早朝。僕は電車に揺られながら隣に立っている女性を覗き見た。
彼女はつい一週間ほど前に衝撃的な出会いをした女性だった。スラリとした長身は彼女の存在を浮世離れさせているような気がする。背中を覆い隠すほどの濡れたような黒髪は、どこかそれを助長しているようにさえ見えてしまう。化粧っ気のない顔は小顔で、整っているのだが、どこか目に覇気がない。薄い唇と切れ長の目も彼女の雰囲気に合った感じがするのだが、それもまた、黙っていればの話だった。
赤司零子。
それが彼女の名前だった。
§
「じゃあ、来週の土曜日空いてる?」
「予定はありません。第三土曜で学校も休みですし、大丈夫です」
零子さんが見せてくれるという『錬金術』は、彼女自身、本当は使いたくはないと言う。
理由を訊けば、それが本当にいいことなのかが自分でも判らないからだそうだ。自分でも理解しきれていない力を使うのは、怖いことだから。零子さんは静かにそう教えてくれた。
零子さんがいう『錬金術』というのは、金属を金などに変えることや、賢者の石の作成といった空想的なものではないらしい。曰く『魂の再生』。より完成に近い魂を目指すすべのことを指すとかなんとか。それでも充分空想的で幻想的だと思うのだけど。
そんなことでどうにも胡散臭いが、見ると決めた以上、僕には見届ける義務がある。
集合場所や時間を伝えられ、それに了解すると零子さんは笑顔になった。
それからまた会話がなくなった。息の詰まりそうな沈黙。僕自身、彼女と何を話していいのかがわからない。鉄板越しに熱せられているような灼熱感と、それに伴う圧迫感が僕の中身を埋めていく。ただ不思議なのは、それが部屋の中に女性と二人きりというシチュエーションに緊張しているのではなく、彼女と話すことができない、ということに焦りや情けなさを覚えていることだった。
「そろそろ乾いたかしら」
どれくらいぶりに零子さんの声を聞いただろうか。その声に僕が顔をあげると、彼女は立ち上がり、そのままベランダに出て干してある僕の制服をパタパタと叩いていた。しかし制服は取り入れずに、部屋にそのまま戻って来た彼女の顔は、苦笑い。どうやらまだ乾いていなかったらしい。
「どうする? ごはん食べてく?」
「いえ。そんなことまでしてもらわなくても……」
「いや、作るのはシンちゃんだけどね」
「でしょうね」
お言葉に甘える、と言っていいのかどうかは分からないが、結局僕が夕飯を作るハメになった。元はといえば零子さんのせいなのだろうが、今この部屋に置いてくれているのは零子さんなのだ。どこかズレてる気がしないでもないのだが、僕が夕飯を作ることになってもそれほど不思議はないように思いたい。
「いただきまーす」
「どうぞ」
夕飯の最中も、特にこれといった会話はなかった。零子さんから話しかけてくることは二、三度あったが、一言だけで答えられるような質問だったので、それで終わらせてしまった。そんなことだからだろう。会話を長く続けることができなかった。
――そこでふと思う。なんで僕は、零子さんと会話がしたいと思っているのだろうか。今日一日に限って、僕の頭は本当にどうにかしていたとしか思えない。
僕が、誰かと話したいと願っている、ということ。
信じられたら話すという選択をした頃から、僕の心は「変わりたい」と願い始めていたのかもしれない。もしかしたら、もう変わり始めているのかもしれない。
それに少しだけ嬉しくなって、でも恥ずかしくて、口の中で呟くように「ありがとうございます」と零子さんに伝えた。なんの音もしていなかったのだ、どれだけ呟くように言っても結局は聞こえてしまう。零子さんも笑顔になって、「どういたしまして」と言ってくれた。
それから、夕飯の片付けや制服が乾くのを待っていたら、結局、零子さんのマンションを出たのは夜の九時を回ってからになってしまっていた。
「朝ごはんは食べてきた?」
「はい。普通に」
「そう。ならよかった」
