「起立」
がたん、といくつもの音がして、クラスメイトが一斉に席を立った。
「礼」
気のない「さようなら」が教室を埋める。担任は特に気にすることもなく、さっさと教室から出て行った。そんな担任に生徒が興味を示すはずもなく、クラスメイトの大半は歓談している。「今日これからどこ行く?」「部活だりー」「バイトあるから、ごめんね」
その中の一つに名前を呼ばれた。
「彩。部活行かないの?」
「昨日の夜に素振りしてたらすっぽ抜けて竹刀折っちゃってさ。今日買いに行きたいんだよね」
「ふぅん。そっかー」
「先生には今日の朝に言ってあるから、大丈夫よ」
友達は少し残念そうな顔をしながら、部活へ向かって行った。
さて、とかばんを持つ。放課後のどこか浮足立った生徒の波の中、久しぶりに直接下駄箱へ向かう。みんなは部活をしているのに、自分だけ帰ってしまうことに罪悪感を覚えつつ、仕方がないことだと自分を納得させる。
階段を降り、下駄箱前にくると、目立つ頭が視界の端を素早く通り抜けて行った。
「…………」
急いでローファーに履き替え、白髪頭のあとをつけていく。
追いかけてくると予想される不良らを撒くためにか、白髪頭は駅へは行かずに正反対の方向へ歩いていく。見失わないよう、気付かれないように私もそれについていく。
数分ほど経ってから、白髪頭はやっと落ち着きを取り戻した様子で歩き始めた。
それに合わせて、後ろから少し大きめに声をかけた。
「よっ、
「――っ、て。なんだ彩か。びっくりしたじゃないか」
「まあ、学校じゃ話しかけらんないし、いいじゃない。別に」
「そういう問題じゃないんだよ。心臓に悪い」
「……どうしたって訊くまでもないよね」
「そうだね。変わらないよ。……そういう彩はどうしたんだ。部活は?」
「竹刀が折れちゃってね。今日はそれを買いに行くのよ」
ふぅん、と白髪頭――御槻
いつまでたってもいじめられっ子。それは、これからも絶対に変わるはずがない。
話すたび、御槻は言外に「変わりたい」と言うけれども、変われるはずがない。彼は変われるようにできていないのだ。
「それじゃあ、ね」
「あれ、駅行かないの?」
「ああ、まあ、ね。もうちょっとこの辺りうろついてから帰るよ」
「……ふぅん」
「なんだよ」
「何でもないわよ。せいぜい大怪我する前に処世術でも身につけなよ、御槻」
「余計なお世話だよ。お前はもうちょっと女の子っぽくしろよ、彩」
「べーっ、だ」
拗ねたフリをすると、御槻はいつも困ったような顔を浮かべる。その顔を見ていると、心の底から安心できる。ああ、やっぱり御槻が変わるわけがない。そう、再確認できるから。
さて、これ以上ここにいて誰かに見つかっても癪だ。さっさと帰るとしよう。御槻に軽くさよならを言って、私は駅へ向かう。背中越しに遠ざかっていく御槻は、私を見送ってくれているのか、じっとこちらを見たままだった。
私と彼の関係。小学生から続いているその関係を一言で言い表すならば。
そう――――。
§
幼馴染。
そして、僕にとって彼女は大切な友人だ。幼馴染なんて言葉を使えば簡単に説明できてしまうことでも、彩とのことはそれだけでは済ませたくない。もっと多くの言葉で言い表さないと気が済まない。
大きな瞳は誠実で正直者な彼女のことをよく現しているし、ポニーテールも、剣道部に籍を置く彼女の活発さがよく出ていて似合っている。僕と違っていつも笑顔を浮かべている彼女には、友人も多い。自然とグループの中心になる魅力を持った女の子だ。
「で、シンちゃんはそんな彩ちゃんのことが大好きなのね」
「ええ、もう、零子さんがそういう方向に持って行きたがるのを解ってて話しましたからね。そういうことでいいですよ」
そんな彼女と久しぶりに出会ったからだろうか。いつになく機嫌が良かった僕は、ついつい零子さんに彩のことを漏らしてしまったのだ。案の定、零子さんは僕をからかうために食らいついてきた。
「ふふん。やっぱりシンちゃんも男の子ってことなのね」
「……それはもういいですから。今日はそういう話じゃないんでしょう?」
「そうね。……約束、守ってくれたのよね」
「約束ですから」
今日、零子さんのマンションにやってきたのは、一週間前の約束を果たすためだ。
零子さんの『錬金術』を見せて、それを僕が信じたのなら、僕の身の上を話すという約束だ。
魂の再生。記憶の忘却。永久に続くひどい嘘。それが、零子さんの『錬金術』だった。目の前で起こったことをすぐに受け入れられるほど、僕は順応性が高くない。だけど、もう彼女の『錬金術』を胡散臭いものだとは思わなくなっていた。
香椎香織。
零子さんの『錬金術』によって、魂の再生が行われた少女の名前だ。彼女は家庭内暴力を母親から受け続け、精神を病み、結果、
この『錬金術』を信じることができたら僕の身の上を話す、という約束について、零子さんは「心の整理がついてからでいい」と言ってくれていた。一週間。それが、僕が心の整理に費やした時間だ。
「もう、わかっているでしょうけど、僕はイジメを受けています」
「……そう」
「時期は小学四年生くらいから。中学へ行っても、高校へ行っても、ずっとです。そういう空気を持っちゃってるんだなって、思ってるんですけど」
零子さんは僕を見ていない。少し目をそらしながら聞いている。
なにも聞いていない風にも見えるが、この人はどちらかというと何かを考えながら聞いているのだと、そう信じて僕は話を続けた。
「僕の両親は、もういません。父親は顔も知りません。母は、小学四年のとき殺されました」
「殺された?」
「そうですね。強盗殺人ってことになってます。犯人はまだ捕まってません」
そう。淡泊な返事で、零子さんはまた相槌を打つ。
父親のことは、母を捨てたということだけで、それ以外はなにも知らない。母が僕を怒鳴るときに、ほとんど毎回叫んでいたことだからよく覚えている。
『アンタができたから、あの人はいなくなった』
あまり考えないようにしていたが、今思えば、母は葛藤していたのかもしれない。腐っていても、人の親。そう思いたい。いや、思い続けなければいけないのかもしれない。
母は演技がとても上手な人だった。僕が物心ついた頃から、家庭内暴力や育児放棄を近所の誰にも悟られることなく、殺されるその日まで秘密にし続けることができていた。外に買い物に行くときなどは必ず僕をつれて行き、表面上の優しさだけで僕に接してくれた。僕はそのときの母が大好きだった。ああ、本当はこんなに優しい人なんだ、と母を信じ続けることのできる、唯一の機会だったから。
そんな一抹の幸せにすがりながら、小学四年生まで生きたある日のことだった。
いつものように友人と遊んで家に帰ってくると、母が部屋で真っ赤になって倒れていた。
来るときが来たのだと、子どもながらに思った。
わけのわからないまま電話に手をかけ、「お母さんが倒れている」と警察だったか、救急だったかに連絡した。ほどなくして到着した大人たちの流れをぼうっと眺めて、母が死んでしまったということを、改めて実感した。
悲しみはあったような気がする。たとえ外にいる間だけの優しさしかもらえなくても、僕は母のことが好きだった。だけど、泣くことはなかった。声に出してまで悲しみをさらけ出すことはなかった。
――ああ、そうなんだ。
そんな単純な理解と、錯覚のような悲しさだけだった。
