ポケットの中の携帯電話から着信音が流れてくる。教室でだべっていた連れに断りを入れてから、携帯の液晶に目をやった。『ゆい』。なんだ、こいつか。
「もしもし? なんだよ、朝っぱらから」
俺の嬉しそうな声を聞きとったのだろう。連れが茶々を入れてくる。「なんだよ、彼女?」
それを適当にあしらい、携帯から聞こえてきた声に耳を傾けた。
『あ、仁くん。ごめんね。あたし、仁くんと別れる』
「は?」
『えっとぉ、他に好きな人ができたっていうかぁ。とにかく、ごめんね。じゃ』
「は? おい、待てよ、なんだよそれ! おい、ゆい!」
俺が叫びかえすよりも早く、ゆいは通話を切り、何がなんだかわからないまま俺はフラれてしまった。茫然として、携帯のディスプレイを眺める。通話時間、十秒。通話料金、十円。連れも俺の様子がおかしいと思ったのか、どうした、と声をかけてくる。
つい最近付き合い始めた彼女から、今まさにフラれてしまったなど誰が言えるだろうか。誰も言えまい。携帯を床に叩きつけたい衝動を抑え、代わりに机を思い切り叩いた。
教室中が静まり返る。廊下や外から聞こえてくる登校中の生徒の声以外、この教室から出る音はなくなっていた。
「おい、どうしたんだよ。
「おーい。聞いてるか、陸生?」
「聞いてるよ! うっせえな、黙ってろ!」
どうしようもなくなって、携帯に視線を戻した。落ち着くことができず、携帯を開閉し続ける。もう一度電話がかかってくるのではないだろうか、「冗談だよ」という声が聴けるのではないか。そんな淡い期待を抱きながら、電話がかかってくるのを待った。
が、そんなことは起こるはずもなく、携帯は沈黙をまもったままだった。教室には声が戻り始め、放っておいた方がいいと判断した連れは俺の席から離れて会話を続けていた。
自分だけが教室から浮いていた。スッキリしない。なぜ、どうして。疑問は止まることなく、頭の中をぐるぐる回っていた。
電話じゃ埒が明かない。席から立ち上がって、廊下に出た。さいわい、ゆいは同じ学校の後輩だ。彼女の教室に向かえば、いやでも顔を合わせることになる。まさか休みなんてことはないだろう。
一年三組。教室を確認してから、扉を開けた。
「おい、ゆい!」
「うわっ、仁くん、どうしたの?」
「どうしたの、じゃねえよ。なんなんだよ。別れるってなんだよ」
「やだぁ、なんでこんなところで言うのよぉ」
「ここでしか訊けねえだろ。放課後、お前と会ったらお前はちゃんと話すのかよ?」
「それは……そうかもだけどぉ」
ゆいは俯き、そのまま黙りこくってしまった。彼女としゃべっていた他の女子はそそくさと俺たちから距離を置き、事の顛末を見るつもりらしい。いつの間にか、教室中の目がこちらに集中していた。
「だから、あの、他に好きな人ができたの。でもね、仁くんのことだって好きなんだよ? でもね、その人のほうが好きっていうか、わかるでしょ?」
「わかんねえっつーの。なんだよそれ。俺はゲームの中の登場人物かなんかかよ? 攻略したらすぐ別のヤツって、ふざけんなよ」
「も、もういいでしょ! あたし、もう仁くんとはなんでもない! 別れたんだから!」
決定的だった。後輩にフラれた。しかも、後輩の教室で。すぐにウワサがはやるだろう。二年の誰々が一年の誰々にフラれた。それも、教室で他の生徒がいる前で盛大に。
怒りよりも、落胆の方が大きかった。魂が抜けるというのは、こういうことなのかと実感した。教室から廊下に出て、足元をふらつかせながら自分の教室まで戻っていく。予鈴が鳴っていた。後ろから教師に声をかけられる。はやく教室に行け。
自分の教室の扉に手をかけた瞬間だった。階段を上がってきた人影が視界に収まる。
氷が溶けるように、あるいは水が沸騰するように。
落胆していた意識はハッキリとし始め、それと同時に怒りが湧き起ってくる。
「おい、シン。ちょっと面貸せよ」
「……予鈴、鳴ってるんだけど」
「ンだよ、口ごたえ? お前いつからそんなことできるほど偉くなったの?」
「……ごめん」
教室の扉を開け、中の連れを呼び出す。「おい、シンが来たぜ」
