Like a Si(g)n   作:草之敬

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3. 理想トリアージ

 

 

 月曜早朝、死体を見つけたと通報があった。

 現場に伏していたのは、まだ俺の娘と変わらないほどの年齢の少女だった。こういう事例は決して初めてではなかった。だが、何度経験してもショックはショックだ。娘という身近な存在とどうしても重ねてしまう。もし自分の娘がこの事件の被害者だったら、もし自分の娘が同じような目に遭ってしまったら。

 そして、最後にはいつもこう思うのだ。

 ――()()()()()()()()()()()()

 

「…………」

 

 大きく息を吐き、もう一度目の前に視線を落とす。可燃ゴミの回収日ということもあってだろう、前日夜から積まれていたゴミ山の上に、そのゴミと同じように少女――鞠屋ゆいが捨てられている。

 現場検証が終わればこの子の両親へ確認の面会、学校への報告などが待っている。

 しばらくそれを眺めていると、後輩の大河内が隣へやってきた。

 

「先輩、殺された鞠屋ゆいの所持品に名刺が入ってたんですが……」

「見せてみろ」

 

 財布の中を検めて直していたときに出てきたのだろう。大河内は俺に名刺を渡すと、持ち場には戻らずに興味深そうに俺の反応を待っていた。

 

「なんだ、戻れ」

「いや、それ鑑識の人が見つけて、神戸先輩に持ってけって言われたんスよ。それ、女の人の名前じゃないですか。そりゃ興味ありますよ」

「……面白くもない話になりそうだがな」

 

 名刺に目を通すと、よく知った名前が書かれていた。

『探偵 赤司零子』

 

「なんか美人そうな響きっスよね、零子って」

「実際美人ではあると思うぞ。ずぼらだがな。ついて来い、聞き込みだ」

 

 大河内を連れて現場を離れ、名刺に書いてある住所へ向かう。何のことはない。また、あの顔を見に行くだけだ。

 あの陰鬱で、今にも自殺してしまいそうな女性の顔を見に行くだけなのだ。

 

 § 

 

「ちゃんと着替えてくださいよ、零子さん。昼食は冷蔵庫に入れときましたからね」

「はいはぁ~い。ほらぁ、早くいかないと遅刻するわよー」

 

 本当にわかっているのかどうなのか。

 きっと僕が学校へ出発したあとは二度寝をするつもりなのだろう。できることなら、僕が学校から帰ってくる頃にはしっかりしておいてほしいものだが。

 

「……じゃあ、行ってきます」

 

 扉を閉める直前、「がんばってね」と声が聞こえた。わざわざ扉を開け直して聞き返す必要もないだろう。そんなことをしても零子さんが困るだけだ。

 右腕には吊り包帯、左腕には湿布を包帯でぐるぐる巻きにして固定している。さいわい、右腕は軽度の亀裂骨折で済み、左腕に関してはただの打撲。定期的に通院はしてください、と言われたが、そこまで深く考えなくてもよさそうだ。

 

 ただ、この姿を見た鞠屋がどんな反応をしてしまうのかだけが心配でならない。必要以上に心配して、また泣かれでもしたらこっちも困る。けれども、僕は彼女に会いにいかないといけない。

 昨日のこと、これからのこと、そして何よりも「ありがとう」を言うために。

 それが、僕が変わっていくための、きっと第一歩目。昨日なんかは、痛みなんか気にならないほどに柄にもなくワクワクしていた。たった一言を伝えるのに、こんなに楽しみだと思ったことは、おそらくない。

 

 でも、いつ鞠屋に会いに行こう。朝はいつもギリギリで学校に行くから、会っている時間なんてそもそもない。休み時間だってあまり時間はないし、昼休みも時間があるとは言えない。とすれば、消去法で残ったのは放課後だ。確か、サボりがちだとは言っていたが鞠屋は剣道部に所属しているのだったか。

 剣道部なら、あまり巻き込みたくはないけど彩もいるし、呼び出して話す分にはちょうどいいかもしれない。決まりだ。放課後、剣道部へ鞠屋に会いに行こう。

 と、いったところで校門に到着したのだが、なにやら校門前が騒がしい。生徒数人と、僕のクラスの保健体育を担当している教師が何かを話しているようだ。しばらく離れて様子を見ていると、騒いでいた生徒数人が笑いながら駅の方へと戻っていった。

 

「どうしたんですか?」

 

 戻っていった生徒たちを横目に見ながら教師に話しかけると、教師の方も驚きで目を見開きながら、僕の吊り包帯をまじまじと見始めた。

 

「お前こそどうした。土曜にはそんなのしてなかっただろ」

「はあ、ちょっとコケた拍子にひびが入ったようで」

「まあ、いい。今日は臨時休校だ。帰って休め」

「? 休校、ですか」

「そうだ。詳しいことは明日の朝礼で伝えるから、今日はとっとと帰るんだ」

 

 なるほど、臨時休校か。どうりでさっきの生徒たちが笑って帰っていったわけだ。僕もそれに倣い、笑顔なわけではないが帰宅することにした。

 帰宅途中、どうして臨時休校になったのだろうかと考えたが特に思いつくことはなかった。台風や地震があったわけでも、インフルエンザが流行ったからでもないのは確かだろう。詳しい説明は明日の朝礼でするらしいが、それほど重大なことなのだろうか。どうにしろ、昨日のうちに連絡網が回って来なかったところを考えると、今朝方急に臨時休校にしたのだろう。

 となると、ますます不思議だ。一体何が起きたというのだろう。

 

「……?」

 

 物思いに耽っていたからだろうか、思っていた以上に早くマンションに帰ってきてしまった。それは別に構わないのだが、マンション前にくたびれた感じのスーツを着た男性が二人、立っていた。どうやら彼らはちょうど今到着した様子で、しきりに手に持った紙と住所を見比べていた。

 

「おっと、すいません」

 

 僕が横を通ると、若い方の男性が道を空けてくれた。どうも、と会釈してから、テンキーに自室の番号を打ち込もうとしたときだった。

 

「すいません、ちょっといいですか」

「あ、はい。なんでしょうか……?」

 

 今度は老けている方の男性が声をかけてきた。その男性の声はどこかズシリと重みを感じる調子で、思わず少し腰の引けた返事になってしまう。

 

「赤司零子……という女性はご存知ですか?」

「零子さん?」

 

 と、思わず返してしまったところ、その男性は目を見開いて驚いていた。

 どうもこの二人は依頼主という風ではなさそうなのだが、だとすれば一体?

 

「失礼。私たちは警察でして」

「え?」

 

 言うが早いか、彼らは懐からドラマで見たままの所作で警察手帳を取り出した。写真に写っているのは間違いなく目の前にいる人物で、名前は神戸(こうべ)(はじめ)。階級は警部。もう一人の若い方の男性は大河内(おおこうち)(まこと)、階級は巡査部長とあった。

 

「ちょっと彼女に会いたいんだけど、もしかして知り合いとかだったりするかな? よかったら取り合ってくれたりしたらうれしいんだけど」

 

 今度は大河内巡査の方が軽い調子で僕に話しかけてきた。断る理由もないし、ここで断れば捜査妨害ということになるのだろうか。とにかく、無言でうなずいた。

 

「ちょっと待っててください」

「いやいや、大丈夫。悪いね」

 

 テンキーで押すのは、零子さんの部屋番号である『五○五』。ドアチャイムが鳴り、僕が思っていたよりもずっと早く、部屋の主は応答した。

 

『はい、赤司です』

 

 いつもの声とは明らかにトーンが違っていたが、いちいち気にしていられない。

 

「零子さん、僕です」

『え? なに、忘れ物でもした?』

「いや、ちょっと今そういう話は……」

 

 おそるおそる後ろに待機していた警察の二人の方を窺うと、特に神戸警部の方が険しい表情をしていた。無言で「続けろ」と言われている気がする。

 

「えっと、警察の人が零子さんに用事があるって言ってきてるんですけど」

『あ? 警察ぅ? ……』零子さんは何かを思案している様子で黙ってしまい、しばらくしてまた、電話口の向こうで不機嫌そうに続けた。『そこ、神戸ってオッサンいるでしょ』

「え? あれ、お知り合いだったんですか?」

『まあ、いいわ。とりあえず開けるから入ってもらって。シンちゃんは忘れ物取ったらすぐ学校に戻るのよ。もうとっくに遅刻じゃない』

「それが臨時休校だったんですよ」

『あらそうなの? よかったわね。こういうことがないと学生なんて平日に休めないじゃない』

 

 ケラケラと笑いながら話す零子さんだが、やはりどこか不機嫌そうな雰囲気が感じられる。探偵とかしていると、やっぱりドラマとか漫画とかみたいに事件に出遭ってしまうことがあったりするのだろうか。まあ、零子さんがそういう創作の中の探偵のように華麗に事件を解決する、という姿は想像しづらくはあるのだけれど。

 しばらくすると、ぴ、という電子音が鳴り、マンション入り口のロックが外れた。

 

「案内します」

「ああ、よろしく頼む」

 