それから小学校を卒業するまでは母方の祖父母のところで世話になった。そこまで離れた場所に住んでいなかったので学校は転校せずに済んだが、それがよかったのかは今になっても判断できない。
最初は同情だった。大丈夫? そう言って僕を励ますクラスメイトの声。それに僕は、愛想なくうなずくだけ。大丈夫かどうかなんて問題じゃない。大丈夫なわけがない。理解できるかどうかじゃない。理解できるわけがない。クラスメイトの優しさが恐怖だった。なんでそんなに僕に構うのか、なんでこんなに僕を気にかけるのか。
そこからだ。僕に対するイジメは始まった。いつまで経っても変わらない僕の態度は、いつしかクラスメイトを敵に回すことになってしまったのだろう。持ち物を盗られたり、ごみを机に詰められたり、トイレで水を頭からかけられたり。ローテーションのように、ルーチンワークのように続くイジメは、辟易以外のなにものでもない。
中学、高校とそれは変わらない。いつになっても僕はずっといじめられ続けてきた。
それがイヤだと何度も思った。それでもいいか、と諦めたことはもっとあった。
「でも、僕は零子さんと出会って、本気で変われると思った。理由なんてわかりません。理屈抜きで、僕は変われるんだと思った」
「そう。嬉しいわ、それ」
「香織ちゃんとのことは、僕にとっても大きなことだったと思います。何がどう変わったかなんてわかりません。変わってないのかもしれません。でも、何かが掴めた気がしたんです。僕が変わるためにはなにが必要なのか、それが掴めた気がしたんです」
だから――。
言葉を飲み込んだ。それ以上は願いすぎなのかもしれない。
しかし、零子さんはそう思ってなかったようだ。言葉を飲んで遠慮した僕の様子を見て、彼女はふわりと微笑んでくれた。優しい声音の、選択肢付きで。
「じゃあ、働いてみる? 私の下で」
「え?」
「探偵の助手のアルバイト。してみる?」
ただ漠然と、零子さんと出会って、僕は変われるのだと思っていた。もっとこの人と関わっていく中で、僕はいつか変わっていくのだと、そう思っていたのだ。
だけど、それは違う。零子さんの提案は、そう語りかけてくるようだ。彼女の提案は、僕にとって魅力的なものだ。アルバイトという形で、零子さんにこれからも関わっていくことができるのだから。
でも、それだけでいいの? 今度は零子さんの笑顔が語りかけてくる。もうとっくに言葉にして口から出しているのに、解っているのに、僕はそのことが頭から抜けおちていた。
零子さんは、僕に選択肢を提示してくれている。約束を交わしたあの時と同じように。
「どうする? 私は今まで一人でやってきたし、助手がいてもいなくても構わないのだけど」
「…………」
だからこれは、だからこそこれは、僕が選ばなくちゃいけない。
僕が願った『変わりたい』という願いは、もうすでに叶い始めていたのかもしれない。
なぜならば、僕は零子さんに向かって、しっかりとうなずいたのだから。
§
晩春。梅雨が近づき、ねっとりと空気が重くなる。
相変わらず不機嫌な空の下で、僕は少ない荷物を整頓していた。五○四号室。今日からこの部屋が僕の新しい住まいになる。曰く、「だって近くにいたら何かと便利でしょ? 主に私が」とのことだ。つまり、探偵の助手なんていうのは建前で、僕に家政夫をしろということなのだろう。
実に零子さんらしい。たった一ヶ月の付き合いだが、そう思えるようになっている自分自身に驚いた。慣れや習慣というのは恐ろしいものだ。住めば都、なんて言ったりするが、ここが僕の都になるかどうかは、ハッキリ言って零子さん次第だ。
引っ越しも一段落したので一休みしていると、いきなりドアを強くノックされた。次いで聞こえてきたのは、ここ一ヶ月で聞きなれた女性の声だった。
「シンちゃーん。引っ越しそば作ってー」
なぜ引っ越してきた僕が、ここに前から住んでいた人のために引っ越しそばを作らなければいけないのか。それはあまりにも愚問だろう。まるで吸血鬼だな。答えよりも先に、どうでもいい例えを思いついてしまったことに嫌気がさす。
結局零子さんを招き入れ、そばをごちそうさせられた。ここが僕にとっての住み慣れた都になる前に、零子さんの都と化してしまいそうな気がしてならない。不安ばかりが募っていく引っ越しになってしまったが、これで本当に大丈夫なのだろうか。
明日からまた学校が始まる。最悪、憂鬱な気分で登校はしたくないものだ。
§
零子さんの隣に引っ越してからも、僕の生活には特に変わりはなかった。
今日も陸生君たちに下校時に捕まり、そのまま訳もなくゴミ袋の山の中に放り込まれた。鞄の中身も同様にゴミ捨て場にぶちまけられ、その上からさらにゴミ袋を叩きつけられる。かぶさったゴミ袋をクッション代わりに、金属バットで殴られる。数回叩いただけでゴミ袋は破れてしまい、中身が僕にかかった。笑うだけ笑って、陸生君の鶴の一声で数人いたクラスメイトも撤収していった。
「……ゲロよりマシかな」
つい最近のことを思い出し、じんわりと痛む身体を起こす。ぶちまけられた中身を鞄の中に戻してから、ゴミ捨て場から出ていった。途中で教師に出会ってしまい、どうした、と声をかけられたが、「ゴミ捨て場でこけました」と言い訳した。納得したような、腑に落ちないような表情をして、教師は去って行った。
前言撤回だ。
引っ越しをして、いいことが今あった。今日のこの姿で、電車に乗らずに済むのは大いに助かる。もしかしなくても、歩いて帰ったかもしれない。それを考えると、学校の近所のマンションに引っ越せたのは僥倖だ。
マンションの自室に帰ってくると、すぐさま制服を濯いだ。クリーニングに出せないのは痛いが、臭いくらいなら取れるだろう。ベランダに制服を干してから、バイト先へ向かうためにシャワーを済ませた。数少ない私服に着替え、五○五号室の扉をノックする。
中から、すぐに零子さんの声が聞こえた。「入っていいわよー」
扉を開け、真っ先に目についたのは零子さんのものではないローファーだった。依頼人。心臓が一際大きく跳ねた。
「誰ですかぁ?」
零子さんではない、女性の声が聞こえる。それに続いて、気の抜けたような零子さんの声が続いた。
「助手のアルバイト君よ」
僕が掃除した廊下を歩いていく。廊下の先、リビングには依頼人と零子さんがいる。
「し、失礼します」
妙に緊張しながら、リビングに足を踏み入れた。
そこには少女が座っていた。やわらかそうな髪は肩口まであり、茶髪に染め、軽くウェーブがかかっている。くりくりした目は薄めの化粧で飾られていて、背が高ければ街中でモデルのスカウトをされてもおかしくはなさそうだ。小動物のような、見る人が見れば保護欲がかき立てられるような外見をしている。
だが、僕の第一印象は『最悪』の言葉に尽きる。
彼女の着ている制服が、僕の学校のものだったからだ。
§
「えっとぉ、名前は、
「つまりストーカーよね? しばらくあなたについてられたらいいんだろうけど」
「あ、じゃあ、いいこと思いついちゃいましたっ」
そう言って彼女――鞠屋ゆいは僕の方を向いた。可愛らしい笑顔を向けてくれているのはいいのだが、僕を見て思いついた『いいこと』が何なのか。どう転んでも僕にとって不利益になるとしか思えない。が、口出しができるほどの打開策を僕は持っていない。黙って聞くしかなさそうだ。
「ストーカーさんに、ラブラブっぷりを見せたらきっと諦めてくれますよぉ!」
「…………」
