた小野がギターの高さを調整しながらマイクスタンドの前に立った。
このマイクは飾りなのでどこにも繋がっておらず、練習時は小野の声が全く聞こえなかったものだ。
「なんでお前らみたいなアホどもと10年以上付き合ってんのかな、俺も……」
「あ~!? 仮にも成績優秀者だった俺にそれ言う?」
「そういうとこがアホだってんだよ」
「チッ……。……いけるか?」
舌打ちをしながらも、俺と同様に身体が覚えていることを確かめたメンバーと頷き合う。
時間がないから、住んでいるところがバラバラだから、家族の迷惑だから。
大人になって言い訳ばかりが先に出ていたけど、やっぱりお前らもそうだったか。
もう一度、演りたかったよな。
***
すっかり暗くなった部室棟を出ていったん教室に一人で戻る。
実家のマンションでは楽器が基本的にアウトだったことと、自転車通学だったこともあって余程のことがなければ普段はギターを教室に置いていたことを思い出したのだ。
「あ……? 西井……? 何してんの?」
教室の電気が付いていたので不思議に思いながら入ったら、俺と同じく未来人の西井が自分の机を漁っていた。
「教科書全部持って帰る必要ないから置いていこうと思って。自転車で来ているからさ」
「はっ、なるほど」
偽りのない頷きを繰り返しながらロッカーの上にギターケースを置く。
誰かが置きっぱなしにしてある電子辞書が目に入った。あったなぁ、こんなものも。
今の高校生はこんな高いものはわざわざ買わずにスマホで言葉を調べるのだろうか。
「御薪は今日なにか運動した?」
「いや別にしてないけど」
「めちゃくちゃ身体動くよ、びっくりするよ」
「……だろうな」
この時期はもう三年生は引退しているだろうから、西井は女子テニス部の部長のはず。
それでもそう言い切れるということは、みんな身体が覚えているのだろう。
「……あー、でも教科書置いてくのやっぱりまずいかな。英語しかできる気がしないんだけど!」
「それは俺もそう」
西井が座って話し始めたのを見て、彼女の前の席に座る。
たしか仕事は翻訳家と言っていたか。同時通訳ではなく海外の作品を日本語にする仕事らしい。
「海外の人と結構話すの?」
「海外拠点があるからTeamsとかで話すよ。あいつらこっちが夜でもお構いなしにコールしてくるからな」
「そんなに英語得意だったっけ?」
「そうでもなかったんだけど、研究室に中国人とインド人の留学生がいてさ。あいつら英語で話してたから、そこに混ざっているうちにそこそこ話せるようになった。だから英会話の勉強とかは特にしてないけど、今の方が英語はわかるな」
「うわ……。なんかそういうヤツだったよね……」
西井が苦笑いしながら払うように手を振った。
振り返って己を客観視すると、俺は普段から真面目にやらずとも直前の詰め込みで人並み以上にできてしまうタイプだったので、推薦で大学に行った典型的優等生の西井には結構イヤミなヤツに見えていたのだろう。
だが、こういうネガティブな言葉を面と向かって言えるくらいには互いに大人になっている。
「でも俺には翻訳なんてできない。AIに潰されるって言うけど、まだ先の話だと思う」
「そう? 理由は?」
「結構海外発の小説読むんだけどさ、書いてあることそのまま翻訳してもダメなんだよな。英語なら1ページに収まっていて、見開きで見た時の空白の割合も綺麗に作られているのに、翻訳してそれが崩れたら二流の翻訳家なんだよ。バランスを常に意識してなおかつ日本人にわかりやすい訳文にしないと。AIに『Look at me』を『僕を見てくれ』って訳せるか? そういう感覚が占める部分をまだAIが理解できるとは思えない」
「なんか本当にわかっててイヤな感じ……」
「なんでだよ」
可愛い子と話すと時間が早く感じる。この頃からこんなに可愛くて、しかも優等生で結婚も早くてインテリな仕事に就いて。西井の親は大層誇らしいだろう。
しかも写真で見せてもらった旦那も男から見ても格好いい男だったし、二人の子供は両親のいいところばかり引き継いでいた。
と、心の中で色々と考えてしまうから時間が早く流れる。この頃は可愛い子を素直に可愛いとだけ思えていた。
そこまで考えて────というか今になって面白いことを思いついた。
「会いに行ってみたら? 旦那さんに」
「え? この時代のってこと? いきなり知らない人が来たらびっくりするでしょ。それに変なことするなって御薪が言ったんじゃん」
「いや、影から見るだけ。万一見つかっても男って馬鹿だからあんま気にしないよ。西井なんて美人なんだから、いきなりでも大喜びするぜ」
「うーん……」
「気にならないの? この頃はどんな学生だったか」
「気になるけど……うちの旦那北海道出身なんだよね。今も子供連れて札幌帰ってて────」
話の途中で一瞬停電したかのように動きが止まった。なんだか見覚えがある、というか数時間前に見た。
そうだ、生まれたばかりの子供のことを思い出した国枝と同じ反応をしているのだ。
「……けっこう手のかかる子なの。上の子は甘えん坊だし、下のは癇癪持ちだし」
声のトーンが落ち着いて完全に大人のそれになっている。
女子高生なのに自分の子供の話をしている姿に、日の落ちた窓の黒さが急に視界に入り込んできて意識がぐらつく。
「帝王切開したんだけどね、さっき着替えた時……ヘソの下に痕あるはずなのに、なくなってて、なんか……」
まばたきをしなくなった西井の元々大きな目が更に大きくなったように感じた。
こらえている。だからまばたきをしていない。だけど、ああ、しまったと思ったときには大粒の涙が流れていた。
一滴落ちたらもう止めどなく零れてしまい、西井は手のひらに降り注ぐ涙を片目だけ開いてただ見ていた。
(ハンカチがねえ! 俺のクソバカ!!)
何年振りかもわからない人の涙を見てしまい、十秒以上動けなかった。
ようやく意識が自分の身体に戻ってポケットを漁るも、ミンティアやガムはあるのにハンカチもティッシュもない。
本当にこういうところだ。俺は俺を今すぐに殴りたい。
「おかしいよね。手術の痕、目立たなくしようって色々やってたのにさ……」
「西井……」
「戻る方法わかってないんだよね。御薪でもわかんないって、じゃあもうウチらは……」
自分のハンカチで涙を拭った西井は数秒して『違うの』と言った。
全く責任のないことでも、何か良くないことが起きたら中心人物を責めずにはいられない。
最初に集まった時に全員に釘を刺したせいで、この件をなんとかするのは俺だという空気が合意のもと形成されてしまった。
そういうものだ、人間の性質だ。別に怒っちゃいない。それでも言葉を出せずにいるうちに、西井は一言謝って教室を出て行ってしまった。
***
裏門そばの駐輪場から自転車を押していく。
もっと自転車を探すのに時間がかかるかと思ったが、俺はこういうのは気に入ったところにしか止めないので、『俺が止めたいところ』を探したらすぐに見つかった。
カゴが戦後みたいにベコベコで、ベルが壊れていて、ギアが固くて回せないというクソボロチャリ。
これで家から4駅離れたこの高校まで来ていたのだから体力バカにも程がある。今だと駅から出て雨が降っていたらタクシーを拾ってしまうのに。
裏門から出て自転車に乗る。敷地内で自転車に乗ると怒られるのを身体が覚えている。アホくさ、と自嘲しているとベルトに何かがひっかかった。
「メール見た~?」
間延びしきった眠たくなるような声に、脳のシナプスが一気に活性化する感覚がした。
振り返ると裏門のすぐそばに柔和な性格がそのまま顔に出ているような垂れ目の少女が立っていた。
生まれ持った品性が結晶化したような白く細い指がブックカバーの付いた文庫本を持っている。
「鏡花……」
一年生の夏から二年生の終わりまで付き合っていた一つ年上の彼女だった。
慌ててポケットからガラケーを取り出す。目に映る全てがノスタルジックな新鮮さに溢れていて面白かったので、全く開いていなかった。
これは大人になってからもそうなのだが、携帯がうるさく鳴るのが嫌いなのでいつもサイレントマナーにしていたのだった。
(げっ!? mixiだ!?)
開いていきなり出てきたのがmixiのホーム画面だった。
そういえば高校生の頃はみんなやっていた。軽音楽部以外のヤツが来るはずがないのにライブの宣伝とかもしていたし、恥ずかしいことも結構日記に書いていた。
社会人になって急に黒歴史を抹消したくなってログインを試みたが、パスワードを完全に忘れていてメールアドレスもガラケー時代のものだからどうしようもなかったのだ。
「時生(ときお)ちゃん? どうかしたの?」
俺のことを『時生ちゃん』なんて呼ぶ人は三人しかいない。小さいころに住んでいたアパートの隣にあった雑貨屋のおばあちゃんと、かかりつけ医だった小児科の先生と、鏡花だけ。
合唱部で図書委員で三年生という、どうやったって関わりを持てそうにない子だったのに俺たちは付き合っていた。
一年生のとき瀬古に彼女ができて、だけど童貞すぎてどうすればいいかわからないからデートに付いてきてくれと言われたのだ。
その彼女がまさかの一個上の先輩で、その子の付き添いで来ていたのが間宮鏡花だった。
瀬古は一か月くらいで別れてしまって、一体なんだったんだと思っていたら、なぜか鏡花から連絡が来た。
高校生になって彼女も欲しかったし、見た目も好みだったからという軽い気持ちだったのに、なぜか長続きした。
出来たばかりのスカイツリーよりも植物園に行くことを喜ぶような子で、超が付くほどおっとりした性格なのに東京事変が好きという、そんな感じのギャップが沢山ある子だった。
その影響で俺は今でも東京事変を聴く。特に『閃光少女』が好きなんだ────そういう、人を優しい力で変えられる不思議な魅力に鏡花は溢れていた。
俺は自分のことを結構苛烈な性格をしていると思うのだが、不思議なことに男女共にぽやぽやした人間によく好かれる。
「帰ろ~?」
「おう。ごめんな、メール見てなかった」
自転車から降り、鏡花を左側に立たせて歩き始める。この子を駅まで送る習慣を一年半以上も続けていたのにすっかり忘れてしまっていた。
豊葦原高校は二つの路線に挟まれていて、鏡花は西側にある私鉄を使い、俺は(使うとしたら)東側のJRの駅を利用するので、遠回りどころか逆方向だった。
だが鏡花は部活を引退しているのに自習室で勉強しながらこうして待ってくれるし、つまり互いにとって何よりも大切な時間だった。
「貸した本読んでくれた?」
「…………。いつ借りたっけ?」
よく本を貸してくれていたのは覚えているが、この時期に何を借りたかなんて全く覚えていない。
何を借りたっけ、なんて言ったら流石に失礼なので一縷の望みをかけてwhenで質問を返す。
「三日前に『蹴りたい背中』を貸したよ。他にも貸しているけど」
ああ、確かに借りた覚えがある。内容もおぼろげだが覚えている。
俺は鏡花と違って本を読むのに一週間はかかるから、まだ感想は言わないのが正解だ。
鏡花の『読んだ?』は挨拶みたいなものだ。
「あー……まだだわ。あのな、鏡花から借りた中だと『そのときは彼によろしく』が一番好きだった。ありがとな、いろいろ面白い本を教えてくれて」
心からの感謝を口にすると、『夏は夜』のとおりの爽やかな夜風が月から吹いてきた。昼間にバンドメンバーに素直な気持ちを伝えた時もこんないい気分だった。
この子の影響で読書の習慣ができて、その中でも一番お気に入りの作品だったから社会人になったあとに改めて買ったくらいだった。
「……貸したっけ~?」
しまった、この時はまだ借りていなかったか。そういえば冬に読んだような気がする。
センター試験も近くなって、勉強の邪魔しちゃ悪いからメールもちょっと控えると言ったら『時生ちゃんが寂しがらないように』と大量の本を渡されて、その中の一冊だった。
「でもいいよね~、あれ。あの人みたいな大人になってね」
「俺? 俺ぇ〜? 俺なぁ、あの主人公と真逆みたいな大人になるよ」
軽く流してくれて助かったが、どうやら鏡花は俺に俺とは真逆の人間になることを期待していたらしい。
地方都市でアクアプランツの小さな店を開くなんて発想自体がそもそも俺の中にはなくて、都心で大企業の歯車として摩耗しながらグルグル回転する日々だ。
小さいころから家が貧乏で苦労したから、常に金のことを考えて仕事をしている。金さえあれば、金さえあれば……。
「金のことばっか考えて、金に強くなって、実際金に困ることはなくなって、だけど別にほしい物もなくて……」
駄菓子以下の価値しかない貧乏猿でも走り続けたらどこに出しても恥ずかしくない正六面体的エリートになった。
金が全てじゃないよって、テメェそんなこと言うヤツは競争から降りたヤツの負け惜しみか、元から金持ちでありがたみに気付かない脳みそわたあめ野郎だと思ってた。
なのに満たされない。それどころか何かが砂時計みたいに魂から少しずつ、確実に毎日抜け落ちていく────鏡花が意味不明な言葉を口走る彼氏の手をそっと握ってくれた。
「グミ食べる?」
いつの間にか指先でつまんでいたグミを口元に持ってきてくれている。
俺は鏡花より頭の回転も口もずっと早くて、わーっと喋って置いていってしまうことがよくあった。
そのたびに鏡花は怒るでも止めるでもなく聞き流してくれていた。今になって思えば彼女はなんて大人なんだろう。
「美味しいな、これ」
「ね。最近よくコンビニで買ってるの。時生ちゃん、なにか嫌なことでもあった?」
「いや別に……」
「そう? 不思議~。時生ちゃんって自分の弱いところ見せない子だから」
(いい子だな、この子。幸せになってほしいな……)
誰かの幸せを純粋に願ったのなんていつ以来だろう。
鏡花は京都への強い憧れを持っていて、受けた大学も全て京都にある大学だった。
京大の文学部には残念ながら落ちてしまったが、京都にある私大の文学部を出てそのまま憧れの古都に居着き、今は図書館の司書をしている。
市の合唱団とやらに入っているらしくLINEの投稿で宣伝していたのをこの間知った────眩暈がする。なんだかなんとなくぶっ倒れちまいそうだ。
(────…………)
過去に来てから何度もあったが、今度のは立ち眩みさえ伴う強烈なデジャブだった。瞳の中で閃光が弾け飛ぶ。
古めかしい街並みと雲一つない青空の中、真っ白なスミレの花束を持って歩く。
夏の日差しにやられて顎から垂れた水滴がアスファルトに落ちてみるみる蒸発していく。
全てを吸い込むような青空から目を背けて『閃光少女』だけをリピート再生しながら。
「なんで俺と付き合ってくれたんだろ……」
いつだかにノルウェー土産にとろけるほど甘いベリージャムをくれたけど、俺は未だに大したお返しもできていない。
いつだって俺は受け取ってばかりで、俺が鏡花に渡せたものなんて何もない。
俺なんかいなくたって、俺なんかが願わなくたって、勝手に幸せになる子だった。
鏡花は人生の楽しみ方というものを知っていて、俺はもっとこの子から色んなことを学ぶべきだった。
「え~、私の方が知りたいよ。なんで?」
心の中だけで思ったつもりがしっかりと声になって出てしまっていたようだ。
いつもそこはかとなく上機嫌な鏡花がにこにこと笑いながら質問を返してくる。
「なんでって……」
「時生ちゃん器用だし、頭もいいし、すごい子だと思うんだけどな~」
確かに俺は器用で頭がいいと思う。ただ、別にすごくはなかった。
俺くらいの人間は結構たくさんいたし、俺よりすごい人間もたくさんいた。
17歳の頃の俺は将来何者かになれるはずと無根拠に信じていたけれど、土台のない自信は煙のように消えてなくなった。
「鏡花が……学校の花の写真を送ってきたことがあって……。スミレの花だよ……。俺、学校で同じもん見てるはずなのに写真で見るまで気付かなかった」
ああ、なんだかんだ色んなところへ一緒に行ったはずなのに、10年以上の月日が経って今や覚えているのはそんなことばかり。
同じものを見ていても、鏡花と俺では目に入るものが違った。もっと言うと、同じ世界で生きているはずなのにまるで違う世界を見ていた。
俺はこの世界を武器のない戦場だと思っていたし、今でも思っている。だけど鏡花はこの世界の美しさを俺よりもずっと多く見つけていた。
「俺に鏡花はもったいない。同じ世界を見れないから……」
後になって思えば思うほど、鏡花みたいな子は貴重で、俺は俺が思うよりも鏡花を大切に思っていた。
ちょっと変わった子なのはわかっていたが、一年生の時にクラスメートのキョロ充から『変な彼女』と言われたときは自分でも驚くほどにキレたことがある。
お前なんぞ『無』じゃねーか、と『無キャ』『モブキャラ』という言葉がない時代なりに言語化して怒っていた。
すごく、というよりはひどくプラトニックな付き合いだったのに、今までの彼女の中で一番好きだった。
「時生ちゃんはね~、ガサツなんだけど今みたいにときおりひどくセンチメンタルなの」
「……俺、そんなガサツ?」
鏡花にしては珍しく、すっとした動きで俺の自転車を指さした。よく見るとスポークがひん曲がっている。
思い出した、いつかに鏡花を駅に送る際にちょっと遠回りをして、坂道で自転車を転げ落としてしまったのだ。
蹴っ飛ばして形だけ直してそのまま乗っているのが現状だが、歴史通りならあと何か月かすると走っている時にいきなりバラバラになって大横転する。
血塗れのまま家に帰ったら母親に即座に救急車を呼ばれた。顎の骨が砕けておりしばらく固いものが食べれない生活になった。
これをガサツと言わずしてなんと言うのか。
「〇〇だけど××って人、結構いるけど……『人といるのが好き』だけど『一人も好き』みたいな? でもラフだけどセンチメンタルな人ってあんまりいないし、そのギャップが面白くて好きだからかな~」
(なんか同じようなこと今日言われたな)
ノンデリのくせに繊細、だったか。友人からも彼女からもそう言われるということは間違いないのだろう。
なんだろうか。日岡が連絡先を整理して見つけた中で、一番に俺に連絡をくれた理由もその辺にあるような気がする。
仲は良かったが日岡は誰とでも仲が良かったし、他にもっと人脈のある知り合いもいたはずなのに。
「お父さんに似てるかな~。普段は大雑把なのにすごく繊細な仕事するの」
いま思うとこれもまた育ちの良さがわかる言葉だ。普通この年齢の女の子なら父親と仲が悪くてもおかしくないのだから。
確かどこかの大学の植物か何かの教授だったはず。両親中卒の俺とはえらい違いだ。
「あ~、着いちゃった~。もうちょっと遠回りすれば良かったね」
地下鉄の豊葦原西駅の入り口がぽっかりと口を開いている。
行かせたくないなぁ。あのさ、コンビニでジュース買ってそこのベンチでもう少し話しようぜ。
って、言ったらおかしいよな。それじゃ普段通りの生活にならないよな。今から大急ぎでチャリを漕いでも家に着くころには20時過ぎになってるんだから。
俺だってもうちょっと遠回りしたかった。だけど豊葦原高校は曲がりくねった川と橋に囲まれているので、ちょっと遠回りがちょっとでは済まなくなる。
あるいは陸橋を渡ることになって自転車を転げ落として今度こそ木っ端みじんにするかだ。
「また明日な」
ばいばーいと手を振りながら鏡花が白い蛍光灯で眩しい階段を下りていく。
夏の終わりが彼女を永遠に飲み込んでしまったような錯覚さえする。
なぜ別れてしまったんだろう。本当にもったいないことをした。
(……俺から別れようって言ったんだ)
鏡花は京都にいて、俺は一年間勉強に集中して東京の大学を受ける。浪人だってするかもしれない。
そんな中で関係を維持することが難しいと判断したのを、無意識に彼女を繋ぎとめてはいけないという考えにすり替えた。
昔からそうだった。やるぞと決めたらスイッチが入って不要な物を無意識に切り捨て始める。
高校受験のときも、一緒にザリガニをぶっ飛ばしたり友達の兄貴の原チャリをこっそり乗り回した悪友と遊ばなくなった。
高三に入った途端に漫画を読まなくなり、ゲームもやらなくなって3DSも妹にあげてしまった。
ラフでセンチメンタル、相反した性質か。それに付け加えるならセンチメンタルだがリアリストということになるか。
現実的に物事を推し量る能力が物心ついたときから備わっていて、そのため分不相応な夢を持つこともなかったし、だからこそ繊細で冷酷な判断が必要な今の仕事を続けられている。
ああ、俺はなんて馬鹿なんだろう!