 相変わらず重々しい口調で神戸警部が言う。

 エレベーターに乗り込むと、大河内巡査が「何階?」と訊いてきた。どうやら、鞄を持って両手がふさがっている僕の代わりにボタンを押してくれるらしい。五階です、と伝えると、何がそんなに楽しいのか、ウキウキした様子で彼はボタンを押した。

 ごうん、と駆動音がしてエレベーターが動き始める。大河内巡査はそれほど怖い印象はないのだが、彼のそれを差し引いても神戸警部の威圧感というのだろうか、とにかく存在感はとても重苦しかった。思わず謝ってしまいたくなってくるほどだ。エレベーターという閉鎖空間も手伝って、その重圧たるや喉元まで水に浸かってしまっているようだ。

 

「休校、ということは、君はこの近所の私学の生徒?」

「あ、はい」

 

 神戸警部の言葉に少し引っ掛かりを覚えたが、それを僕が探る前に彼は言葉を続けた。

 

「そうか。ところで、こういうのを聞くのはあまり気が進まないのだが、君は赤司零子とはどういう関係なんだ? どうにもただの近所付き合いというわけでもなさそうだったが……」

「……あの、それって何か関係があるんですか?」

「関係? ああ、いや。ないよ。すまない、少し私情を(はさ)んだ」

 

 そう言ったきり、神戸警部はまた黙りこんでしまった。

 しばらくして、エレベーターの到着を知らせるチン、という音とほとんど同時、さきほどの神戸警部の言葉の中になぜ引っ掛かりを覚えたのかがわかった。

 どうして休校だというだけで、僕がこの近所の高校に通っていると判ったんだろうか。

 神戸警部の口調からして、僕の着ている制服で判別したとは考えにくい。もしかして、今日休校になったことと、警察が零子さんを訪ねることに何か関係があるのだろうか。

 

「ここです」

「ありがとう。助かった」

 

 と、そういう割には、神戸警部は零子さんの部屋へ入る様子はなかった。考えが読めないことばかりをする人だな、と思いながら自分の部屋の鍵を取り出し、ドアノブへ挿し入れると、神戸警部は突然「ああ」と素っ頓狂な声をあげた。

 

「隣の部屋だったのか。なるほど、得心がいったよ」

 

 雰囲気とはえらくかけ離れた、朗らかな声で神戸警部は笑った。

 まあ、実際はそれだけではないのだけれど。それをわざわざ口にして、状況をややこしくする必要もないだろう。とにかく、どうやら神戸警部は僕と零子さんの関係をまだ気にしていたらしい。まさか零子さんにでも気があるのだろうか。

 

「……なんで僕がそんなこと気にしてるんだろ」

 

 扉を閉め、靴を脱ぎ、部屋の隅に鞄を置く。窓を見ると、まだ外は明るい。当り前だ。いつもなら、僕は教室の机に座って授業を受けている頃だろうか。もしかしたら、陸生君に見つかって、昨日の仕返しでもされて、今くらいに教室に入っていたかもしれない。

 どっちにしろ、いつもなら今頃僕は学校にいる。そして、夕方ぐらいに帰ってきて、零子さんの部屋で夕飯を作って、食べて、ちょっとだけしゃべって、たまに酔い潰れた零子さんを布団に寝かせて、それから自分の部屋へ帰って、宿題があれば宿題をして、復習と予習をして、お風呂に入って、寝て、そしてきっと明日を迎えていただろう。

 

 ああ、そういえば今日は鞠屋にお礼を言いに行こうと思っていたんだったっけ。できれば早い方がよかったけれど、別に明日でも構わないか。

 そこまで考えて自分が立ったままなのに気が付き、座布団を引き寄せて座った。朝、制服のまま、自分の部屋。なんだか、学校をサボってしまったような気がしてきた。

 

「……零子さん、何したんだろ」

 

 追って出た言葉はこれだった。休日はだいたい零子さんの部屋で過ごしているが、今は彼女の部屋へ行けない。なんたって警察が来ている。もし捜査に関係のある会話でもしているときに訪ねてしまったら、どうなっただろう。

 そんなこと、わざわざ試そうとも思わないけれど。

 と、そのとき、突然ドアを強くノックされた。

 誰だろうと考えるまでもなく、聞き慣れた零子さんの声が聞こえてきた。警察の人との話はもう終わったのだろうか。それとも、まさか僕まで巻き込もうなんて思っていたりするんだろうか。

 

「なんですか?」

「来なさい。シンちゃんは、絶対に知っておかなくちゃダメ」

「え?」

 

 何の説明もなされないまま、零子さんに強く腕を引かれながら彼女の部屋へ連れて行かれてしまった。そこにはもちろん、険しい顔をした神戸警部と大河内巡査もいる。

 いつもビール缶でいっぱいのテーブルの上には、缶の代わりに、おそらく捜査の資料などが広げられていた。リビングの入り口からではよく見えないし、見る気もない。零子さんに連れられるまま、警察の二人の対面、零子さんの隣へ腰を下ろした。

 

「御槻罪君、というんだってね。一応訊いておこう。昨日の夜は何をしていた?」

「え?」

「答えなさい。自信を持って言ったらいいのよ。このクソの鼓膜が破れるくらい大きい声でも構わないわ」

「え? あ、あの、えっと、病院へ……行ってました、けど」

「その包帯? それはどうして?」

「ちょっとあの……」

 

 鞠屋や陸生君たちのことを言っていいのか、それよりもなぜ僕がこんなことを訊かれているのか。混乱のまま零子さんを見ると、いつにもなく怒りを露わにした表情でしっかりとうなずいてくれた。

 

「依頼主を、ストーカーから守るときに、腕をちょっと木刀で殴られて、それで、病院へ」

「……そうか。いきなりこんなことを訊いてすまなかったな。なんにせよ、()()()()()()()()()()()ということで、間違いないか」

「はァ? ホントいい加減にしといてくれないかしら。さすがにそれはこじつけが過ぎると思うんだけどさ」

「まだ見えていない答えの可能性の一つだ。無視はできんさ」

「アリバイだってしっかりあるじゃない! 病院に行けばそれだって証明できるわ!」

「病院を出た後から、このマンションに帰ってくるまでで充分犯行は可能だ」

「はぁ……、もういい。時間がもったいないわ」

 

 彼らは一体何の話をしているのだろうか。アリバイがどうの、と言っているから、もしかしたら殺人でも起きたのだろうか。物騒な話だが、まず間違いなく、僕は人を殺したことなんか一度もない。――とも、言い切れないか。

 

「……あれ?」

 

 違和感を覚えたのは、またしても神戸警部の言葉だった。状況にいまだ混乱している思考を一旦切り離し、彼の言った言葉にのみ意識を向ける。

僕に昨日の夜は何をしていたかを訊いてきたこと。そして、僕の昨日の夜の行動を聞き、その返答として口にしたのは「動機がある」という言葉。

 それに、神戸警部が「休校」というワードだけで僕の学校を言い当てたこと。

 

「まさか……」

 

 そこから導かれる答えなど、僕には二つしか持ち合わせがない。

 

「シンちゃん。落ち着いて、よく聞いてちょうだい」

 

 今の僕はどんな顔をしているのだろうか。僕の顔を見た零子さんの反応を見れば、だいたい予想がつく。予想がつく上に、僕の出した答えが真実であることはほぼ間違いじゃないと言われているようなものだ。

 どうか。

 どうか、できることなら――

 

「鞠屋さんが、殺されたわ」

 

 ああ、やっぱりそうなのか。

 零子さんが言ったことは、思っていた以上にすんなりと僕を納得させた。

 鞠屋ゆいが、殺された。

 だから僕の昨日の行動を訊いた。鞠屋ゆいが、殺されたから。

 だから僕に動機があると言った。鞠屋ゆいが、殺されたから。

 だから僕の通う高校が休校になった。鞠屋ゆいが、殺されたから。

 

「……本当、なんですか?」

「ああ。親族の確認も先ほど済んだそうだ。……死因は失血によるショック死。腹部を複数ヶ所、ナイフのようなものでメッタ刺しにされている。相当の殺意がなければ、こんなことできやしない。御槻君、今、君にこういうことを訊くのは酷なことだと思うが、どうか教えてほしい。心当たりはないか?」

 

 言葉が出ない。喉に何かが詰まってしまったような感じがして、息もうまくできない。

 そんな僕を見かねたのか、代わりに、零子さんが口を開いた。

 

「私が受けたのは、ストーカーをどうにかしてほしいっていう内容の依頼だったのは話したわよね。そのとき、私が確認したのは二人。どちらも鞠屋さん、シンちゃんと同じ高校の生徒だったわ。あと、そうだ。鞠屋さんの部活の先輩もいたわね。真澄彩ちゃん、だっけ」

 

 零子さんはこのあと、僕が救急車で運ばれてからのことを話してくれた。と、言っても特に不自然なことはなく、駅前まで鞠屋を含む四人を送り届けたというものだった。

 そこからあとは彩が「面倒見ときます」と言ったので、任せてきたということらしい。そういえば、零子さんは第三者としての立場で振舞っていたはずだから、彩は「関係のない人にこれ以上迷惑はかけられない」とでも考えたのだろう。