それは誰と誰のラブラブっぷりを見せると言うのだろうか。答えなど解りきっているが、聞いてみないことには先には進まない。気は進まないが、聞くしかないようだ。
「御槻先輩のこと、もっとキモオタだと思ってたんですけど、全然そんなことないですね!」
悪気の欠片もないような声と笑顔で、鞠屋はそう言う。
つまり、僕に彼氏の真似事をしろということらしいのだが、それはあまりにも無謀だ。人付き合いもまともにできない僕が、彼氏をフリだけだとしてもできるわけがない。
助け舟を出してもらおうとして零子さんを横目で見ると、彼女は薄笑いを浮かべていた。どうやら、助けてはくれそうにない。
恨みますよ、と視線で伝え、仕方なく僕の口から鞠屋に説明することにする。うまくできるかわからないが、これも経験。零子さんが
「えっと、鞠屋さんだったよね。そもそも、ストーカーにイチャついてるところを見せたら悪化するような気がするんだけど……」
「大丈夫ですよぉ。だって、私のストーカーをするってことは、私のことが好きだからってことですよねー? だったら、私が幸せそうだったら、それであきらめてくれるんじゃないかなーって思います」
鞠屋はそれを本気で言っているようだ。
確かに、彼女が言っていることが絶対ないとは言い切れないが、十中八九、ありえないことだと思う。どうやら彼女、自分が幸せならそれでいい、という考えを持っているらしい。僕だって、それくらいはなんとなくだけどわかる。
「だから、その、なんか違うと思うんだけど」
「えー? じゃあ、そのストーカーさんと私が付き合ったらいいんですかぁ? それはもっと違うと思うんだけどなぁ、私」
「――あのさあ、ちょっといい?」さすがの零子さんも飽きてきたのか、気だるそうな声で僕らに話しかけてきた。「ストーカーがあきらめるかどうかは置いといて、とりあえずシンちゃんが鞠屋さんに付き合ってあげたら、少なくとも釣れるんじゃない?」
「釣れるって、ストーカーが?」
「他になにを釣るってのよ。素人物のAVにでも出るつもりなの?」
「なんでそこまで思考が飛んでいくんですか」
「例えは極端な方がわかりやすいでしょ?」
「そういうときもありますけど、今は違うでしょう。それで、具体的にはどうしろっていうんですか」
「デートが簡単でいいんじゃない? ねえ、鞠屋さん。私と最終的な思惑は違うと思うけど、それでいいでしょ?」
「はい。御槻先輩とデートしたいです!」
どんどん話がまとまっていく。それに伴って背中を冷や汗が伝う。
真綿で首を絞められる、というのはこういう感覚をいうのだろうか。今僕がどんなことを提案しようと、それはたちまち
結局、零子さんと鞠屋は半時間ほどデートについて話し合っていた。僕はそれを傍観しながら、「ああ、僕は駒なんだな」ということを漠然と理解した。デートの日時は今週日曜の朝十時から。学校の最寄り駅の改札で待ち合わせ、ということになっていた。
鞠屋は満足げにそのまま帰って行った。まさか学校でまで話しかけてくるとは思わないが、念のため釘を刺しておけばよかっただろうか。デートというまだもう少し先のことよりも、明日の学校が不安でたまらなかった。
「今回はシンちゃんに頑張ってもらわないとね」
「……あの、ストーカーが襲って来たりしたらどうすれば?」
「ボディーガードとか頼んでみたらいいんじゃない? ほら、鞠屋さん剣道部って言ってたでしょ? 彩ちゃんだっけ、シンちゃんの幼馴染。その子も剣道部だったわよね? ちょっと頼んでみなさいな」
「それはそうですけど、だからって頼めるわけがないですよ」
彩は去年、インターハイにも出場している。詳しくは知らないが、部活動も彩を中心に回っていると彼女自身から聞いている。そんな彼女を、練習を休ませてまでボディーガードとして連れ出すのは正直気が引ける。――のだが、ボディーガードがいれば気持ちが楽になるのは確かだ。彩に甘えたい。だけど、それだと彩に悪い。
そんな葛藤がいつまでも僕の胸の奥を炙っていた。
§
結局、一夜で僕が出した答えは可もなく不可もなく、情報収集をしようというものだった。
両者がどういった思惑を持ってデートしようとしているのかはわからないが、とりあえず、なによりもまずは情報収集だ。ストーカーの目星がつけば、ボディーガードの必要もないかもしれない。
――と、その日学校に到着する直前までは思っていた。
迂闊だったと言える。この学校には、僕がまともに情報収集できるような環境なんてどこにもないのだ。同級生に話しかければまず避けられるのは間違いない。下級生に聞いて回ってもいいが、鞠屋の性格を考えて、同級生にストーカーのことを話していないとは思えない。警戒されておしまいだろう。だからといって上級生、つまり三年生が一年の鞠屋のことを知っているとも思えない。八方塞がりのまま、早くも二日が経過した。
「……」
久しぶりに話してしまったことがいけなかったのか。彩と話した日から、ずっと彼女のことが頭から離れない。楽な選択肢として、彩のことが頭にチラつく。助けてくれないか、と頼ってしまえば、楽になってしまうのだろう。だけどそれを選ばずに、僕はいつも通り机に突っ伏して放課後を待つだけの時間を過ごしている。
どうして?
自問はできても自答はできない。やっぱり僕にできるのは、零子さんの駒として動くことだけなのだろうか。いつもの諦めの思考。これでいいんじゃないか、という誘惑。――でも、ならばなぜ簡単な選択肢すら選ばずに諦めようとしているのだろうか。どうしてその簡単な選択肢を選ぼうとしていないのだろうか。
学校では滅多に話すことはないが、彩はいつも僕のことを気遣ってくれている。憎まれ口を叩きながらも、僕と変わらず友達として接してくれる。どんなにひどいイジメを受けても、誰も助けてくれなくても、安心して過ごせる場所としてそばにいてくれる彩は、僕にとってかけがえのない友達だ。
そんな友達を頼るのに、なぜ戸惑うのか。
――そんな友達だから、じゃないのか。
学校で話さないのはイジメに巻き込まれないよう、僕の方から断りを入れているからだ。僕だけならまだ耐えられる。でも、僕のせいで彼女にまで手が伸びてしまったとしたら、僕は耐えられない。僕自身だけならまだいい。僕は、僕の居場所を汚されるのが、何よりも厭だというだけだ。
『大切なものを守りたい』なんていう錆び付いた考えは、僕の中にはとっくにないと思っていたのに、まだ未練がましく持っていたことに驚きを隠せない。こうやって気付けたのは、やっぱり零子さんと関わりを持っていたからなのだろうか。
そうだとしたら、嬉しい限りだ。
§
その日の放課後。僕はいつものようにコソコソと校舎から逃げるように家路についた。今日は誰にも見つかっていない。
零子さんに教えてもらった近所のスーパーに足を運んで、夕食の材料を適当に選んでいく。買い終わってスーパーの外に出ると、夕日が目に痛かった。
マンションの方へ向かって歩いていると、二人分の女性の言い争う声が聞こえてきた。巻き込まれるのだけは勘弁してほしいと思いつつ角からこっそり様子を見ると、驚いたことに、言い争いをしていたのは彩と鞠屋だった。
「だから、前々から今日は部活に出なさいって言ってるじゃない」
「今日は用事が入ったんです。離してください、真澄先輩には関係ないじゃないですか」