***
豊葦原高校は線路の西側にあって、俺ん家は東側にあるから陸橋か地下を行くしかない。
どっちにしろ毎日坂道を自転車で往復しなければならない。そのうえ駅にして4つも離れていたのだ。
そりゃ運動部じゃなくなっても根本的な体力が尽きないわけだ。毎日二時間のサイクリングをしているようなものだからな。
ようなもの、というかそのままか。
「…………俺ん家こんなボロかったっけ」
駅徒歩25分というふざけた場所にある七階建てのマンション。俺の家は405号室だった。
そういえば大人になってから一人暮らししてる俺のマンションの方が家賃高いんだよな。駅近というのもあるが、東京の家賃は狂っている。
実家のマンションの駐輪場からはエレベーターよりも階段の方が近かったため、いつも階段を使っていた。
なんだこの階段は。手すりまで錆びついているじゃないか。しかし西井の言った通り身体が信じられないほどに動く。階段が全然キツくない。
やがて405号室にたどり着き、ジョジョのスタンド『キングクリムゾン』の『エピタフ』のキーホルダーが付いた鍵を差し込んで回す。
「……ただいま~」
なんて言うのは何年ぶりだろう。別にいいにおいでもなんでもない実家のにおいが鼻腔に流れ込んできて動きが止まる。
玄関で呆けていた俺の足元をまん丸い影がうろついている。
「あー! マル! マル!!」
実家で飼っていた猫のマルが俺の足元でぽんぽこりんのお腹を出して寝そべっていた。
見事なまでの肥満猫のくせに、家族の足音が聞こえるとたとえ寝ていようとも起き上がって迎えに来てくれるのだ。
「おいなんだよこの腹! この腹わー! あ~!? デブ猫がよぉ~!!」
ぶよぶよのお腹を叩きながらスニーカーも脱がずにその場にうずくまりマルの腹に顔を埋める。
なんて足の短い猫なんだろう。お腹がぽかぽかしている。今の今まで寝ていたな、こいつめ。
涙がこぼれそうだ。俺、もう10年以上マルに会っていないから。
『マルが小っちゃくなっちゃった……』
「え……?」
妹の声がどこからか聞こえた気がした。そりゃそこのリビングへの扉を開けばいるんだろう。
だが今聞こえた声は、声変わり後の大人になりかけた少女の声だった。
「時生! あんた何してんのそこで!」
懐かしい声が聞こえて、マルが通れる隙間だけ開いていたリビングへ通じる扉が開いた。
「あ……ああ……。お母さん……」
妹が出てきたのかと思って、ほんの一瞬の大混乱と記憶の濁流に思考停止する。
違う、妹が成長するにつれて徐々に母に似ていったんだ。
痩せた指に煙草を挟んで、化粧っ気のない鉤鼻を親指で掻いて。
10年ぶりに会う母がそこにいた。
「ごはん今から作るからちょっと待ってな」
「ああ……」
煙草で壁の黄ばんだリビングに入ると、まだ小学生の妹がすっぽんぽんで漫画版の『ひぐらしのなく頃に』を読んでいた。
まだお洒落とか周囲の目とかを気にする前で、いつも風呂から出たらバスタオルを首からぶら下げて髪も乾かさずに漫画を読み漁ってた。
なんて姿だ、まるで金太郎じゃないか。こんな妹も10年後には立派なギャルになって何やら耳が痛くなるような化粧の資格を取るようになるのだから驚きだ。
「俺、マルに餌あげていいか?」
「はぁ~? 何いきなり。好きにしなよ」
母が20時までバイトしていることもあり、俺の家は夕飯が遅かった。仕事のせいで飯が遅いのは大人になった俺も同じだが。
猫のカリカリが入った容器を振るとマルがカッ飛んできた。わざとらしく喉を鳴らして足に頬を擦りつけている。
「へっ……ちょっと待ってろよ」
ずっと使っている粉洗剤を量るスプーンでカリカリを二杯エサ皿に入れる。さらに冷蔵庫からラップをかけていた猫缶を取り出し、スプーンで4分の1切り出す。
あとはマルに見える場所でカリカリと猫缶を混ぜる。たまにしか餌をあげてなかったのに身体が覚えている。
マルは現金な猫なので、餌をくれる順で母と妹に懐いていた。
(トイレ掃除もしなきゃ……)
俺が全部世話をするからという約束で拾ってきたマルを飼うことになったのに、結局ほとんどの世話は母がしていた。
一番悪いのは俺だと百も承知だが、ただ母も相当ガサツな人で、気付いたときにしかマルのトイレ掃除をしなかった。
そのせいかマルは俺が高三のときに腎臓を壊して血尿をするようになってしまった。
「にーちゃーん、ワンピース読んでいい?」
「ああ? 勝手に読めばいいじゃんか、そんなもん」
「だって勝手に読むと怒るじゃん」
そうだっけ。そうだったかもしれない。この頃は妹が俺の物を勝手に触れるのが無性に気に入らなかった。
狭い家で個別の部屋がなく、六畳の部屋に二つの勉強机と二段ベッドが押し込まれていたので、ちょっと気を抜くとすぐに妹の物が俺の机に置かれていた。
貧すれば鈍するというが、自分の領域やモノに浸食されることにむしろ鋭敏だった気がする。
「ん? えっ、これ最新刊? まだ魚人島かよ」
「まだって? ジャンプだともう出てんの?」
「いまエルバフにいるぜ。おっ、ジンベエ……こいつマジ仲間になっから。ワノ国で合流するから」
「も~お兄ちゃんうるさい」
訳のわからないことを言い続ける兄貴を嫌がった妹は机の上に置いていた漫画を持って子供部屋に移動してしまった。
この意味がわかるのは10年先のこと、と一人ほくそ笑んでいたら二段ベッドの上の方、つまり俺の寝床に妹が上がっていくのが見えた。
「奈津生(なつき)! 俺のベッドに上がんな!!」
「だって下だと暗いんだもん」
「寝っ転がりながら読むなって言ってんだよ! てか髪乾かせよ! コラ!!」
「うるさい! 早く手ぇ洗ったらどうなの!?」
いつもこんな感じだった。俺は正論を言っているつもりだったのに、というか今でも正論だと思うのに、母の『うるさい』で大概話が打ち切られる。
台所の水道で手を洗っていると、餌を食べ終わったマルがタオルをくわえて引きずりながらベッドの上に上がっていった。
奈津生とマルはほとんど同い年なのだが、奈津生は赤ん坊の頃にお気に入りのタオルがあって、それを持たせていないといつまでも泣いていた。
タオルであやす俺たちを見て学習したマルは、今でもぼろぼろのタオルを引きずって奈津生の行くところへついていく。
たまに洗濯をするとマルはタオルを探してこの世の終わりのような声で鳴きながらタオルを探し回っていた。
「晩飯なに?」
「大根と牛肉の煮物」
「……隣で見てていい?」
母の作る料理で一番の好物だった料理を聞いて、思わず言ってしまった。
一人暮らしして料理をするようになってから、材料を思い出して何度も作ったのだが何かが違う味になってしまった。
大人になって奈津生とその話をしても、奈津生も同じ味にならないと言っていた。
「は? なにあんた、今日なんかあったの? まぁ好きにしなよ」
洗って皮を剥いた大根を母は適当に、本当に適当に切り出した。
爪を突き刺してラップを剥がし、トレーから引っ張り出した牛肉をほとんどほぐさず鍋に入れていく。
母が料理上手だと思ったことはないが、ここまで適当にやっていたとは。
調味料も超適当に入れた母は米びつを開け、自分の茶碗を使って少量の米を掬い取って鍋に放り込んだ。
「それ何してんの?」
「こうすると煮物は美味しくなるんだって。昔テレビでやってた」
話しながら母は手際よく落し蓋代わりのアルミホイルを鍋に入れた。
俺が記憶をほじくって再現したやり方と違ったのは米と落し蓋だ。忘れないようにしよう────母が鍋の前でタバコに火を付けた。
「おい!? えっ!? なにタバコ吸ってんの!?」
「なにあんた本当に。今更タバコがなによ?」
「あっ、あっ、灰が入ってんじゃねーか! まさか隠し味はタバコか~!?」
トイレにも寝室にも台所にも洗面台にも灰皿がある家だが、いくらなんでも料理中のタバコは俺でもしない。というか俺はタバコを吸うときはベランダに出る。
思わず額に手を当てると黄色い冷蔵庫が目に入った。そういやこれ新しく買ったときは白かったよな。
「あのさぁ……。俺がお腹にいる時もタバコ吸ってた?」
よく思い出してみると奈津生がお腹にいるときもスパスパ吸っていた気がする。
俺が喫煙者なのも無理はない。もう骨にニコチンが混じっているのだ。
「あんた川のそばで拾ったから」
母のよく言っていた懐かしい冗談だ。俺はあまりにも両親に似ていなくて、出来が良すぎて『川で拾った』と言っていた。
とはいえ行動の節々はやっぱり似ていた。たとえばそう、タバコの吸い方だ。普通は人差し指と中指で挟むが、母も俺も親指と人差し指で持つ。
ジョッキだろうか熱々のコーヒーが入ったカップだろうと、取っ手を使わずに鷲掴みするのは親父と共通の癖だ。変なところばっかり似ていた。
それくらいしか血縁を感じられる部分はなかったが、それでも親は親。いざという時にはびっくりするほど芯を食った言葉を言っていた。
「お母さんさぁ、俺に早く結婚した方がいいって言ってたろ。あれなんで?」
「そんなこと言ったっけ……? まぁでもあんたなんでもできるからさぁ、早いうちに誰かの人生の責任負わないと自分の人生に倦んじゃいそう」
さすがよくわかってらっしゃる。結局俺は大人になるまで挫折を経験しなかった。大失敗をしたことがない。
だがそれは超えられる壁にしか挑まなかったから。それだけだ。楽しくもなんともない判を押したような日々を少しずつ老いながら生きている。
とりあえず仕事をしながら仕事をする理由を探している。生きる理由を知るために生きているのと同じだ。ほとんどの人間はそうだろう?
「突っ立ってないで、暇ならご飯よそって」
「ああ」
食器棚から茶碗を取り出して手が止まる。今でも使っている俺の茶碗が出てきた。
100均で買ったものなんだろうが、俺は物にこだわりがないのでたぶん割れるまで使う。
ああ、そうか。なんかわかってきた。金がなきゃ生きていけねえだろうがって思ってたけど、そうだとして別に欲しい物なんか俺にはなかったんだ。
だって毎日が楽しかったからな。
***
食事が終わって母はまたタバコを吸いながら文庫本を読んでいる。
本のタイトルは『貴腐』だ。フランス革命に翻弄される女たちの物語。母は『ベルサイユのばら』が好きすぎてフランス革命の本を片っ端から読んでいた。
本屋でアルバイトをしているので、聞いたこともない本を取り寄せてそのまま買ってきたりしていて、寝室には貧乏一家には似合わないほど大きな本棚があった。
金を稼ぐようになったらいつかフランスに連れて行ってやろうと思っていた。大人になってから1mmの興味も無かった母の本を読んだ。全部読んだ。
この家にある黄ばんだ本、今は全部俺が持っている。
「テレビくそつまんねーな……」
手で押さえずにくしゃみをする親父のせいで唾の跡がついたテレビをザッピングするが、すぐにどうでもよくなった。
思えば中学生くらいからテレビを見ていなかった。社会人になってから地上波はニュースと天気予報以外見なくなった。
机の対面にいる奈津生は夕飯直後なのにお菓子を食べている。これがあと数年もするとカロリーがどうの脂質がどうのとうるさくなるのだから女という生き物は不思議だ。
「おい奈津生、ちょっとは残しておけよ」
「え~いいじゃん、お兄ちゃんの方がお小遣い貰ってんだから」
奈津生とは今でも飯に行ったときなんかは同じようなやり取りをする。
いいじゃんお兄ちゃんの方が稼いでるんだからって。兄妹のやり取りなんか何年経っても変わらないものなのかもしれない。
この頃はバカだけど金太郎みたいで可愛かった。大人になってもバカは変わらないのにスマホばっかいじって気が向いたら自撮りをしている。
「おめー宿題やったのか? 漫画ばっか読みくさって」
「あとでやるよ~」
「先やれよ! もうすぐ22時だぞ? あ~?」
この家で『勉強しろ』『宿題やれ』と言うのは俺だけだ。母は勉強について俺にも奈津生にも一切何も言わなかった。
そんな中で俺だけは『同じ血で出来ているんだから無理なはずがない』と一時期気合を入れて奈津生に勉強を教えていたが、あまりにも飲み込みが悪くて二か月で諦めた。
すげぇバカじゃんと思ったが、奈津生はその後偏差値でいうと50くらいの高校に入り、それが普通なんだとよくわかった。
これは大切な経験だと思う。今みたいな会社にいると周りはみんな高学歴で、基本的に頭のいい人しかいないので、世の中そういうもんだということを忘れてしまいそうになるから。
「も~お兄ちゃんうるさい」
漫画を持ったまま奈津生はまたベッドに行ってしまった。お菓子をベッドに持ち込むと俺が烈火のごとく怒るのでそれはしなかったが。
思えば俺はこの頃から妹の保護者になる準備をしていたのだろう。なにしろ母は奈津生が中三のときにいなくなってしまったのだから。
母がいなくなった後、俺の友達の女の子が『奈津生に化粧を教える人がいないのはマズい』と言いだしたんだ。
俺が財布役となって三人で化粧品を買いに行ったっけ。今になって思うとあれは結構派手な運命の分かれ道だった。
大人になっても妹はガッツリオタクだが、あれがなければたまにSNSで露悪的なイラストで出てくるようなオタク女子になっていたかもしれない。
(実家のパソコン……。懐かしいな……)
子供部屋の小さな机に赤いノートパソコンが置いてある。
フラッシュメモリをキーボードの上に置いたまま閉じたせいで液晶が割れているのに何年も使っていた。
懐かしくなってパソコンを開くとスリープのはずなのにログインできるまでたっぷり一分以上かかった。
「えっ、ブラウザ……インターネットエクスプローラだ」
そういえばこの頃はEdgeなんか無くて、みんなIEを使っていた。
ChromeやFirefoxはもうあったと思うが、高校生の頃の俺はブラウザなんてどうでもよかったし、家族の誰も気にしていなかった。
「うおお(笑) なにこれ(笑)」
もっさり立ち上がったIEのツールバーにYahooやBing、gooなんかが我が物顔でいて半分くらいしかブラウザが見えない。
おまけにスタートページはhao123だし、クリックしてもマウスの頭がグルグルするだけで反応がない。
Windowsキー+Eで立ち上げたエクスプローラーからプロパティを開くと実装メモリは2GBしかなかった。俺が家で使っているPCのメモリが32GBなので16分の1だ。
これじゃ何もできない。実家にいるときはPCをあまり触らなかった理由がよくわかった、とデスクの引き出しを引っ張ると何やらCD-ROMが出てきた。
「げーっ! 東方のROMセットだ!?」
紅魔郷から文花帖のケースが出てきてひっくり返りそうになる。そういえばバンドメンバーと電車に一時間乗って秋葉原に行ったときに買ったんだった。
あの連中と秋葉原でグッズを見て回って、気が済んだらそのまま歩いて御茶ノ水まで行って楽器店を巡るというのをよくやっていた。
この頃の秋葉原はメインの通りから外れればマニアックな品もあって楽しかったが、今の秋葉原はほとんどただの歓楽街になってしまって、社会人になってからは行っていない。
(そういや俺、紅魔郷しかプレイしてないや)
あの頃はニコニコ動画の全盛期で、原作をやっていなくても知っているなんて奴は大勢いた。いや、それは今の方が多いかもしれない。
一人だったら買わなかったかもしれないが、複数人で行って気が大きくなって大してSTGに興味も無いのに買ってしまったんだ。
しばらく放置していたら奈津生がやっていたような記憶がある。昔の奈津生は俺が持っているゲームや漫画にやたらと触れたがったものだ。
諦めて重たすぎるPCを閉じ、記憶よりも狭い部屋を歩いてトイレに向かう。
「うわっ……汚ぇトイレ……」
何日変えていないのかもわからない便座カバーに、とっくに空になっている芳香剤。
サイドテーブルに置かれた灰皿では吸い殻がジェンガになっており壁は真っ黄色だ。
恐る恐る便座を上げると地獄みたいな状態だった。立って小便をして汚す俺や親父は掃除しないし、母も奈津生も気にしないからこの状態なのだ。
一人暮らしをすると大抵の男は立って小便しなくなる理由がここに詰まっている。
(俺がガサツな理由わかった……無自覚な理由も……)
まずもってもう俺の家がクソガサツなんだ。その中で俺が比較的まともだっただけで、世間的に見れば全然ガサツな部類なんだろう。
ゴボゴボと致命的な音を出しながら流れるトイレから出ると、ちょうど帰ってきた酒臭い親父がいた。
「マル~~~×〇※△◇!!」
べろんべろんに酔っぱらって、嫌がるマルを抱き上げて顔を口に入れている。
世話を一切しないくせに酔っぱらったときだけ絡むので、家族で唯一親父だけはマルに嫌われていた。
それでも帰ってくる足音がしたら一応迎えに行っていたので大した猫だったと思う。仕返しに親父の布団に小便をしていたが。
「マルをイジメないで!!」
奈津生が俺のベッドの上から怒鳴っている。この時からもう始まっていたが、奈津生は中学生くらいから親父を蛇蝎のごとく嫌っていた。
飯を食わせてもらってんだから最低限の敬意は示せと、何度も俺は奈津生に注意をしたのだが成人するまで改善しなかった。
「時生~~~~!!」
「あんだよ」
「…………。忘れた。がぁーっ」
あり得ないほどデカいゲップをした親父は服を脱いで洗濯籠に放り込み、パンツ一丁になって冷蔵庫からビールを取り出した。
母は父のことを一切無視してタバコを吸いながら本を読んでいる。
(こりゃヒデェ)
もともと建設会社で働いていたのだが、親父は俺が小学生の時に独立して会社を立てた。
経営の才覚なんてまるでなかったが、オリンピックが東京で開催されることが決まってからしばらくは泥船みたいな建設会社でも普通にやっていけたのだ。
会社同士の付き合いがどうので親父は毎晩飲み歩いていたので、母は親父の分の夕飯を作らなくなった。
当時からわかっていたが、相当崩壊している家だった。なにしろシングルマザーの方が行政から支援があるということで、親父と母は俺が生まれた瞬間離婚していたのだ。御薪は母からの姓だ。
「時生ぉ、お前あれか、今日も勉強してたのか?」
「そりゃ学校行ってんだからそうだろ」
「小難しいこと勉強なんかしてもおめぇー、金になんなきゃゴミだぞぉ~」
こういう親父だった。その性は矮小にして尊大で、年『商』は大声で自慢する割に実際自分の取り分がいくらかは決して言わない。
勉強ができた俺に大して『俺は中卒だけど稼いでる。学歴なんか関係ない』と何度も言っていた。
そのくせキャバクラで俺の入った高校を自慢して回り、俺と同じ大学を出た有名人一覧を何枚も印刷して壁に貼っていた。
この家で一つ学んだ真理がある。〇〇なんてくだらねぇと普段声高に言っている人間ほど、本当はその〇〇に執着している。
「いや……。俺最近ついていけてねえんだよ。難しくて」
「えっ……そりゃお前、ダメだろ。せっかく学費払ってんだから、ダメだろ」
ほらやっぱり。ここで俺がドロップアウトして一番がっかりするのは親父だったんだろう。母は俺の逆はったりに無反応だ。本当に俺の成績を気にしていないならこういう反応になる。
中学の頃、親父の会社同士の付き合いに連れていかれたことがある。俺はただ飯を食っていたのだが、親父は俺の背中を叩いて『こいつちょっとおかしいから勉強ばっかしてるんですよ~』とヘラヘラ笑っていた。
その席にいた別の建設会社の社長に成績を聞かれ、素直に答えたらその人は極めて真剣な顔で『この子はちゃんと大学まで行かせてやってください』と言った。