 それを聞いた神戸警部は深く唸ってから、彼の手元の資料の情報を読み上げた。

 

「被害者が発見されたのは、ここからも駅からも、学校からもそう遠くはない集合住宅(アパート)のゴミ捨て場だ。第一発見者は新聞配達のアルバイト。男性。午前4時前後にポストへ向かう途中にあるゴミ捨て場で発見されている。どうして駅まで帰っていたのにこんな場所で発見されているんだ?」

「……まあ、そのあたりは彩ちゃんにでも聞き込みなさいよ。それがお仕事でしょ」

「ああ。それで、だ。またお前に情報収集を頼みたい。そういうのは得意だろ? 目撃者や、その時間帯に怪しい人物がいなかったかとか、そんなことでいい。警察と言えば、関係なくとも向こうが警戒するからな」

「言うだけ言って、それから頼みごとなんて虫がよすぎるんじゃない?」

「理解のうえだ。報酬はいつもより多く出してもいい」

「……さっさと帰れって言ってんのがわかんないのかしらね。金がどうとかって話じゃないのよ。気分のお話なの、わかる? 依頼は依頼で受け取っておくから、お帰りはあちら。玄関くらいわかるでしょ? 入ってきたところ」

 

 頼んだぞ、とだけ言い残し、神戸警部と大河内巡査は部屋を出て行った。

 僕はまだ混乱したままだった。鞠屋が殺されたということには納得したはずだった。だったらなぜ、僕の心はこれほどざわついているのか。胸が締め付けられるような、ゆっくりと長細い針を刺し入れられているような。自分自身の心に戸惑う。鞠屋は変わっていけるはずだったのに、どうして彼女が殺されなくちゃいけなかったんだ。

 

「……シンちゃん」

「なんですか」

「涙、拭きなさい」

「え?」

 

 言われてから頬をなでると、手を水に浸けたのかと思うほど濡れていた。しかも、それだけではなかった。服を見てみると、あごから伝わり落ちた涙がスラックスをびしょびしょに濡らしていた。

 

「あれ?」

「ほら、こっちむきなさい」

「零子さん、僕……」

「いいから。こっちむきなさい」

 

 少し強引に顔をハンカチで拭かれた。

 なんでこんなに泣いているんだろう。僕の心は、悲しいなんて思っちゃいないのに。

 思っちゃいないはずなのに。

 鞠屋が殺されたということは、納得したはずなのに。

 どうしてこんなにも、涙を流すのだろう。

 

 § 

 

 一日の終わりがいつ来たのか、いつ朝になったのかわからないまま僕は目を覚ました。

 昨日、零子さんの部屋から帰ってきてからの記憶がとても曖昧だ。酒に酔い潰れるとこんな感じなのだろうか。それが間違いかどうかを本当に知ってもいいのは、まだ数年先だ。

 

「零子さんのとこ、いかなくちゃ……」

 

 布団をたたみ、制服に着替え、腕を固定するための吊り包帯をする。

 鞄を持ち、いざ部屋を出ようとしたときだった。玄関先に一枚、紙が落ちていた。拾い上げてみると、零子さんが書いたらしい字が並んでいた。

 

『お仕事に行ってきます。朝、昼、夕飯ともいりません。

 学校はちゃんと行きなさいね。零子』

 

 こんな朝早くから零子さんは出掛けたのか。いつものぐうたらからは想像できない。

 仕方なく自室のキッチンで軽い朝食を作ったが、食パンを半分も食べないうちにお腹がいっぱいになってしまった。残ったおかずはラップをかけて冷蔵庫に入れておく。

 いつもよりも幾分早い時間にマンションを出たせいで、いつもよりも幾分早い時間に学校に着いてしまった。鞠屋のクラスへ行ってみることも考えたが、今さら行ってもどうしようもない。もう彼女に会うことはできないし、お礼を言うこともできない。

 

 自分の教室へ着き、扉を開けると同時、今までざわついていたクラス中がしんと静まり、視線が一斉に僕へ向けられた。見られていない場所がないほどの視線を向けられている。全身を舐められているような気持ち悪さ。一瞬だけ、息が詰まる。

 

「……おはよう」

 

 ようやく絞り出せたのは、ろくにしたこともない朝の挨拶だった。

 僕のそれを聞いた後、クラスメイトたちは何事もなかったかのように会話を再開したが、全部が全部僕のことを言っているように聞こえた。実際、こちらの様子を窺うような視線を何度も受けた。僕のしている包帯のことだろうか。変な探りを入れて来なければいいのだが。

 とにかくその雑踏を聞いていられなくて、何もかもが聞こえないフリをして、机に突っ伏してホームルームを待つことにした。それだけで周りの雑踏は遠くなった。何も考えられない。何も考えたくない。何かしなくちゃ、と思う隙もない。いつか息さえ忘れてしまいそうだ。

 

 ――鞠屋が殺された。

 それを思い出すだけで、ずしりと何かが胸を圧迫する。これは悲しみなのだろうか。鞠屋が死んで、もう会えなくなって、それで僕は悲しんでいるのだろうか。わからない。

 

「御槻、起きろ。ホームルームは始まってるぞ」

「え……」

 

 いつの間にか寝てしまっていたらしい。顔を起こすと、クラスメイトたちは全員がこちらを向いて立っていた。僕も慌てて立ち上がり、号令と同時に「おはようございます」を言う。ある種事務的な挨拶を済ませると、誰からともなく席へ座り始める。

 全員が座ったのを確認してから、担任は咳払いを一つ挟んでから口を開いた。

 

「あー、もう知ってる者もいるかもしれないが、ウチの学校の一年の女子が昨日の朝、学校の近所で殺されていたのを発見された。警察の話によると、通り魔の犯行かもしれないとのことだから、しばらくの間、下校時間が少し早まる。部活をしている生徒も、練習とかがあるかもしれないが、しばらくは休みになる。それから、寄り道せずに、できるだけ人通りの多い道を使って帰るように。学校の外でテレビだとか、雑誌だとかで話を聞かれるかもしれないが、あることないことしゃべらずに、しっかりと取材を断るように」

 

 言うだけ言って、担任は教室を出て行った。それと同時に、ざわつきが教室に戻ってきた。

 そして、僕が一限目の用意を鞄から出していると、それは唐突にやってきた。

 

「ねえ、アンタ。日曜にその殺された子と一緒に歩いてるところ見たって子がいるんだけど」

 

 それ本当? と。

 いつの間にか、名前も覚えていないクラスメイトの女子数人が僕の机を囲んでいた。

 

「え?」

「『え?』じゃねーよ。やっぱお前じゃねーの? 殺したのってさー?」

 

 下品な笑い声を四方から浴びせられながら、僕はただ否定の言葉を並べた。

 

「ち、違うよ。そんなことしてない」

「そんじゃアレだろ。襲われてるその子、ほったらかしにして逃げたとかだ?」

「もういいだろ。僕はやってないんだ」

「ま、そりゃそーだわ。本当にやってて『僕がやりました~』なんて言うわけねーもんな」

 

 最悪だ。なぜ、よりにもよってこんなことになるんだ。

 僕が何をした。鞠屋が何をした?

 なんで人が一人殺されたっていうのに、お前らはそんなに笑っていられるんだ。どうして笑えるんだ? 僕は、僕はあれから涙の一つだって流せやしないのに。

 

「どうして、笑ってるんだよ」

「ハァ?」

「そんなに僕を人殺しにしたいんなら、もっと笑えよ。僕が感情を抑えられないくらいになるまで僕のことを笑えばいいだろ。そしたら、望み通り人殺しにでも何でもなってやる!」

「な、何言ってんのよ……。お、おかしいんじゃない?」

 

 ああ、今の僕は本当におかしい。どうしてこんなにも感情をセーブできないのだろう。

 いつもなら、こんなものは無視していたのに。それで相手が手を出してきたとしても、僕は自分を守ることだけを考えていたのに。誰がどう言われようと、僕には関係がなかったはずなのに。

 誰かと関係を持つことは、こんなに怖い事だったっけ。

 その関係を()くしてしまうことは、こんなに怖い事だったっけ。

 

「……ごめん。でも、僕は本当に、何も知らないんだ」

 

 何も知らない。僕は、何も知らない。よくはわからないけど、それはきっと言い訳の類ではなく、僕の中で生まれた納得の仕方。

 たったの数回会っただけの彼女の何を知っている。

 

 どんなものが好きで、嫌いで。

 どういうときに笑って、泣いて。

 どうして僕なんかを、好きになってくれたのか。

 何も知らないんじゃ、仕方ないじゃないか。

 

 ――じゃあ、どうして?