「零子さんは食べましたか?」
「私? 心配してくれるんなら毎日でも作りにきてもいいのよ?」
「それはさすがに面倒です」
他愛もない会話がこれほど楽しいものだと、僕は忘れていた。
目的地に着くまでの数十分、そんな会話が続いた。目的の駅から降りて、さらにバスで十分程度。どこに行くのかを知らされていなかった僕は、目の前の建物を見て少しばかり驚いた。
御堂心療内科。そう書かれた看板がかけられている、メンタルクリニックだった。
「あの、ここって……」
「私、ここの院長先生からちょくちょく頼られるのよ。頼られるっていうのは、イヤなことじゃないんだけどね。やっぱり頼る内容が私の『錬金術』だから」
ついてきて、と少し悲しそうに零子さんは歩を進めた。
院内は静かだった。待合室には数人、診察待ちがいるだけだった。
「おはようございます」
零子さんはまっすぐ受付に向かって挨拶をしていた。受付の中にいた看護師も零子さんに挨拶を返している。どうやら、ちょくちょく頼られているというのは本当のことらしい。しばらくボーッとその様子を見ていると、ちょいちょい、と零子さんに手招きされた。
「なんですか?」
「この子、今日からの助手だから」
零子さんはしれっと、僕の知らないことを看護師に言った。
「助手? なんですかそれ、聞いてませんよ」
「いいから。必要なことだから、ほれここ、名前書いて」
外部訪問者名簿と書かれている紙を差し出された。赤司零子、と書かれた横の職業欄に堂々と『探偵』と書いているあたり図太い神経をしていると思う。零子さんの名前の下に僕の名前も書くように、と指示された。僕の職業欄には高校生ではなく、『助手』とすでに書かれている。いつから零子さんの助手になったんだろうか、僕は。
『探偵』の文字を消して『フリーター』と書いてやりたくなる衝動を抑えて、おとなしく指示に従って自分の名前を記入欄に書きこんだ。
「……書きましたよ」
「よくできました。じゃあ、お待たせしました」
零子さんはその用紙を受付の看護師に渡して、院内の奥へ奥へと移動していく。いまだ戸惑いを覚えながら、その背中についていく。あ、そうだ。零子さんが思い出したように懐から封筒を取り出して僕に渡した。
「これ、見といて」
「これは……」零子さんから手渡された封筒の中身は、とある人物の個人情報が書かれている資料集だった。「これを見て、僕がどうなるんですか?」
「シンちゃんは別にどうにもならないけど、助手として、一応目は通しておいて」
「はあ……」
いつから僕が助手に? という疑問をぶつけるタイミングを完全に逃してしまった。
気を取り直して資料に目をやる。一枚目には簡単なプロフィールが、二枚目にはこれまでの経緯が書かれていた。三枚目以降は健康状態など、僕が見てもわからなさそうなものだったので、最初の二枚だけを集中して読んだ。
育児放棄や家庭内暴力などを経過。結果、精神が摩耗し、疲弊し、錯乱してしまった。
まとめてしまうと、こんなことが書いていた。
「……あの、これって」
「今から会う子よ」
零子さんがそう言うのと、男性の「赤司君」という声が聞こえるのはほとんど同時だった。
気の良さそうな顔をした、少し肥満体形の先生だった。歳は四十近いだろうか。零子さんが「御堂先生」と返していたので、院長先生というのは彼のことらしい。
「おや、そっちの少年は?」
「助手です」
「そうかい。初めまして、
「御槻シン、です。えっと、こちらこそ……」
頭をさげられたので、さげ返しておく。こういうとき、どういう対応が正解なのかがよくわからない。零子さんには結構ずばずば言っても大丈夫そうだったが、この人はどうなんだろう。いつの間にか、御堂先生の顔色をうかがっていた。
「それで、香織ちゃんは?」
「まだ来てないよ。そろそろ来るだろうけどね」
顔写真を見る限り、香織という少女はかわいいという表現を通り越して、どこか澄ました印象を持つ。同年代の少年少女と比べたら、きっと大人びて見えるだろう。