親父のより規模の大きい会社の社長だったため、親父は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で三段腹を揺らして頷いた。
その人とはそれっきり会っていないが、結局のところゼネコンも多重下請け構造の上層は高学歴ばかりなので、学のないことの辛さと学があることのありがたみを痛感していたのだろう。
「ウソだよ。俺が一番以外取るわけねえだろ」
「あんだクラァッ、親に向かってオイッ!」
「なんだよ」
まっすぐメンチを切ると親父はふいっ、と目をテレビへと逸らしてビールを飲み始めた。
高二の俺はもう完全に親父よりデカくて体力バカだったので、喧嘩になったら勝てないし『じゃあ中卒でええわい』と俺が飛び出したら一番困るのは自分だとわかっていたのだろう。
というか高一の頃にそう言って家を飛び出したら何を考えていたのか、親父は警察に通報してしまい俺はお巡りさんに取っ捕まえられた。親父は警察に滅茶苦茶怒られた。
子供たちに尊敬されていないことをわかっていて、言葉だけで自分を尊敬させようと必死だった。
それでも実は愛妻家だったとかいう小説的な裏話なんかなくて、ガッツリ浮気していたしそれを家族に隠してもいなかった。
母はとっくに愛想を尽かしていて『とりあえず家に金入れてくれるならもういい』というスタンスだった。
「も~喧嘩うるさい!」
「奈津生ィ! お前宿題やれって! もうすぐ寝る時間じゃねーか!! 叩きのめすぞ!!」
「わかったよも~」
「俺の漫画投げんな! 俺のケロロ軍曹投げんな!!」
母も子供の成績を気にしていないのは結構なことだが、こういうガーガー言う役割くらいはやってほしかった。
俺が大学の寮に行き、母がいなくなってから親父は見様見真似で奈津生の世話をしていた。
慣れない料理をして、一度もしたことのない洗い物や洗濯をして、塾の送り迎えをして、俺と同じトーンで宿題をやれと怒鳴っていた。
だが奈津生にしてみれば、料理はマズいし食器は汚れているし服はシワシワだし本人は学がないくせに勉強勉強と言われていたのだ。
全てが嚙み合わず親父は奈津生に嫌われ散らかして、成人した今は一年に一度の電話さえしないという。
帰ってきてわかったよ、伏線は張られていた、いろいろとな。
俺が家を出て、母がいなくなって、最後に奈津生が家を出た。
誰も帰ってこないボロマンションで酒を飲むしかなかった親父もじきに体を壊して、会社もうまくいかなくなって家賃も払えなくなって還暦を迎えた。
俺ん家はしゃぼん玉みたいに弾けて消えた。
あとな、実家のベッドはせんべいみたいにペチャンコで狭かった。こればっかりは記憶通りだった。
***
東日本大震災の影響で、駅を通った際にデモをしている連中がいた。ここでデモをして何の関係があるのか今でもわからない。
俺は嫌なガキだったので自転車で横を通りながら暇そうで羨ましいやと思っていた。
ちなみに大人になっても駅前でデモをしている人間を見るとそう思うので、しっかり嫌な大人になったというわけだ。
結局一晩寝てみても元の時代には戻れなかった。いよいよもって本格的に嫌な大人に再びなる準備をしなければならない。
「パスパスパス! プァース!!」
体育の時間は男子がバスケだったが、身体が面白いように動く。
同じく調子に乗ってボールを独占している日岡の背中に半ば怒鳴り声と化した『パス』を連呼する。
急ブレーキをかけてボールを両手で持った日岡が一瞬フェイントを入れ、ノールックで左側にいた篠原にパスをした。
日岡はバスケ部のポイントガードでドリブルが上手かったため、体育で大人げなく本気を出していたのは覚えているが────
「うが痛っ!?」
日岡の振り回した肘が目の上に当たり吹き飛ばされる。
ホイッスルの音が聞こえ、周囲の人間がこちらに駆け寄ってきた。
「うわ悪い! なんか思ったより……」
「思ったより体が動くんだろ? わかるわ」
日岡に引っ張り起こされ、転んでずれた体操着を直しながら顔を上げる。
何人かがこちらを見て『あっ』という顔をし、体育教師がやってきた。
「御薪、保健室行け。誰か付き添ってやれ」
「えっ、別に平気っすよ。続きやりましょうよ」
「お前アレはダメな当たり方してたぞ!」
「うわぁ~~! ごめん御薪ィ~~!!」
なんだよ大げさだなと思いながら、顎から落ちそうな汗を拭うとやけにさらさらした感触で、汗よりもずっと熱かった。
嫌な予感がして見てみると血がべっとりと付いていたし、急に左目がズキズキしてきた。
数年ぶりに心から運動を楽しんでいたのに中断せざるを得なくなった。
そういえば、というほど前でもないが、以前帰り道で公園を通った際、やけに鉄棒に魅力を感じたことがある。
昔の記憶そのままに勢いよく逆上がりしたら腕が肉離れを起こして地面に落っこちた。
先日クリーニングに出したばかりのスーツを砂だらけにしてヒーヒー言いながら帰ったが、それと変わらないではないか。
(学ばないヤツだな~俺も)
左瞼の上を大きく切って、おまけに派手に腫れてしまった。
眼帯をして教室に戻るとちょうど昼休みに入るタイミングだった。
「どうしたのそれ?」
眼帯下のガーゼに血が滲んでいるのを見てぎょっとした西井が声をかけてくる。
自転車で大横転して顎が砕けた時も全く同じトーンで言っていた記憶がある。
「体育で調子乗って怪我しちゃった」
「うわっ……早退したら?」
「別にへーきよこれくらい」
「そう? 結構大怪我に見えるけど」
「思ったより体が動くからな、しゃーない。でもたぶん回復力もきっと思ったよりあるっしょ」
「……?? あっそう」
「それよりほら、昼休みなんだからいったん集まるぞ。他の連中も行ってるし」
「え? なんだっけ??」
弁当を取り出し開けようとしていた西井を制止する。すっかり忘れているようだが無理もない。
昼休みに集まろうなんて一回しか言われていないし、そのあとの出来事が濃すぎて頭から抜けてしまったのだろう。俺だって保健室で冷静にならなければ忘れるところだった。
明日集まろうって言ったじゃんか、そうだっけ、とやり取りをしながら全員集合している大樹の元へ向かう。
「大丈夫か? ごめんな~」
日岡が両の掌を擦り合わせながら謝ってくる。
確かに学生時代にこのくらいの怪我をしたならちょっと嫌な気持ちにもなるが、大人になった魂はこの痛みさえも青春の光のように感じてしまう。
「別にいいって。それより夜になんか考えてみたか?」
「……ブリーチ読んで寝ちゃった」
「え~!? 吞気すぎねえか!?」
とは言ったものの、俺も人のことは言えない。結局昨日は元の世界に戻る方法なんてこれっぽっちも考えなかった。
「みんなどう? なんか思いついた?」
意見を出しやすいように努めて明るい声で訊ねるが、やはり全員何もわかっていないようで────いや、違った。
西井と国枝だけ表情が違う。何かを言いたそうにしている。やがて目線のぶつかった西井が軽い決心をしたかのように口を開いた。
「なんか……みんな真剣に話しているけど……」
「ああ、なんだ? なんでもいいから言ってみてくれ」
「みんな一体なんの話してるの?」
なにって────と言う前にここに連れてくるときの西井の言葉や表情が脳内を駆け巡り言葉が詰まる。
「そう、それ! 俺も言おうと思ってた」
国枝が西井に同意し、ひとり、またひとりと何が起こっているかに気が付いて周囲の温度が一気に下がった。
「あ……?」
マズいこと聞いちゃったか、と二人は静けさの中で気まずそうにしていて、例えるならそれは一回り以上歳の離れた大人たちの中に放り込まれた子供のようだった。
夏の終わりに燃え尽きようとしているひぐらしの鳴き声だけがやけに大きい。
二人は音もなく、元の時代へと帰っていた。
***
俺たちが未来人だと知られてはならないと言い出したのは俺だ。
だからすぐに誤魔化して解散した。日岡の言った通り、全員ではないものの一晩過ごしたら戻れたヤツがいたのだ。
あとはその条件を見つければいいだけ。状況は悪くない。悪くないはずなのに、俺はなぜか激しく動揺していた。
「うわっ……血が滲んでる。見てるだけで痛いんだけど」
目の前には長崎ちゃんぽんをレンゲで冷ましながら食べている夏目がいる。
食堂に行こう、とあの後すぐに誘われたのだ。
「まぁ気にすんな」
「まったくマジで……。ガーゼ変えてくればって言ってるの! ほんと人の目を気にしない人だったよね」
「それ言うならさ、俺ら二人で飯食ってておかしくないかな」
「大丈夫でしょ。私たちクラスで結構話す方だったし」
そうかなぁ。夏目がこうやって麺類を食べるって初めて知ったくらいには昼なんて一緒に食べたことがないのに。
大盛カツカレーを食べる眼帯男と一対一で昼食なんて目立つと思うのだが。
「で、何かわかったのか?」
「うーん。子供がいると早く帰れるのかな、とか」
「そりゃ人類の平均金玉数は約1であるって言うくらいの雑さだぞ」
「ほんと御薪って……! じゃあそっちは何か考えてるの!?」
「俺は……。狛崎がこっちに来なくてよかったと思ってる」
同窓会に来ていた同じクラスの狛崎という男を表現するなら『完璧』だ。
常に成績は最上位で、背も高くて彫りの深い顔立ちで、彼女も可愛くて、それなのに謙虚な良いやつだった。
勉強だけができたクソガキの俺とは違いすぎて嫉妬する気にもなれなかった。
三次会にも参加していたし、そのあとの母校への不法侵入にもいたのになぜか彼はこっちに来なかった。
「あれ? 仲悪かったっけ」
「いや別に。そうじゃなくて、あいつ官僚だろ」
国家公務員総合職を通ったいわゆる『キャリア』で、たしか厚生労働省だとか言っていたような気がする。
小中高大のすべてが国公立で御国勤めとは、絵に描いたようなエリートで肩をすくめるしかなかった。
「あー、なんだっけ……何省かは忘れたけど、そう言ってたね。それがどうしたの?」
「国の人間に知られたくないんだよ。西井と国枝が戻ったんだとしたら……『一定の条件を満たせば過去に戻れるし帰ることもできる』ってことだろ」
「この時代で何かを変えても未来まで変わるとは限らないでしょ。てか食べなよ。カツカレー冷めちゃうよ」
並行世界論というやつだ。Aという過去を変えてA'にしたとして、Aの未来と並行してA'の未来が生まれるだけで、自分のいた世界は変わらないというよくあるネタ。
俺が言いたいのはそういうことではない。過去を変えられなくても、もしも記憶を持ったまま自由に行き来できるなら────夏目がなるとを口に入れた。
「…………。スケトウダラだ」
「なにが?」
「なるとの材料。知ってたか?」
「知らないけど」
「この世界でも、知らなかったことを知ることはできる。たとえば『2014年2月11日午後3時の×県×市××町での目撃情報を最後に行方不明になった人』ってのがいたとして、過去に戻ってその場に行けば一発で解決だ。これは良い使い方な。政敵の知られたくない過去を探るって使い方もできるし、なんだってできる」
「でも国にとってはトータルでプラスにならない?」
「過去に戻る条件にはほぼ間違いなくこの学校が絡んでるだろ。豊葦原高校はそのままでいられると思うか? 俺らの学び舎を知らん大人に荒らされるのは嫌だ。ここはずっと学校でいてほしい」
「…………。どうして、最後の最後で感情優先の人間なのに……」
「は?」
ずずずっ、と器を持ってスープを啜っている。最後何を言っているか聞こえなかった。
というよりも途中で言うのをやめてしまったかのように感じた。
器を机に置いた夏目の眼鏡はお手本のように曇っていてなんだか笑ってしまう。
「同窓会で私のこと美人になったって言ってたけど」
「…………はぁ」
「大人の私と今の私、どっちがいい?」
「もちろん大人の方が────」
「嘘つき」
ぴしゃりと叩くような語調にびくっとする。ちゃんぽんで曇った眼鏡を外すと、強い意志を湛えた大きな目が俺を鋭く睨んでいた。
話しているとよくわかるが、夏目は大人しそうな見た目に反してかなりトゲのある性格をしている。
俺はそういうギャップのある子が好みだったので、大人になった夏目が普通の垢抜けた美人になっていたことが本当は少し残念だった────なんて言えると思うか?
そんなもん口に出した瞬間に女性陣から袋叩きに遭うことは目に見えていたのだから。
「御薪ってさ、ここ入って最初のテストで学年一位だったでしょ」
「あ? ……ああ、よく知ってるな」
「先生が言ってたからね。うちのクラスに一番のヤツがいるぞって。すぐに御薪だってわかった。頭の回転が違ってたから。びっくりした。私、中学校でずっと一番だったから高校でも一番取れると思ってた」
「まぁ、そんなのってこの高校に来てるやつらみんなそうなんじゃないの」
内申点で40切ったことはないしずっと学年で五番以内だった、みたいな連中が集まっていた。そういうヤツが来るところだし、競い合えば必ず順位はつくのだから。
鶏口牛後とよく言うが俺は嘘だと思っている。お山の大将でいるよりは、高い山に登って頂点までの距離はどのくらいかを知る方がずっと自分にとって有益だからだ。
朱に交われば赤くなる、の方が大事だ。怠け者ならより一層みんな努力家のグループに入って意識から変えた方がいいと思う。
「勉強も運動も部活も全部楽しそうで……同じだけの時間を過ごしていたはずなのに、御薪は新幹線みたいに卒業しちゃった。でも今は……隣のビルで働いているんだね」
「何が言いたい?」
「何が言いたいって……御薪ならわかっているんじゃないの?」
理性はわからないと言っているが、感性はわかっていると言っている。
認めたくない。認めてしまったら俺の人生はまるで喜劇じゃないか。
「一発しかねえんだよ……。人生って弾丸は……」
外したら二発目はない。骨になって土の中に転がるだけだ。
だったら当たるかどうかわからない的なんて最初から見ない方がいい。
得点が低くても確実に当てられる的を撃った方がいい。
俺は賢いから、期待値をよくわかっているから、宝くじを買ったことがない。
「野球選手、人気バンド、宇宙飛行士、売れっ子パティシエ……。夏目の小学校にもそんな夢を書いているヤツがいたろ。そいつらは一人でもその願いを叶えたか?」
「あんな普通の大人になってるんだったら……御薪は同窓会に来るべきじゃなかった」
夏目が器の上に丁寧にそろえた箸を置いた。言いたい放題言いながらもしっかりちゃんぽんを食べ終わっている。
俺は一口も食べていないのに。なんだか少し腹が立ってきた。
「じゃあなんだ? ベンチャーの社長でもやってりゃよかったか?」
「違う」
「金持ちの投資家か?」
「違う!」
「じゃあなんだ!」
「なにかだよ! 想像以上の!!」
その怒鳴り声は夏目も夏目で冷静ではなかったことを示していた。
騒がしい食堂なのでシンとなることはなかったが、周囲の人間がこちらを見ている。
と、周りの目を気にしている俺とは対照的に、夏目は激情を迸らせた目を逸らさずに視線で俺に穴を空けようとしていた。
「私の知っている人の中で一番すごい人だったから。なのに……。目がきらきらしてなかった……大人になってる御薪なんて見たくなかった!」
「めちゃくちゃ言いやがる……」
そうだ、めちゃくちゃだ。夏目の中で出来上がったよくわからない俺のイメージの押し付けだ。
なのに言っていることが理解できる。本当は俺も彼女の側の人間なのだろう。
だって、17歳の俺が大人の俺を見たらたぶんこう言う。こんなもんか、って
「ふふ。はははっ」
「なにがおかしいの?」
「夏目が好きだった理由がわかったわ。お前のその性格が好きだったんだ」
彼女と仲が良かった理由も今更分かった。
俺はぽやぽやした人間に好かれる一方で、俺が好きなのは強気・勝気・生意気な人間なのだ。
そのおかげで毎週のように喧嘩していたバンドも三年間続いて今でも交流があるのだろう。
「なにいきなり」
「言いたいことを言うっていいもんだな。ガキの姿になって初めて素直になれるよ」
昨日もそうだった。高校時代からの愛すべき友たちに素直な気持ちを伝えられた。
この頃は恥ずかしくて頭の中ですら言葉にしたことはなかったが、俺はみんなが大好きだった。毎日が楽しかった。
思えば思うほどに俺はとても恵まれていたのだろう。
「さっきは御薪のこと繊細だなって思ったけど、やっぱりデリカシーがない」
「それが素の俺ってことだろ」
すっかり冷めたカツカレーにスプーンを突っ込み大量のライスと一緒に口に放り込む。冷えてもなかなか美味いじゃないか。
言いたい放題言った夏目だが、まだ言いたいことがあるのか席を立つ気配はない。
「私、ポケモンの同人イラスト本作ってるんだ」
「はぁ……? なんだいきなり」
「仕事とは全く関係ないけど、楽しいよ」
「………? ……?? 良かったじゃん」
「………その目をやめて」
「へっ? なんの目?」
「その大人の目」
またまた何言ってんの、と口にする前に片っぽしか開いてない目に触れる。
別に目だけの話ではないが、この姿の頃の俺だったら目を輝かせながら『見せて見せて!!』と遠慮なく言っていたはずだ。
いやしかし高校生の頃の夏目だったら、そんなことをしているなんて絶対に明かさなかったような気もするが。
「……うぇー……っと……。ああいうのって、イベントとかで売ったりするんだよな」
「うん」
「じゃあ会場に行けば夏目がいてサインとか書いてるワケだ」
「いや。売るのは弟に頼んでて私は会場回ってるから基本いない」
「へっ? なんで?」
「出会い厨が鬱陶しいから。私はただ好きなものを表現したいだけなのに」
(きっちぃ~~! 誰か助けてくれ~~~~!!)
大変だなと思うし、夏目と似たようなことをしている奈津生も同じことを言っていたので、避けられないものなのだろう。
だとして、俺がそこに気の利いた答えを返せる人間かどうかくらいはわかっているだろうに。
まずそのふつふつと身体の周囲から怒りのオーラを発散するのをやめてくれないか。
「……昨日、御薪がみんなに言ったこと……反論の余地が一切なくて、頭のキレは相変わらずで流石だなって思ったけど……。さっきもそう、頭の回転が御薪は普通と違う。だけど……」
「けど? けど何よ?」
またスプーンを動かす手が止まってしまったことも気にせず夏目と視線の押し合いをしていると、後ろで聞き覚えのあるような足音がした。
「時生ちゃん……?」
「うぇっ!? 鏡花!?」
野菜炒め定食をおぼんに乗せた鏡花が後ろにいた。
普段は弁当のはずなのにどうして今日に限って、と考えている間にも二人仲良く昼食を食べていた夏目が気後れせず鏡花を見ていた。
「あっ……また後でね」
「いやっ、ちょっと待て! 悪い、夏目! また後で話しよう」
「けど、戻る気ないよね。って言いたかったの」
食べかけのカツカレーを持って今にも走ろうとしていた背中に声が届く。
「あ??」
「早く行きなよ、『時生ちゃん』」
これまたトゲのある言い方をした夏目が食べ終わった器を持って席を立った。
こちらはこちらで何か弁解しといた方がいいような気もしたが、二兎は追えないものなので鏡花の元へと小走りで向かう。
だけど、走りながらも夏目の言いたいことが理解できてしまった。
そうだ俺は、最初から戻れないことを前提に話していた。
もっと言うと戻ろうと考えていなかった。過去をどうやって生きるかしか考えていなかった。
戻れると思っているなら、どうせ終わると思っているのなら、ここで鏡花を追いかける必要などないはず。
この心臓があと数分で止まるとして、過去か未来かどちらかしか選べないとして、俺ははたして……?