 どうしてあのとき、涙を流せたのだろう。

 どうして今、自分を抑えられなくなったのだろう。

 どうしてこんなにも、誰かを失うことが怖いと思ったのだろう。

 

 ――僕は知っているからだ。

 どういう言葉で好きか、嫌いかを言って。

 どういう顔で笑って、泣いて。

 どういう風に、僕を好きでいてくれたのか。

 

 たった数回しか会ったことはなかったけれど、その中で僕は、彼女の声を聞き、顔を見、想いを知った。それが本当の彼女だったのかどうかは、もう知りっこない。けれど、もしそれが表面上の彼女だったとしても、それが僕にとっての鞠屋ゆいだった。

 ああ、そうか。

 僕は鞠屋が殺されたことに納得なんかしちゃいない。()()()()()()()()()()()()()()()()

 昨日からずっと、解らないでいた自分の感情にやっと名前を見つけた。

 これは、きっと、『悔しい』んだ。

 

 §

 

 警察に呼ばれていたのか、それとも自宅で塞ぎこんでいるのか、陸生君は学校には来なかった。それは僕にとっても、たぶん陸生君にとっても都合がいいことだったと思う。

 そうして、朝から続く視線の中を学校で過ごし、帰宅し、零子さんの部屋へ入ろうとドアノブを掴んだところで思い出した。

 

「今日、零子さんいないんだっけ……」

 

 今朝方見たメモには、夕飯も要らないと書いてあったか。

 

「あ、買い物も忘れた……」

 

 そう独りごちてから、自分の部屋へ戻った。相変わらず物のない部屋だった。

 そこで思ったのは、昨日のうちに鞠屋の死を知っていてよかった、というものだった。もし、今日のホームルームでそれを知っていれば、もっとひどいことになっていたかもしれない。その点では、零子さんに感謝してもし尽くせない。

 あのとき零子さんは、僕に「絶対に知っておかなくてはダメだ」と言った。

 昨日から続く感情に気付けた今ならなんとなくわかる。あれは『鞠屋の死』を知っておかなければいけないのではなく、『殺された』ということを知っておかなければいけなかったのではないだろうか。今の僕には、それくらいの答えしか見つけられない。

 

「買い物、行こう……」

 

 毎日作ると言っても、作る量は二人分なのだから買い溜めがあるわけでもなく、ちゃんとした夕飯を食べようと思うのなら、買い物には行かなければならない。

 私服に着替え、財布を確認してから出発した。

 梅雨に入ったといっても、今年はまだそれほど雨の日は見ていない。毎日、割といい天気が続いている。実際、今日も雲の姿はあまりなく、夕日が痛いほど差し込んでいた。ただ、やはり気温や湿度は高いようで、十分かからない位置にあるスーパーに到着するまでにはしっかりと汗で濡れてしまっていた。

 外の熱気から逃げるようにスーパーに入り、買い物カゴを持ったときだった。

 

「あれ、御槻じゃん。こんなとこで何してんの?」

「え? あ、彩……?」

「そうだけど、何、その顔」

「い、いや、なんでこんなとこにいるのかな、って」

「それは先に私が聞いたでしょ。しかも、私服だし」

「いや、あ、これは……」

「いくらここのスーパーの方が安いからって、暑いの我慢してまでくるようなドケチだったっけ、御槻って。あ、ここってこの前アンタが言ってた安いスーパーでしょ? ホント安いね」

 

 彩は制服のままだった。持っているビニール袋を見る限り、どうやらアイスを買いに来ていたらしい。

 いや、それよりも、もう言い逃れなんてできそうにない。正直に話そう。そもそも、今までずっと黙っていたからこんなことになってしまうんじゃないか。

 

「あ、あのさ彩……」

「ね、御槻。ちょっと時間いいかな」

「え? あ、うん。いいけど……」

「ここじゃなんだし、場所変えない? 外は暑いし……」

「……あのさ、彩。それじゃあ、僕の家、来る?」

「え?」

 

 結局買い物はできなかったが、今までなぜか彩に隠していたことを打ち明けることができた。つまり、引っ越したことだ。彩は最初驚いていたが、「気にしないよ」と言ってくれた。むしろ、なんでそんなことを気にしていたのか、と逆に笑われた。

 

「へえ、いい部屋じゃん。なんもないけど」

 

 意地悪な笑顔を見せながら、彩は僕の部屋の感想を言った。確かに何もないけど、彩の言う通り、この部屋は一人暮らしをする分にはわりと広い。住んでいるのが僕でなければ、凝ったインテリアだとか家具だとかを、住人はいろいろと試行錯誤を巡らせていたはずだ。

 

「僕もそう思うよ。お茶出すから、座って待ってて」

「えへへ。ありがと」

 

 彩は笑ってくれている。ただ、いつもよりも強張った印象を受けるのは、たぶん鞠屋のことがあるからだろう。彼女と鞠屋の関係をよく知っているわけではないけど、彩が鞠屋を気にかけていたのは間違いないと思う。

 当り前のことだ。ショックを受けているのは、僕だけじゃない。

 

「どうぞ」

「お、麦茶。私夏の麦茶って大好きなのよね~」

「そりゃよかった。……それで、何の用?」

「……ん。鞠屋のこと。ごめん、って謝ろうと思ってさ」

 

 彩はコップの中の麦茶を一気に飲み干して、改めて佇まいを直した。

 

「なんていうか、私がもうちょっとしっかりしてたら、あんなことにならなかったと思う。だから、ごめん。私、帰り際に聞いたんだよ。鞠屋、御槻のこと好きなんだって。笑ってた。すっごく嬉しそうだった。真面目ぶっちゃってさー、今度から部活もちゃんと出ますって言ってたんだ。あれは本気で惚れた女の子の姿だった」

「……彩は悪くないよ。うまく言えないけど、彩のせいなんかじゃない」

「御槻のくせに。私を慰めるなんて生意気よ」

 

 そう言って、彩は涙を流した。きっと、昨日の僕もこんな風に泣いていたに違いない。

 だけど、僕は彩にかける言葉を知らない。どんな言葉をかけたらいいのか、わからない。僕にできることは、思いつく限り一つだけだった。

 

「彩、こっち向いて」

「え……?」

 

 零子さんが僕にしてくれたように、僕も彩の涙を拭いてあげること。

 これが最善なのかはわからないけれど、少なくとも僕にできるのは慰めることじゃない。

 

「偉そうなことなんて何にも言えないけど、涙ぐらいなら拭いてあげられるから」

「……ありがと」

「どういたしまして。落ち着くまで居ていいよ」

「うん……」

 

 彩の啜り泣く声と、時計の針が進む音だけが響く。

 それからどれほど経っただろうか。日は沈み切ってしまった。

 彩は泣き疲れたのか、うとうととし始めたので、布団を敷いて寝るように言っておいた。眠たそうな顔で僕の提案に彩はうなずき、布団の中に潜り込んだ。

 今度は、彩の寝息と時計の針が進む音が響く。ときどき彩が寝がえりをうつと、それにともなって衣擦れの音も僕の耳に届いた。

 寝ている彩を見ていると、考えてはいけないことを考えそうになってしまい、その気持ちをごまかすために、ちょうど買い物もし損ねていたので夕飯の買い物に行くことにした。いつ起きてもいいように、置手紙を彩の枕元に置いておき、少しばかりの名残を感じつつ、それから逃げるようにスーパーまでの道を歩いた。

 

 日が落ちたことにより気温も下がり、外にいてもそれほど苦痛ではなかった。ただ、初夏らしい蒸し暑さの中、無性に今が夢のような気がしてならなかった。むしろ、夢であればどれほど喜ばしいかは言うまでもない。

 鞠屋が殺され、彩があれほど悲しんでいる。

どちらかというと守られる立場だった僕は、少なくともあんなに弱った彩を見た記憶がない。

 僕にとっての彩という女の子は、いつも気丈で強く、とにかくまっすぐな子だった。だけど今日、改めて僕は知った。彼女も一人の人間で、誰しもが持つ不安や弱さを持っているということを。不謹慎なのかもしれないけれど、幼馴染という以上に、彼女に対して尊敬に近い念を抱いていた僕にとって、彼女のそれはとても魅力的に映った。

 

 ハッキリ言ってしまえば、このとき、僕の中で真澄彩という存在は変わった。

 ただの幼馴染から、守りたいと願う、()()()()()()()()()()()()()という存在に変わった。

 結局、零子さんの言うことは正しかった。

 僕は、御槻罪は――。

 

 真澄彩が、大好きだ。

 

 §

 

 買い物から帰ると、彩は起きていた。ちょうど僕の書いた置手紙を読んでいたようで、帰ってきた僕を見て微笑んでくれた。

 

「おかえり、御槻」

「ただいま」

「なんかいいね、こういうの」

「そ、そうかな。別に、僕は……」

「照れるな照れるな」

「照れてないよ」

 

 まあ、僕がどれほど彩のことを好きだと思っても、きっと彼女は僕のことを幼馴染とか、良くても親友くらいか。ともかく、友達以上の感情は持っていないだろう。こうやっているのも、きっと昔からの付き合いがなせることだと思う。

 恋愛というカタチに収まるには、僕らはきっと友達でいすぎたんだ。

 

「うどん作るけど、彩も食べてく?」

「うん。いただきます」

「よかった。無駄にならなくて」

「えー? なになに、私のためにご飯作ってくれるつもりだったの? 心配だったの? 私が食べてくれるかどうかとか」

「ま、まあ、なんていうか、せっかく買ってきた材料がもったいないし」

「うふふ。照れるな照れるな」

「だから照れてないってば」

 