「あるわよ。私は部活の先輩で、あんまりにもサボる後輩をしっかりと部活に出すこと。それが私とあんたとの今の関係なの。とってつけたような言い訳で、今日も休まれたら嫌なの」
「大切な用事なんです!」
「じゃあ、その大切な用事ってなんなのよ」
「それは、その……」
「私のことウザいとか思ってくれるのは構わないけど、みんなだって心配してるんだから、顔だけでも出して、それでちゃんと『休みます』って伝えなきゃダメじゃない」
険しい表情を崩し、しょぼくれる鞠屋を見ながら彩は苦笑した。
「……今日はもういいから、用事を優先してもいいわよ。先輩には私から言っとく」
「あ、ありがとうございますっ」
走り去る鞠屋を見送っていた彩が、照れくさそうに頭をかいた。彩の口ぶりからして、おそらく、鞠屋が直接帰ろうとしているところを見つけて追いかけてきたのだろう。僕が思っているよりも、彩はずっと先輩として頑張っているらしい。
「彩」
「お? なんだ、御槻じゃん。こんなとこにどうしたのよ。買い物袋まで持ってるじゃない」
「ああ、まあ、ね。近くに安いスーパー見つけてさ、地元で買うよりも安いんだ」
……どうしてだろうか。引っ越したことをまた言えずにいる。この近くのマンションに引っ越したんだ。そう言うだけなのに、その言葉が口から出てこようとしない。
なにか、彩に悪いことをしているような気がしてならない。僕らの関係は、いたって普通の幼馴染だ。恋人だとか、そんな甘い関係でないのは確かだ。だから、もし僕が彼女に内緒にしていることがあっても、それは別に変なことでもないはずだ。
――
一方的な罪悪感が募る。それをできる限り早く忘れたくて、話題を切り替えることにした。
「さっき、ここにいたのって後輩? なんかもめてたけど、どんな子なんだ?」
ただ、自分でも驚いたことに、自然と情報収集の方向に話を持っていけたのは僥倖、なのだろうか。少し判断しかねる状況だった。
「鞠屋のこと? ……珍しいわね、御槻が他人に興味持つなんて。まあ、なんていうか、問題児って言えばそうなんだけどね。悪い子じゃないのよ。悪い子じゃないんだけど、惚れやすい上にすごく一途なのよ。なんか矛盾してるみたいだけど。私が知ってる限りじゃ、今年度に入ってから二回くらい彼氏のことフッてるわよ」
「二回」
「そ。二回。それが多いか少ないかは個人の感想になるでしょうけど、それくらい恋多き乙女だってこと。ま、その分、振られた彼氏は堪ったもんじゃないでしょうね」
「……よく解らないけどな」
「御槻はそうでしょうね。彼女なんて、ねえ?」
「……うん、そうだな。作ってる場合でもないよ。僕も、彼女には気をつける」
「……? ん、まあ、そうね。気をつけてね。っと、私学校戻らなきゃ。部活出ないと部長に怒られるや。特に振られたばっかの男子部長はいまカリカリしてるから……」
「二回振られたうちの一人って、もしかしてその男子剣道部の部長さん?」
「そうらしいわ。メールか電話で別れるって言ったみたい。あの子、最近顔出してなかったし。部内恋愛はこれだからイヤね。いざこざが関係ないところまで降りかかって来るんだから」
「ご愁傷様。部活、頑張れよな」
「御槻もね。負けるな、男の子!」
明るく笑い、彩は学校へ向かって走って帰って行った。
自分で考えて行動した結果ではないにしろ、重要な情報を手に入れることができたのではないだろうか。夕飯以外に手土産ができたことが、無性に誇らしく思えてならない。さすがに胸を張ってまで自慢をするようなことではないのだろうが、どうしてだろうか。
おそらく、この気持ちは僕の中ではとても新しいものだ。そう、まるで、母親に自分が描いた似顔絵を見せるような興奮だ。わくわく、どきどき。どんな顔をして、どんな声で、どんな言葉で僕のことを褒めてくれるのだろうかという、淡い期待。その期待に、胸が痛いくらいに膨らむ。普通の感情というモノは、こんなに大きなものだっただろうか。ただ、なにか、それを認めてしまうには気恥かしいような感じがして、次いで出た笑顔は、たぶん皮肉っぽいものだっただろう。
僕はきっと、皮肉っぽく自分のことを笑い物にした。
§
零子さんの部屋には、ついさっき『大事な用がある』と言って部活を休んだ、鞠屋ゆいの姿があった。彼女は夕方のワイドショーを零子さんと見ながら、楽しそうに騒いでいた。零子さんは早くも缶ビールをその手に握りしめていたが、さすがに鞠屋には勧めなかったようだ。
『大事な用』というのは、もしかしなくても零子さんとだべることなのか、と首を捻っていると、鞠屋は突然、「御槻先輩のお部屋も見たいです」などと言い出した。僕は、僕がこのマンションに住んでいるなんてことは一言も彼女に教えていない。となれば、自然とそれをした犯人はわかる。責めるように零子さんの方を向くと、案の定、彼女はついっと酔って真っ赤な顔をそむけた。
「面白いものなんてなにもないよ」
「面白いとか面白くないとかじゃなくて、私、御槻先輩のお部屋が見たいんですぅ」
「……でもなあ」
「エロ本の山でもあるんじゃないの?」
「だから、どうして零子さんはそっちの方向へ持って行こうとしてるんですか」
「ないの?」
「ないですよ。そんなのを買ってるところを見つかったら、何されるかわかったものじゃないですからね。ハイリスクでローリターンなことなんて、零子さんもしたくないでしょう?」
零子さんはそれには答えなかった。代わりに、手に持っていた缶ビールを一気にあおった。どことなく拗ねているようにも見えて、こちらも反応に困る。
「それで、見せてくれないんですかぁ?」
「あ、ああ。……まあ、いいけど」
「やったぁ!」鞠屋は喜びを全身で表すがごとく、大仰な喜び方をした。「お隣ですよね? 行きましょう行きましょう!」
何がそんなに楽しいのか、ニコニコと笑いながら鞠屋は僕の部屋へと走って行った。基本、食べて、寝て、勉強をするだけの部屋だ。トランプみたいな娯楽品も一切持っていないし、テレビだってない。以前住んでいた部屋になら、適当に買った雑誌や新聞が平積みされていたけど、引っ越すときにそれも全部捨ててしまった。
「なんにもないですねぇ」
そう言うしかなかったからだろうか。僕の部屋を見て、鞠屋は素直な感想を口にした。
「だから、面白いものなんてないって言ったじゃないか」
「生活臭みたいなのもないですね」
「こっちに引っ越してから、ご飯食べたりするのは零子さんのところだから、じゃないかな」
「仲いいんですねー」
「そうでもないんじゃないかな」
「そうだと好都合ですね」
「…………」
返す言葉が見つからない。鞠屋は相変わらず楽しそうに僕の部屋を隅々まで物色していた。何もないと言われると、何かがあるのではないかと勘繰りたくなるのは解らないでもないのだが、僕の部屋に限っては本当になんにもない。重ねて言うが、零子さんが言っていたようなエロ本も持っていないし、パソコンやゲーム機、テレビなどの電子機器だって一つもない。トランプなどのアナログな娯楽品だってない。
この部屋に住んでいる僕から見ても、自分の部屋は無味無臭。だが、だからといって、無理に今の生活を変えられるほど僕は器用じゃない。もしそんなに器用だったらば、僕はとっくにいじめられっ子から卒業ないし、それよりはマシな位置につくことができているだろう。
僕は不器用だ。
「服もあんまり持ってないんですねぇ」