***
東日本大震災が起きた時、被災者でもないくせに俺は怖くて悲しかった。流された家や壊れた店をテレビで見るたびに辛い気持ちになった。
だけど能登の震災が起きた時、俺は『これなら会社は大丈夫だな』『まぁそんなに日経への影響はないだろう』と思ってしまった。
昔は好きなアイドルがいた。テレビは基本的に見ない俺だったが、彼女が出る番組だけは録画していた。
今はテレビに可愛いアイドルが出て、芸人に天然っぷりをいじられても『演技が上手いヤツだな』としか思わない。
フェアレディZが好きだった。ゲーセンの湾岸ミッドナイトで悪魔のZに寄せたフェアレディZに中高と1万円以上つぎ込んだ。
今なら現金一括で買える。なのに『買っても乗る暇が』とか『都心勤めじゃ車必要ないんだよな』とか、いらない言い訳ばかりが先に出てくる。
いつからだ。悲しいことを心から悲しいって、それだけに浸れなくなったのは。
いつからなんだ? 欲しいものが別に欲しくなくなったのは。
目が曇っている。こうやって世界が見えるようになることが大人になるってことなら、俺はそんなものいらない。
「三河屋だ……」
小さい頃によく行っていた店が目の前にある。
学校から帰ってふさぎ込んでいたら奈津生から『ランニング行かないの?』と言われて思い出した。
俺は高校に入って運動部じゃなくなっても週三でランニングをしていたのだ。
小学生の頃に住んでいたアパートの前を走り抜け、隣にあった雑貨屋である『三河屋』を見つけた。
「思ったよりボロっちいな……。香菜ちゃんいるのかな……」
いつも店に立っているのはおばあちゃんだが、息子夫婦が裏手の家に住んでおり、その娘の香菜ちゃんは俺より三つ上だった。
小学校が同じで通学路も同じだったので、黄色い旗を持って班長をやっていた記憶がある。
それ以外にも家が隣という理由だけでよく遊んでくれた。俺の初恋の子で、その頃から俺は薄っすらと年上好きだった。
俺が大学を卒業する頃にはこの雑貨屋はぶっ潰れて面白味のない二世帯住宅になっていた。
「おっ、リキ」
香菜ちゃんはいないようだが、代わりに雑種犬のリキが犬小屋から出てきた。
俺が知る限り世界一の馬鹿犬で、日がな一日自分の犬小屋にマウントを取ってずっと腰を振っており、そのせいで何度か犬小屋を破壊していた。
「ワンワン! ワン!!」
「ワンじゃねーよ、おい。俺のこと覚えてねえのか? はいお手!!」
「!!」
お手、と言うとキリっとした顔でちんちんのポーズをした。
それなら『ちんちん』の場合はどうなるのかと言うと、なんとその場で腰を振り始める。
たまに香菜ちゃんと一緒にリキの散歩をしていたが、近所の子供の三輪車をがっちりホールドして腰を振り出し、幼かった俺は意味不明すぎて泣いたことがある。
「ちんちん! お手! ちんちんお手!! お手ちんちんお手!!」
「カハッ、カッ……カッ……?」
スタックオーバーフローを起こしたリキが尻尾を振りながら固まってしまった。
脳みそが煮豆サイズしかない犬なので、こちらが両手にオヤツを持っているとそれだけでどっちから食べていいかわからなくなりフリーズするくらい馬鹿だった。
スリッパやチクワにも腰を振る煮え滾る性欲犬なので、郵便配達の人なんかが来た日には最早二足歩行をしながら掴みかかって腰を振っていたっけ。
たわしのようなゴワゴワした毛の生えたリキの頭を撫でていると、店の扉が開いた。
「あらっ、時生ちゃん! 久しぶりねぇ。何か買いに来たの?」
腰を曲げて瓶ビールのプラケースを両手に抱えたおばあちゃんが表に出てきて、一瞬でこちらに気が付いてくれた。
三河屋は基本的に酒とたばことつまみばかり売っている店だ。小五の頃に同じ市にあるマンションに引っ越してからは一度も訪れていないのに、よく気付けたものだ。
「ああ、うん。ちょっとお使い頼まれてさ。もう閉めるところだった?」
ウィンドブレーカーのチャックを一番上まであげて店に入る。
酒の隣のつまみコーナーには小学生向けの駄菓子も置かれているという、今考えると信じられない陳列をしている。
この頃はもう既に無くなっているが、店先にSNKのMVS筐体が置かれていて、酒飲みのオッサンと子供たちがよくこの店に集まっていた。
20円でメタルスラッグXをプレイするのが小学生の頃の楽しみだった。たまに上機嫌のオッサンが奢ってくれたし。
「いいのよ~。好きなときに開けて好きなときに閉めるんだから、どうせ」
今になって思えば、店先からゲーム筐体が消えたのは少子化の波の表れだった。
この駄菓子屋もどきの店に集まる子供は俺が最後の世代だった。
やがて開く意味を感じられなくなって、全く儲からなくなって閉店してしまったのだろう。
「アメス……58番ちょうだい」
大人になってから吸っている銘柄の名を言おうとして、それは高校生ならおかしいと気付き番号で言い直す。
しかし安い。俺が大人になってからのほぼ半額だし、この頃は14本入りではなく20本入りだった。
「あれ、お父さんがショッポでお母さんがセッタでしょ?」
「あー……いまおじさんが来てて。タバコ切らしたから買ってきてほしいって言ってさ。よく覚えてるね、俺の親の吸ってる銘柄」
「お父さんお母さん今でも買いに来てくれるからねぇ」
「…………へー……」
過去に戻って知らなかったことを知れると昼間に言ったが、まさに初耳の情報だ。
そういえば俺の親はそういう人たちだった。コンビニよりも慣れ親しんだ店で物を買うことを好んでいたし、チェーン店の居酒屋より知り合いがやっている店によく行っていた。
わざわざ引っ越した後も走って10分はかかるこの店に来ていたとは。
「はい、じゃあこれ。おまけのライターね。おじさんに渡しておいてね」
「うん、ありがとう」
もうこの頃には未成年は酒もタバコも買えなかったはずだが、三河屋のおばあちゃんは全然普通に売ってくれた。
おまけのライターで手遊びをしながら店を出る。どこかでライターも買う必要があったからありがたい。
振り返るとおばあちゃんがシャッターを降ろすためのフック棒を片手に、こちらにのんびりと手を振っていた。リキは腰を振っていた。
(懐かしいな……このイヤホン……)
ポケットの中から団子になった有線イヤホンを取り出す。
これがどこに行ったのかわからないが、おそらく確実に失くしたんだと思う。
だがどうせその頃にはスマホからイヤホンジャックが消えかけていたから、もうどうでもよかったのだろう。
(『修羅場』だ)
音楽アプリを────この頃はアプリなんて言っていなかった気がするが、とにかく携帯の音楽アプリを開くと東京事変の『修羅場』が再生途中で止まっていた。
鏡花から貸してもらったCDを取り込んだものだ。ガラケー時代はCD音源をPCで変換して携帯に入れていたものだ。
明かりがほとんどなく蝙蝠が飛んでいる裏路地に座り込む。タバコを一本取りだしてライターに火を灯すと、闇夜の中に俺の若々しい手だけがぼんやり浮かんでいた。
「げほっ、ぐっ、げっほ!」
大人になった俺と同じ勢いで煙を吸い込んだら激しくむせてしまった。これが三年もしたらもくもくと紫煙を燻らせながら麻雀をしているのだから時間とは恐ろしい。
もう一度、無理をして肺に煙を入れると頭がくらくらしてきて、部活の時間に怒り散らかしていた国枝の姿が浮かんだ。
一人だけ『帰ってしまった』国枝はオッサンたちの稚拙な演奏にイラつき練習しろよ下手くそどもと叫んでいた。
身体が覚えていると言っても現役には敵わない。当たり前と言えば当たり前の話だ。
(小野も室田も明日には帰るな、ありゃ)
別に俺を納得させられるだけの理由もない、ただの勘だが俺の勘はよく当たる。
俺らも戻らねえとやべぇよな、と頷き合う二人の表情にそう思ったのだ。
一方の俺はまったく戻れる気がしない。というか戻りたいという気持ちがあまりない。
ようやく慣れてきた煙を空に吐き出すと、今にも消えてなくなってしまいそうなギリギリの三日月が地球を弱弱しく照らしていた。
***
あれも欲しい、これも欲しい。もっと欲しい、もっともっと欲しい。でも金がねぇ〜って言っていたのに。
なんでだろう、買えるようになったら別に買わなくなってしまったんだ。ただ友達や彼女と一緒に見て回るのが楽しかっただけなのかもしれない。
「ちっ……あいつら……」
大樹の木の根に座り一人で毒づく。予想通り小野も室田も帰ってしまっていた。
午前中に話しかけた感じ日岡も帰ってしまったようだ。昼休みはここに集まるという話だったのに、もう誰も来ていない。
夏目とはひとつ前の休み時間に話したが『ほっといても夢は覚めるってことでしょ』と言っていた。もう話し合っても意味がないとでも思っているのだろう。
(夢……。あぁ……そうかもな……)
本当にそうなのかもしれない。まるで高画質な残像の中にいるみたいだ。
大人になってから何度も振り返った全盛期の日々が奇跡のようにここに在る。
社会人みんなが朝七時に起きるとは限らない、それだけの話なのかもしれない。
(社会人か……)
もうすぐ俺の目覚ましも鳴るのだろうか。ああ、嫌だ。立ち上がって大樹に額を小さく打ち付ける。
この頃は何者かになれると思っていたんだよ。そうやって校内を駆け回る俺をこの樹は見ていたんだ。
「あー…………」
だけど俺は何者にもなれなかった。小さな妥協を積み重ねて、俺は小ざっぱりと纏まってしまった。
物語なんかではよく貧乏家庭で生まれた秀才が研究者になってどうこうというのが出てくるが、現実ではそんなことはほぼ起こりえない。
そんな不安定な道を選べるのは家が太い────とまではいかなくとも、少なくとも平均以上の収入のある家庭で育って初めて選択肢に入る。
貧乏人ほど保守的なのだ。冒険ができない。良い大学に行けたところで奨学金を返さなければいけないからな、とか考えてしまう。
「それも俺が悪いのか……? ────?」
大樹のうろに手をかけたとき、何かが頭を過る────それは確信に近い直感だった。
俺だけなのか、他の人間もそうなのかは知らないが、良いことが起こりそうな気がするという予感は一切当たらないのに、ふと頭に浮かんだ嫌な予感はほぼほぼ当たる。
そういえば俺はあの日、学校に不法侵入した時もこうして、こんな感じで大樹のうろに手をかけていた。他の奴らもみんなこの豊葦原高校のシンボルに懐かしがって触れていなかったか?
「あっ……!」
違う、狛崎だけは触れていない。正門を乗り越えた瞬間に狛崎に電話がかかってきて、仕事で何かマズいことが起きたのかすっ飛んで帰っていったのだ。
つまりこの学校に入ることが条件なのではなく、この大樹が過去帰りの条件に違いない。だから狛崎だけは過去に来ていないのだろう。
全く論理的ではないが、そもそも起こっていることが現実的ではないのだから現実的に考えてはダメなんだ。
「てかこの樹は一体なんなんだ??」
上を見上げるとなんだか見たことがないような葉っぱの形をしている気がする。何度かジャンプをしてみるが手が届かない。
一回屈んで足と腰を完全連動してハイジャンプし、ようやく何枚か葉をむしり取る。ざまあみろ、この頃の俺はバスケットゴールのリングに触れたんだ。
「……? …………ん??」
手だ────それが第一印象だった。中心の葉脈が五つに分かれ五つの山と四つの谷を形成して手のように見える。
生命力に溢れている一方で日光に向けるとあちら側が透けて見えるほど薄い。まるでウスバカゲロウの翅のようだ。
頭上であたたかな風にざわめく葉は太陽に手を振る子供たちの手のよう。植物に詳しいわけではないが、やはりなんとなく見たことがないような葉の形をしている。
ちょっとAIに訊いてみるか、と大樹の全体像と葉っぱの写真を撮ってから気が付く。この時代にそんなものはない。
「くっそ…………。……あれ……。あれ……!?」
写メ(この頃はそう呼んでた)フォルダの中をざっと見ていくといくつかの写真にこの大樹が写っている。
まぁそれは仕方がない。グラウンドを除いた学校のほぼ中心にドンと立っているのだから、どうしたって写り込む。
それはいいとして、どの時期の葉っぱも鮮やかな緑色なのだ。極めつけはドカ雪が降った日に軽音部員で雪だるまを作った写真においても、雪を被りながらも青々としている。
今落ちている葉にさえも枯れ葉がない。拾い上げると丸々と太ったハダニが葉を齧っていた。
(常緑樹……か?)
高校理科は物化選択だったので植物の知識は本気で中学理科で止まっており、日本の常緑樹などスギ・ヒノキ・マツくらいしか知らない。
そのどれとも違うし、他に常緑樹で思いつくのは針葉樹くらいしかないが当然違う。
「お前一体なんなんだ……!?」
雲の流れは早く、葉っぱたちがくすくす笑うようにざわめいて予感が確信に変わる。
絶対にこいつだ、この樹が俺たちに何かをした────背後から足音が聞こえた。
「よう……御薪」
律儀に、といっても遅刻してはいるものの来てくれた戸叶だった。
いったん考えることはやめにして太っい根っこの上に座る。と言っても夏目の言う通り、今更話すことなどない。
このまま放っておけば俺らもいずれ帰ってしまうのだろう。
「戸叶……どう思う? この状況」
「なんか独身のヤツだけ残されてるよな」
「お前までそういうこと言う……」
戸叶、夏目、俺。確かに残ったのはみんな悲しき独り身だ。
ただなんだろう、これも勘でしかないが、子供がいるとか伴侶がいるというのは当たらずも遠からず、と言いつつやや遠い気がする。
精神だけがこの時代に戻ったのなら、もっと根本的精神的なことが帰るまでの時間差のような気がするのだ。
「でも……いいんだ。俺、帰りたくねえから」
「えっ……せっかく医者になったのに? なんだ、医者やめたいのか?」
公立高校にいるのであまりそんな感じはしないが、戸叶は祖父が大病院の院長兼経営者で親父もそこで働いているという超ボンボンだ。
戸叶の場合、親の金管理もしっかりしていて三浪して国立医学部に行った苦労人という一面を持つので、そこらのボンボンとはちょっと訳が違う。
「そうじゃねえ。あのさ、俺、同窓会の少し前に手術してさ……」
「ん? 執刀医を? 戸叶が? 若すぎないか?」
「あっ、いや。違う違う。まぁなんだ、執刀は親父がやって、俺はまぁ……立会人みたいな」
専門用語を避けて話してくれたおかげでようやくわかった。ブラックジャックなんかで見る手術の見物をする医師みたいな立場だったのだろう。
浪人の分を考えると医者になれたのは最短でも28歳のはずなので、未だアラサーの戸叶が執刀医になれるはずがない。
「10歳の男の子が急患で運ばれてきたんだ」
「っ…………」
ふと頭の中で再生されたのは同窓会のときの戸叶の様子だった。
元々がお調子者なので、顔に『医者』と書いて来るぐらいはするかもと思っていた。
だが実際は『医者やってるんだよね』と言われても曖昧な返事だけして話題を変えていて、違和感があるといえばあった。
「御薪もわかるだろ……。そのときは『これだ!』って思って進めても、全然違って……。後から答えを知って、どうして思いつかなかったんだってなるの……。外科手術でもあるんだよ……」
「あ、ああ……」
「素人目にもヤバい状態だったから、手を尽くしてくれてありがとうって親御さんに頭下げられて……。違うんだよ……本当は助けられたんだよ……」
途切れ途切れにそう呟いて、戸叶は背丈の割に大きな手で顔を覆ってしまった。涙は女の武器だなんて言うが、俺は男の涙の方がよっぽど辛く感じる。
男だろ泣くな、泣いたってどうにもなんねえぞ────と男なら一度ならず何度も言われる。そしていつしか男は痛みに鈍感になり涙を流さなくなる。
だからこそ、それでもいい歳こいた男が目の前で泣いた日にはどう反応していいかわからなくなる。
「じゃあなんだ、もう一度その子が運ばれてくる日まで、10年以上待つってことか?」
「うん……」
「また三浪する気か!?」
「次は一浪でなんとかする」
いや浪人はすんのかい、なんて酒が無ければとても言えない。
というか三連続で大学入試で滑って四回もチャレンジして、それすら捨ててもやり直したいと言っている男にどんな言葉をかければいいんだろう。
イキって染めた汗蒸れ茶髪をかきむしり、何とか言葉を選んで口にする。
「その子を助けられたとして……次に誰かを助けられなかったらまた戻ってくるのか……?」
「いや……。どうだろ……。戻れるならそうするかも……」
「俺、医療のこと詳しくないからわからんけどさ、誰だって仕事でミスぐらいするよ。そうやってベテランになっていくんだよ」
「お前の仕事なんてミスったってどっかの金持ちが大損こくだけだろ! 医者はミスったら死ぬんだよ! 人が!! 10歳だぞ……あの子は。それじゃ生まれてきた意味もわかんねぇ」
(うっ────?)
また眩暈がする。今の今までなんともなかった木漏れ日が瞼を貫通して眼球を撫でていく。
筒から取り出した線香、ターボライター、立ち昇る煙、合わせる手。鈍痛と臓腑に落ち込む鉛。
最悪だって無能だって別にそれだけじゃくたばりゃしねえ、明日も明後日も生きていかなきゃいけないし腹も減るもんだ。
「意味ならあるよ……」
「え?」
「戸叶がその命を助けられなかったって悔いている。お前がこの先その痛みから学んで成長して、何百人の人を助けられたら……その子が生きた意味もある。お前がその子の生まれた意味を作るんだよ」
まるでヤク中のサンプリングしたビートのように脳内で繰り返される光景に、まるで自戒のように言葉を紡ぎ出す。
口から出た音を自分の耳で聞いて自分で納得してしまったくらいだ。
「…………お前、口上手いな。金持ち相手に鍛えられた営業トークってやつか?」
「俺はセールス部隊じゃねえ。口が上手いのは生まれつきだ。進撃の巨人の受け売りだよ」
「あったな……エルヴィンの演説か」
「今でもジャンプと別マガは発売日に買ってるからな」
「へっ……。他の趣味は?」
「特にねえ」
本当に楽しみと言ったらそれくらいしかない。ヒロアカも呪術廻戦も終わったし、ワンピースはコミックスを買っているのでそろそろ買うのはやめるかもしれない。
あとの楽しみは大学生の頃からスマホで読んでいるケンガンくらいしかない。考えてみれば世の中で有名な漫画は小さい頃から数えて大体は読んだ。
水遁水龍弾の印を完全にできる大人なんて俺以外にいるのだろうか。
「じゃあお前漫画とタバコ以外で何に金使ってんの?」
「…………。銭湯巡りかなぁ?」
「え~っ!? 金余るだろ、もったいねえ」
「別にお前と違ってほしいもんないからなぁ……86買ったんだろ」
「あれ、飲み会で話したっけ」
「死ぬほど写真見せてきたぜ」
いずれは院長になるボンボンのくせに給料以外には一切親から渡されないらしく、ずっと欲しかったトヨタGR86をようやく買えたと酒一杯を空ける間に五回は聞かされた。
そういえば高校生の頃はときおり戸叶とゲームセンターのレーシングゲームをやりに行ったものだ。
「あっ! エアロパーツ来週届くんだった!!」
「それも10年後か?」
「冗談じゃねえ!!」
さっきまでの様子を考えると現金なもんだが、人間なんて案外こんなものなのかもしれない。
そうだよ、俺だってあんなことがあったって結局今では普通に生きて────
(あんなこと……?)