家庭内暴力、育児放棄。
それは、それはとても、僕に似ていて――。
「こんにちは」
かけられた明るい声に振り向くと、写真の少女、香椎香織が立っていた。ニコニコと笑ってはいるが、こちらまで笑い返して挨拶をする気にはなれなかった。気持ち悪い。あのにこやかな笑顔が、とんでもなく気持ち悪い。
「それじゃ、入りましょうか。シンちゃん、香織ちゃんと一緒にいてあげて」
「え? あ、あの」
まさか、それって――。
そう思った瞬間に、袖を引かれた。思わずビクリと身体をこわばらせて、袖を引いた本人を見た。にこやかな笑顔のまま、僕のことを見上げている。
「あ、え、えっと」
たった、それだけだった。言葉にもなっていない僕の声を聞いた瞬間、彼女の表情が一変した。にこやかな笑顔は剥がされ、そのさらに下の顔が僕を覗いた。観察。ジトリ、とにらめつけるような視線が、僕の視線と交差した。
「行かないの?」
「あ、ああ、行こうか」
その声にハッとして、彼女の手を取ると、一瞬、ぎゅっと体をこわばらせたのが判った。それに驚いて手を握る力をゆるめると、今度は彼女の方から力いっぱい僕の手を握り返してきた。
怖い。
それは本能的な恐怖ではなく、この少女と付き合うことで得られる、彼女との関係からくる何かが怖いのだ。どうしたらいい? 勝手に始まる自問自答。なぜ、こんなことを考えなければいけないのか。答えがすぐに出るはずもなく、疑問だけが宙ぶらりんになった。
彼女と一緒に部屋の中に入ると、そこは遊具やおもちゃでいっぱいの、子供部屋のような部屋だった。
「さ、カウンセリング始めましょう」
「え? カウンセリングって、ここで?」
「そうよ」
「僕、てっきり個室みたいなところでやるもんだと思ってました。カウンセリング」
「取り調べじゃあるまいし。まあ、だいたい中学生以降だとそんな感じの部屋になるんだけどね。小学生以下なんかはこういう
「へえ。知らなかったなあ」
素直に感心する。
なんとなく興味をひかれて、部屋中をぐるりと見渡す。ぬいぐるみから大きい遊具だとすべり台まである。おままごとセットに、人形遊び用のミニチュアハウス。
ふと隣で立っている少女に目を移した。僕の袖をきゅっと握ったまま、彼女は微動だにしようとしない。部屋を眺めるわけでも、僕を見上げるわけでも、御堂先生や零子さんを見るわけでもない。
「どうしたの?」
なんとなく、彼女が気になった。
「ううん。なんでもないよ」
割合、元気な声で返された。普通のニュアンスを含んだ、普通の返事。本当になんでもないと思ってしまいたくなるほどに、彼女の返事は完璧(・・)だった。
また怖気が走る。怖気という違和感。
「じゃ、あとはよろしくね、シンちゃん」
「はい……、え? いや、なんですかそれ。なにを任されるんですか僕は」
「もち、カウンセリング。御堂先生もご了承くださってるわ」
「そんなバカな!」
僕の声が聞こえているはずなのに、零子さんも御堂先生も、さっさと部屋を出ていってしまった。零子さんがなにを勘違いしているのかは知らないが、僕はカウンセリングの知識など爪の先ほども持っていない。ただ人の顔色を窺うのは得意といえば得意だけど、それはまた違う。
そんなバカな。心の中でもう一度この不条理を訴えた。誰が聞き、誰が同情し、誰が僕と変わってくれるという。誰もいない。ここには、香椎香織と御槻罪の二人だけだ。
「えっと、じゃあ、どうしよっか? なにしたい?」
なんというその場逃れの戯れ言だろうか。どうするかなどは僕の決めることだし、なにがしたいのか分からないから、こんな小さな子にまで問うてしまう。
何事も波風立てず、その場を変革するような発言はしない。僕が求めているモノは平穏であり、しかし同時に自己の変革である。
だからと言って、零子さん。
僕はカウンセリングを経験したいなんて、一言も言ってませんよ。
§