 彩は終始こんな感じで僕をからかい続け、そのたびに笑ってくれた。彼女のその笑顔は、学校で見たクラスメイトの下卑た笑いではなく「鞠屋の死」を忘れることにどこか必死になっているように、僕には映った。だから、そんな彩に「鞠屋が死んで悲しいのか」と聞く勇気もないし、励ましの言葉も、今はなんとなく場違いな気がした。

 食事も終わり、後片付けを始めようとしたときだった。

 

「手伝うね」

「え」

「何よ。だって、その腕なんかやりづらそうだし」

「あ、うん。まあ、ある程度は……」

「ホントはご飯の用意も手伝いたかったんだけど、なんかボーっとしちゃってさ。ごめんね」

「全然。気にしてないよ。ありがとう」

「どういたしまして。そんじゃ、怪我人は座っといてー」

 

 そう言って、彩はてきぱきと後片付けを始めた。彼女の後姿を眺めていると、ふと、一昨日のことで疑問に思っていたことが頭に浮かんだ。聞こうかどうしようか少しだけ迷ったが、結局好奇心が勝った。

 

「彩」

「んー、何?」

「あのさ、一昨日、なんで夜にあんなとこにいたんだ?」

「ああ、えっと、御槻が襲われてたときのことよね? 学校の帰りよ」

「学校の?」

「そ。なんていうか、お恥ずかしい話、部室のロッカーに肌着とかついつい忘れて帰っちゃうのよね。まあ、男子なんか部室に制服のシャツとか干してるくらいだし、些細なことよ」

「彩は女の子なんだから、そういうのには気をつけた方がいいと思うけど」

「ごもっともです。で、日曜は顧問の先生の都合で部活が休みだったんだけど、土曜日の部活で忘れちゃってさ。ほら、こんな時期じゃん? 週明けでロッカー開けたら地獄なのよね」

「その言い草は何回かやらかしたんだろ。不潔だ」

「わ、私はちゃんと清潔にしてるわよ! ていうか、そのおかげでアンタも助かったんだからいいじゃない」

「そりゃ、そうだけど……」

「あ……、ごめん」

「彩のせいじゃないだろ」

 

 うん、と小さくうなずくと、彩は黙りこんでしまった。ちょうど洗い物も済んだのか、こちらに近づいてきた。今までは時間を気にする様子もなかったのに、急に腕時計を気にし始めている。やはり、今訊くには不謹慎な質問だっただろうか。

 自分でも笑えるほどの空気の読めなさだ。

 

「も、もう遅いし私そろそろ帰るね。うどん美味しかったよ。またご馳走してね」

「お、送るよ、駅前まで」

「私は大丈夫。ありがと」

「でも……」

「大丈夫だって。私が強いこと知ってるでしょ?」

「……でも」

「なに? もしかして、私がいざってときに怖がっちゃうような女の子だって思ってたりするんだ? 女の子らしくないとかいっつも言うくせに、こんなときばっかり女扱いしてさー」

「ごめん。……でも、心配だからさ」

 

 彩の勢いに負けて語尾が小さくなってしまう。そんな僕の様子がおかしかったのか、彼女はクスクス笑った。そんな態度を見て僕はどうも拗ねたような顔をしてしまっていたのだろう。彩はため息をひとつ吐いてから、気まずそうに言葉を続けた。

 

「今日、ホントは泊まってもいいんだけどさ。なんか、今日の御槻怖いよ? 泊まってる方が危ないっていうか……。いや、信用してないわけじゃないんだけどね。だから、また明日。どうせ放課後何にもすることないし、また来てあげるわよ。ね?」

「あ、うん。ごめん」

「謝るなよ。それじゃあね。おやすみ、御槻」

「おやすみ、彩」

 

 最後に彩は微笑んで、さっさと帰っていってしまった。

 また、この寂しい部屋に一人だけ。彩がいた分、もっとずっと寂しく感じられる。

 今日はもう寝よう。

 起きていても、嫌なことばかり考えてしまうだけだ。

 今日はもう、寝よう。

 

 § 

 

 翌朝、僕はドアをノックする音で目が覚めた。次いで聞こえてきたのは、昨日一日聞いていなかった、零子さんの声だった。

 

「おはようございます」

 

 ドアを開け、零子さんの顔を見て朝の挨拶をする。

 零子さんは、喪服を着ていた。

 

「朝早くごめんなさいね。一応、シンちゃんにも訊いておかなくちゃって思って」

「なんですか?」

「今から鞠屋さんのご両親に会いに行くのよ。どうも、神戸の馬鹿が私のこと話したみたい。昨日の昼頃、携帯に電話がかかってきてね、是非会いたいって。それで、まあ、シンちゃんはどうする?」

「それは、ついて行くか、行かないかって話ですか?」

「ええ、そうね。もちろん、ついて来たら学校は遅刻しちゃうだろうし、それに彼女のご両親に何を言われるかもわからない。ついて来ないなら、シンちゃんはちゃんと学校行きなさい」

「……」

 

 どうしてこんなことまで、零子さんは僕に選ばせるのだろう。

 僕が鞠屋の両親に会って、何の意味があるんだろうか。きっと並べられるだけの言葉で罵倒される。正直、そんなところにわざわざ行きたくない。だって、それこそ馬鹿みたいじゃないか。罵られることを判って、そこに行くなんて。

 ――違う。零子さんは知っていて訊いているんだ。

 僕はもう、()()()()()()()()()鹿()()()()()()

 

「…………」

 

 零子さんは何も言わない。

 ただじっと、僕の返答を待っていた。

 

「行きます。用意するんで、待っててください」

「そう。じゃ、マンションの前で待ってるからね」

 

 制服に着替え、鞄を持って部屋を出る。ここまではいつもの朝だった。

 ただ少し違うのは、これから行くのは学校じゃなくて、鞠屋の実家ということ。

 それでも、中身は大して変わらない。

 イジメられることを判って通っている学校と、罵られることを判って訪ねる鞠屋の実家。

 ほら、何にも変わらない。

 

「お待たせしました」

「それじゃ、行きましょっか」

 

 鞠屋の家は、引っ越す前の僕が住んでいたところよりも学校から遠くにあった。早くに登校している同じ学校の生徒とときどきすれ違いながら、いくつか電車を乗り継いだ。だいたい一時間くらいだろうか、鞠屋の実家の最寄り駅に到着した。そこから五分くらい歩いて、僕と零子さんは鞠屋の実家の前に立っていた。

 

「心の準備は大丈夫?」

 

 零子さんは僕に振り向き、最後の確認をしてきた。今なら僕は鞠屋の両親に会うことなく学校へとんぼ返りすることもできる。いつもと変わらない日常を過ごすことができる。

 だけど、そうすれば鞠屋の両親と会うことはできない。

 

「……大丈夫です」

「そう」

 

 僕の返答を聞き、零子さんはインターホンを押した。しばらく待つと、インターホン越しの声ではなく、家の玄関が開き、中から女性――おそらく、鞠屋の母親が顔を見せた。

 

「はい?」

「初めまして。私、昨日電話をいただいた赤司零子です」

「……そちらは?」

「あ、あの、僕は、御槻罪、です」

「ああ、はい。お待ちしてました。どうぞ」

 

 やはり、というか、鞠屋の母親には生気らしいものがなかった。彼女は普通に歩いているはずなのに、今にもこけてしまいそうな気がするほどだ。

 

「こちらに座ってお待ちください。今、夫を呼んできますので」

「はい。よろしくお願いします」

 

 どことなく場馴れした様子で零子さんは言う。

 零子さんと一緒にリビングのソファで座って待っていると、鞠屋の両親が入ってきた。それに反応して零子さんは立ち上がり、僕もそれに倣う。お互いに会釈をして、改めてソファに座り直した。

 鞠屋の父親からも、やはり生気は感じられなかった。こうして面と向かってみると、彼らの目が赤いことに気が付いた。おそらく、日曜日から一睡もしていないのだろう。

 

「このたびはご愁傷様です。私がついていながら、こんなことになってしまい、申し開きのしようもありません」

「いえ。今日は、あなたを責めるつもりで来てもらったわけではないんです」

 

 零子さんの言葉にかぶせるように言葉を発したのは、鞠屋の父親だった。

 

「あの子は、おとなしそうな顔をして活発な子だった。蓮理(れんり)――、ああ、妻の名前ですが、彼女からも、男の子との交際期間が長くないこと、また付き合い始めるまでの時間が短いことは聞いていましたが……、こんな……」

「私たちが、もっとあの子のことを心配してやればよかったんです……。今回のこと、責任が誰にあるかなんて、私たちにしかありません……」

 

 そのまま、鞠屋夫妻は独白を続けた。もっと、もっと、もっと。叶わなくなった願いの端々に見え隠れするのは、すべてが鞠屋ゆいへの愛だった。

 独白を続けるうち、夫婦からは涙が流れ始め、声にも嗚咽が混じり始めた。

 

「すいません……、すいません……」

 