さっきまでは俺を敬遠していた連れも、その一言でぞろぞろとこっちにやって来た。全員が来たところで場所を移すことにした。
俺と連れに囲まれるかたちでシンがとぼとぼとついて来きている。ウワサがたつ前に、このイライラを抑えておきたい。それを考えただけで、思考がゆいの方を向く。好きなヤツができたとか言っていた。そいつは一体誰なのか。絶対につきとめてやる。
まずは、シンを殴るでもして鬱憤をはらそうか。
§
「…………」
制服を直し、トイレの床にぶちまけられた筆記用具やノートを回収する。
相変わらずの容赦のなさで逆に安心する。まだ水を持ちださないだけマシだろうか。そんなことを考えられるのも、こうされることに慣れてしまったからなのだろう。
いじめられる人間に理由は必要ない。いじめる人間のことはよくわからないが、とにかく、そういうものなのだ。あいつはいじめやすい、だからいじめる。あいつは気に入らない、だからいじめる。あいつはムカつく、だからいじめる。そういうものだ。
小学校高学年を皮切りに、中学、高校といじめられてきた僕は、とにかくそういう空気をまとってしまっている人間なのだろう。
小学校でいじめられ始めたのは、母が殺されてからだったはずだ。クラスメイトが僕にむける同情が、いつのまにか僕に対する攻撃に変わってしまっていた。そのとき、僕が何か言ってしまったのかもしれないし、もしかして同情しても、つまり優しくしても僕があまり反応を示さなかったから苛立ちが募っていたのかもしれない。
中学もその流れが続いて三年間、いじめのない日は休日くらいのものだった。
高校デビュー、なんてことは考えていなかったが、少しばかり抵抗してみようと上の方のランクの高校を受けた。僕に学費や生活費を送ってくれている祖父と祖母には「恩返しがしたい」と言って納得させのだが、そのとき祖父からは「そんなことを考えずに、お前は生きるだけ生きて勝手に死ね」と怒鳴られただけだった。そう言いながら私学に入るための入学金や学費を払ってくれているのは、どういう理由からか。あまり考えたくもない。晴れて距離も程度も離れた高校に入学することができたが、いじめのない日はそう長くは続かなかった。きっとのこのレベルの高校だと勉学関係でストレスがたまりやすいんだろうな、と漠然と考えている。入学から一ヶ月もしないうちにいじめは再開され、一年間。高校二年の春、今に至る。
いつになっても、そんな回顧はまったく意味をなさない。いじめられっ子。その認識だけあれば、僕は充分生きていける。
さいわい、高校の授業はそれほど難しいとは感じず、学年でもトップの成績を収めている。学校側も僕が授業に遅れてきてもなにも文句は言わなくなっている。ただ、僕のいじめまで黙認しているような節がある。そういう空気なのかもしれない。試しに成績を下げもしてみれば、もしかしたら仲裁に入ってくるかもしれない。
トイレの鏡で制服のネクタイが曲がっていないか、汚れはついていないか、傷はないかなどを確認していく。制服を直していた手がふと止まる。鏡の中、僕を見返してくる僕。その目は希望に満ちてなどいない。このときを生きていればいい。ただ、そんな無気力さがにじみ出ているようで、思わず自嘲の笑みをこぼした。
自嘲の笑みをこぼすことができるということは、つまり、僕は変わりたいと願っているのだろう。もしできることならば、この色のない髪のように、真っ白な状態からやり直したい。
「……ばかみたいだ」
またひとつ自嘲をして教室へ向かった。到着する頃には一時間目は半分以上がすぎており、教室のドアを静かに開くと、教師とクラスメイト全員がこちらを向いた。教師は遅刻をした理由を聞いてきた。それに適当に「腹痛です」と答えると、さっさと席に着けと怒られた。周りからクスクスと笑い声が聞こえてくる。クラスメイトの中で僕がいじめられていると知らない人はいない。学校を探しても、僕がいじめられていると知らない人を探す方が大変だと思う。