部屋の中がしばらくは時計の針の音に支配されていた。秒針の時を刻む音が百を越えたあたりで、苦肉の策として「お話しようか」と提案したところ、なんのことはない、香織ちゃんは黙ってうなずいてくれた。自分よりも年下の女の子に一喜一憂し、顔色を窺うなんて。僕はとことんそういう人間なのだと再認識した瞬間だった。
会話は途切れ途切れ続いた。最初の挨拶のときに見せた気持ちの悪い笑顔は出てこなかったが、代わりに、僕のことをずっと観察しているような、不気味な様子だった。僕が人の顔色を窺うときの様子を極端にすれば、まさに彼女の様子にピッタリ当てはまるだろう。僕に何を見たのか、感じたのか。最初の挨拶のときの態度と、今の態度では、違和感がありすぎる。その違和感は、零子さんたちがカウンセリングの終了を教えに来てくれるのと、ほとんど同時に解消した。それはなぜか。簡単だった。
香椎香織は猫を被っている。
答えはこれに尽きた。大人の前では常にいい子であろうと振る舞い、僕の前では違う彼女が出てくる。年齢で言えば、彼女からすれば僕も大人に
「どうだった?」
帰り道、零子さんが僕に問いかけてきた。
「……怖かったです」
「それで?」
「え?」
「それで、どうするの?」零子さんは僕をまっすぐに見据えながら続けた。「シンちゃんがこれ以上やりたくないって言うんなら、来週に『錬金術』を見せてあげる。ただ、シンちゃんがまだやってみたいって言うんなら、納得するまでやりなさい」
零子さんは本気で言っていた。これは、試されているのだろうか。ついクセで零子さんの顔色を窺ってしまった。しかし、彼女の表情から読み取れるものはそんなことではなかった。
本気だけだった。
試されているとか、そういう目的で言っているんじゃない、と直感する。
そう、きっとこれは、僕の
「僕は……」
そう言って、だから僕は、うなずいた。
「まだ、香織ちゃんと話してみたい」
§
「もう終わり? もう帰るの?」
一ヶ月。香椎香織という少女と出会ってからの時間である。
僕がやってきたカウンセリングもどきは、次回で終わりになるという。今日のカウンセリングもどきが始まる前に、御堂先生と零子さんがそう教えてくれた。
香織ちゃんと会話を重ねるたびに、彼女は僕に対して心を開いてきてくれたのだと思う。彼女本来の、あの猫被りの性格でも、僕を警戒していた性格でもなく、本当の彼女の姿が前へ前へと押し出てきていた。
それは、彼女のすべてを壊し、彼女のすべてであったもの。
『暴力』だ。
回を重ねるごとに、それは如実に表れてきた。
最初はただ袖を引いて、名残惜しそうに「帰るの?」と訊いてくるだけだった。次には、さらに力強く、見る人によっては乱暴とも見えるほどにワガママな態度で「帰らないで!」と言ってきた。
それでも「帰らなくちゃ」と言った僕に、彼女は『暴力』で応えた。
最初は、本当に子どもの駄々のようなものだった。それを見ても僕は帰って行った。心の奥に芽生えつつある罪悪感。それを抱きながら、僕は医院を後にする。電車に乗って、最寄り駅に降りて、家に帰って、明日がきて、学校に行って、それでようやく爆弾のような罪悪感はナリを潜めてくれた。
それをこの一ヶ月の間繰り返し、香織ちゃんはそれを何度も『暴力』で止めようとした。
先週はいよいよ、彼女の本気の暴力が現れた。殴る蹴る、言葉はすでに命令口調。「帰るな!」という怒鳴り声。胸が苦しかった。彼女の暴力一つ、言葉一つが当てられるごとに、僕の胸に杭が打ち付けられるような気分だった。爆弾のような罪悪感。杭が打ち付けられる衝撃で、今にも爆発してしまいそうだ。
「もう、帰るの?」
「また、来週だよ」
今週もまた、そう言うしかなかった。帰らせてくれ、という願いの言葉は、決して口にしてはいけない。そう教えられたわけではないが、僕は直感していた。僕は泣いてはいけない。彼女に何かを求めてはいけない。ただ、事実を伝えることしかしてはいけない。帰るという事実を、納得するまで伝えるしかない。