腐った灰色の空、打って変わって灼けたアスファルト、重たい足取りの革靴。
残像のような記憶がモンタージュのように頭の中でデタラメに繋がって気分が悪い。
「リア何にするかまだ決めてねーのに……! 俺そろそろ教室帰るわ。明日、戻れてなかったらまたここに来るよ」
「ああ……」
こいつ明日にはもういないな、と確信した。
この確信が当たっていたのならば、俺はたぶん元の世界への戻り方も理解できたんだと思う。ああ、それともう一つ。大事なことを確信した。
戸叶は、そうだな────名医になるかどうかはわからないけど、老若男女の患者に好かれる優しい医者になると思う。
***
そして翌日、確信通りに戸叶は帰っていた。
奇跡を楽しむのはほどほどにしてみんな帰っていく。だけど考えてみれば当たり前の話。
進学校の卒業生で同窓会にも喜んで顔を出すような連中だ。人生山あり谷あり、けれども総じて順調なりってことなんだろう。
俺だって順調だ。順調なはずさ。だけど俺が就いた仕事についてこう思うんだ。才能的には向いているが、感情的には向いていないと。
同期がどんどんやめていく中でそれといった熱意もないのに続けられて、最高最速とはいかずとも、きわめて順調に成果を出し昇格している。
だけど俺は元々要領のいい人間だったからどんな仕事をしていてもそんな感じだったと思う。
俺の学生時代の失敗を挙げていけばキリはないが、一番の失敗は自分のやりたいことを見つけられなかったことだ。
小さい頃から貧乏だったし奨学金だって返さなければいけなかったから、実入りのいい仕事以外は最初から『ありえない』と考えていなかった。
そんな仕事を辞めて全く新しい自分を今から探しに行けるか? 無理だね、俺にはそんな勇気はない。そんな勇気がある人間だったら俺はとっくに俺の人生の主人公になれていた。
サラリーマンの平均生涯賃金は二億円らしい。冤罪で50年近くぶち込まれていた人が国を訴訟して請求していた保証もそのくらいだった。
俺の人生の価値は二億円しかないのか? その価値を増やすことしか考えていなかったなんて、本当にくだらない。
金がなんだというんだ、世間体がなんだというんだ。次こそ作りたいものを作れるような気がするんだ。
俺は全く別の俺になりたい。
(17時10分……)
教室のアナログ時計が俺の会社の定時を知らせている。勿論定時で上がったことなどここ数年ないが。
左目は眼帯で塞がれている。開いた右目の視界を更に大半手で隠す。ほとんどの人間はぼんやりとしか認識していないが、アナログ時計には二つの種類がある。
秒針が1秒ずつカチッカチッと進むステップ式と、針が止まらず流れるように進むスイープ式だ。
ステップ式の古びた時計の秒針が手のひらの落とした影に踏み込み真っ暗闇の中へと消えた。
人の一生というものは粘土に似ている。四角い粘土を前にして最初はなんでも作れる気がするんだ、想像の中では無限なんだ。
でも作ってみようとした形には全然ならなくて、小さな妥協を重ねて小ざっぱりした面白みもない形になる。
大人になっちまえば、後はちょっと細部の形を整えるくらいだ。ざっくりとした形はもう変えられない。
俺の未来は叩き潰された。だけどまたゼロから作り直せる。勇気のない俺の代わりに運命が引き金を引いてくれたんだ。
クソくだらねえ俺の未来なんざ始末してくれて結構だ。
「何してんだ? 邪気眼か? 練習せんの?」
とっくに帰っちまった国枝は俺を小馬鹿にしながらも、両手にドラムスティックを持って一定のリズムで週刊少年ジャンプの裏表紙を叩いている。
部室やスタジオの予約が取れなかった時も、根が真面目な国枝はいつもちゃんと練習していた。小野と室田はPSPでジンオウガを狩っているのに。
「いや、弾くよ。弾く弾く」
手にしていたギターを担ぎ直し、机に置いていたメタルピックを掴む。
指が鉄臭くなる・弦がすぐ切れるというデメリットがあるものの、ピックスクラッチの音やアタック音が気持ちよくて愛用していた。
パッと何を弾くか思いつかない中、とりあえず覚えていた曲を手癖で弾いていく。
「いいリフだけど何の曲だ? それ」
「FACTだけど……。あっ」
これは大学の軽音サークルで演奏した曲だった。そういえば高校生の頃はFACTは聴いていなかった。
俺が大学生だった時に解散してしまい、10年近くの時を経てこの間いきなり再結成して俺は驚きのあまりひっくり返った。
だがそんなのは珍しい例で、俺の好きだったバンドは時の流れとともに少しずついなくなっていった。
The Birthdayも空想委員会もボーカルが亡くなってしまったし、Slipknotだってドラムが急死してしまった。
バンドだけの話じゃないんだ。大人になって俺はいつからか、誰も、何も好きにならなくなった。そして好きだったものは壊れていく、終わっていく。
この世界にはまだあるんだ。俺の好きだったものが金さえ払えば観に行ける、存在している。
「うぃ~……じゃあ俺、予備校あるしそろそろ帰るかな~」
ひとしきりくるくるとドラムスティックを回した国枝が荷物をしまって立ち上がった。
9mmのドラムに憧れて演奏技術と直接関係ないスティック回しの練習をしていたっけ。
「俺も碧玉出たし帰るわ」
「おいおい、逆鱗は!?」
「そんなもんお前、下位でも出るんだから一人で行けや」
俺は彼女と帰ることを知っている三人は別れの挨拶もそこそこに、ばらばらに教室を後にしていく。
机の上に置かれたtab譜は『HIGHSCHOOL OF THE DEAD』だ。そういえばこの曲は発表から10年してまさかのリメイク曲が出るんだっけ。
窓の向こうで朧げな夕日が街の遥か彼方に崩れていく。親指でスラップもどきを少ししてからギターをケースにしまう。
「鏡花を迎えに行くか……」
携帯にはいつ部活が終わるかとメールが来ているが、ここはひとつ返信するよりもそのまま自習室に迎えに行こう。
今思えば俺はいつも何も考えずに終わりそうな時間を返信して、片づけや駄弁りに時間がかかって結果として鏡花を裏門で待たせてしまっていた。
俺は鏡花から受け取ってばかり、待たせてばかりだった。馬鹿ガキがよ、勉強より前に学ぶことが色々あっただろうに。
履き潰したスニーカーの感触を懐かしみながら中庭を通ると今日も大樹はのんびりと豊葦原高校に根を下ろしていた。
「ありがとな」
客観的に見ればこの樹は俺たちの成功した未来を奪い去った悪夢の根源なのだろう。
だが俺はもう。他人の期待なんかいらない。肉親の希望ももういらない。誰の人生の後追いもしたくない。
今度こそ俺は俺の人生を生きてやる。
「家に帰るの? 御薪……」
「なんだよティンパニー娘……。吹奏楽部はまだ終わってないだろ」
俺ともう一人、なぜか残っていた夏目が背後から声をかけてきていた。
振り返ると上靴のままだった。部室の窓から俺が見えて走ってきたのか、肩で息をしている。
「御薪の帰る家はここにはないでしょ」
「俺なぁ……。未来に戻っても……帰る実家はないし、妹は独り立ちしているし、恋人もいないし……。あるのは仕事だけ。未来にも俺の帰るところなんか無ぇのよ」
「でも、」
「わかってる。文句を言うのは贅沢だ。一人で生きていくには十二分なほどに金は貰っている。けどな、どうやら俺が欲しかったのは金じゃなかったみたいだ」
なんでこうなったのか、これと言った理由が思い浮かばない。こう書くと売れ線の曲の歌詞みたいだが、小さな成功と小さな失敗を沢山積み重ねてきた。
いいや、成功の方が多かったはずだ。だがその成功というのは客観的に見たものだ。俺が欲しかったものとは違ったようで、なのに俺は俺の欲しいものさえもわからない。
客観的なんて人生の舵にはクソの役にも立たなかった。心の奥の燠はいつまで経っても消えやしない。
「本当に帰らないつもり?」
「帰る理由がないもんでな……。夏目は帰ってしたいことでもあるのか?」
「……。…………。ポケポケのパックあけたい」
理由を考えるのを誤魔化すように両手で眼鏡の両フチを押し上げ、ようやく出てきた言葉は失笑モノ以外の何物でもなかった。
「ははっ、なんだそりゃ」
俺はどうも課金ってのが苦手でソシャゲ全般に馴染めなかった。社会が想定するオタク文化に俺は置いていかれた。
思えばその辺りから俺はオタクでもなんでもない、ただの社畜になっていったような気がする。
「そっちは? 心残りとかないの?」
「…………。『三体』読んでる途中なんだよな。Ⅱの途中で止まってら」
「じゃあ……」
「でももう中国で出てるし、そのうち日本語訳版が出るだろうし、そしたら買えばいいさ。どうせその頃には内容を忘れてる」
「一人だけ大人のまま高校生に混じる気? 絶対にどこかで無理が生じるよ」
「かもな。だけど俺は繰り返す日々になんの価値があるのかわからない。大人の目がどうとかお前は言ってたけど、俺はどうやら大人になりそこねたみたいだ」
「……帰ろうよ。このまま私たちは大人になれないまま歳を取っていくんだって。やり直しても、やり直さなくても」
「…………。俺が……俺がしっかりしてりゃあ、俺の家族は終わらなかった。帰る家がなくなったりしなかった」
俺が何を言っているのか、おそらく夏目にはわかっていないだろう。俺の家を津波のように襲った不幸を10年ぶりに再会した夏目が知るはずなどないのだから。
別に理解など求めていない。俺はそんなものを追い求めすぎたせいで大人になり損ねたような気がするから。
「帰る方法なら一緒に考えてあげるから────」
「帰る方法なら見つけた。『ここにいたい気持ち』よりも『帰りたい気持ち』が上回れば勝手に送り返される」
「なんで……いつの間に……」
戸叶には悪いが確認させてもらった。西井と国枝が帰った時からなんとなくそうなんじゃないかと思っていた。
いつもそうだった。ショックなことが起きても、トラブルに見舞われても俺の脳の一部は冷静で冷徹で、その場の最善策を弾き出してしまう。
だがそうなると俺には帰る方法がない。なんせ帰りたい気持ちがないのだから。俺が未来でやっていることは全て、他にやりたいことがないからやっているだけだった。
たまに楽しいことがあっても、捻くれた俺は始まる前から終わった後のことを考えて憂鬱な気分になる。
それもこれも、俺の中にある冷たいリアリストな部分のせいだ。こんなものを生まれ持ってしまったせいで!
「帰んな。俺は……もう一度やってみる。そうだな……思い切って文転でもしよっかな。けっこー本読むの好きなんだ、俺……」
東京なんか行かなくていい。家賃が高いだけでなにもいいことなどなかった。
志望調査の紙が今日配られていたが、いっそ第一志望にこの県の国公立でも書いてしまおう。
地方駅弁なんか鼻をほじってても受かる自信があるので、サボってしまわないかだけが心配だが。
「そうだ、PythonとRubyいじくるようになったんだ。C#覚える時間もたっぷりあるしゲームでも作ってみようかな……。ああ、でも俺なんかにストーリー作れるのかな」
だけど作ってみたいんだ、俺だけの物語を。この手で、俺の人生で。ほんとはクソどうでもいい会社のIR情報を追いかけるのはもうウンザリだ。
昔は世界に俺は一人しかいないと思ってた。でもそれは違った。俺みたいなやつなんて世界中にいくらでもいる。それを知って、俺の心は子供のまま目だけが大人になった。
本当はずっと、世界でただ一人の俺になりたかったのに。
「私……あんなこと言ってごめん。あんなの嘘だよ、御薪はよくやってるって」
食堂で夏目にぶつけられた冷静さを欠いた理想の押し付けを謝っているのだろう。
別に怒ってない。その感情は俺こそがずっと前に持っておくべきだったんだ。
よくやってる、なんて対小学生用の慰めなんて俺が一番欲しくない言葉だ。
「いいや、お前は正しかった。俺は大人になったんじゃなくて、丸くなったんじゃなくて、つまんない人間になっちまったんだ」
俺が得意だったのは自己実現なんかじゃなかった。周囲の期待を感じ取って実行することだった。
今一番やらなきゃいけないことに集中するのが得意だっただけだ。そういうのは賢いとは言わない。賢しいと言う。
だからこそ、今度こそ、そいつはもう捨てちまおう。夏目が思い描いていた通りの御薪時生になろうと思うんだ。
「名立たるものを追って、輝くものを追って、人は氷ばかり掴む……。本当は石ころだっていいんだ。それを心から欲せたのなら!」
「氷でもいいじゃない、世の中には氷さえ掴めないヤツが沢山いるんだから」
現実に屈した俺は見たくなかったと言っておきながら、それを受け入れるしかないのだと言っている。
支離滅裂だけどわかるよ、お前も齢だけ大人になってしまって自分を納得させるしかなかったんだな。
わかっているよ、だけど違う、違うんだよ夏目。みんなが欲しがっているからって俺もそれが欲しいとは限らない、それだけの話なんだ。
できる能力があるならそうするべきだって? ふざけるなよ。俺は社会のために生まれた訳じゃない。誰のために生まれた訳でもない。
俺は、ここにいるこの俺は────
「俺は────
美しいものをただ美しいって思いたい!!
薄く生きたくない、この世界を満喫したい!!
雪が降って電車の心配するんじゃなくて!
傘を放り投げたい、長靴を履きたい!
写真を撮って息の白さを楽しみたい!!
服を着たまま海に飛び込みたい!
花火を振り回して火傷したい!
引き潮の砂浜に夢を描きたい!!
危ない橋を渡りたい!
安っぽい遠回りなんかいらない!
ドブ川に落ちて訳のわからない病気になりたい!!
可愛い子と話す時に将来のことなんか考えたくない!
ただ可愛いなって、それだけで時間があっという間に過ぎてほしい!!
ギターを弾きたい、バイクに乗りたい、朝まで麻雀をしたい!
明日のことなんか考えずに今日を生きたい!!
目の前の食事に没頭したい
好きなバンドの新譜を聴きながらこっそり真夜中に散歩したい
何かに本気で挑戦したい! 結果ダメでもいいさ、同じような日々を繰り返すよりずっと!!
ショート動画で暇つぶししたくない
フリー音源なんかこれ以上耳に入れたくない
どうでもいいものに時間を使いたくない
馬鹿でいい
貸した金なんてくれてやる
今日も明日も台無しにして笑いたい
取り返しのつかないことをし散らかしたい
これ以上俺を守りたくない!
俺は俺のためだけに生きたい!!
もう死んだっていいって思いながら百年生きたい!!
気に入らないヤツをぶん殴りたい
好きなヤツに好きだって言いたい
もう何も隠したくない
知らない人と仲良くなりたい、誰とも別れたくない!!
くだらないくだらないくだらない!!
俺が手に入れたものは全部時間の無駄だった!
失うために生きるのはもうたくさんだ!!
どうせすべて消えてなくなるなら確かな物なんてもういらない!!
伝えたい気持ちが手をすり抜けるのはもう嫌だ!
さよならの後に素直になるのはもうこりごりだ!!
俺は────俺は俺になりたい!!」
「────…………。なぜ俺は毎日少しずつ自分が嫌いになっていくんだ?」
もう何年もひまわりを見ていない気がする────肺に吸い込んだ空気を出し尽くして酸欠になりながら敗北者の俺は地面に手を付く。
ああ、本当にすっきりした。そうだ、こうやって今の一瞬を繰り返して俺は生きていたいのだ。
青写真も地図もいらない、免許も整備もいらない。金網を乗り越えよう、線路に立ち入ろう、意味もないのに突然バク転しちまおう。
「…………。気は済んだ?」
「ああ……。いや、済まないね。これからもずっと乾きっぱなしさ。だからもう、帰れ。消えちまえ!!」
あの叫びを受け取ってもまだ冷静なこの女はぼんやり俺の敵だ、だからこそ夏目のことが好きなんだと思う。
そのあと俺は絶対に怒るけど、この際いっそのことぶん殴ってほしいな。
そうしたら俺はもっともっと夏目のことが好きになれるような気がする。
「いいね、好き放題言えて」
「いい気分だ……言いたいことを言うってのは……────!!」
ぽとりと地面に落とした眼鏡を、何を思ったか夏目は上靴で踏み潰した。
呆気にとられたのも一瞬、掴みかかってくると直感して構えを取る。
「御薪に会うために同窓会に出た。どうしても言いたかったことがあって」
「……なに?」
いつ掴みかかってきてもぶん投げられるよう、右構えを取っていた自分が馬鹿らしくなって腕を降ろす。
夏目はいまなんて言った? 俺に会うために? 言いたいことがあった?
いや、まさかそんな。いい加減学べよ、女の子に対してそう感じた時の99%は勘違いだっただろうが。
「ガブリアス返して」
「へっ?」
「私のガブリアス! 6Vガブリアス!! 卵産んだら返すって言ってたのに返してない!!」
記憶力には自信がある方なのに、言われて初めて思い出した。
一緒にポケモンをやっていて夏目が強ポケ筆頭のガブリアスの最強個体を手に入れたと知り、卵を産むまでの条件で貸してもらっていたのだ。
「あっ、あっ、あっ、忘れてた!! 明日返す」
「この時はまだ貸してない!!」
そういえばそうだった。二月だか三月くらいに借りて、そのままクラス替えで別々のクラスになったのだ。
受験勉強をしなくてはならなかったこともあり、ゲームをすっぱりやめてしまったのだ。
「そんなこと……メールくれりゃ良かったじゃんか」
「いきなりポケモン返してって? 受験生に?」
「受験終わった後でも……それこそ大学生の間でも、社会人になってからも……」
「言えると思う? いきなり」
「う……」
100対0で俺が悪いのは重々承知しているが、何年も話していない相手からいきなりポケモン返してと言われたらどう思うか。
ちょっと怖いしたぶん引く────そう考えているのを感じ取ったのか、踏み潰した眼鏡を蹴って夏目が掴みかかってきた。
「返して! 6Vなの!!」
「いやっ、でも言ってたじゃん! 別に5Vでもいいっちゃいいんだけどねって」
「たまたまできたの!! あの後どれだけ頑張っても6Vはできなかったの!!」
「その、なんかで見たけど……今なら結構簡単に作れるんじゃないの?」
「あの子が私のガブリアスなの! ノンデリノンデリノンデリ!! だから嫌い! 大嫌い!!」
「ひぃ~~っ!!」
一回り小さいはずの夏目に押され大樹に押し付けられて揺さぶられる。
10年以上振りに再会してすぐに『ポケモンをやっているか』と訊いてくる女だ。俺が思う以上に、あるいは想像できないくらいに大切なものを貸してもらっていたのだろう。
「新作出るたびに! ポケポケ起動するたびに! ガブリアス借りパクされてるってムカムカしてた! 交換で来たマニューラ今でも持ってるのに!!」
「ごめんごめんごめん!!」
「大人になれなかったって、なに? がっかりだよ、勉強のできる馬鹿って感じで可愛かったのに!!」
本音と強がりが入り混じった怒声に先ほどまでの自分の姿を見る。
馬鹿馬鹿しく感じる人間もいるかもしれないが、これが彼女の心からの声なのだ。
そんな────冷静な大人の目をしていた俺に気付いて更に夏目はヒートアップしていく。
大樹の幹に叩きつけている俺をこのまま背負い投げしかねない。
「だからもう返して! 返して返して返して!!」
「わかった! わかったよ! ごめんなさい! 返すよ、返す! 返す────っ」
口先だけではなく心からの謝罪の言葉を口にしながら3DSをどこにやったか必死に頭を回らせる。
妹にあげてからしばらくはやっていたが、Switchが出るくらいのタイミングで妹もゲームに飽きてしまったんだ。
もうやらないのだからどうでも良かったのだが、根本的に貧乏性の俺は独り暮らしする際に段ボールに詰めて実家のゲーム機を持ってきたはず。
そうだ、押し入れにソフトと一緒に入っているはずだ。妹がポケモンをやっていたような記憶があるのですぐに充電してセーブデータを確かめなければならない。