 父親は母親の肩を抱き、母親は父親の胸で泣く。

 

「……」

「……」

 

 僕も零子さんも、そんな二人の姿に声を失っていた。横目でチラリと零子さんの横顔を見ると、こわいくらいに表情がなかった。ただ、じっと無表情で鞠屋夫妻の姿を眺めていた。と、僕の視線に気付いたのか、僕の方を向き、彼女は苦笑をもらした。そのままそっと僕の方へ体を寄せ、小さな声で耳打ちした。

 

「鞠屋さんのこと、聞かれたらきちんと答えてあげなさいね」

「え?」

「聞かれたらでいいの。シンちゃんから見た彼女のことを、あの人たちに教えてあげるの」

「……はい」

 

 鞠屋夫妻は十分近く泣き続けた。母親、蓮理さんの方はまだ泣いていたが、先に落ち着いた父親の方が話を進めた。

 

「娘がストーカー被害に遭っていたのは、警察が来て初めて知りました。悩みを悩みと思えないほど少し抜けたところのある娘でしたから、私たちに相談することもなかったのでしょう。それでも、私たちは気付いてあげなければいけなかった。そうすれば、もっと、もっと生きていられたかもしれないのに……っ!」

 

 言っては泣き、言っては泣きを何度も何度も繰り返していた。

 まるで、彼らの目の前に鞠屋がいて、彼女に謝り続けているかのようだった。

 鞠屋が本当にいて、今の彼らを見てなんと声をかけるだろうか。思わず、出そうにもない答えを探してしまう。そもそも、これは答えを出せるような問題じゃないだろう。

 鞠屋は死んだ。殺された。

 もう、声さえ聞けない。

 

「日曜日、ゆいは本当に楽しそうに出かけていきました」鞠屋の父親は震える声で続けた。「また笑って帰ってきてくれるんだと、思わずにはいられませんよ……っ。『いってきます』を言ったきり、ゆいはもう、『ただいま』も言ってくれない……!」

 

 ただ聞くことしかできない。

 だけど、彼らの悲しみの言葉は、僕の耳では聞き切れないほど多かった。啜り泣く声にさえ意味があるような気がして、彼らのちょっとした動作にも意味があるような気がして、何もかもが鞠屋に向けての愛からくるものならば、やっぱり、いくらか罵ってくれた方が僕はずっと楽だと思った。

 

「あの子は、最後まで楽しんでいましたか? 笑っていましたか?」

 

 ぼうっとしていた頭に喝が入る。鞠屋の両親だけでなく、零子さんも僕のことを見ていた。

 

「え、あ、あの……」

 

 心の準備というか、言葉の準備ができていない。どういう言葉で鞠屋のことを伝えればいいのかがわからない。

 ぽん、と零子さんに肩を叩かれた。目に見えて狼狽していたのだろう。優しい声音で「落ち着きなさい」と言ってくれた。深呼吸をひとつしてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 

「ゆいさんは、ずっと笑ってくれていました。不格好な僕の態度も、もしかしたらそれはそれで楽しんでいてくれたのかもしれません。始めは、なんというか、仲良くなれるのかなって疑っていたところはありましたけど、彼女の笑顔を見ていた限りでは、きっと仲良くなれていたと思います。正直、今回僕は仕事として彼女に付き合っていましたけど、仕事が終わってからも、たぶん、仲のいい友達ぐらいにならなれていたと思います」

「……そうか。ゆいは笑っていたのか。君は、私たちの娘の、最後の思い出になってくれたんだなあ……。ありがとう。ありがとう……っ」

 

 そうしてまた、彼らは涙を流した。

 ゆい、ごめん。御槻君、ありがとう。

 悲しみの言葉のなかに、僕への感謝が混ざり始めた。

 涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった鞠屋夫婦の顔は、正直、綺麗なものではなかった。

 だけど、それでも、素敵だと感じることができるくらいには、愛で溢れていたと思う。

 

「ありがとう……」

 

 §

 

 帰りの電車の中で、僕は雑誌を読んでいた。特に目的があって買ったものじゃない。

 ただ、気を紛らわせるにはちょうどいい。今の僕は、少し考えすぎている気がする。

 

「どうだった?」

「何がですか」

「鞠屋さんのご両親と会って」

「……そんなの、わかりません」

「そう。ならいいの」

 

 僕は何をしに、あそこまで行ったのだったか。

 学校に行ってもどうせイジメられるだけなのなら、同じく行っても罵られるだけだろう鞠屋の家へ、僕は何をしに行ったのだったか。

 僕は決して、感謝が欲しくて鞠屋に付き合ったわけじゃなかったはずだ。

 僕に向けられる優しさは、僕の中で恐怖に変わる。あの人たちは何を感謝しているのだ。なぜ、悲しみに暮れながらも「ありがとう」などと口にできるのだ。

 鞠屋が死んだんだ。殺されたんだ。

 

「…………」

「シンちゃん?」

「僕、悔しいんです。こんなときに感謝なんてされたって、素直に喜べないじゃないですか。どうせなら怒っていてくれた方が、きっとあの人たちとは付き合い易いはずじゃないですか。なんで、どうして『ありがとう』なんて言うんでしょうね……」

「……私はもちろん経験ないけど、親だからじゃないかな」

「それなら僕だって経験ありませんよ」

「まぁね。でもシンちゃんと会ってから、ちょっとだけわかった感じ。息子がいたらこんななのかなーってさ」

「息子ってほど歳も離れてないじゃないですか」

「あら? それって、シンちゃん的には私は守備範囲ってことかしら?」

「そういうことで結構です」

 

 零子さんの軽口は、聞いていて心地良い。それをあしらうように反応すると、またそれに零子さんが返してくれる。何気ない会話。雑誌なんかを読んでいるよりもよっぽど気が晴れる。頭を使わなくて済む。余計なことなんか一切ない。

 これは、僕が零子さんに甘えているということなのだろうか。

 もしそうだとしたら、僕はうまく甘えることができているのだろうか。

 少なくとも、零子さんが僕のことを「息子みたい」と感じるくらいには甘えられていそうだ。

 

「それじゃ、私はまた神戸に頼まれてる仕事してくるから。ちゃんと学校行きなさいよ」

「夜は?」

「そうね、今日もいらないわ」

 

 そう言ってから零子さんは軽く手を振り、僕と別れた。

 駅前の時計を見ると、十二時ちょっと。昼休みが始まる頃には学校に到着できそうだ。

 足が重い。うまく前に進めない。意識がマンションへ向く。

 学校へ行きたくない。

 そう思っていた。鞠屋の両親の態度を見てしまったからだろうか、ありえないことだとは思うけれど、学校のみんなの態度まで変わってしまっていそうで、怖かった。

 結局いつもよりもずっと時間をかけてしまい、学校に到着したのは、昼休みが終わる頃だった。だというのに、運動場の一角で生徒が数人残ってだべっていた。こんな暑い日に、よく外でいられるものだ。教室にいれば冷房だって効いているだろうに。

 が、その考えも生徒の顔を見て吹き飛んだ。

 陸生仁と目が合う。彼らはニヤリと笑うと、僕の方へ近づいてきた。

 

「シンさぁ、ホントよく学校とか来れるよなあ。そういうところ、俺大っ嫌いだわ」

「嘘吐けよ、お前さっきまで『シン来ねえなー』とか言ってたじゃん」

「これが噂にきくツンデレってやつ? 仁きもッ!」

 

 下品な笑いが僕を囲う。

 この暑い日に僕を囲う生徒の一人が肩を組んできた。逃がさない、という意思表示だろう。

 そのまま学校の裏にあるゴミ捨て場まで連れて行かれた。いつもの場所のひとつだ。校舎内で見つかれば職員室から遠いトイレだし、校舎外で見つかれば決まってこのゴミ捨て場だ。昼休みも終わろうという時間で、ここに来る生徒はおそらく僕らぐらいのものだろう。ゴミ収集車も放課後にやってくる。少し騒いだぐらいで、ここに飛んでくるような教師もいない。

 

「オラァ!」

「っぐ!?」

 

 陸生君の蹴りが腹に突き刺さる。それを引き金に、他の生徒も顔だけは避けて殴る蹴るを始めた。痛い。しんどい。やっぱり来るんじゃなかった。

 鞠屋の家に行って、罵られるでもなく感謝され、学校に来ればいつも通り、イジメが始まる。これじゃ、本当の馬鹿じゃないか。どっちか一つでよかったじゃないか。どうして僕は、こんな馬鹿なことをしているんだ。

 

「おい、腕抑えろ。包帯巻いてる方潰そうぜ」

「え、お、おい陸生。それはちょっとやりすぎじゃね?」

「うるせぇよ、黙って抑えろ!」

 

 ゴミ捨て場の一角に寝転がされ、右腕を抑えつけられる。陸生君の足があがる。

 

「らぁッ!」

 

 強烈だった。体重をかけた踏みつけが右腕を捉える。ごりっ。

 瞬間、痛みで思考が埋め尽くされた。頭の中がバチバチ弾ける。腕と同じくらい喉が熱い。声が出てこない。声が出せない。しばらくすると痛みが消えた。ただひたすら熱い。

 熱い。熱で意識がとけていく。暗く暗く、なっていく。

 