いつもと同じ時間がすぎさっていく。授業中はどこからともなく消しゴムのカスが飛んでくるし、休憩時間になればエアガンの的にされる。どちらとも服に当たればそれほど痛くもないが、特にエアガン、あれが頬に当たった日は最悪だ。蚊に刺されたように当たった場所が赤く腫れ、それをネタにまたいじめの輪が広がる。
だから、僕は休憩時間中はずっと机に伏せっている。タヌキ寝入りとも言う。時間がある時以外はむこうも僕を連れ出してまでいじめる、ということはしない。何があっても、授業が始まるまで顔はあげない。
一日でまともに見る人の顔なんて、数えるほどしかない。
授業中も休憩中も、それらを徹底的に無視して今日も一日が終わった。逃げるように教室から出て、帰路に着く。今日は誰にも捕まらずに校門を出ることができた。
塀の陰に身を隠すようにして、独り歩いていく。まだ春とはいえ、太陽の光はもう暑い。
「……変わりたい、か」
例えば、いじめられたくない。そう思ったことは何度かある。だけど、そのたびに心の奥がそれを否定した。どうやって? 最初に疑問が浮かび、どうしようもない、と諦めが入る。それはもう、否定していると同じことだろう。
また一日が終わる。どうしようもない空気に逆らえずにいるまま、今日もまた終わる。
終わる、はずだった。
こんな僕が、今日だけは頭が少しどうにかなっていたとしよう。例えば、誰かが落としたものを、その人に届けるために後を追う。そんなことだ。
本当に、僕は頭がどうにかなっていたんだろう。たった一枚のハンカチをどうして拾ってしまったのか。どうして落とした人を見てしまったのか。
その後ろ姿に、どうしてこれほど惹かれてしまったのだろうか。
「……なんなんだろうな、まったく」
ハンカチを落としたその人は、背が高かった。スラリとした長身という言葉が似合いだ。光さえ吸い込んでしまいそうな長い黒髪は風に遊ばせている。ふらりふらりとどこか浮世離れした足取りで歩いていく後ろ姿は、どこか幻想的でもあった。
自然と足は動いていた。彼女を追うように改札へ向かう。改札を通り抜けて、人混みにまぎれてしまう前に、と手を伸ばした。とん、と女性の肩に触れる。
「すいません。ハンカチ落としました……、よ?」
「う、ううっぷ」振り向きざまにがっちりと腕を掴まれ、体当たりかと思うほどの寄りかかり方をされた。「も、ダメ。揺らされたら、気持ち悪……」
まずいと思ったときには手遅れだった。上体だけは反らしてなんとかなったが、スラックスと革靴がとんでもない状態になってしまっていた。こんなこと、いじめられてても経験できることじゃない。生理的嫌悪が胸を焼く。ツンと、鼻を突くような酸性の異臭が立ち込める。ざわっ、と僕らの周囲数メートルから人が離れていく。自然と、注目の的。
「うう、もう、一発……」
「ちょっと!?」
やめてください! そう叫ぶ間もなく、二発目は僕のブレザーを汚していった。
うーうーうなる女性に(仕方なく、流れで)肩を貸し、彼女が指示するままに道を進んでいく。
アルコールの強烈な臭いの残る吐しゃ物で制服を汚しながら、だ。
怒る気になれないのはいじめられ慣れすぎたからなのか、それとも呆れてものも言えないからなのか。自分のことながら、複雑な心境は形容しがたい。
駅前ではまるでモーゼにでもなったような気分だった。気持ちいいほどに人の波が割れていくのを目の前で見るのは、きっと、僕の人生で最も痛快な景色だったに違いない。だが、それを喜べるほど僕は馬鹿じゃあない。人の波が避けているのは僕ではなく、僕の制服にこびりついた女性の吐しゃ物なのだから。つまり、モーゼなのは女性の吐しゃ物であり、僕はさながら、モーゼについて歩く民といったところだろう。ゲロについていく僕は、とことんそういう人間なのかもしれない。
「うー、うぅー」
見たところ、女性は二十代後半だろうか。半ばはすぎているように見える。
そんな若い女性が平日の夕方から酒に呑まれて路上リバースとは、なんともぜいたくなご身分である。
下手をすれば今日は家には帰れないな、と余計な思考を働かせていると、女性が消え入るような小さな声で話しかけてきた。