とこしえの緑葉がさらさら揺れる。宇宙を包む暗黒に薄紅をさす陽光が、葉の隙間に乱反射して俺たちを輝きに飲み込む。
あっ、しまった────────
***
朝6時になると寝室のカーテンは自動的に開くようになっている。
ドラマのようにそれで気持ちよく目覚められたことなどないのに、どうして。
窓から差し込む朝日のなか、もうひと眠りしようとするが頑張れば頑張るほど目が冴えていく。
やがて俺は諦めて掛け布団を蹴っ飛ばし、ボーナスでとりあえず買ったクイーンサイズベッドから降りた。
「…………仕事、行かなくちゃな……」
昨日の同窓会でしこたま酒を飲んだから頭が痛い。
世間はお盆休みだが、銀行員は基本的に土日祝日は休みである一方で銀行営業日に従っているため、今日も仕事だ。
憂鬱な月曜日を小馬鹿にするようなセミの声が窓から小さく聞こえるが、安物のコーヒーメーカーのボタンを押すと聞こえなくなった。
俺は夢が嫌いだ。都合のいい映像を見せて心の弱い部分をさらけ出すから。
いつからだろう。夢はいつも悪夢しか見ない。
化物に追いかけられるとか、痛い目に遭うという夢ではなくて、醒めたくない夢ばかり見るようになった。
いつかは終わる幸福ほど恐ろしいものはないから、始まる前から終わった後のことを考える癖がついた。
もう亡くなっている人が夢の中に出てきて普通に話した経験のある人はいくらでもいるだろう。
不思議なことに夢の中ではそれをおかしなことと思わない。
俺の母親は、俺が20歳の時に亡くなっている。もう10年近く経つのに夢の中では忘れてしまっていた。
大学二年生のとき『体調が悪いから奈津生の三者面談に代わりに行ってくれないか』と母から電話がかかってきた。
親父は高校のことなんかわからないし、奈津生は親父が中学校に来るのを嫌がっているからと。
平日に行われる三者面談になんて行けない、そのために田舎になんて帰れないと言った。嫌な予感がした。いい予感なんて当たりやしないのに悪い予感ばかり当たる。
夏休みに入って帰省して、母が思ったよりもずっと体調が悪そうだったので病院に連れて行ったらガンだと言われた。
既にステージⅣBでもう助かりようがなかった。しばらく入院していたが、母は最期を家で過ごすことを選んだ。
その後、大学の寮にいた俺が土日に帰省したとき、ガリガリの母には髪がまばらにしか生えてなくてニット帽を被っていた。
家族の病気を鋭敏に察するマルがずっと母に寄り添っていたのが印象的で、俺がタバコに火を付けると『気持ち悪くなるからやめて』と母は言った。
そのとき初めて、医者の言った『手の施しようがない』という言葉が真に理解できて、それから一か月後に母は亡くなった。
さらに三か月後、マルが母を追いかけるように亡くなった。
ガサツな俺たち家族がトイレを綺麗にしていなかったせいで腎臓をずっと悪くしていた。
マルが動かない、と中学三年生になっていた奈津生から電話が来て、今度こそ嫌な予感に従って俺は実家にすっ飛んでいった。
家に帰ったら奈津生が泣きながらなんとかしてと言ってきて、マルのお気に入りのテレビ台の裏を覗くと奈津生のタオルの上でとぐろを巻きながらマルは冷たくなっていた。
母の死に目にも会えなかった親不孝者の俺が、ペットの死に目に会えるはずがなかった。
ペットの火葬場から渡された骨壺を抱えた奈津生は『マルが小っちゃくなっちゃった……』と呟いた。だってデブ猫だったのに骨壺が本当に小さかった。
母が亡くなってからますます酒浸りになったダメ親父と二人きりで三年過ごした奈津生の不満は大爆発して、大学入学を機に上京して地元に帰らなくなった。
そうなるともう3LDKのマンションなんか不要で、それとほとんど同時に親父は身体を壊して会社を畳んでしまい、ほどなくして親父はマンションを解約した。
そして俺の家は終わっちまった。
大切なことは全て忘れて学生時代に戻った夢を見て。
そんな都合のいい夢の中でさえ俺は『余計なことをするな』とみんなに釘を刺していた。
夢の中でさえ冒険のできないつまらない人間になってしまった。
夏目の言葉はきっと俺の心の声だったのだろう。大人になってしまった俺を悲しむ声とそれでも前に進むしかないという声。
確かに普段から考えていることだ。
「3DS……あるかな……」
月から金まで早朝にやっている金融マン御用達のニュース番組を流しながら、思い立ったようにソファから立ち上がる。
たぶんここにあるはず、と寝室のクローゼットの上段右奥を漁ると半分腐っているような段ボールが出てきた。
中を開くと、かつて使っていたルーターや時代遅れになったケーブル、過去のケータイに紛れて3DSと充電器が出てきた。
「…………。ちょっとやってみるか」
俺は業務の特性上馬鹿みたいに残業するので、定時に出社していたらあっという間に残業時間が45時間を超えてしまうため、繁忙期以外は遅めに出社している。
家を出るまであと一時間以上はある。ソフトも見つけたし、せっかくだから可能な限り充電しつつやってみよう。
***
幸いにもセーブデータは消されていなかったものの、アイテムも好き放題使われているしボックスもぐちゃぐちゃだった。
こういうことをするから奈津生にモノを貸すのが嫌だったような気がする。漫画を開いて机の上に置くし。いつだかに、漫画にソースだか醤油だかがついてて大喧嘩になったっけ。
結局奈津生が悪いということで母親に怒られて新しいのを買ってきたが、俺は『そういうことじゃない!』と更にキレてた。
ああ、やっとガブリアスを返せって言われた理由がわかった気がする。少なくとも、夏目のガブリアスがまだいて良かった。
「げっ……mixi入れちゃった……」
お盆で人もまばらなオフィスで更に人がいなくなる昼休み。
なんとなくmixiを開いて夢の中で思い出したパスワードを入力すると普通に入れてしまった。
パスワードは『Tokio114514』だった。今すぐにでも消してやりたい。
(みんなもうログインしてないや。当たり前か)
全員が『最終ログインは3日以上』となっているが、ぶっちゃけ数年単位でログインなんかしていないだろう。
メッセージにはぽつぽつとスパムしかないし、俺のプロフィールは豊葦原高校三年三組のままだった。
「あれ……なんか珍しいですね。御薪さんいつもご飯食べながらモニタ見てるのに」
新入社員の箕輪が社員食堂から戻ってきた。
配属から一か月ほどは毎日かっちりとしたパンツスーツだったが、服装規定の緩さに馴染んで今はオフィスカジュアルに馴染むロングスカート姿だ。
「まぁ、お盆は暇だからな……」
銀行業にお盆休みはないというのは建前で、結構な割合の行員が有休をとる。特に家族付き合いのあるシニア層は大概休んでいる。
色んな企業がお休みの時期は市場の動きも落ち着いているので、自然と金融業界も暇な時期になる。
「鮭とおかか、あと照り焼きサンドに野菜ジュースですよね。いつも」
「よく見てるね」
「インストラクターのこと見て学べって言われたんで!」
「そんなとこまで見んでも……」
インストラクター研修で耳にタコができるほど教えられた。
Z世代は個人主義者が多く、納得しないことはやらず、公私をきっちりわけ、真面目な子が多いとか。
研修で特に釘を刺されたのは『もしも新入社員が女性の場合、絶対に一対一で食事に誘うな』ということだ。
おかげで箕輪とは一度も一緒にお昼に行ったことがない。上長ともう一人の先輩と一緒に行ったきりだ。
俺が一年目の頃は高いものを食べさせてくれるしと喜んで付いて行ったものなのだが。
「御薪さんはお盆休み取らないんですか?」
「俺は親不孝者だからな、帰らない」
箕輪はこうして仕事と関係ない話もしてくるし、誘ったら割と喜んで付いてくると思うのだが────そこが大きな勘違いなのだ、とスライドショー付きでかなり強めに言われた。
ノーと言えないから演技しているだけで、そんな日々が続いてある日突然やめられるだけならまだしも、全く身に覚えがないのにセクハラ常習犯にされるぞ、と。
なので向こうから行きたいと言われるまでは誘ってはいけないらしい。アホかと言いたかった。どこにそんな一年生がいるのだと。
「別に遠くないんですよね? 電車で一時間くらいって言ってませんでしたっけ」
「まぁ、そうなんだけど。箕輪さんはどこ出身なの?」
男でも女でも部下は『さん』付けで呼ぶのが基本で、海外拠点とのメールでも一番ミスがないので徹底している。
呼び捨てや『君』付けはもう古い感性で、『ちゃん』なんてもっての他だ。
昨年度の研修で『なるべく新人と教育担当は同性になるようにしているが、それでも都合上性別が違うという事態は発生してしまうのでくれぐれも注意してほしい』と言われた。
そんな気を使える性格じゃないから頼む、と祈っていたが一番厄介な男性インストラクターと女性新入社員という組み合わせになってしまった。
「私ですか? 宮城です」
「今年帰省の予定あるの?」
「いや、別にないですね。弟が今年受験なんで、私が帰っても邪魔だろうし」
「あー……でも年末くらい帰って親御さんに顔見せた方がいいよ。マジで」
「あれ? というか、私の履歴書見なかったんですか?」
「見たけど出身地までは覚えてなかった。よく書けてたのは覚えてるよ」
出身地なんてどうでもいいからな。慶応経済出だったことだけ覚えている。
この会社の本社部署は早慶がボリュームゾーンなので、この部署だけでも早慶戦ができるほどの人数がいる。
しかし学歴がどうあれ新卒の子はみんな『子供がスーツ着て背伸びしてる!』という感想だった。
話しててもまだまだ若いなと感じるが、しかし夢の中の俺よりずっと歳上なのが不思議だ。
俺はいつ大人になったんだろう?
「あー、あれAIに書いてもらったんですよ」
「えっ、マジ? いや別にいいけど……そういうのって秘密にしといた方がよくない?」
「みんなやってますし……。最終的には直で顔合わせて面接なんで、結局は」
夢の中のことを振り返るに、世界はなにも変わっていないように見えて、着実に世代は変わっているし技術も進歩しているのだろう。
そして俺は着実に技術の進歩についていけなくなっていっているらしい。
「どうせお盆シーズンは暇だし、今日はもう引けたら帰っちゃえば?」
「え? でも一人だけ早く帰ったら悪目立ちしませんか?」
「誰も気にしないよ。誰が遅く来ようが早く上がろうが本当にどうでもいいからな」
「いいんですかね……?」
「今のうちだけだよ。どうせ箕輪さんの勤怠管理してんの俺なんだし」
そのうち処理できないくらいの仕事量になる。俺なんて限界ぎりぎりの皿回しを一生しているような気分だ。
というか同じチームの人間やインストラクターがそうやってフンコロガシみたいに仕事しているから、箕輪も定時に上がることさえ気が引けているのだろう。
「うーん、じゃあ今日は早めに上がります。でも15時半に終わって何すればいいんだろ」
「それは自分で考えなよ」
「御薪さんは早上がりしないんですか? たまには彼女さん迎えに行くとか!」
「いや、俺は引け後にクオンツ捕まえないと。詰めなきゃいけないことたくさんあるから」
こっちは最大限プライベートに突っ込まないようにしてるのに、向こうは無遠慮に突っ込んでくる。
恋人がいるともいないとも言っていないのに、いる前提で話してくるからハラハラする。
「御薪さんって……言っていることとやってること違いますよね」
「ん?」
「悪習だとか、アホみたいな慣習だって言ってることを進んでやっているというか……。それって仕事のコツだったりします?」
(わかってるじゃねーか)
言っていることではなくやっていることがその人の正体ってやつだ。見て学ぶんだよ。
「私、将来外銀に行きたいんですけど。訊いても答えてくれない適者生存の世界だって言うじゃないですか。今のうちに経験を積んでおきたいんです」
(スゲーな。よく言うな……)
この会社は踏み台なので将来辞める予定です、なんてよく言えたものだ。
まぁそれで俺の給料が変わるわけでもないから構わないが────と思っているのを感じ取られているのかもしれない。
それが本当にやりたいことなのか、と訊きたいが、それは俺の領分を超えた話だ。
プライベートな領域に踏み込んではならない。どこに地雷が埋まっているかなんてわからないのだから。
「私の知っている限りだと御薪さんの働き方が一番外銀に近いと思ってます。他の子のインストラクターの話聞いてて思ったんですけど、御薪さん大当たりだと思うんです」
(そりゃ普通3、4年目くらいの社員がインストラクターになるからな……)
そこらのジュニアとは乗り越えた修羅場の数が違うのだから一緒にしないでほしいが、評価者とインストラクターが同じなんてよっぽど特別な事情がない限りはありえない。
だがこのチームは専門性が高すぎて、平均年齢が50代のうえ去年まで俺より若手はおらず、俺の次に若い人が40歳だったためこうなってしまった。
ベテランおっさん達の中にいきなり放り込まれて、なかなか箕輪はハードな環境にいると思う。
ミーティングのたびに猫ミームに出てくるベロベロヤギに意味不明なことを高速詠唱されて頭を抱える子猫みたいになっているのだから。
「たとえば就活の時とかってどうしてました? インターンは?」
「俺はどこのインターンも受けてない」
「えっ、じゃあどうやって入ったんですか?」
俺は要領がよくて口が上手いので、面接だけでどうとでもできる自信があったのだ。
それは表向きの理由で、本当は出来る限り先延ばしにしたかったんだと思う。俺が社会の歯車になるという現実から目を背けたかったのだ。
「うちはインターンと採用は関係ないぞ」
これは少し語弊がある。インターンで通るような学生はそもそも本来の面接でも問題なく通るというだけの話だ。
「面接でなんて言ったんです?」
「どうなりたいかじゃなくて、何ができるかを言うんだよ」
9割がたの学生は実際のところ社会で通用するスキルなどないので、自分のポテンシャルと将来像を必死にアピールするしかない。
その中で己のスキルをしっかり認識していて、どう役に立てるかわかっている人間がいれば自然と採用される。
「えーっと、どういうことですか?」
「いや、メモ取んなくていいよ。そうだな……箕輪さん簿記1級持ってるでしょ」
「御薪さんも持っているんですよね。この前、吾妻さんから聞きました」
「まぁそれは置いといて。たとえば箕輪さんが経理に入ったとして、新しい勘定系システムを導入するとして、どうする?」
「どうする……?」
「ある金融商品を売買した時のレコードをどんな形にすれば仕訳に変換しやすいかとか考えなきゃいけないだろ。それって経理だけじゃなくてITの知識も相当いると思わん?」
「あぁ、なるほど……」
メモを取らなくていいと言ったのに、何かピンと来たのか箕輪は手元でメモを取っている。
さっきの踏み台発言然りだが、やはり俺はこういう勝気で向上心の塊みたいな人間は好きだ。
「この部署はあんま経理と関係ないけど、俺は財務会計の話も管理会計の話もできるし、うちが洗替法や簿価に移動平均単価を使っていることもわかってる。だから新商品を扱う時に経理から連絡が来る。そういうことができますよって面接で話したからな」
ある一分野の専門家は探せば割といる。そういう学部学科の生徒を採用すればいいだけだし、最悪他部署から異動させてこれば朱に交わってそのうち詳しくなる。
だが、専門分野+αで他の分野のことにもそれなりに詳しい人間というのは中々いないのに、各部署で一人はいないと会社が動かなくなる。
最終面接に来るような役員ほどその点を痛いほどわかっているので、俺は就活で全く苦労しなかった。
「そういうこと! もっと普段からバシバシ教えてもらいたいです!!」
「アソシエイトになったらもっと色々教えてやるよ」
俺は誰にも期待していない。『みなさんのお役に立てるように一日でも早く』なんて言っていた同期は一年でロケット退職した。
だからまずは信頼を勝ち取るしかないが、それには時間がかかる。3年続けられた奴は少なくともただ『キツイから』でやめることは少なくなる。
なんとなく、この子はいわゆるバリキャリになるんだろうなって感じはするが、そこはもう耐えてもらうしかない。
「これ勉強しとけばこの業界で絶対重宝されるってのは何かあります?」
「COBOLかな」
「……ってなんですか?」
「後で調べてみな。さぁほら、15時半まであと3時間しかないぞ。引けまでやれることはあるだろ?」
「はい!」
(仕事のコツかぁ……)
意気揚々とモニタに向かった一年目の背中が眩しい。
言葉にしたことはないが、出世株の人間が聞いたら納得するようなコツは沢山ある。
そうだな、たとえば。
進んで残業しろ。いつでもいる人だというのを印象付けろ。
GUIに頼るな。可能な限りマウスを使うな。ショートカットを手に覚え込ませろ。
ガンガン属人化させろ。仕事を効率化する関数を作成したらxlam化してロックかけて他の人間が書き換えられないようにしろ。
あの人がいなきゃマズいって状況を積極的に作れ。ヤバいことが起こりそうだと誰よりも先に察知して、あえてその日に休め。
それで休みの日に会社から連絡が来たらラッキーだと思え。アピールするのではなく向こうにこちらの価値を認識させろ。
その間に午後休を断続的に取ってそれとなく転職をにおわせろ。そうしたらこっちが嫌でも会社は昇格させてくる。
新人に言っていたことと真逆じゃないかって? そうだよ。
建前は建前だと早めに理解して自分の価値を上げることが早く昇格するコツだ。
世の中そんなものだろ。薄っぺらい建前と綺麗ごとのすぐ裏側には表に出せないどろどろした本音が隠れている。
容姿は仕事に関係ないって?
本部の営業部隊は見事に美男美女ばかりじゃないか。
採用サイトには学歴不問って書いてあっただと?
ならESにも書く必要もないだろ。卒業後に学位記でもコピーして渡せばいい。
建前と本音というものは男女関係や人間関係でもそうなのかもしれない。
人類皆平等とかオンリーワンとか、勝負から降りたやつがたわ言抜かしたって、どうしても容姿や能力でカーストは存在する。
セクハラだなんだと言ったって、その領域に一切踏み込まない人間には恋人ができない。
ある程度プライベートな領域に踏み込まないと仕事の関係を超えた信頼関係は築けない。
なのに気付けば社会はそれを許さない強固な建前で覆われてしまった。
このまま心地よい綺麗ごとに絡めとられたまま日本は斜陽に向かうのだろう。
(本当はもっと部下と仲良くなりたいけどなぁ……)
21時近くの喫煙所だというのに疲れた顔をしたおっさん達がまばらにいる。別にやりたくないのに今日もアホみたいに仕事をしてしまった。
コロナ禍を経て『喋ったら殺す』とデカ貼り紙が貼られるようになって、みんなスマホをいじってる。
昔は所属部署関係なく喫煙所で会話をしたものだが、今はみんな静かに煙だけを黙黙と吐き出している。
スマホでゲームをやっているおっさんも全然いるしこれくらいいいだろう、と3DSを取り出す。
(ペーペーの頃なら絶対こんなのできなかったな)
社会も会社も変わりつつあって、やることをやっているならそれ以外は割と自由にしていても文句を言われない。
むしろ業務時間全部仕事をしている機関車みたいな人間なんて見たことがない。
(あと1レベで進化か……)
口にタバコ、手にはスマホと3DSのダメ人間スタイルで画面を睨む。
ちょっとやってみようかなと思ったつもりが相当のめり込んでしまっている。ダメだ、無限にやってしまう。そろそろ帰って飯を食わないといけないのに。
帰りの電車の中でやろうかと一瞬頭を過ったが、明らかに役職についてる年齢でBloombergニュースを見ているような顔をしながら電車でゲームをやってる謎おっさんになってしまう。
(てかそうだよ、ニュース見なきゃ。もう帰ろう)
利上げはどうなるんだっけ? 25bpsだっけ?