 §

 

「――か! 聞こえますか! 起きてください!」

 

 その声、というよりは右腕の痛みで目が覚めた。痛みを訴える声をあげると、女子生徒は慌てて僕の身体から手を離した。小さな衝撃だが、地面に倒れるときのものでまた腕に痛みが走る。

 これは折れてるかな。ここに人が来たことから考えて、それなりに時間も経っているようだし、変なことになっていなければいいのだが……。

 

「君さ、携帯とか持ってないかな」

「え、け、携帯ですか? はい、あ、ありますっ」

 

 やけに素早い動きで携帯を取り出し、僕に携帯を差し出してくる。

 

「あの、腕が動かないみたいだから、救急車呼んでくれないかな」

「は、はいっ、救急車ですね! 一、一、九……。あ、もしもしっ! 救急です! えっと、学校のゴミ捨て場に倒れてて、腕が動かないらしくて……」

 

 学校の名前を言い終わると、彼女は通話を切り、こちらを向いた。すぐに来ますよ、と励ましの言葉らしきものを微笑みと一緒に言ってくれた。

 

「ありがとう。僕、携帯とか持ってなくて。それじゃ、もういいから。帰ってくれてもいいよ」

「ええっ!? そんな、ほ、ほっとけませんよっ! 私、ここにいますっ」

「その気持ちはありがたいけど……」

 

 気負いすぎではなかろうか。学校の中ですれ違ったことは、もしかしたらあるかもしれないが、僕と彼女は初対面だ。確かに、倒れていた僕を見つけてくれて、かつ救急車を呼んでくれた本人ではあるだろうが、彼女が僕に付き合う必要はあるとは思えない。むしろ時間の無駄だし、今の僕の状況を考えればあまり他人を近づかせたくはない。

 

「やっぱりいいよ。大丈夫。意識もハッキリしてるみたいだし」

「で、でも倒れてたし、腕も動かないって言ってたじゃないですかっ!」

「それはそうだけど……」

 

 試しに腕をあげてみようとしたが、少し動かしただけで断念した。このままじゃ、まともに起き上がることもできそうにない。ため息をひとつ吐いてから彼女の様子を窺うと、僕の意見などはじめから聞くつもりはなかったのか、それとも僕が納得したと思ったのか、彼女の意識は僕ではなく、救急車の到着に向けられ始めていた。どうにしろ、彼女とのこれ以上の問答は意味がないようだ。

 とは言ってもやはり怪我人が心配なのか、時折こちらを見る彼女は、目が合うとニコッと笑って、その度に明るい声音で励ましの言葉をかけ続けてくれた。大丈夫ですよ。痛くないですか? 喉乾いてないですか? 救急車遅いですねえ。――などなど。

 世話焼きというか、お人好しというか。態度を見れば明らかに動揺しているのに、親切心が先走りし過ぎていて頑固な一面が特に押し出されている。もしかしたら、何度も話しかけてくるのも、自分の中の不安を拭い去りたいからなのかもしれない。

 

「あ、さ、サイレン聞こえました? もうすぐですよ」

「うん、聞こえてるよ」

 

 そこからは早かった。運動場に出て運ばれている途中に目に入ったのだが、救急車が学校の前に止まっていたからか、ほとんどの教師が職員室から出てきていた。運ばれているのが僕だとわかると、どことなく納得したような、諦めたような顔をしていた。

 教師でさえこうなのだ。面倒事に巻き込まれたくない。そういう考えがあるからこそ、今まで僕の言い訳で事を済ませていたのだろう。僕だって面倒事はできるだけ避けたいと思う。彼らの判断は、おそらく人として正しい。まあ、だからこそ、僕が正直に「イジメられています」と言ったところで、本気で向き合ってくれるかどうかは疑わしいのだが。

 

 だけど、この子はどうだ。

 倒れて気絶していた僕に声をかけて無事かを確認するまでは、まあ、許容範囲だ。だけど、それ以上はただの面倒事でしかないとわかっていて、彼女は僕に付き合っている。そのうえ、同じ学校に通っているという点を入れても、僕と彼女は究極的に他人だ。他人にここまで献身的になれるなんて、将来は福祉とか、医療関係の職にでも就くつもりだろうか。

 僕が彼女の将来について考えても、それは詮無いことだ。彼女のことを僕がどう思うにしろ、とりあえずの感謝だけは示しておかなくては。

 

「ありがとう。また会ったら、何か奢らせてもらうよ」

「い、いえっ! そんな、とんでもない!」

 

 お礼がそんなに「とんでもない」ことだとは思わないが、どうやらこの反応を見る限り、彼女からすれば僕の面倒を見たことは『当り前』だったようだ。つくづく彼女がわからなくなる。一度切り上げた思考がまたぶり返す。どうして彼女はこんなにも献身的なのか。

 僕のために、彼女自身の時間を潰すなんて、やっぱりどうかしてる。

 僕は救急車に乗せられ、彼女は救急隊員に発見の際の状況をおどおどしながら説明していた。ただ、おどおどしながらもその内容はしっかりしたものだったらしく、救急車で運ばれている途中、救急隊員に「しっかりした子に助けてもらったね」と言われた。

 

 名前、住所、年齢など、つい最近も説明したことを繰り返し救急隊員に伝える。もちろん、同乗している救急隊員は別人だったので、向こうは繰り返し、などは思ってもいないだろうが。

 その中でも、「家族の連絡先は?」と聞かれると一番困る。肉親という意味では祖父母がいるが、連絡を取ったところであの人たちはきっと僕の様子を見にくることさえないだろう。

 前回もそうだったのだが、だから僕は、零子さんの携帯番号を教えた。

 

 §

 

「気持ちはわかるけどね、ちゃんとシンちゃんのおじいちゃんとおばあちゃんの連絡先を教えてあげなさい。まあ、今実際にシンちゃんの面倒を見てるのは私みたいなもんだけど……」

「え」

「……なによ」

「いえ、なんでもないです」

 

 逆じゃないですか、それ。――とは、口が裂けても言えないことだ。

 祖父母からは学費以外である程度の仕送りはある。零子さんからのバイト代だって、ちゃんともらっている。その点で言えば、間違いなく僕は零子さんに面倒を見てもらっていることになる。だけど、それを差し引いてもこの人の面倒は僕が見ていると言っても過言ではない気がする。

 

「それにしても昼間にリンチされて、放課後に目が覚めるって……。今日が曇り気味でよかったわね。腕も内出血はひどいけど、折れてないみたいだし。二、三日入院しろって言われたんだっけ?」

「ええ、まあ。だから今こうやって病院のベッドの上で寝転んでるんですが」

「あはは! ま、いいんじゃない? 最近いろいろありすぎだから、ここらでひとつ休むのもいいかもしれないわよ。病院で、ゆっくり心を落ち着けて、いろいろ考えなさいな。考えないのも手ね。ぼーっと一日を過ごしてみなさい」

 

 そう言って、零子さんは僕の頭を撫でてくれた。

その瞬間、僕の全身が総毛立った。首から上の感覚が熱に支配される。耳元でどくん、どくん、と心臓の音がする。思わず、零子さんの手を払ってしまった。

 

「およ?」

「あ、す、すいません……。なんか、急に……」

「ぷ、あははっ! 何、恥ずかしいんだ? かわいい~」

 

 僕の反応がそんなに面白かったのか、今度は少し強引に頭を撫でてきた。髪の毛がぐしゃぐしゃになるまで、うまく抵抗できない僕の頭を撫で続けられた。恥ずかしいもクソもない。ただ少し、うっとうしいと思う片隅で、嬉しいと思う僕もいた。何が嬉しいのかは自分でもよくわからないけど、きっと、母さんに褒めてもらえていたら、こんな気持ちになるのかもしれない。

 

「ああ、そうだそうだ」

 

 零子さんは帰る直前、僕の方を振り向き、「またね」とは違う言葉を言った。

 

「学校と、おじいちゃんおばあちゃんの方には私から連絡しておいたから。シンちゃんはゆっくり休んだらいいのよ。じゃあね」

 

 零子さんの姿が扉の向こうへ消える。祖父母はともかく、入院ということならば学校に連絡しなければいけなかったか。すっかり忘れていた。どうしてこう、彼女は妙なところでしっかりしているのだろうか。助かっているので文句は言えないのが悔やまれる。

 その後は、夕食時までずっとぼーっとするだけだった。特に眠くもならず、何かをする気にもなれず、本当にただぼーっとするだけだった。

 夕食の間中もずっと何の感慨も持てずに過ごした。僕が入院しているのは確かなのに、まるで、自分の部屋で変わらず過ごしているような感覚があった。原因にはなんとなく気付いている。僕の部屋には、およそ生活臭と呼べるものがないからだ。病室と同じ。いや、備え付けのテレビがあるぶん、病室の方がまだ幾分かマシだろうか。

 考えることなど、もうほとんどない。鞠屋ゆいのことについては、殺されたことには納得がいっていないし、もちろん悔しいが、だからといって僕にできることなど何もない。警察が早期の犯人検挙に尽力してくれることを願うばかりだ。

 

「僕は、なんなんだ」

 

 零子さんがいて、彩がいて、鞠屋がいれば、もしかしたら僕は変わっていけたのかもしれない。少しずつ、少しずつ、友達も増えて、学校の休み時間には顔をあげて、笑っていけるようになったかもしれない。

 ――鞠屋が殺された。

 悔しい。殺されたことに納得できない。

 本当にそれだけなのか? それだけのことで、僕の中の何かはこんなにも容易く崩れてしまうのか? 考えることは堂々巡り。考えても考えても、思いつくことはいつも同じ。自分の思考に飽きてくる。考えることを諦めたくなる。

 

 重い。思考が重い。身体が重い。何もかもが重い。

 僕を取り巻く何もかもが、僕が変わることを拒んでいる気がする。

 僕自身も、もう無理に変わろうとしない方がいいんじゃないかと思い始めている。

 僕はこれでいいんじゃないのか。

 学校へ通い、陸生君たちにイジメられ、休み時間は机とにらめっこして、下校もコソコソと逃げるようにしていればいいんじゃないか。それでいままでやってきたんじゃないか。これからもそれでいいんじゃないか。

 

 そうでないと僕は、生きていけないんじゃないか?