「そう、なんだ」
香織ちゃんは、そう言って俯いてしまった。
彼女の様子に思わず拍子抜けしてしまった。今日はやけにおとなしい。判ってくれたわけじゃないとは思うが、いつもよりもすんなり帰れそうだった。
ただ、いつにも増して悲しそうな表情が僕の胸を打つ。足が止まる。足を止めると、彼女の表情が少し明るくなる。彼女の目が切に訴えている。「帰らないよね?」
その眼に、僕の焦燥感は加速していく。目の前の
「じゃあ、また、その……来週」
背を向けた。ドアに近づいていく。目の前の
瞬間、ドタドタッと背後から駆けてくる音。振り向き、驚愕した。
「帰るな……ッ!」
突進だった。今まで見たこともない形相で走り込んできていた。ドン、と思い切り体当たりされ、バランスを取り切れずに背中から床に叩きつけられた。僕の上にかぶさるように、香織ちゃんが腹の上に腰をおろしていた。
「帰るな!」
馬乗りになった彼女に、ナニかを喉元に突き付けられた。
――おもちゃの包丁。
「帰るんなら殺すから、帰るな」
ありえない。そう思いはすれど、体が言うことを聞かない。こんなもので人は殺せない。せいぜい怪我を負わせられるくらいだ。だというのに、体は動かない。まるで、本物の包丁を突き付けられているような錯覚。これはおもちゃだ、判ってる。けど、そうは思えないほど、香椎香織の目は据わっていた。
「どっち? 帰るの、帰らないのっ!?」
「なんで……」
「だって、だって、帰ってほしくないよう!」
香織ちゃんの手が震えている。
ずぶりと刺されたような錯覚。血が出ているのではという疑問。
そんなはずはない。彼女の手にあるのは、おもちゃなのだから。
「帰るんなら殺すからね。ねえ、帰らないよね?」
香織ちゃんは必死だった。息が荒い。目に見えて、怯えを怒りで抑えつけているのがわかるほどに、彼女は必死だった。必死で僕を、殺し(とめ)にかかっていた。
彼女の手にあるのは確かにおもちゃだが、しかし、それは
そんな彼女に、僕はなんと言えばいい。悩んだ。悩んで悩んで、たった数秒悩んだだけで。
「殺してもいい」
自然と言葉は出ていた。え? という彼女の驚きの声。
自分でもなんでそんなことを言ったのかわからない。わからないのに、口だけは驚くほどなめらかに動いてくれていた。本当に僕がしゃべっているのか、疑いたくなるほどに。
「殺してもいいから、来週まで待って。来週はきっと大丈夫。そうだ、来週は遊園地に行こうか。零子さんに相談してみるよ」
しかしそれは、自分でも驚くほど自然に出た言葉だということに気がついた。打算だとか、その場の逃げだとかじゃない。心からの、単純な好意だった。
僕は、香織ちゃんを遊園地につれて行ってあげたい。
そう思っていた。
どうかしてる。いつも思うことも、今回ばかりは微塵も考えなかった。今度こそは。そんな決意を抱きながら、僕は勇気を持って、言葉を続けた。
「ゆう、えんち?」
「そう。遊園地。どこがいい? ちょっと遠くでもいいよ」
噛みしめるように、香織ちゃんは「ゆうえんち」を何度も言う。遊園地。
あ、と彼女の息が漏れる。それが引き金になって、とうとう
「私、わ、た……ご、め……なさい、ごめん、なさい……っ!」
おもちゃの包丁が香織ちゃんの手から滑り落ちる。軽い音をたてて、おもちゃの包丁は床に落ちた。彼女の口からは嗚咽がもれだし、目からは涙があふれてきていた。彼女の中の抑えていた怯えが、表面化していく。
「どうしたの? 大丈夫。香織ちゃんは悪くないよ。だって、君は泣いてるじゃないか」
「うあ、ああああああっ、あああああああああああ!」
彼女の涙は、僕の上に落ちて服を濡らす。ゆっくりと体を起して、彼女を優しく、だけど力強くぎゅっと抱いた。泣き声は耳元を流れていく。その泣き声は、いったい何を訴えたかったのか。もっと強く? もっと優しく? それとも、優しくしないでという意思表示?