長い夢を見ていたせいか、記憶が飛びかけている。帰りの電車で細かい部分を忘れているニュースを見直さなければならない。
(楽な仕事をしたらすぐ辞める、か……)
同窓会で夏目に言われた言葉に今更ながら納得してしまう。
俺が俺をどう思おうと、俺は激しい競走の中で生きるのが向いている人間で、そこから抜けたら何も残らないんだろう。
なんだかわかる気がする。貯金はあるけど、だからって思い切ってやめたら抜け殻になっちまいそうだ。
生まれてこのかた積み重ねてきた『優秀な俺』という幻想以外何も残らない。
二個上の先輩がそんな感じだった。
口を開けば『やりたくない』『面倒くさい』『そうだ、釣り系YouTuberになろう』『俺もうゲーム実況者になるわ』とか言う、ブツブツの実を食べた全身愚痴人間。
だけど回ってくる仕事はぶつくさ言いながら完璧にこなしてた。余裕綽々なんかではなく本当に大変そうだったのだが、こなせてしまうもんだからどんどん仕事を投げられていた。
今は異動してIPO部の中心プレイヤーだが、相も変わらずぶつくさ言っているのだろう。
「おっ、バカデカい月」
東京駅へ向かう道中、落雷を待つバベルの塔のようなビルの隙間にまん丸い満月が顔を出して煌々と夜を照らしていた。
月なんか見るのは久しぶりだ────スマホをいじりながら歩いていないからか。
「はっ……」
皇居の桔梗門へと続く道で、ドレスとタキシードに身を包んだ新婚カップルがこんな時間にウェディングフォトを撮っている。
幸せなのは結構なことだが、なんで俺はこれを避けて通らなきゃならないんだって毎回思っている。
歩きスマホをしててカメラマンの前を通ったら怒鳴られたことがあって、あと少し元気だったらカメラを取り上げて新婦にぶん投げて新郎を蹴り飛ばしていたと思う。
(……ネット張られてるんだ……初めて知った……)
丸の内中央口から東京駅に入ると国指定重要文化財である駅舎の内装が誰でもタダで見れる。
天井ドームには豪華絢爛なレリーフが散りばめられているが、見る気をなくすようなネットに視界を遮られている。
スマホを見ながら歩いてそのまま改札にピッとするのでこんなことも初めて気が付いた。
平日21時を超えてもなお立たなければならないほど混雑している山手線は、なぜか今日は別に気にならなかった。
***
実家がうるさかったせいで家が静かだと落ち着かないので、帰ったらいつもテレビを付けて適当なストリーミングサービスの動画を流している。
最近は引き伸ばしと神作画の臨界点に達したアニメのワンピースを流している。ここで映画なんかを流してしまうと見入ってしまうのでいけないのだ。
カウンターキッチン越しにリビングのテレビをちらちらと見ながら『牛肉と大根の煮物』を作っていく。
「…………。お母さんの味がする」
夢の中で見たとおりに調味料を入れ、米を入れて落し蓋をしたら完全に母の料理と同じ味になった。
mixiのパスワードといい、夢にしては妙だったような気もする。いや、しかし元々は知っていたことなのだ。単に夢が脳の奥から記憶を掘り起こしたのかもしれない。
知らないことを知れたならそれは夢ではない、と俺は言っていたが保守的な性格のせいで知らなかったことを知ることはできなかった。
そのせいであれが夢なのか不思議な体験なのか判断が付かない。
(だけど……感じたことは嘘じゃないよな……)
皿を机に置いてソファに座り、ぼんやりテレビに視線を向けたまま物思いにふける。
今は無き実家でデブ猫のマルの腹に顔を埋めた時、本当に泣きそうだった。タバコを吸いながら料理をする母の姿に懐かしい気持ちになった。
変わらないダメ親父にはあの頃からダメだと思っていたし、奈津生とは喧嘩ばっかしていたが結局仲の良い兄妹だった。
鏡花に久しぶりに会えて温かい気持ちになれた────思わずスマホを握ってから一瞬躊躇する。
元カノに連絡を取る男なんて一番嫌いだからな。だから、でも、まぁ。時期もいいし、こういう時でもなければもう思い出すこともないから。
意を決して俺は電話をかけた。時刻は既に23時近くだった。
***
翌日、俺は久しぶりに仕事をサボった。チームのメールアドレスに体調を崩したとだけメールして、社用携帯の電源は切ってしまった。
今の時期はどうせ暇だから大丈夫だろう。繁忙期ならたとえコロナになろうと在宅勤務用PCを起動するが、普段壊れる寸前まで仕事しているんだからこれくらい許してくれ。
チームリーダーは俺の携帯の番号を知っているし、本当にマズい時はこっちに連絡が来ると思う。
レンタカーのハンドブレーキを引いて、懐から取り出した『三体』を読みながら待つこと5分、アパートから待っていた人物が出てきた。
「よぉ、奈津生。一年ぶりくらいか?」
「お兄ちゃん痩せたね~」
助手席に乗った奈津生がシートベルトを締めるとき、ふわっと香水の匂いが漂ってきた。
あーあ、夢の中じゃ『千と千尋』の坊みたいだったのに、すっかり大人になってしまって。
どうしたらあの金太郎みたいなのがこんな典型的なギャルになるんだろう。成長とは怖いものだ。
「痩せてねえよ。筋肉が落ちただけ」
「てかこれレンタカー? お兄ちゃんいい車買えばいいのに。買えるでしょ?」
「年に数回しか乗らないからな。車なんか動けばなんでもいいよ。ドンキーコングのトロッコでもいい」
「ぷっ」
しょうもないギャグに奈津生が笑う。
全く似ていない兄妹だが、同じ家で育って同じ漫画やゲームを吸収してきたからか奈津生と俺はギャグセンスが同じなのだ。
「つーかいきなりで悪かったな」
お盆だから母の墓参りにいこう、と連絡したら物凄く軽いノリでOKと言ってくれた。
アホな妹だとは思っているが、こういうフッ軽なところは見習いたい。
「あ~。お母さんのお墓参りしたいって言ったらオーナーがいいよって」
「オーナー……? …………! お前また仕事辞めたんか!」
「だって20日働いて手取り20万ないんだよ? ありえなくない? 若い女の子を毎日8時間拘束してこれって狂ってるよ」
「そんならお前、20年後に自分の給料見て『仕方ないよね。私おばさんだし』って言うのか?」
「絶対無理~」
奈津生はいま24歳だがこれで仕事を辞めるのは二度目だ。俺なんか新卒でそのままずっと続けているのに。
怒りに任せてアクセルを踏み込むとボロレンタカーがガタガタと動き出した。
「てかじゃあお前今なにしとるの?」
「……接客業」
「接客……? ま~~たガールズバーか!? なんのために大学出してやったと思ってんだ!?」
「もぉ~! こんなことならお兄ちゃんにお金出してもらわない方がよかった! いつもなんも言い返せないんだもん!!」
奨学金を返す辛さも知らないくせに何を言っているのだろう。そもそも『お兄ちゃんだけ大学行ったのズルい』と奈津生が言ったのが始まりなのに。
結局国公立はセンターで足切りをくらって、学費だけやたらと高い聞いたこともない私立に行った。
そうしてまで手に入れた大卒の肩書をこうも雑に扱われては小言の一つも言いたくなる。
「おっさんと話して金貰うなんて繰り返してたら金銭感覚ぶっ壊れるぞ」
「じゃあ辞めるからお金貸して」
「ボケがナスコラ、成人してんだからテメエのケツくらいテメエで拭け!!」
「え~、じゃあお兄ちゃんがお客さんになってよ」
「なんで妹と話すのに金払わなきゃなんねーんだ!!」
「だって汚いオッサンと酔っ払い大学生の相手もう無理なんだもん!!」
こいつはいっつもそうだ、昔からそうだ。『無理』を印籠か何かと思っていやがる。
そのせいで今もぶつかったら曲がるオモチャの車みたいな生活を送っている。
「まったく……今日出かけるの、同棲してる彼氏になんて言ったんだ?」
「お兄ちゃんと地元に帰るって言ったけど」
「家にいたのか?」
「いたけど?」
「なんで俺に挨拶に来ねえ? まずそこが気に入らねえ」
「え~。あんま強くないから無理だと思う。会えない」
「もしかしてヒモか~!? その上メンヘラか!? メンヘラ・ヒモ・元カノに連絡を取る男はこの世で一番価値がねえって生まれた時から言ってんだろ!」
「ヒモじゃない! ちゃんと家賃も光熱費も半分払ってくれてる!! とにかくお兄ちゃんには会わせたくない!!」
「あ~~? 俺の何が悪い!?」
「お兄ちゃんの彼女のさぁ、じゃあそのお兄ちゃんが会わせろって言ったとして……その兄貴が身長185cmの塩顔イケメンで甲子園球児で大学は、えっと、マサチューセッツ大学卒だったらどう!? 会いたくないでしょ!? そんな完璧人間!」
「…………。もしかしてマサチューセッツ工科大学のことを言いたいの?」
「……とにかく! 男の人が一番イヤなのはプライドを傷付けられることでしょ」
(さすがガールズバーで働いてるだけあるな)
だけど俺はそういう人間をたくさん知っているんだよ。高校の頃まで俺は自分を完璧無敵だと思っていた。
しかし流石に大学となると日本中から凄味のあるやつが集まってきていて、奈津生が言うような完璧超人もそれなりにいた。おまけに家柄も性格も良くてケチの付けようがなかった。
せめて吸ってるタバコはピアニッシモであってくれと思ったが、彼らはそもそもタバコなんて吸わなかった。完全に俺の負けである。
俺が丸くなったのはそういう出会いの積み重ねなのだろう。
「お兄ちゃんが今すぐ30kg太って脂ハゲになったら会わせてあげるよ。あ、いや……そんなのお兄ちゃんって呼びたくないんだけど……マジ無理すぎ……」
「なんだこいつ……」
「てかさ、タバコ吸っていい?」
「レンタカーだぞ。ダメに決まってんだろ」
「アイコスだからさ」
「ダメだつってんだろ! 張っ倒すぞ!!」
とは言ったものの、俺も吸いたくなってきた。結局道中で見つけたコンビニに停めて、店先でタバコ休憩を挟んだ。
まったく、兄妹揃ってヤニカスとは────お母さんはなんて言うだろうか。きっと笑うだろう、何年経っても喧嘩ばかりしている馬鹿息子と馬鹿娘を見て。
奈津生の吸う甘ったるいにおいのする紙タバコと、やたら大きいセミの声。太陽の光できらきらのペットボトルの水に、もう戻れない日々を想った。
***
母の墓は綺麗なものだった。親父の住んでいるアパートが近くにあるので、こまめに来ては磨いているのだろう。
遅すぎるんだよ、と奈津生は吐き捨てたし俺もそう思う。だけど俺も男だから、親父の血が入っているからわかる気がするんだ。
失って初めて大切さに気付いたんだろう。馬鹿だから、俺も同じだから。どうせいくら墓に語りかけても骨は何も答えてはくれないのに。
「いいよね~、お兄ちゃんは。立派だからさ、堂々と報告できて」
「いや、あのオカンはその辺なんも言わんだろ。とりあえず生きてりゃそれでいいよって言うんじゃないか」
「ははっ、言いそ~」
奈津生はたぶん美人なんだろうが、それ以上に母に似ている。
あれっ、そうなるとうちの母は美人だったのだろうか。親の容姿なんて普通は気にしないから考えたこともなかった。
別にどっちでもいいんだけど、そうだな。見せてやりたかったな。大人になった奈津生の姿を母に。
「親父んとこ行くか? 近いし」
「いい」
「そうか……」
「お兄ちゃんは連絡してんの?」
「たまに金貸せって電話来るよ」
「もうほっときなよ、あの人のことは」
実の父を『あの人』と呼ぶあたり、奈津生がどれだけ親父を嫌っているかがよく表れている。
どちらともなく駐車場へと歩きだし、車へと向かう。
俺が社会人になってから、痩せこけた親父はよく金の無心をするようになった。
マイナンバーカードやら税金のことやら、わからないことをわからないと言って訊いてくるようになった。
立場も力関係も完全に逆転しており、奈津生はそんな親父を毛嫌いしているが、俺はそんな父が情けなくて悲しくて、突き放すことができない。
勝手に死にくされよと言えない。男からプライドが無くなったら何が残ると言うんだ?
健康への気遣いがゼロなのでそう遠くないうちに死ぬと思うが、『その死が野垂れ死にでいいのか? 俺の親が』という気持ちを捨てられない。
しょうもないダメ親父だというのは理解しているのだが、病床の母のためにインチキ臭い高価な水やら果物を持ち帰ってきていた馬鹿な親父の姿を忘れられないのだ。
「どこ向かってんの~?」
車の中で癖のように取り出したアイコスをしまいながら、奈津生は窓の向こうを見ながら眠そうな声で訊いてきた。
車に乗って20分ほどはスマホをいじることもなく静かにしていたので、実際にしばらく寝ていたのかもしれない。
「ちょっと……墓に……」
「えっ、また? 誰の?」
「俺の知り合い」
「え~っ、もう家に帰してよ!」
「うるせえ! 晩飯好きなもん食わせてやっから黙ってろ!!」
「ほんと!? 寿司! 寿司寿司!!」
「また寿司かよ……」
会ったら飯くらいは毎回食わせてやっているが、寿司か焼肉しか言わない。
なんせ貧乏で育ちが悪いもんだから、それ以外に贅沢品のボキャブラリーがないのだ。
それは俺も同じで、文句を言いながらも他に何もいい案が浮かんでこない。
「彼氏の分も持ち帰りで頼んでいい?」
「あ~~~~? なんで俺が会ったこともねえ弱男の飯代払わなきゃなんねぇんだ! その辺の草でも食わせておけ!!」
「も~お兄ちゃん無理~!!」
なんてまた喧嘩をしている間に目的地に着いた。
奈津生を喫煙所に叩き込み、線香ケースだけ持って歩く。
いい予感は当たらないが、嫌な予感は当たる。俺のしょうもない人生で得た唯一外れのない教訓だ。
高校三年生の時、あるニュースがテレビで流れていた。毎年とはいかないまでも、数年に一回は日本のどこかで起こっているような事件だった。
初めて嫌な予感がした。いつだってニュースはテレビの向こう側の出来事なのに、どうしてか不安が後から後から湧き出てきた。
運転手がてんかんの発作を起こし、車が暴走して何人もの犠牲者が出たという内容だった。
「久しぶりだな……」
目的の墓を見つけた。これまた綺麗に磨かれていて、線香が二本まだ煙を昇らせている。
お盆だもんな。きっと親御さんがすれ違いで来ていたのだろう。
涙も出なかった告別式は、外に出たら雨が上がって虹がかかっていた。
「三十歳になっちまったよ……鏡花」
間宮家の墓に手を合わせて目を瞑る。俺のせいではないと理性ではわかっているのに、感性が俺のせいだと責める。いつまでも。
人生で一番ショックだったと思う。それでも大学受験は別に滑ったりしなかった俺の冷静さが本当に嫌いだ。
だってそうだろ。別によくある話なんだ。同じ空間にいた人間が10年後もみんな息災だったら奇跡なんだから。
これを読んでいるあなたへ。中学高校の同級生あるいは先輩後輩はみんな元気か? もしみんな元気ならそれは何よりだ。
亡くなっている人がいると思い浮かんでも、別に親しい人でなければ『そういうこともある』という感想になるだろう。
だけどその人にも親しい人がいて、何年経ってもその人のことを想う相手がいるんだ。誰だって、あなたにだって。
俺、そんなに人間できてるわけじゃないからさ。あんな事故が起きなければ、とまでは思わないんだ。
せめてほんの少し何かが違っていたら、あそこで亡くなるのは彼女じゃなかったのにって考えてしまう。
たとえばそう、前日の夜に電話でもして、ちょっと夜更かししていれば、それだけで。
司書になっているって? 市の合唱団に入っているって? 都合のいい幻想ばかり創り出して。
だから俺は夢が嫌いなんだ。いつからだろう、夢は悪夢しか見ない。何度でも。
***
家に着いたのは夜20時過ぎだった。奈津生と回らない寿司屋に行ったが、なんだか味がしなくてあまり食べられなかった。
風呂から上がりタオルをカゴに入れてパソコンと向かい合う。帰ってきてから社用携帯で見たメールやチャットの中で緊急性が高いモノだけ返信してログアウトする。
「ギター……埃被ってんな……」
テレビの隣に飾っていた9mm滝モデルのギターを手に取りソファーに座る。
昔はこまめに指板潤滑剤スプレーを吹き付けて拭いていたのだが、今やすっかりフレットの隙間に埃が溜まり弦は錆びついている。
試しに開放弦を鳴らすと見事にチューニングが狂っている。そういえば今はチューニングひとつとってもスマホアプリでできるんだよな。
チューナーやメトロノームにも細かく金を使ったのに、今は便利な板で全てが済んでしまう。
「リズム狂うとあいつらうるさかったんだよなぁ」
リズム感のない俺は特に裏拍が苦手で、ミスりまくって小野から耳削ぎチョップをされた思い出がある。
一人笑いながらあえて己の耳のみでチューニングを済ませ『Ash Like Snow』を弾いてみる。
意外にも左手は結構動くが、右手がなまっていてピックを持つ手に無駄に力が入ってしまう。
この調子じゃ昔は余裕だったスウィープやトレモロなんてやったら手が攣ってしまいそうだ。
「またやりてぇな……」
みんな電車で一時間以内のところには住んでいるし、いやいやでも子供がいるやつもいるし忙しいだろうし。
寄せては返す言い訳に、再生回数500回もいかないのに動画を上げ続けてるオッサンコピーバンドの凄さが今になってわかってくる。
なにはともあれ、今週の土日にでも弦を買ってくるとしよう。ギターを置き、やることもないのでPCを付ける。
(あー……やべぇ……。まーたショート動画で時間潰しちゃいそう)
ついつい癖で動画サイトを開いたのを閉じ目頭を押さえる。そんなことで時間を使いたくないと、夢の中で俺は叫んでいたから。
思えば俺は人生で、何かを本気で欲したことや成し遂げたいと思ったことがない。狂おしいほどに欲したものや、全てを捨てても手に入れたい称号がなかった。
今になっておかしくなってくるのは当たり前だ。子供の頃からするべき『夢を見る』という訓練を怠っていたんだから。
大人は欲しいものを自分から掴みにいかなくちゃいけないのだから。
(俺が欲しいもの……)
夢の中でまろび出た俺の魂の叫びを、決して忘れてはならない気がする。たとえこのまま年老いていくとしても。
Windowsキー+Rからの『notepad』入力で開いたメモ帳に、あの時の俺の叫びや夢の中で感じた嘘偽りのない感情をぽつぽつと書いていく。
「あれ……。まさか……はは」
なんだかこのまま物語にできそうだな────と思い浮かんでからわざと自嘲する。
だけどそうだ、言っていたじゃないか。俺と同じようなヤツは結構いるって。なら俺と同じようなことを日々感じている人だって結構いるのかもしれない。
公開するかどうかは別として、なんか書いてみようか。出来る限りフィクションを混ぜて、でも感情には嘘をつかず物語にして残しておこう。
そうだな、タイトルは────
「このまま僕らは大人になれないまま」
過去の記憶にしがみついて、大人になんかなれないと思ったまま気が付けばきちんと大人になっている。
夢の中で夏目が言っていた言葉そのままだが、これがいい。しっくり来る。
まさか30歳になってから創作なんてするとは思っていなかった。
かたかたと小説作法の『し』の字もなっていない文字がメモ帳に打ち込まれていく。
今日のことも明日のことも忘れ、久しぶりに今この一瞬に没頭する。
俺に才能があるかどうかなんてことは別として、楽しめるならそれはそれでいいや。
そんな中、一日も持たずに触らなくなってしまった3DSは今もカバンの中でスリープ状態のまま放置されている。
電池切れの瀬戸際で、すれちがい通信のお知らせランプをちかちかと光らせながら。
***
くすぐったい。鼻の周りを湿った綿棒でこすられているようだ。
寝ぼけたまま寝返りを打ってもついてきて、今度は口の周りをくすぐり始めた。
どぅるるるん、どぅるるるん、という音が聞こえ、たっぷり一分以上経ってからマルが俺を起こそうとしているのだとわかった。
なんで今日に限って俺を起こすんだ。ペラペラの布団を蹴飛ばして上体を起こし、まだ鳴るのは当分先の目覚まし時計を切る。
「マル……なんだよ……。餌か……? なんで俺に……」
喉をごろごろ鳴らすマルが俺の腕にヒゲと身体を擦り付けて枕の上で寝転びぽんぽこりんのお腹を晒した。
起こされたもんは仕方ない、お猫様のご指名なのだ。飯を作ってやるとするか。
「なんか変な夢見たなー……?」
そう思った端からどんな夢だったか頭から蒸発していく。夢は記憶の整理だと言うし、そういうものなのだろう。
三段飛ばしで二段ベッドの上部から降りカーテンを開ける。その間もぴったりついてきているマルは『早よしろ』と言わんばかりだ
(珍しく朝から腹減ってら)
いつもギリギリまで寝ていることもあって、朝飯を抜くのがすっかり習慣になっているのに。
奈津生の分の食パンを勝手に取り出し、何年も掃除されていないトースターに入れる。
まだまだ眠たい目を何度も瞬きしながらマルのエサ皿にカリカリを入れる。
猫缶は、としばらくこちらを見ていたマルだったが猫缶は夜だけだ。こっそり母以外から貰おうとしてもダメだ。
「あれ……時生、早いじゃん」
「あ~、マルに起こされたんだよ」
起きてきた母は顔を洗うよりも前に、トイレよりも前に、まずタバコに火を付けた。
朝って喉が渇いているものだと思うのだが平気なのだろうか。
「ここ二、三日あんたが餌やってるからね」
「そうだっけ? そうだったかも……」
言われてみれば気まぐれにそんなことをしていた気がする。
しかしなんでだっけ、と目をこすり────
「痛ってぇ────ッ!!」
左目を中心にひび割れたような痛みがして思わずしゃがみ込む。
そうだ、思い出した。日岡の肘鉄を食らって目を怪我していたんだ。
やけに視界が悪いのはそのせいか。また同じことをする前に眼帯を付けなければ。
「トースト焼けたよ。珍しいね、普段はギリギリまで寝てるくせに」
勉強以外は馬鹿そのものの息子に母は最早なんの反応もせずにテレビを付けた。
いよいようるさい我が家が動き出したが奈津生はまだ起きそうにない。
「低血圧なんだよ、俺……」
「え、そうなの?」
「ああ、俺も会社の健康診断で初めて知ったんだけどな。どうりで朝に弱いわけよ」
「……あんた何言ってんの?」
「…………? ん……? 俺いまなんて言った?」
「もう何でもいいから早くパン食べなって」
なんでそんなことを口走ったんだろう。でもなんだかそんな夢を見たような気がするんだ。
しかし思い出そうとすればするほど霧のように散って消えていく。
椅子に座ってバターをトーストに塗っていると、マルが珍しく膝の上に乗ってきた。
別に普段から可愛がってはいるが、今日はなんだかいつもよりも可愛く思えてならなかった。
***
今日の昼休みは来月にライブハウス『FIREBIRD』に出る連中で飯を食うことになった。
そもそも軽音楽部に学校が提供する活動の機会は文化祭しかないし、何もしなければ同じバンドのメンバーとしか関わらないので、こういう機会に集まらないと横の繋がりが薄くなる。
逆にこうやって仲良くやっていれば他校の軽音部の人間とも繋がれたりするので、コミュ力は結局文化部でも大事なのだ。
「瀬古おめぇまた彼女できたってマジ? 前に言ってた子?」
「おっ、そうだな(笑) 意外と早く落ちたな~(嬉しい誤算)」
「彼氏が淫夢厨って俺ならめちゃ嫌だけどな」
初彼女ができたときはテンパりすぎて俺をデートに召還したくせに、いつの間にか嫌な感じの女慣れをしている。まぁでも見た目はカッコいいからな、見た目だけは。
それがいずれはぶくぶくに太って唯一の取柄だった見た目も気付けば種付けおじさんみたいに────
「…………?」
なんかいま変なことを考えていた気がする。
ドデカカツカレーを口に運ぶ手を止めて考えてみるが、もう既に忘却の彼方だ。
「いや~、でもお前らも変にこだわらなきゃすぐにできるって、彼女くらいさァ~」
「お前マジでずっと何?」
「腹立つわ~。語録以外喋んないでくれる?」
「俺マジ黒髪ストレートの子としか付き合わねえって先祖に誓ってるから」
焼きそばこと国枝が固焼きそばを食べながら、入学から念仏のように唱え続けている言葉を繰り返している。
これだけ強烈な天パだったら今更直毛の女の子とうまいこと結婚までいけても無駄だと思うのだが。
「でもお前嫁さん結構癖っ毛じゃんよ」
「黒髪でもねえしな」
「それとこれとは話が違うじゃん」
小野と室田から立て続けにツッコミが入り、ガハハと笑う俺らを他のバンドの連中が怪訝な目で見てくる。
「お前らなんの話してんの?」
「あっ……?」
「えっ、国枝お前彼女できたの?」
「いやいないけど。あ? なんだよ? 何見てんだよ」
「ガラ悪っ」
(あれ……? なんだっけ?)