いよいよタンスの中にまで手を伸ばし始める鞠屋。さすがの僕も、下着を見られて平然としていられるほど感覚は狂っていない。タンスはそのくらいにしてくれ、と鞠屋に伝えると、彼女はニタリと笑いながら「エロ本ですかぁ」と言った。否定する気にもなれないので、零子さんにするように「もうそれでいいよ」と吐き捨てるように言った。
その答えが気に入らなかったのか、鞠屋は拗ねた様子で唇をとがらせた。満足したからか、それとも飽きたからなのか、彼女はとぼとぼと零子さんの部屋へ戻って行った。その後ろ姿を眺めながら、僕も零子さんの部屋へ戻ることにした。
零子さんの部屋へ戻ると、鞠屋が割合真剣な表情で僕に質問をぶつけてきた。好きな色は何色か、みたいな軽い質問から、女の子のどういう服装が好きかなど、僕にとっては難しい質問までをどんどん投げかけてくる。零子さんに助けを求めようにも、僕の部屋から帰って来たときには、酔い潰れて寝息を立てながら爆睡していたので、助けてもらおうにも助けてもらえない。
質問攻めが終わるころには、慣れないことをしたためか、精神的にかなり疲れていた。
「あ、じゃあ、私そろそろ帰りますね。日曜日、楽しみですねぇ」
鞠屋は、そう言って帰って行った。正直なところ、日曜日が怖くて仕方ない。それは別に鞠屋が怖いとかそういうことではなく、本当に、仮にでもデートという行為をしてしまうことが怖いのだと思う。人と触れ合うことが怖い。それは人が怖いからではなく、触れ合う方法を知らないからだ。
顔には出していないつもりだったのだが、雰囲気でわかってしまうのだろう。いつの間にか起きていた零子さんは、ケラケラとからかうように笑ってから「気楽に行きなさい」とアドバイスらしきものをくれた。
「いつものシンちゃんでいたら、鞠屋さんは普通に楽しんでくれるわ」
「……そんなもんですか」
「そんなもんなの。でもね、シンちゃんがちょっと頑張ったら、鞠屋さんはもっと楽しんでくれると思うわよ」
「無責任な……」
その〝ちょっと〟が僕にとってどれだけ難しいことなのか、彼女は解ってくれているのか。
おそらく、解っていて言っているのだろう。
「頑張る? 頑張らない? まあ、気楽にデートしてらっしゃいな」
零子さんは笑顔のままで、僕に選択肢を開示した。
§
僕がどれだけ悩もうと時間が止まってくれるはずもなく、自然と日曜日はやってきた。
こんなときだけ早起きをした零子さんに叩き起こされ、前もって購入させられた新しい私服を着こみ、待ち合わせ一時間半前にマンションから追い出されるように鞠屋との待ち合わせ場所へ向かった。
僕が予定していたよりも、随分早くに到着してしまった。周りを見回してみても、もちろん鞠屋らしき人物はいない。どうしようもなくなって、駅前に並ぶベンチに座ることにした。待っている間に考えることは、今日どうするか。
もちろん仮とはいえデートだ。それらしく振舞わなければならないだろう。だが、その〝それらしく〟が僕にはよくわからない。どうすれば周りから見て恋人のように見えるのか。例えば、僕が鞠屋と初めて出会ったとき、彼女のことを好きになっていたのだとしたら、こんなことで悩まずに済んでいたのだろうか。想像もできない例え話だ。
延々とそんなことを考えていると、いつの間にか待ち合わせ十分前になっていた。改めて周りを見回して見ても、やっぱり鞠屋らしき人物は見つからなかった。遅れるのだろうか。
――と。
「御槻先ぱ……シンちゃんの方がいいですかぁ?」
ベンチの後ろから、鞠屋の声が聞こえてきた。振り向くと、全体的にふんわりした雰囲気の鞠屋が立っていた。
「それはやめてほしいかな。おはよう、鞠屋さん」
「えー。それじゃあ、そうですねえ。シンくん?」
「下の名前で呼ばれるのは好きじゃないんだ。御槻でいいよ」
「つまんないですよぅ。でも、先輩がイヤならしょうがないですよね。じゃあ、御槻くん?」
「それでいいよ。じゃあ、行こうか鞠屋さん」
「ちょっと待ってくださいよぅ! 私は『鞠屋さん』なんて呼ばれ方イヤですぅ」
「えっと、じゃあ、ゆい……ちゃん?」
「はいっ!」
それはそうか。恋人相手にさん付けは確かにおかしいのかもしれない。
そういえば零子さんは、今朝「困ったら香織ちゃんと遊んだこと思い出しなさい」とアドバイスらしきものをくれた。そもそも小学生の香織ちゃんと高校生である鞠屋を並べることに無理があるとは思うが、僕はそうでもしないと彼女との恋人ごっこなんてできそうにない。零子さんにしかできず、同様に僕にしか言うことができない、ある意味とても的確なアドバイスじゃないだろうか。
「御槻くん。それで、どうですかぁ?」
その場でくるりと鞠屋が回る。似合っているかどうか、ということだろう。
「似合ってるよ」
無骨な言葉しか出てこない。どこがどう似合っているかなんて、僕には詳しく伝えられる自信がない。だが、僕の言葉がよほど嬉しかったのか。鞠屋は頬を淡く染めながら、はじけるような笑顔を向けてくれていた。
「買い物、楽しみですねぇ!」
「ああ、うん。そうだね」
「ほんと楽しみです、とっても!」
早く行きましょうよぅ、と年甲斐もなくはしゃぐ鞠屋を見ていると、香織ちゃんと並べてみても、なにも問題がない気がしてきた。
心配していたよりもずっと、気楽な仕事なのかもしれない。あとは、ストーカーが目論見通りに釣られて出てきてくれれば、そこから先は零子さんの仕事だ。だからそれまでは、僕は僕の仕事をまっとうしよう。
だからちょっとだけ、頑張ってみよう。
前日に零子さんから聞かされたデートコースは、遊園地だとか水族館のような場所にいくわけではなく、「まずは買い物に付き合ってあげなさい」というものだった。電車に乗って、数十分。学校周辺や地元とは比べ物にならないほどの人の山と店の数。よくこれだけ人が集まって来るものだと感心しつつ、鞠屋に引っ張り回される。
鞠屋は、まずメンズの服を主に取り扱っているアパレルショップへ向かった。何でも、僕のタンスの中を覗いたかららしい。あまりにも服を持っていなさすぎる、と軽く説教をされた。今日着ているのはつい先日買ったばかりのものだ、と伝えると、口を尖らせて「私が選ぶんですぅ!」とまたも説教。結局、着せ替え人形のように次々と試着させられ、ジャケットとジーパンを買うはめになった。
もうそれだけでヘトヘトになった僕は、また鞠屋に引っ張られるように次の店へ移動した。レディースのアパレル、アクセサリーショップ、昼食を挟んで駅前の大型デパートへ入り、店内をぶらぶらと歩き回る。やっとのことで「休憩しましょう」と鞠屋が言って、デパート内にある喫茶店で軽食を注文した。
「いっぱい歩きましたねぇ」
「僕もうヘトヘトだよ……」
「だらしないなぁ、御槻くんは」
「……なんか、全然面白い話とかできなくてごめんね」
「え? いやいやいやっ、全ッ然! 全然そんなことないですよぅ! 一緒にいたら楽しいですからっ!」
「そうかな? だったら、いいんだけど」
「うん、でも、そうですねぇ……。そうやって考えてくれてるの、とっても嬉しいですよぅ!」
「どういうこと?」
「うぅん、素直に訊いてきますねぇ。……こう言ったらなんか恥ずかしいんですけど、ずっと脈なしかなぁって思ってたんです。私の片想いかなぁって。でも、今日の御槻くんはいつもと比べて、もっとずっと素敵なんです。私のこと、ちゃんと見てくれてる、みたいな?」
「仮にもデートって名目だから。僕も僕なりに、ちょっとだけ頑張ってるんだよ」