「ちゃんと洗濯、うう、する、からね」
「僕は別に。まあ、洗濯機のひとつでも貸していただければそれで」
次、右。彼女が指示を出した方へ曲がる。駅前のビル街からどんどん住宅街の方へ進んでいく。そうして行くことしばらく、少し家賃が高そうなマンションの前までやってきた。
「ここ、ですか?」
「うん。そう」
意外だ。もっとすたれた感じのアパートにでも住んでいるのかと思ったら、やっぱりこの人はいいご身分なのかもしれない。なんの仕事をしているのだろうか。興味がわいてきた。
「パスワードとか、押せますか?」
マンションの入り口には、テンキーでパスを入力して解除するタイプのありふれた鍵がついていた。女性はおぼつかない足取りでテンキーの元まで歩くと、うーうーうなりながらもキーを押していた。数秒もかからずにカチリと鍵の開く音が聞こえる。
おいでおいで、と女性に手招きされた。吐くほど酔い潰れているからか、その様子は弱々しく、どこか不気味ですらあった。彼女の黒すぎる髪も相まって、ヤマンバにでも手招きされている気分になってきていた。なんとなく二の足を踏む。うまく前に歩き出せない。
「どうしたの?」
「え。あ、いえ。なんというか」
「もしかして、緊張とか……うぷ」
「……そういうことにしてください」
女性に肩を貸しながら、エレベーターまで来た。乗り込んでから「何階ですか?」と訊くと、無言のまま彼女は5のボタンを押した。
「うう、揺れる……」
「やめてくださいよ、本当に」
動き始めたエレベーターの中、口元を押さえながら彼女は壁にもたれかかっていた。入り口のときもそうだったが、こういう弱々しい姿を見ると、身長は高いのだがどこかしら小さく見えてしまう。ここまで送ってしまったのも、そういう心理があったからなのかもしれない。
――つまり、僕は彼女を守ってあげたい、などと自惚れていたのか?
「なんてこった」
今日はとことん頭のおかしい日らしい。朝方にトイレで殴る蹴るの暴行を受けはしたが、頭は殴られていないはずだったのに、いよいよ陸生君たちのパンチが鋭くなった証拠か。考えるのも馬鹿らしい。思考を投げ捨てて、ただぼうっとエレベーターの駆動音を聞いていた。
無事に5階に到着して、また肩を貸して歩き始める。何号室かを訊くと、ぼそぼそと「五○五号室」と言って教えてくれた。
エレベーターに近い方から五○一、順に二、三と続いて、五階一番奥の部屋が五○五号室になっていた。
ふと、彼女の名前を聞いてないことを思い出し、ネームプレートに目をやった。
『赤司』。
女性――赤司さんはポケットをまさぐって鍵を取り出し、カチャカチャとドアノブをこすり始めた。どうやら、酔いのせいでうまく鍵穴に差し込めないらしい。代わりにしましょうか、と言うのもなんだか間違っているような気がしたので黙って見守ることにした。
しばらくして、ようやく扉の鍵が開く音を聞くことができた。
「うー。ああ、あがってあがって。洗濯機は洗面所に置いてあるから」
「あ、はあ」
無防備、というのだろうか、こういう女性のことは。いや、確かに僕は彼女の吐しゃ物で汚されているから、彼女が僕を家に招き入れるのは不思議なことではないとは思うのだが。
「えっと、じゃあ、おじゃまします」
先に入った赤司さんを追うように、僕も靴を脱いで彼女の部屋へあがった。一人暮らしなのだろう、玄関にはそれほど多くの靴はなかった。一般女性がどれほどの靴を持っているのかは知らないが、赤司さんの部屋の玄関には、目に見えるだけでサンダル、スニーカー、今履いていたパンプスの三足があるだけだった。どれも赤色が基調になっている。
「シャワーも使いたかったら、使ってね。うー、頭痛いなあ、もう」
「はあ……」
無神経、というのだろうか、それとも。もしくは僕が男とは見られていないとかだろうか。見られていても、それがどうしたと言いたい。
洗面所に入って服を脱ぐ。ブレザーを脱ぐまではよかったのだが、それ以降にはどうしても抵抗を感じてしまう。吐しゃ物で汚れてしまっているという問題点を入れて考えても女性の、それも知り合ったばかりの女性の部屋で脱ぐというのは、考えていた以上に恥ずかしい。赤司さんは僕を意識していないだろうとは言え、心理的に引っ掛かりを覚えてしまう。