わからない。わからないから、離れたくなかったのだと思う。離れてあげたくなかったんだと、そう思える。一段と強く抱きしめると、泣き声はさっきよりもよく届いた。
香椎香織のすべてを壊し、そしてすべてだった『暴力』という姿よりも、彼女が流す泣き声の歌は、僕の胸をずっと強く苦しめた。喉が焼けるように熱い。目頭が痛いほど熱い。
つられて僕も、いつの間にか泣いていた。
§
帰り道の電車で、零子さんは言った。
「ありがとう」
何が、と聞く気にもなれなかった。駅前のコンビニで買った雑誌に目を落とす。
わけのわからないゴシップ記事だったけれど、気を紛らわせるにはちょうどよかった。
「ねえ、聞いてる?」
「はい」
「嘘」
「はい」
「私の奴隷になりなさい」
「いやです」
「ちょっとー、なんでそこで『はい』って言わないのよ。お約束でしょ?」
怒りはわかない。零子さんのその態度が、なぜだかとても嬉しかったからだ。
つまりは、零子さんは僕にとって、この雑誌のゴシップ記事と同じなのだ。
「……正直な話、シンちゃんがここまでやってくれるなんて思ってなかった。いつか飽きて来なくなるって思ってた」
「まだ、見せてもらってませんからね」
「なにを?」
「『錬金術』」
「――ああ、うん」
零子さんはうなずいた。ガタン、ゴトン。電車が揺れている。もしかしたら、うなずいたように見えたのは、彼女の顔が揺れただけだったのかもしれない。
「ねえ、零子さん」
「なあに?」
「『錬金術』をかけて、最終的に香織ちゃんはどうなるんですか」
「どうなるか、か。
「……虐待の記憶が消えてなくなる、ってことですか?」
「簡単に言っちゃえばそうなるかな。無垢な魂は可能性の塊。傷があった場所を埋めるのは、彼女の未来。過去は未来で、蓋をされるのよ」
でもね、と零子さんは続ける。徐々に、彼女の表情が曇り始めていた。
「虐待の記憶が消えるっていうのは、それをしていた母親がどんな人物だったのかも忘れてしまうことを意味しているの。ただ、ふりだしに戻るだけなのよ」
「……子どもだから、耐えられるような話ですね」
「そうね。トラウマさえ抱えて立派に成長した魂に『錬金術』を行使するのは、それはもう再生なんかじゃなくて、破壊としか呼べないでしょうね」
来週、僕のカウンセリングもどきは終わりを告げる。
それは、零子さんが『錬金術』をかけること、ひいては香椎香織の記憶を消してしまうことを意味していた。
僕の中の爆弾のような罪悪感が戻ってくる。一ヶ月間膨らみに膨らんだそれは、今や破裂寸前だ。僕はその爆発に耐えられるのだろうか。香織ちゃんの母親との記憶がどれだけ辛いことがあったのか、どれだけ幸せなことがあったのかは知らないけれど、それでも、彼女の生きてきた記憶が目の前で消されて行くのを、僕は耐えられるのだろうか。
「……わかった気がします」
「何が?」
「零子さんが、『錬金術』をあんまり使いたくない理由」
「……そう?」
僕の言葉に、ちょっとだけ零子さんが笑った。
だけどそれは、『理解してもらえて嬉しい』というものではないように思う。
どちらかというと、苦笑いを浮かべながら『ごめんね』と、謝られたような気がした。
「香織ちゃんとの約束は、ちゃんとまもってあげなさいね」
「……もちろんです」
遊園地につれて行く。例えそれが、
僕と香織ちゃんの約束の日まで、あと一週間。もしかしなくても、僕の知る香椎香織が「さよなら」を告げるまで、あと一週間。なにもかもが、あと一週間だけ。
だというのにまた、僕の意志に反して、退屈な一週間が始まろうとしていた。
§
「おはよう、香織ちゃん」
「おはようございます」
零子さんたちの前での香織ちゃんは相変わらずの猫被りだった。
今日の香織ちゃんは、いつもよりも少しだけおめかししてきているような気がする。僕との約束を覚えていてくれて、楽しみにしていてくれたのだろうか。だとしたら、嬉しい。