鞠屋はそれには答えず、明るく笑うだけだった。なるほど、と彩の言葉を思い出す。曰く『悪い子じゃないんだけど、惚れやすい上にすごく一途なのよ』。もし、振られてしまった彼氏が腹いせにストーカー行為をしているとするならば、細かいところまではわからないけれども、そうしてしまうのがわかる気がする。
鞠屋は惚れた相手にはとことん尽くすのだろう。だからこそ、急に別れを切り出されたら混乱してしまうのかもしれない。昨日にはあれほど好きだと言ってくれていた彼女が、あっというまに他の誰かの彼女になって笑っている。今回の仕事は、持て余した好きという気持ちの暴走が招いた、ちょっとした事件なのかもしれない。
そんな彼女だからだろうか。僕は、彼女が自分自身のことをどう思っているのかが気になり始めていた。そういう魔性を持っていることを自覚しているのか、自覚しているのなら意図してそうしているのか、天然なのか。
「人から聞いたんだけど、ゆいちゃんって惚れやすいんだってね」
「うぅん……。そんなことないと思いますよぅ? だって私、一途ですから」
自覚なしか。
「でも、うん。みんなからはよく冗談半分で『悪い女』なんて言われてます。私、でも、違うんですよぅ。そうじゃないんです。ただ、私はいつも夢見がちなだけで、それで、それで……。あ、そ、そう! そうです! ずっと、私が一番好きでいられる人を探してるんですよ、きっと!」
「ずっと一番好きでいられる人?」
「はいっ! どんなに素敵な人と出会っても、どんなに優しい人と出会っても、私の心が揺らがないほど私がずっと好きでいられるような人を、私はきっと捜しているんだと思いますぅ」
それがきっと今の相手だといつも信じて、でも、それ以上に好きな人ができてしまう。鞠屋は、こう見えてしっかり悩んでいるのかもしれない。ただまあ、悩んでいてもそれほど考えていないから、こうやってストーカー被害に遭ってしまうのかもしれないが。
鞠屋の惚れやすい性格の理由の断片を知ったところで、喫茶店から出た。さっきまで並んで歩くだけだった鞠屋は、さらに積極的に身体を密着させてきていた。偏見になるかもしれないが、確かに、恋人同士なのに並んで歩くだけというのはあまりにも味気ない。のだが、抱きつくようにくっついて来なくてもいいんじゃないだろうか。距離が近すぎて歩きづらい。そうはいっても、それを口にするのは憚られたので、黙って彼女に合わせることにした。
零子さんが用意したデートプランも、いよいよ次で最後になる。定番と言っていいのかは僕にはわからないが、映画だ。
基本は恋愛もの、と零子さんからは教えられたが、鞠屋が買ってきたチケットはどう見ても恋愛もののタイトルには見えなかった。聞くと、彼女は「アクションですよぅ」と目をキラキラさせながら興奮気味に語ってくれた。有名なタイトルの最新作らしいのだが、こういうことに疎い僕には、恋愛ものだろうがアクションものだろうが変わりはない。
相変わらず子どものようにはしゃぐ鞠屋に振り回されながら、こんなに食べるのかと疑いたくなるほどの量のポップコーンを買わされ、スクリーンの前へ座る。隣に座る鞠屋は口いっぱいにポップコーンを詰め込みながら、今か今かと落ち着かない様子だ。
上映が始まると、鞠屋はだんだん落ち着きを取り戻し始めた。楽しみだった分、じっくりと鑑賞しているのだろう。ポップコーンを食べるのも忘れて、まるで睨むようにスクリーンに視線を送っている。
爆発、銃撃戦、カーチェイス。字幕ではなく吹き替えなので、英語ではなく日本語がスピーカーから流れてくる。ざっくり言ってしまえば、ヒロインを主人公である男が助け出す、というストーリーだ。零子さんが見れば、「映画的で安上がりなストーリーだ」とでも言いそうだ。そもそも、彼女が映画を見るかどうかも僕は知らないのだが。
上映時間は二時間半ほど。エンディングのスタッフロールも終わり、スクリーン全体が照明でやさしく照らされる。思わず、ため息を吐いてしまった。
「ゆいちゃん、出よう、か……」
尻すぼみに小さくなった言葉を向けた先には、静かに涙を流す鞠屋の姿があった。スクリーンから出ていく観客のほとんどは、興奮冷めやらぬ感じで、泣くことまでは誰もしていない。僕だって、泣いてしまうほど感動するような場面はなかったように思う。
それでも彼女は泣いている。なぜ?
「ゆいちゃん」
「え、あ、はいっ。終わりましたねぇ。面白かったですねぇ」
「あ、ああ、うん」
涙をぬぐうこともなく、鞠屋はにこりと笑顔を向けてくれた。涙の筋を頬に残しながら、それでも彼女は笑っている。火薬の量が半端なかっただとか、あの銃の撃ち方がカッコよかっただとか、あのドラテクはありえないだとか。彼女の涙が実際には見えているのに、彼女自身が意図的にそこから
「こんな映画で泣くなんて馬鹿だな」なんてからかう気にもなれないし、「そんなに感動してくれて、つれてきた甲斐があったよ」と自己陶酔のようなことを口にする気も、僕にはない。
どうして泣いているのだろう。どうして、そんなに笑っていられるのだろう。
「……夕飯だけどさ、よかったら僕が作るよ」
「え?」
「デートコースをちょっと変えたくらいで零子さんは怒らないよ」
「違っ、そうじゃなくてぇ……」
「もしかして、どこか食べたいレストランとかあった?」
「そうでも、ないんですよぅ」
と、そのときスクリーンに清掃係の劇場スタッフが入ってきた。観客は、もう誰もいない。とりあえず出ようと声をかけて、鞠屋の手を取ってスクリーンを出た。そのまま映画館から出て行こうと思っていたが、彼女が小さく「パンフレットが欲しいです」と言ったので、パンフレットだけを買って映画館を後にした。
駅に着くまでの間、僕たちに会話はなかった。駅のプラットホームについて電車を待っていると、鞠屋が僕の袖を引いた。
「……あのですね?」
「うん」
「御槻くんって、私のことどう思ってるんですかぁ?」
「どうって、まあ、後輩だよね。今は依頼主でもあるけど」
「本当にですかぁ?」
「嘘じゃないよ。ゆいちゃんは僕の後輩で、零子さんへの依頼主。まあ、依頼を実行してるのは僕なんだけどね」
「……だったら、なんでそんなに優しいんですか。私どうしたらいいかわかりませんよぅ」
そう言って鞠屋はじわりと涙をにじませ、潤んだままの瞳で僕のことを見上げてくる。
「こんなに苦しいのなんて、初めてなんですよぅ……」
「……きっと、大丈夫」
「え?」
その言葉に根拠はなかった。そのとき咄嗟に用意した理由にも、説得力なんてない。けれど、僕はそれを、自信を持って口にした。
「こうやって一緒にいるのも、結局は仕事だしね。ストーカーがいなくなったら、ゆいちゃんはまた好きな人を探せばいいんだよ。学校じゃ僕と顔を合わせることだってきっとないから、うん、きっと大丈夫さ」
「……そう、ですか。あは、あははっ、そうですよねぇ!」
まだ涙は滲んだままだけど、鞠屋は明るく笑ってくれた。
映画館で彼女が涙を流した理由。
今、彼女が涙を流した理由。
前者はきっと、鞠屋が望む
僕は、誰かと隣り合って歩く覚悟が持てていないのだと思う。大切な何かを守りたいと思いながら、その大切なものが見つかっていない。僕の後ろにも隣にも、大切な誰かはいない。だから、前を歩く人から石を投げられたとしても、傷つくのは僕だけで済む。僕のために誰かが傷つくなんて、きっと間違っている。