洗濯かごはすでにいっぱいまで詰め込まれていた。ブラウスやシャツ、ワンピースといったトップス。ジーンズやスカートといったボトムズ。果ては下着まで見える。
衣服の色は白、黒、赤とこの三色が特に目立つ。好きな色なのだろうか。それともコーディネイトが面倒で同色を揃えているだけなのだろうか。
「…………」
僕は何を考えているのだろう。ふとそんな疑問がよぎる。それからはいやに落ち着いて服を脱いでいけた。とりあえず、ブレザーとスラックスは風呂場に持って入ることにした。まさか洗濯機で洗うわけにもいかないだろう。
シャワーで赤司さんの吐しゃ物を落としつつ、軽く手もみもしておく。
制服をあらかた洗い終わり、適当に汗を流していると外から赤司さんの声が聞こえた。
『バスタオル、洗濯機の上に置いておくから……。よかったら使ってちょうだいね』
「あ、どうも」
もしかして、と今さらな考えが僕の頭に浮かんだ。いいご身分、なんて僕は例えて言っていたが、いいご身分なのではなく、ただいい加減なだけなのではないだろうか、と。
例えば洗濯物だ。あれだけ溜めておけるのもある意味すごい。いくら面倒だからといって、洗濯をサボれば明日着る服がなくなってきてしまう。いざ出かける時に服がなければでかけられない。それくらいわかっているだろうに、彼女はそれをしていない。
それはつまり、ただ面倒くさがりなだけではないだろうか。
「どうも、すいません」
我ながらマヌケな格好である。学校指定のワイシャツとボクサーパンツが一丁。ブレザーとスラックスはベランダに干させてもらっている。
「乾くまでゆっくりしてね。うう、まだ気持ち悪い」
「はあ」
洗面所もひどいとは思ったが、リビングはもっとひどかった。十畳ほどの広いワンルームだったが、普通に生活できるスペースは半分あるかないかだ。その半分も、洗面所には収まり切れなかった衣服が転がっている状態だ。もちろん、下着まで。
赤司さんはそれらを気にすることなく、帰って来た時のままの格好で、ベッドにうつ伏せになりながらうーうーうなっていた。
ゆっくりしてね、とは言われたがどうゆっくりしていいか。まさか寝転ぶわけにもいかないだろう。仕方なく、部屋の中を見回してみることにした。
どれほどそうしていただろうか。うつ伏せになっていた赤司さんがムクリと起き上がってきた。
「まだ自己紹介してなかったよね」
「まあ、そうですね」
「私、赤司零子。十九歳」
「うそ……」言ってから後悔。思わず口を押さえた。「な、なんでもないです」
「……。ええ、そうよ。ホントは二十八ですが何か?」
ムスッとしながら、赤司さんは僕をにらみつけてきた。ていうか十歳近くもサバ読もうとしてたのか、この人。いや、きっと冗談なのだろう。どう考えても冗談で言った態度ではなかったけれど、冗談のつもりだったのだろう。
「君、結構思ったこと言っちゃうタイプ?」
「まあ、はい」
「だろうね」
「そこまで言われる筋合いもない気が……」
赤司さんは僕に興味がわいたのか、ベッドから降りてきてテーブル越しの正面に座った。
改めて顔を合わせると、赤司さんが本当に美人だということを再認する。僕はそんな人の部屋にいるのだと思い出し、また緊張が戻って来た。
「……君の名前は?」
「え?」
「な、ま、え。教えてくんない?」
「
「みつき。漢字はどう書くの? 美しい月?」
「いえ。防御の『御』に、きへんに規則の『規』の方の
「下の名前は?」
「……シン、です」
「進むの進? まことで真? それとも、たくみの匠?」
「……罪と書いて、シンと読みます」
「罪」
御槻
それが、僕の名前だ。
「そう。じゃあ、シンちゃんって呼ばせてもらうわね」
「……ご勝手に」
「そう? じゃあ勝手にそう呼ぶわ」
よりにもよって、呼ばれるのが嫌いな下の名前だったが、それを止める理由を僕は持ち合わせていなかった。この人の表面的な性格を知っただけで、「厭だから」は理由にならないとなんとなく感じたからだ。厭だと言っても「知らない」の一言で一蹴されそうだ。