挨拶を済ませた香織ちゃんは、迷うことなく僕の方へ歩み寄ってきてくれた。僕を見上げる彼女が笑う。頭をおそるおそるなでてあげると、くすぐったそうに身をよじらせた。そのまま彼女は、いつものように僕の服の袖をぎゅっと掴んで、プレイルームまで引っ張って行く。急がなくても行くよ。そう伝えると、拗ねたような顔をして引っ張る力を強くする。
いつもと変わらない時間、流れて行くのは時間と言葉。
他愛もない言葉は、いつしか愛しい相手に語りかける言葉になり、その一言一言がたまらなく嬉しいものと思えて仕方がない。
これは、楽しい。
そう、僕は、この他愛のない時間を楽しいと感じることができていた。
しかし、時間は止まってなどくれない。楽しい時間ならなおさら、感じる時間は加速して、あっという間に終わりが近づく。最後のカウンセリングもどきは、時計の針が十時ちょうどを指したところで終わった。
「遊園地!」
香織ちゃんが嬉しそうに大声を出した。今日だけはいつもと違うということを、彼女はしっかりと理解していた。この楽しい時間が終わっても、僕が帰らずにいてくれるということを、彼女はしっかりと理解していた。
「そうだね。どこに行きたい?」
「えっとねー」
と、そこでノックの音が部屋に響いた。どうぞ、と招き入れると、案の定入って来たのは零子さんだった。遠慮がちな笑顔をこちらに向けていた。
「お疲れ様」
僕に言ったのか、それとも香織ちゃんにか。
それとも、両方だろうか。
「香織ちゃん、ちょっとこっち来てくれる?」
零子さんが香織ちゃんを手招く。香織ちゃんはビクリと体を震わせたが、僕が大丈夫と声をかけると、胸を張って零子さんのところまで歩いていった。
「楽しかった?」
「……うん!」
「そう。よかった」
そう言って、零子さんは静かに瞼を閉じた。
部屋に沈黙が訪れる。カチコチと時計の時を刻む音だけが妙に大きく耳に届く。
零子さんは静かに目を開けると、そっと香織ちゃんを抱きしめ、彼女の耳元で囁くようになにかを唱えた。
「『今だけ
その言葉を聞いた香織ちゃんの身体がぶるっと震える。零子さんはそれを悲しそうな目で見ながら、だけど優しく包むような声で彼女に話しかけた。
「香織ちゃん。遊園地、私も行っていいかな?」
「遊園地行きたいけど、
不安そうな香織ちゃんの表情。強烈な違和感が胸を絞めつけた。
その言葉は、香織ちゃんの口から出るはずがないものだった。『お母さん』。彼女が具体的にどんな虐待を受けてきたのかを僕は知らないが、少なくとも、今まで彼女が母親を気にすることはなかった。むしろ、母親のことを忘れて安定を保っているような感じすらあった。ついさっきだって母親のことなど気にすることなく、僕を「遊園地に行こう」と急かしていたんじゃないのか。
だからこそ、香織ちゃんの身に何が起こったのかを理解するには、彼女の『お母さん』という言葉だけで充分だった。
それは僕の中の喜びだったのだろうか。それとも、悲しみだったのだろうか。
あるいは、怒りだったのかもしれない。
「こんなのって、ないよ」
とんでもない嘘だ。零子さんがしたことは、とんでもない嘘だったのだ。
泣きだしそうな心を、ぐっと抑えつける。笑え。自分に言い聞かせた。
ぎこちなくなると思っていた僕の行動はしかし、驚くほど自然だった。香織ちゃんの頭をそっとなで、できる限りの優しさを込めて笑いかけてあげる。僕の顔を見上げた彼女は、不安そうな表情から、つられて笑顔になっていた。
「もう、僕が確認を取っておいたよ。だから、行こう。きっと楽しい時間になるよ」
香椎香織という少女の手を取る。
「さ、香織ちゃん。どこに行きたい?」
僕の言葉で、香織ちゃんの表情にぱっと花が咲く。
今までのすべてだった『暴力』が抜けた穴を埋めるべく、きっと無意識に彼女は笑っていた。
そして。だからこそ。今までのすべてだった『暴力』は、僕に別れを告げるべく。
彼女は笑いながら、滝のように涙を流していたのだと思う。