だから、鞠屋が僕を好きになるなんて、きっと勘違いに違いない。その先の結果として、僕にとってのそれは望んでもいない関係だ。望んじゃいけない関係だ。鞠屋がどれだけ好きを伝えてくれても、僕は必ずそれを否定する。だって、それは彼女の思い込みで勘違いなのだから。
――だから、つまりは、どうなんだ。
電車がプラットホームへ入って来る。帰りの電車の中でも、僕たちの間に会話はなかった。ただただ、周りの喧騒と電車の走る音を聞くだけの数十分。学校の最寄り駅に帰ってくると、鞠屋はさっきとは違って、僕から少し離れて歩いていた。それを寂しいと感じるだけの資格は僕にはないし、例え彼氏役としてでも今だけは「こっちにおいで」なんて言えるはずもない。
決定的な溝。僕は、鞠屋をフッた。いや、これじゃあ語弊があるだろうか。正確には、僕が鞠屋に勘違いを気付かせてあげたのだ。そう考えて、思わず自嘲の笑みがこぼれる。なんて傲慢な物言いなのか、と。
駅前の大通りから外れて人気のないマンションへ続く道に入ると、さすがに不安になったのか、鞠屋が距離を縮めて僕にすがるように寄り添ってきた。
しばらく歩いて、もうそろそろマンションだな、と言うところで、後ろから突然、走る音が聞こえた。
振り返ることなく、直感だけで鞠屋を抱くようにして守り、道の端へ避けた。もしこれがストーカーでもなんでもない、ランニングでもしていた近所の人だとしたら、通報されるのは僕の方だったろうけれど、どうやらその心配はいらないみたいだ。
「避けんなよ。俺の決意が鈍っちゃうじゃんかよ、シンさぁ……」
僕らの目の前に、登山ナイフを握りしめたクラスメイトの陸生仁がいた。彼の瞳は完全に焦点が合っておらず、緊張と興奮とで息も荒い。陸生君の姿を見た鞠屋は、うろたえながら彼に向かって声をかけていた。
「やだ、なんで仁くんがいるのよぉ……」
「なんで? 今お前なんでって言ったのか? お前、ふざけんなよ! なんで俺と別れてこんなクズ野郎と付き合ってんだよ!! くそッ、くそォッ、シンてめえ! ブッ殺してやる、ブッ殺してやるからな……っ」
つまり、どういうことだ? 陸生君は鞠屋に以前フラれていたのか? 彩が言っていた、最近フラれた二人のうちの一人なのか? ――考えをまとめる暇もくれずに、陸生君は手に持ったナイフを乱暴に振りまわしながら全速力で走り寄ってくる。いくら殴る蹴るの
そう感じた瞬間、身体が一気に硬直する。指一本動かせないほどの恐怖。いつもと違う。こんなの、イジメじゃない。フラッシュバックする
「そのまま動くんじゃねえぞ、シぃぃぃン!!」
もしこの身体が動いたとしても、今は動けるわけがない。僕の後ろには鞠屋がいる。
怖い。避けろ。ダメだ。後ろには鞠屋がいる。
関係ない。死にたくない。
関係なくない。僕なんかが死ぬだけで鞠屋は守れる。
くそったれ。他人がどうした。ふざけるな。誰が他人だって言うんだ。
避けろ。生きて反撃だ。
避けるな。死ぬ気で守れ。
鞠屋ゆいは他人だ。
鞠屋ゆいは、他人なんかじゃない。
「キェアアアッ!!」
アスファルトを踏み鳴らす音と、聞きなれた気勢が僕の耳をつんざく。それと同時、僕の脇から弾丸に見紛うほどの勢いで竹刀が突き出された。鈍い音を立てて、それは陸生君の胸を勢いよく突き返した。目の前にまで迫っていた彼のナイフが、身体が、たったの一撃で吹き飛ばされる。
何が起こったのかも解らないまま、陸生君はアスファルトに倒れ伏し、胸を押さえながら悶えている。今まで主観的でいたはずの出来事が、いつの間にか客観的な出来事に変容してしまった。
息を整えるのも忘れて、突き出されたままの竹刀の持ち主へ視線を向けた。
「……さすがにナイフはドン引きだわー」
視線の先には、飄々とした態度で竹刀を構え直す真澄彩が立っていた。どうしてこんな時間と場所に彼女がいるのか。そんな質問もできないほど、僕はこの状況に困惑していた。
「殺しちゃあダメでしょー。……しょうがないから今回は見逃してあげるわ。警察に突き出すのも面倒だし、これで懲りたでしょ、あんたも」
「くそ……っ、くそぉ……っ! 絶対殺してやるからな、シンん!」
「……じゃあ仮に、私がいないところであんたが御槻を殺したとしましょっか? 今度は私があんたを殺しに行くから。と、いうことで、私をこれ以上の殺人犯なんかにしないように気をつけてよね、御槻?」
それはつまり、「殺されないように注意しろ」ということなのだろうか。それとも、「これからも守ってあげる」という決意表明なのだろうか。どちらにしろ、僕はまだ死にたくないし、殺されたくもない。そんな彩の言葉に、ほとんど無意識に僕はうなずいていた。それに満足したのか、にこっ、と嬉しそうに笑うと、彼女は鞠屋の方に目を向けた。
「それで、鞠屋――、あ」
彩が鞠屋に向きなおした瞬間、彼女はえらくとぼけた声をもらした。なんだろうか、と僕も鞠屋の方に視線を移すと、怖気づいて座り込んでしまっている彼女よりも先に、木刀を大上段に構える長身の男の姿に目が行った。
走り出すことに、なぜか葛藤はなかった。身体は驚くほど軽く動いた。振り下ろされる木刀と鞠屋の間に滑り込むように割って入り、腕で頭を覆うように交差させ、全身全霊の力で防御した。腕にハンマーでも打ちつけられたような重い衝撃が走ったあと、乾いた音が辺りに響き渡った。今まで受けてきた痛みでも、比肩するものがないほどの劇痛が腕を痺れさせる。息が詰まる。思考の全てが劇痛に埋め尽くされ、まともなことが考えられない。
睨むように相手の顔を見ると、相手は我に返った様子で狼狽し始めていた。
何を考えていたわけでもなく、ただ流されるままに、僕は痛みも痺れも無視して、拳を振りかぶった。綺麗なストレートのフォームじゃなかったはずだし、拳の握り方だって拙かったに違いない。
ごちゃごちゃ考えるよりも、自分の身を守ることよりも、何よりも先に手が出ていた。
「ぶ……っ!」
男の顔面に拙い拳がめり込む。
殴られた勢いのまま男の足は浮き、ゆったりとした放物線を描きながら、受け身を取ることもなく地面に背中から倒れてしまった。倒れるときに頭でも打って気絶したのか、起き上がる様子はない。
「はぁ……っ、はあっ」
今度こそ痛みに負けて、男に続いて、僕も腕を抱えてその場にへたりこんだ。両腕に、熱した鉛を直接注射で注入されたようなだるさと劇痛、灼熱感が襲う。腕の感覚が脳にまで達し、ぐつぐつと沸騰してしまいそうなほどだ。
「……っく」
「ちょっと、御槻!」
「御槻くん!」
彩は鞠屋の声に立ち止まり、鞠屋は僕に走り寄って来た。
「どうしよぅ……、どうしよぅ……」
「大丈夫だから。それより、鞠屋さんは、怪我ない?」
「私よりも御槻くんがぁ……!」
涙目になりながら、鞠屋は僕のことを心配してくれていた。ただ、彼女の様子が今までとは違って見える。言外に、いや、今にも彼女が自分自身を責めてかかりそうな雰囲気が漂っている。はたして、鞠屋は涙と一緒に自身を貶める言葉を吐き始めた。
「わた、わたしがっ、もっとちゃんと、してたらぁ……っ」
「君だけのせいじゃないよ。ていうか、ちゃんと別れを切り出してるんなら、まだ救いはあるんじゃない?」
「わたしがばかだからっ、いままでこんなことっ、なるなんて、ぜんぜんかんがえたこと、なかった……っ!」
後半は、もうほとんど泣き声につぶれて聞きとれなかった。