「じゃあ、シンちゃん」
「……なんです?」
「いやあ? 呼んでみただけよ」
「…………」
やりにくい。ここまで誰かと親しげに話したことがあっただろうか。記憶に潜り込んで探すほど、僕にはその経験が乏しかった。誰かとこうやって話す。なんとなく、嬉しい。
「あの、赤司さん」
「零子」
「え?」
「零子って呼んで。私もシンちゃんって呼んでるんだもの」
「……えっと、零子、さん?」
「はぁい。なあに?」
調子が狂う。
それだけならいい。すぐに慣れていつもの調子に戻ることができるだろうから。でも、それだけじゃない。僕は決定的に人と話し慣れていない。コミュニケーションの取り方が全然わからない。これじゃあ、話せば話すほど僕の調子は崩れていくだけだ。
だけど、黙りこむのだけは絶対にしたくなかった。
「あの、お仕事って何されてるんですか?」
よりによってこの質問を選ぶか、僕は。お見合いじゃあるまいし、次に訊くのはなんだ。「ご趣味はなんですか」か? 自分のことながら情けない。
「仕事は探偵。事務所はここ」
「探偵? ていうか、ここってマンションですよね。しかもちょっと汚い」
「マンションだからなんだってのよ。マンションの一室でパン屋営業する人だっているのよ。探偵事務所くらいあってもいいじゃない。それに女の人の下着が見放題なのよう?」
「いや、そこは反応が違う気がするんですけども」
「いやぁっ! 見ないで、恥ずかしいわっ!」わざとらしく零子さんは下着をかき集め、あからさまな棒読みで叫んだ。「こうかしら。どう、どう?」
「どうって言われましても」
反応に困る。
僕の反応がイマイチつまらなかったのか、零子さんはかき集めた下着をベッドの上に投げ捨ててしまった。ぶすっとした彼女の態度が心に刺さる。なぜか僕の方が悪いことをしたみたいだ。
「シンちゃんの制服ってこの近所の私学のやつよね? 頭いいんだ」
「……どうも」
「実は私もあそこのOGだったりして」
「本当ですか、それ」
「冗談でした」
ため息で返事を返した。
沈黙が部屋を支配する。時計の針の音が大きくなる。近所の部屋の扉が開く音も聞こえてくる。マンション前の通りをバイクが通り過ぎていく。さらには数百メートル以上先にある電車の音さえ聞こえてきそうなほどの真夜中に近い沈黙だった。
静寂がこそばゆい。チックタックと時を刻む時計の音が耳をくすぐるようだった。ほとんど無意識のうちに、右手が耳たぶを揉んでいた。
「……なに、その痣」
「え?」
シャツがずれ、覗いた右腕にはくっきりと青黒い痣ができていた。なぜか、まずいと思った。一体何がまずいのか、僕がいじめられていると零子さんにバレたとして、それの何がまずいというのか。もちろん、いじめられているなんて堂々と言えることじゃないのはわかってる。だけど、零子さんに訊かれて、僕はなぜこんなにも焦っているのだろうか。
もしかして、馬鹿にされるんじゃないか、と怖がっているのだろうか。自分のことながらよくわからない。わからなくなったすえに、出た言葉はありふれたものだった。
「これは、その、ちょっと机に腕をぶつけて……」
「痛くない? シップあるけど」
「大丈夫です。いつものことですから」
「ドジなんだ。ぷぷぷ」
……どっちにしろ馬鹿にされてしまった。というか、こんな二十八歳がいてたまるかと思えるほど、零子さんは良く言ってお茶目、悪く言うと精神年齢が低かった。だからそんな歳になるまで放っておかれるんだ。思ったことを言ってしまいがちな僕でも、その言葉だけは胸の奥にしまい込んだ。
「私からの質問もいいかしら?」
「まあ、答えられる範囲でなら」
何を訊いてくるつもりなんだろう。いろいろと不安を覚えながら、零子さんの口が動くのを数秒だけ待った。
「得意なことって、なんかある?」
「え?」
思わず硬直。向こうの質問も、なにやら普通じみていた。もっと突拍子のないことを訊いて来るのかと思えば、得意なこと?