からからと振って一瞬だけ点いた懐中電灯みたいに、ほんの一瞬だけ俺たちバンドの中だけで変な話が通じていた。
国枝には彼女どころか仲の良い女の子だっていないはず。高校卒業まで結局誰とも付き合えなかったし────また変なことが頭に思い浮かぶ。
だけどそんな気がするんだ。嫁さんは強めの癖っ毛の美人さんで、娘には見事に天パが遺伝していたような。
まぁ、『気がする』なんて言い方しなくたって、こいつの天パはあらゆる遺伝を乗り越えて引き継がれていくだろうが。
***
今日は部室が取れた。別にラッキーという訳ではなくて三年生が引退して軽音部の人数が少なくなったからだ。
覚えたばかりの『アンサイズニア』の初合わせだが、室田が練習時にベースラインをよく間違えていたのを知っているのでトチったら蹴っ飛ばしてやろうと思う。
だが今日は部活に行く前にやりたいことがあるのだ。
「悪いな~。俺んち3DS一個しかねぇからさぁ」
「まぁ、別に……いいけど」
ダイヤモンドからブラックにポケモンを移動したいと夏目に以前から頼んでいた。
どうしてもDSもしくは3DSが二台必要になるので、俺一人ではどうしようもなかったのだ。
自分でもよくやっているのか、眼鏡を両手でくいっと上げながら手際よく二台の3DSを操作している。
今日の夏目の眼鏡は一年生の頃にかけていた古いヤツだ。なんでわざわざ古い方を持ってきているんだっけ。
まぁいいか。別にこっちの眼鏡も似合っているし。
「えっ……このマニューラ色違いだ……。いいな……」
「いいだろ。たまたま捕まえたんだ」
「マルっていうの? なんで?」
「うちの猫の名前」
「似てるの?」
「いんや超デブ猫」
先行くぞー、と三人が楽器を持って部室に向かって行ってしまった。
このあともうちょっと夏目とポケモンをやりたいところだが、初合わせに遅刻なんてしたら殴り飛ばされる。
「でも弱くない? 技構成がダメすぎる。れいとうパンチ覚えてないのあり得ないよ」
「可愛いからいんだよ」
「…………。交換してくれない?」
「ぜってぇーヤだ。どうしてもって言うなら6Vメタモンとなら交換してもいいぜ」
「そんなの持ってるわけないじゃん! ほんとなに言ってんの、ガチ勢でもないのに」
「まぁ6Vの600族なら考えてやってもいいかな~」
「借りパクするくせに……」
「いや今度はちゃんと返……?」
分厚いレンズのせいで小さく見える夏目の瞳に砂嵐が奔っている。
なんとなく俺も同じ目の色をしているのだと感じ、散歩から帰った犬のように頭を振ると、夏目はいつも通りの気持ちうつむきがちな女の子に戻っていた。
「約束ね。絶対に返してね」
「その前に6Vの600族を手に入れるのが先なんじゃないの? ま、いいや。ありがと、また明日な」
「ん」
背中を向けてぶっきらぼうに別れの挨拶をする、いつも通りの流れ。このあと互いに部活に行くだけだ。
だから、振り返った理由はなんとなくでしかなくて────夏目が律儀に俺の背に手を振っていたことを初めて知った。
はっとした顔をして手を降ろし、今度は両手を上げて誤魔化すように眼鏡を直している。
取り繕えば取り繕うほど不審になってしまう夏目を眺めていたら、カバンを抱えてピャっと走って教室を出て行ってしまった。
なんかやっぱり夏目って面白いヤツだと思うんだよな。だけどバンドメンバーに『あいつ結構面白いヤツなんだぜ』と言っても『?』という反応ばかりだ。
(…………なんでなんか懐かしい感じするんだろ?)
ボロ公立高校のいつも通りの放課後に、西日が浮かび上がらせる埃のチンダル現象に心の中で火花が揺れる。
頭の中に疑問符を浮かべながらもギターケースを背負い部室棟へと向かう。
「相変わらずバカデカい樹だな~」
入学した時から思っていたが、ここまで大きな植物はテレビ以外で見たことがない。
学校に生えてるデカい樹となるとラブコメで出てくる伝説の樹を思い出すが、北校舎・東校舎・部室棟に囲まれたこの場所で告白するクソ度胸などあるヤツはいないだろう。
なんとなく郷愁と上機嫌の狭間で、いつもの癖で丁度いい高さにある樹のうろに手をかけ────
「────────」
古い町並みと白い花束。夜行バスとリピート再生の閃光少女。
雨に濡れた無数の革靴。薄暗い喫煙所。灰色の首都と皇居。
あかぎれに痛む指先。Ctrl+ZとY。夕方には伸びてくる髭。
常態化する寝過ごした土日。食べ飽きたコンビニ弁当。
錆びついて埃を被ったギター。押し入れに眠るゲーム機。
失ったものにばかり手を合わせる莫迦、線香の灰と煙。
「っ……?」
脳内でZIP爆弾が解凍されたかのような情報の濁流に立ち眩みを起こす。
立ち上がって脳貧血を起こしたときのような感覚にふらつき、唯一確かな樹のうろを掴んだままぶっ倒れないように耐える。
やがて戻ってきた視界に息を落ち着け、大樹を見上げる。なぜだかわからないが、これはただの立ち眩みではないような気がしてならない。
「おい! 御薪ィ! テメェ早く来いよ! 蹴り殺すぞ遅刻魔がよォ!!」
さすがに待たせすぎていたのか、室田が部室の扉を開いて怒鳴っている。
俺の遅刻癖はこの頃からいつでもどこでも発揮されていて────
「……っ、悪い! 今行く!」
手の甲を抓りなんだか今日はおかしなことばかり考えている頭を元に戻す。
だけど、なんでだろ。昨日も一昨日も、今日も明日も明後日も同じことをするはずなのに。
部室に走るただこの瞬間が、嬉しくてたまらなかった。
***
夏の終わりのにおいがする。むわっとした空気だが、風が吹くと乾燥しているせいか涼しくて秋の気配を感じる。
クソアチィ夏に、ゲロ寒い冬に、自転車通学の俺はいつも早よ終わってくれと願うのに、いざ終わり始めるといつも寂しく感じる。
錆びついたガッタレチャリを押しながら沈んだ夕日を追いかけるために裏門へと向かう。
(鏡花……)
裏門を出たところで鏡花が文庫本を読みながら俺を待っている。イヤホンで聴いているのはきっと東京事変の『女の子は誰でも』だろう。
いつも通りの待ち合わせなのに、その後ろ姿になぜか妙に胸が躍ってしまい気軽に声がかけられなかった。
(髪直してるんだ。初めて知った……)
立ち止まって鏡花の背を見ていると、本をしまい携帯に貼ってる鏡シールで前髪を直していた。
そりゃそうか、彼氏に会うんだからちょっとでも可愛いって思われたいよな。
ごめん、俺アホだからいつも同じ格好で────なんで急にこんなことに気が付くんだろう?
「鏡花、お待たせ」
なんて格好つけた言い方しちゃって。いつもみたいに『帰るか~』って言えなかった。
こっちを向いてぱっと笑った彼女の表情に安心する。スカートをウェストで折ったりしていないし、髪型もただの地味なローポニーで。
試しに茶髪にしたり耳に穴を開けてみたりする俺と正反対の人間なのに、そう────なんだか安心するのだ。
どちらともなく同じ歩調でいつもの帰り道を歩き出す。
「時生ちゃん、ちょっと前に貸した本読んだ~?」
「読んだけど……官能小説ってやつだろ、あれ」
先々週くらいに有名作者のマイナー作品を読んでみたい、とリクエストしたら確かに俺でも知っている作者の聞いたこともない作品を渡された。
図書室にも図書館にも置いていない作品で、タイトルが妙にしっとりとしているのでまさか、と思ったらひっくり返るほどのドエロ作品だった。
「官能小説じゃないよ~。恋愛小説だよ」
「池袋ウエストゲートパークの人だよな? あんなん書くんだな……」
あんなの書くんだ、という感想以上に鏡花ってこんな作品を読むのかという驚きの方が強かった。
俺は一般的男子高校生のご多分に漏れず性欲猿なのだが、鏡花からはそういう気配というか隙を感じたことがなくて、ずっとプラトニックな付き合いだったから。
そういえば『純文学っての読んでみたいぜ』とカッコつけたら、お勧めされたのが谷崎潤一郎の『痴人の愛』だったこともあったっけ。
大人しく見えたって、おっとりしていたって、結局どんな少年少女も一皮剥けば欲望に満ちているということなのだろうか。
こういうギャップが面白いから鏡花と付き合ってても退屈しないんだよな。
「まぁ、面白かったけどさ。なんであの本を俺に?」
「え~。時生ちゃん一歩……いや、三歩くらい? 間違えたらあの人みたいになっちゃいそうだから」
「俺ぇ? あの主人公のオッサンに? 40超えて性欲に振り回されるオッサンにはなりたくねぇなぁ~。あんなのにはなんねぇよ」
「そうね~。時生ちゃんって今はえっちなこと考えている暇なさそうだもんね」
その表現は実にしっくりくる。性的なことへの興味は人並みにあるが、部活も勉強も運動も楽しすぎて毎日それどころではないのだ。
後でできることは後でいいから、今しかできないことを今のうちに全力で楽しんで生きていたい。
「言うて将来何になるかなんて考えてないけどな。鏡花って将来どうすんの?」
「私ね~。司書さんになりたいの」
「……っ。へぇー。いいじゃん。向いてると思うぜ」
あまり収入が高くないことを知っている職業だったので『京大受けてまでそれ?』と言いそうになって口を閉じ、また別の本心を口にした。
普段の俺ならデリカシーなく口にしていたはず。なのに、心の中に浮かんだのだ。一度きりしかない人生なら、やりたいことをやる方がずっと上等ではないかと。
「そう? 向いてそう?」
「…………。おでこちゃん!」
隙を突いて左手で鏡花のつるんとした額に触れると『ひゃあっ』と声を上げて小さく跳ねた。
何が好きって、鏡花のぺたんとした前髪から覗く額が好きなので、よく脈絡なく彼女の額を触ってしまう。
本当は俺の心の内に湧き出てきたグロテスクな現実主義とフラジャイルな理想主義のせめぎ合いを誤魔化すためだったのだが。
手櫛でゆるっと髪を直した鏡花は仕切り直して話を続けた。
「時生ちゃんは将来……地質学者になってそうかな~」
「へっ? なんで? 地学なんて取ってないよ俺」
「でもなんか、フィールドワークずっとやって現地の蛇とか食べてそう。そんな感じするの」
「はっ……。楽しそうだ」
そんな気がする。向いているような気がする。捕まえた毒蛇を壁に叩きつけて殺し、皮を剥がして焼いて食って。
なんかいつも思うんだけど、鏡花って俺より俺のことをわかっているんだよな。
「あとは~……公安警察とか?」
「警察~!? おいおい、正義の味方なんてガラじゃないぜ」
「公安警察だよ~。正義の味方じゃなくて悪の敵のほう」
「なんで俺が向いてると思うの?」
「人の悪だくみを見抜くのが上手そうだから」
ああ、わかる。善意には鈍いのに悪意や悪巧みには敏感だからな。
机の上に贈り物が置いてあっても心当たりが浮かばないのに、私物の位置がちょっと動いていただけで誰かが勝手に触ったと気が付く。
プラスよりもマイナスに気が付く人間なんだ、昔から。それってなんか、あまり幸せになれそうにない人間だなぁ。
「あっ! てか返すわ! ウチに置いといて奈津生が読んだらえらいこっちゃ!」
小五というのがそういう年齢なのか、うちの妹が変なのか知らないが、奈津生が以前PCでしょうもないエロワードで検索かけたままスリープにしてて、母親に俺が疑われたことがある。
俺の名誉を守るために『俺が検索するとして履歴を残すと思うか?』と妙な言い訳をしたら『もうどうでもいいわ』と母から言われた。
そのあと奈津生と大喧嘩になったが、もうそんな火種はごめんだ。カバンの中から『夜の桃』を取り出すと────一緒にタバコが落ちてきた。
「へぇっ、なにこれ!?」
「…………。時生ちゃんが不良になっちゃった……」
「いやっ、えっ!? 違っ、俺のじゃねえぞ!? ……なんだこりゃあ、ウチの親の銘柄でもねーし……」
小さい頃からよくお使いに行かされたので両親が吸っているタバコの銘柄は知っている。
見たこともない黄緑色の箱を開くと、20本中4本は吸われて無くなっていた。
試供品か何かで親が貰ったのが紛れ込んでしまったのだろうか。
「時生ちゃん……」
「いや俺じゃないって! タバコの臭いなんかしないだろ」
「え~、いつもタバコ臭いからわかんないよ~」
ショックのあまり気が遠くなった。彼女から臭いって言われることほど悲しいことはない。
いつも『金がねえならタバコやめろよ』くらいのテンションでしか言っていないが、今日こそ両親にタバコはやめさせよう。
にわかに怒りが沸騰し始めた俺を見て、鏡花が歩きながらこちらを見て唇をとんがらせた。
話題を変えようと考えている時の癖だろ。知っているよ。
「時生ちゃん、放課後ぼーっと樹を見てたよね」
「ああ……。なんかちょっと……何? 部室から見てたの?」
「うん。未来と交信でもしていた?」
「…………ぁ……?」
何言ってんだお前、と言うべき場面のはず。いつもの俺ならそう言っていた。だからこの子ちょっと変わってるって言われちゃうんだよなとか思いながら。
放課後に起きたあのフラッシュバックの真逆────言うなればフラッシュフォワードがまた脳細胞を駆け巡る。
ほんの少しだけうつむいて重たいまばたきをすると汗がもみあげから落ちた。
「何か見えた~?」
「…………。革靴……。あと……。祇園……? 夏の……」
なんで革靴なんだろう。下ばっかり見ているんだろうな。
だとしてなんで行ったこともない街の風景が見えたんだろう。どうしてそこがどこでいつなのかを直感したのだろう。
思考を整理するために目を手で覆い隠すと、また眼帯の上から傷口に触れてズキンと痛んだ。
「あの樹が、なに? 未来と交信? どういうこと?」
「あれね、時量師木って言うんだよ」
「トキハカラシノキ……?」
「過去と未来を見通す樹なんだって~。めったにない珍しい樹だってお父さんが言ってた」
鏡花の父も相当適当なことを言う人らしいが、ここの卒業生だというのは以前聞いた記憶がある。
たしか普段は植物学者をしているとか言っていたような気がする。だとすると、本気なのか?
鏡花の顔を真っすぐ見つめるも、いつも通りのんびりした表情ではあるが一切ふざけていない。
「卒業生の贈った樹とかだと思ってた……」
「違うよ~。あの樹のそばに街ができて高校ができたんだよ」
「…………なんで?」
「えぇっと……。まず文明ってどこにできるか知ってる?」
「川のそばだろ」
文明は川のそばで生まれる。これはもう絶対だ。
世界四大文明は黄河・インダス川・チグリスユーフラテス川・ナイル川の流域に誕生したし、江戸が265年続いたのも徳川家の利根川治水が上手くいったからだ。
繁栄と大量の水は切っても切り離せない関係だと、そんなのは中学校で教わる。
「そうそう、さすが時生ちゃん。でも川って氾濫するでしょ。どうしたらいいと思う?」
「うーん……?」
「昔の人の気持ちになればわかるよ~。川のそばに集落を作りたい、だけど氾濫する土地は嫌だしどうしようって」
「……木か。それもバカデカい樹!」
川は氾濫するものだ。それは仕方がないし、昔の人間にコントロールなどできない。
だが氾濫時に川沿いの全ての土地で洪水が起きる訳ではない。川の形状や地質で氾濫しやすい場所とあまりしない場所が生まれる。
川のそばにありながら大きな樹が生えているということは、つまり植物が長生きできる環境であることを示してくれているのだ。
そういえば確かに、この土地は嫌がらせかと思うほどに川に囲まれている。
「そういう樹のそばにはね、普通は神社ができて御神木って呼ばれるようになるんだって」
なるほど、だから神社は古くから存在できるのか。
神社となるとまずは古めかしい建物のイメージが浮かぶが、実際は逆だ。
何十何百年と災害でぶっ壊されない土地を選んで神社が建てられているから古くなるのだ。
「でもウチは学校だぜ?」
「神社以外であの樹が生えているのは豊葦原高校だけなんだって。お父さん、それを調べるために学者さんになったみたい」
「なんでその、トキハカラシノキ? が過去と未来を見通すのさ」
「だって『この土地はこれまでもこれからも安全だよ』って教えてくれてるでしょう? 過去と未来だよ」
「はぇ~」
わかるような、わからないような。理屈理性論理はあり得ないと否定するが、理想感性感覚はなるほどと肯定している。
それにこの話を全て否定したところで、俺が放課後に体験した経験だけは夢でも嘘でもないのだから。
何も言えずにいると、地下鉄豊葦原西駅の入り口が見えてきてしまった。
「あ~。今日もあっという間だね~」
「あ、ああ……。そうだな。また明日────」
隣にいた鏡花が歩いていってしまう。ぼんやり白い駅への入り口が夜の怪物の顎みたいだ。夏の終わりが君を連れ去っていく。
えっ、俺ってあと何回この子を駅まで送ることができるの? あと50回もないんじゃないか。
おいおい、俺が好きな小粒チョコのお菓子だって100粒は入っているのに一時間も持たないんだぜ。
一瞬がまるで永遠に感じる。ほとんど毎日会っているのに、いつだって連絡できるのに。
Cuz I love you and I miss you────なんかよくわかんないんだけど、すごく寂しいんだ!
「ちょぉ、ちょっと待った!!」
ガシャン、と。鏡花の腕を掴んだ俺の背に自転車が倒れた音が追い付いてきた。
一瞬。ほんの一瞬だけ、全てを忘却の彼方に置き去りにして走り出していた。
俺自身にも訳のわからない行動だから、鏡花は珍しく目を大きく見開いて声も出せずに驚いている。
「どうしたの?」
「あっ……いや。もう少し話さない? そこの公園とかでさ」
「公園か~……」
「……ごめん。お父さんお母さん心配するよな。ウチは俺が何時に帰っても誰も何も言わないけれど。マジ放任主義でいい加減だからウチの親」
細い腕を掴んだまま早口で言葉を繰り出していると、鏡花の腕はするりと抜けて代わりに手を握ってきた。
あれっ、なんだか喜んでいるみたいだ。でもそうか、俺も同じ事されたら嬉しいもんな。
それにしても公園は無かったな。鏡花は普通よりも蚊に刺されやすい体質で、しかもぽーっとしているもんだから三匹の蚊に刺されていても気が付いていなかったことがある。
俺なんか一秒に三匹の蚊を潰したことだってあるのに。だけど、だとするとどうすれば、どこに行けばいいんだろう。
「公園よりも、アリオで夜ご飯食べてレイトショー観ない?」
「へっ?」
「私ね、時生ちゃんと夜遊びしてみたかったの」
「…………あはっ。行くか!」
ボロの自転車を起こし、アスファルトにぶち撒かれた荷物をカゴに入れ直す。
サドルに跨って目配せすると、大きな期待と小さな不安に目を輝かせた鏡花が後ろに乗ってきた。
面倒くさがって油を注していないチャリが崩壊寸前の怪音を立てながら動き出す。
そういや乗せたのって初めてだね、当たり前だけどアホの男子どもよりも軽いもんだ。
終わったらマックに行ってドブみたいな100円コーヒーを買おう、そんで暇人どもの駅前デモを冷やかしに行こうぜ。
いつか大学に入ったらさ、ローカル線の終着駅に行ってみよう。誰もいない神社にお参りしよう、田舎のよう知らん偉人館を見に行こうよ。
俺って頭の中ずっとグミ・チョコレート・パインだし、なんも将来のこと決めてないけどさ。なんかきっと上手くいく気がするんだ。
「なんてな」
「なにが~?」
「なんでもない! しっかり掴まってろよ!」
時量師木を囲った川を越える橋が見えてきた。また坂道だけど、これくらい一息でのぼりきってやるさ。
軽トラとの競争に勝って星空満天の夜から一気に下り坂、ブレーキなんて握らずに豊葦原純情商店街へ直行だ。
まるで二人のためだけに地球が回っているようなスピードの中、耳元の吐息にちらと後ろを見ると、半袖の白ブラウスが街灯の光に残像を描いていた。
頬っぺたを火照らせた鏡花が珍しく大きな声で『前、前見て! 分かれ道!』と叫んでいる。この先の分かれ道はどっちに行くんだっけ?
どっちでもいいや。あのさ、このまま俺ら一緒に大人になれたらいいな。
おわり