それからは裏返った声で、壊れた機械みたいにずっと「ごめんなさい」を言い続けていた。
今まで彼女がしてきたことのツケが払われたのだろうか。それで、だとしたら彼女はなにを知ったのだろうか。どうなることを考えたことがなかったのだろうか。こんな結末は望んでなどいなかったのだろうか。
だけど少なくとも、彼女がやさしい女の子だということは、僕にだってわかる。
――だから。
「悲しまないで。これから変わったらいいんだから、さ」
「うぁ……あっ、ぁあ!」
もう鞠屋から言葉は出ない。泣き崩れる彼女から視線を外し、彩を見上げると、彼女は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
さてこの場をどう収拾つけようかと、まだ痛みに思考の大半を取られる頭で考えていると、通りの向こうから甲高い足音が聞こえてきた。見紛うはずもない、やってきた人物は、零子さんだった。
「どうしました?」
「え? あー、いやぁ、どう見えます?」
唯一無事に見える彩が、しどろもどろになりながら零子さんに対応していた。どうせなら空気を読んで出てきてくれなかった方が、幾分この場を治めやすかったんじゃないだろうかと考えたときだった。零子さんが僕に小さく目配せした。
「…………ああ、そうか。えっと、ちょっと喧嘩してたみたいなんですけど、止めようとしたらこのざまで」
「そうなの? 大丈夫? ちょっと待ってね、今救急車呼ぶから」
零子さんは誰の知り合いでもない第三者として現れることで、この騒ぎをうやむやにしようという魂胆らしい。僕に読みとれた零子さんの考えは、せいぜいそんなところだ。
零子さんは携帯を取り出して、救急に電話をかけた。「もうすぐ来るから、我慢してね」と、いかにも他人行儀な演技を続けている。
泣きやまない鞠屋と他人のフリをする零子さん。宙ぶらりんな立場の彩に、うな垂れたままの陸生君、倒れたままの男と、事態が落ち着いてきたのを考えると、なんともシュールな光景な気がする。
ただそれを見て、ああなるほど、となんとなく理解した。
人とのつながりはそう簡単に整理できるものじゃないということ。ただの言葉だけでは、しがらみや悔恨、恨みつらみが残ってしまうのかもしれない。その顕著な例が、鞠屋ゆいという少女の今ある結果なのだろう。――だから、言葉もなしに消えた僕の父親は、母さんがああなってしまうのに充分な理由だったのだろう。
と、ぼんやり考えていたところに、零子さんが近づいてきた。
「どうする? 気は進まないけど、あの二人に『錬金術』をかけておくことだってできるわよ?」
耳元で囁きかけられ、少しだけぞわっと身震いする。
「いえ、それは僕らが決めていいことじゃないと思いますし。鞠屋さんが、きっと自分でちゃんと解決するでしょうから……」
泣きじゃくる鞠屋を横目に、僕は零子さんを納得させようと微笑んだ。例によって、根拠はない。彼女が絶対に自分で解決できるかは、本当のところ、誰にもわからないだろう。こういうとき、僕はなんて言えばいいのだろうか。
――きっと、信じているからだ。
「僕、鞠屋さんのこと信じてるから」
頭のひとつでもなでてやろうと思ったけど、腕が痛みでいうことをきいてくれなかった。
鞠屋が流す涙が、今までの自分への清算なのだとしたら、きっともうしばらく泣きやむことはないだろう。泣かないで、とは言わない。だけど、悲しいとは感じてほしくはない。
こういう感情の押し付けは迷惑なのだろうか。人付き合いがまだまだ足りていない僕にとっては、そんなこともろくにわからない。
「今だから言えるんですけど……」
「うん?」
零子さんを見上げ、囁くように僕は言った。
「この仕事、僕にまかせてくれて、ありがとうございました」
「そう。どうも」
零子さんの相づちは相変わらず淡泊で、だけど、そんな相づちになってしまう理由が少しだけわかった気がする。これもやっぱり根拠はない。ただ、そうだと嬉しい。そう思うだけで、やっぱり感情の押し付けでしかなくて。
そんな感情を抱きながら、僕の初めての仕事は終わった。
救急車は一台だけやってきた。零子さんは、どうやら僕にだけ必要だと思ったらしい。
腕が痛むだけならそのまま行けばいいのにと思ったが、そうは言っていられないようだ。救急車に乗り込む際、後ろから泣きやんだ鞠屋に呼び止められた。断りを入れてから、彼女と向き合う。
「どうしたの?」
「腕、ごめんなさい」
「なんだかんだで鍛えられてるから、大丈夫。気にしないで」
「……それで、あの、私、きっと変わります。ちゃんと私自身と向き合って、変わります」
「うん。信じてる」
「だから……、その、えっと、もし私が変われたら、そのとき、もっとちゃんとしたカタチで、私、御槻先輩に告白させてください。見つけちゃいましたから、もう、誰にも目移りしないほど好きになれる人」
「……うん」
えへへ、と鞠屋は照れくさそうに笑った。そこまで言われて気がつかないほど、僕だって鈍感じゃない。そんな目をして見つめられて気がつかないほど、僕だって鈍感じゃない。
だから――。
「待ってるよ。その気持ちに応えられるかどうかはわからないけど、変わった鞠屋さんのことは、僕、見てみたいから」
「……はいっ。それで、そのときは、きっと、御槻先輩も変わりましょうよぅ。今度は私も協力しますから、目指せ、脱イジメ! ですっ」
「それもいいかもね。ますます楽しみに待たせてもらうよ」
救急車の扉が閉まる。
これで、僕が任された仕事は終わった。ちゃんとできていただろうか。結局、ストーカーは陸生君とあの男――おそらく、剣道部部長だろう――だった。もし、彼らがまだストーカーを続けるようなことがあれば、直接警察に知らせればいいだろう。一度襲われたこともあると伝えれば、きっと動いてくれる。そういった無言の圧力をかけることが充分可能だ。弱みを握るとも言うのだろうか。
とにかく、よかった。
鞠屋はこれからどう変わっていくのだろうか。僕はそんな彼女とどう付き合っていくのだろうか。僕に勘違いじゃないと言わしめるほど、僕のことを好きになってくれるのだろうか。もしそんなことになったときには、きっと僕も彼女を好きになったあとなのだろうか。
これは高望みなのだろうか。いわゆる恋人なんかになれなくても、鞠屋と僕はきっといい友達になれる気がする。これも望みすぎなのだろうか。今の僕には何もかもがよくわからない。
だから、早く変わった鞠屋のことを見てみたい。
見て、そして知りたい。変わることの意味を。
僕は幾度となく「変わりたい」と願った。願い、そして諦めていた。「変わりたい」と願っていた僕の願いは、言葉にすればただの発音でしかなくて、思えばただの思考でしかない。がらんどうな、願いという形骸化してしまった、ただの口癖のようなものでしかない。
だけどもし、その願いの
今度鞠屋に会ったら、「ありがとう」を言おう。
早ければ明日会えるかな。僕から会いに行ったら、彼女はどんな反応をするだろう。周りはどんな反応をするのだろう。――そこで、ふと思う。僕が校内で誰かに会いに行くということ自体、もしかしたら変わり始めている証拠なんじゃないだろうか。
そう思うと、明日が待ち遠しくてたまらなくなった。
「早く、明日にならないかなあ……」
一言を呟いて、夢にもぐりこむ。明日がいい日であるようにと、軽く願いながら。
翌日、