「一人暮らしですから、家事全般は普通に」
「あら、そうなの。いいわね。私は家事とか全然ダメだから」
「見ればわかりますよ」
この部屋の惨状を指して言う。零子さんはおじける様子も見せずに笑っていた。そして、なにが
「やん。見るだなんて。お姉さんの下着見たいの?」
「それで、零子さんは得意なことってあるんですか?」
「うわスルーかよ。まあいいや。あるわよ、得意なこと。そうね、錬金術」
「……そこもスルーしていいところですか? それとも、ツッコミ待ち?」
「やだ、ツッコミ待ちとか。私がだらしない女みたいじゃない」
「それはもういいです。それで、それって比喩かなんかですか? ギャンブルが得意とかそういう」
こう、勝ちまくっていつの間にか大金を手にしている、常識離れした幸運の持ち主だとか。零子さんは僕のその言葉に首を振り、誤りを訂正した。
「比喩じゃないわね。しいて言うなら、バズワードみたいなものよ」
「偉そうなこと言ってるだけってことですか?」
「ま、そーゆーことね。やってることはほとんど催眠術みたいなもんだから」
「つまり詐欺師ってことですか」
「探偵って言ってるでしょ!? 別にマルチ商法とか催眠商法とかやってるわけじゃないの」
催眠術と聞くと、僕には胡散臭いものしか思い浮かばない。テレビでしているような催眠術は正直信じられないし、広義で考えれば誘導尋問なんかも催眠術と言えなくもなさそうだ。だとしたら、ただ口がうまいだけとしか僕には考えられない。
そう零子さんに言うと、私も同じ、と苦笑いを浮かべた。
のっそりした動きで零子さんは立ち上がり、冷蔵庫を開け、ひとつのリンゴを取り出してきた。吐いた分、胃になにかを入れたくなったのかと思ったが、彼女は机の上にそれを置くだけだった。
「リンゴ、ですよね?」
「見た通りよ。中学校の英語じゃあるまいし、『これはオレンジですか?』みたいな質問はしないの。わかった?」
「あ、はい」
なぜか諭される。
零子さんは果物ナイフを手にとって、説明を始めた。
「錬金術って聞いて、どんなイメージがある?」
「金属全般を金に変えるとか、賢者の石とか、それくらいですかね」
「まあ、一般的に知られている錬金術ってのはそんなもんよね。もっと広い意味で言えば、錬金術っていうのは魂や肉体の完成を成すすべでもあるわけ」
そう言って、零子さんはリンゴにナイフを突き刺した。ざくっという音と同時に、果汁が刺されたところから滲み出てくる。なかなか美味しそうなリンゴだった。
「例えば、このリンゴが魂とすると、今ナイフで刺され傷ついた。痛いよ痛いよー」まるで人形劇のように、リンゴを軽く揺らしてしゃべっているようにやって見せた。「で、私が使う錬金術っていうのはここから先。魂の再生」
本格的に胡散臭くなってきた。これじゃあ催眠術というよりも宗教に近いものを感じる。悪徳商法には手を染めていないと言っていたが、それもどうだかわからなくなってきた。
「つまり、この刺された傷、それっぽい言葉で言えばトラウマを完全治癒するすべが再生。より高みに登りつめるすべのこと」
「胡散臭いことこの上ないですね」
「なら、見せたら信じる? それで、信じてくれたら私に話してほしいの。君が抱えている傷を」
「……意地が悪いですね、零子さんって」
「オトナなんてみんな意地悪よ。私はマシな方」
やっぱり、零子さんは気付いていた。僕がどういう状況にいるのかまではわかっていないのだろうけれど、僕がどういう待遇にいるのかは、きっとわかっている。
だけど、彼女はそれを追求しなかった。
信じてくれたら話してほしい。僕に選択権を与えた言葉。教えてくれないならそれでいい。ただ、教えてくれるならちゃんと伝えてほしい。そんな零子さんの言葉が聞こえてくるようだった。
――本当にどうかしてる。
もう一度、僕は自嘲の笑みを浮かべた。
こんな都合のいいこと、あるわけがない。
こんな機会、きっと二度とない。
葛藤が渦巻く。うなずけば、僕は変われるのだろうか。うなずかなければ、僕は今のままなのだろうか。変わるのが怖い。変われないのが厭だ。ただ、うなずくという選択肢の先には、保身以上の価値があるような気がする。
そんな気がして、だから僕はうなずいた。