 そう思った瞬間、僕はわけのわからない罪悪感に歯を食いしばっていた。

 

 §

 

 朝。起きると右腕が鈍い痛みを発していた。外を見ると雨が降っていた。それを見て、僕はどことなく息苦しさを感じた。窓一枚を隔てた外が、とても遠くに見えたからだ。

 いやな朝だった。学校に行けなくてよかったと思う。

 朝食を食べた後、昨日と同じようにボーっとしていた。窓を水滴が流れていく。どれほどそうしていたかもわからなくなった頃だった。

 

「やっほー。シンちゃん元気してるぅ?」

「零子さん」

「気の抜けた顔してえるわねえ。もっとシャキッとできないの?」

「……」

 

 思わず黙ってしまった僕の様子を見て何かを感じ取ったのか、零子さんは明るさを抑え、静かにベッドの端に腰を下ろした。

 

「その様子だと、いろいろ考えちゃったか」

「……はい」

「何考えてたかとかは、あえて聞かないでおいてあげる。シンちゃんも話したくないかもしれないしね。ただ、今、どんな気分なのかは教えてほしいかな」

「……今、ですか。今は、なんだか、何にもしたくないというか、何かをするのが面倒というか、そんな感じ、です」

「そっか。そんな感じなんだ」

 

 そう言ったきり、零子さんも黙ってしまった。別にフォローが欲しかったわけでも、励まして欲しかったわけでもないので、特に困ることはない。ただ、僕の今を聞いて、零子さんはどう思ったのだろう、という疑問だけはあった。

 もちろんそれを聞くような度胸は僕にはないし、今誰かとしゃべることすらおっくうに感じている。できれば、今日一日中寝て過ごしてしまいたいくらいだ。寝れば、起きているときよりもいくらか考えずに済む。

 

「人ってさぁ、心の中で決めたことって、あんまり実行できないよね」

「え?」

「まあ、聞いてよ。例えば、私には必要ないけど、ダイエットとかさ。やろう! って思ってもなかなか続かないのよね。先の結果よりも、今の満足をとっちゃうから。痩せた私よりも、お腹一杯で幸せな私をとるわけ。そりゃあ痩せれば見た目がよくなるかもしれないけど、それで確実にモテるかどうかもわかんない。でも、お腹が減っているときにおいしいモノいっぱい食べられたら幸せでしょ?」

「そうかもしれませんけど……」

「だいたいの人ってさ、目に見えるカタチでないとなかなか充実感得られないのよ。例えばバイト。働いてる最中はしんどいなぁって思うかもしれないけど、お給料もらったら『私って仕事してるんだなあ』って思える。例えば恋愛。好きな子がいるだけじゃ苦しいかもしれないけど、その子とちゃんとしたお付き合いができるようになれば、もちろん嬉しいわよ」

「……よくわかりません」

「シンちゃん、変わりたいって言ってたわよね。具体的にどんな自分になれば、変わったと言えるのかわかる? 私にもそんなはことわからないわ。シンちゃんはね、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。変わりたいってね、そういうことなのよ」

 

 答えなんてなくて、問題だけを抱えていく。

 引き返せないうえに、出口すらない迷路に僕は迷い込んでしまったわけか。アリアドネの糸を忘れてしまった僕は、一体どんな怪物に殺されてしまうのか。――いつから癖になってしまったのか、面白くもない例えが浮かんだ。

 

「そうだとして、僕にどうしろっていうんですか?」

「その前に、シンちゃんはまだ変わりたいって思ってるの?」

「……わかりませんよ。もう、そんなこと思わない方がずっと楽な気がするんです。でも、何かが引っ掛かるんです。もういいやって匙を投げることは簡単なのに、その肝心の匙が手を離れてくれないんですよ? なんなんですかこれ。もう、わけがわからないんですよ……っ!」

 

 ふつふつと怒りが湧いてくる。こんな感情を持ちたくなんてないのに、持ってしまった感情の矛先を、自然とその場にいる人に向けてしまった。

 

「言いたいことはそれだけですか? なら、出てってくださいよ。残念でしたね、せっかく来たのに、僕がこんなので」

「…………」

 

 零子さんは、黙ったまま部屋から出ていった。扉が閉まるのと同時、自己嫌悪で吐きそうになる。ぐるん、と天地が逆転してしまったような錯覚があった。あんなのはただの八つ当たりだ。零子さんは零子さんらしく、僕にアドバイスをくれただけだったはずだ。なのに、あんな言い方はないだろう。最低だ。

 

「どうせなら、零子さんも怒ってくれればよかったのに……」

 

 自分で言っておいて、それがどれだけ無責任で無茶苦茶なことを言っているのか。それがわかる分、また僕の中で自己嫌悪がずしりと積み重なる。

 もう、イヤだ。もう充分だろう。

 僕は、逃げるように眠りについた。

 

 

 ごろごろ、と地鳴りにも似た雷鳴で目が覚めた。まだ眠いままの目で窓の外を見ると、昼間よりもひどい雨になっていた。遠くの空では、ときどきピカッと雷が光り、数秒遅れて音が聞こえてきた。

 しばらく外を眺めていると、部屋の扉が開く音がした。看護師さんが湿布の貼り替えにでも来たのだろうかとそちらを向くと、意外な訪問者がいた。僕を起こしてくれたあの子だ。

 やけに足音を殺し、ゆっくりゆっくりと近づいて来るその子は、僕が寝ているとでも思って気遣いしているのだろうか。起きている僕を見るなり、ほっとした表情を見せてから二コリとほほえみかけてくれた。

 

「え、えと、どうも」

「こんにちは、でいいのかな。今起きたばかりだから時間がよくわかんなくて」

「えぇっ!? も、もしかして、起こしちゃいました、か?」

「いや、雷の音で起きて」

「あ、そ、そうですか。よかったぁ~」

 

 僕の言葉を聞いて、彼女は安心したようだった。

 

「それで、何か用事でもあるの?」

「えっ、用事? ありませんけど……、何かありましたか?」

「え?」

「え?」

「……いや、まあ、いいや」

「は、はいっ、すいません……」

 

 用事がないのに来たのか。ただのお見舞いってことなのだろうか。それとも、学校側から様子を見てくるよう頼まれでもしたのだろうか。いや、だけどそういうのは普通、担任とかがするものじゃなかろうか。

 気まずい空気が流れる。何分も無言が続いた。どうやら向こうもこちらを気にしているらしく、こちらが向こうの様子を窺うときにときどき目が合う。すると彼女は、気まずさをごまかすために微笑む。

 どことなく、親近感を覚えた。

 

「あの、御槻先輩、で、よかったです、よね?」

「え? ああ、先生に聞いたんだ」

「あ、はいっ。お、お見舞いに行きたいって職員室で言って、この病院のこと教えてもらって、それで来たんですけど……。よ、用事もなしにきて、すいませんでした」

「いや、それは全然いいんだけどさ。なんか自意識過剰っぽくなるからこういうの聞きたくないんだけど、僕のこと知らない?」

「えっと、御槻先輩、ですよね?」

「そうなんだけど、僕がどういう人かっていうこと。結構有名っていうか……」

「そ、そうなんですかっ!? す、すいませんっ、私全然そんなの知らなくてっ」

 

 今にも泣き出しそうな顔をしながら、彼女はペコペコと勢いよく頭を下げ続けて謝ってきた。どうやら、僕のことを偉い人か何かと勘違いしているらしい。実際の僕はそんな大それた人物などではなく、校内でも有名なイジメられっ子というだけなのだが。

 

「あ、あの、御槻先輩は私のこと知りませんよ、ね? 莉尾(りお)(うらら)、です。一年生です……」

 

 脈絡のない自己紹介だった。彼女――莉尾は、僕がある意味で有名(勘違いしているようだが)だと知ってから先ほどにも増して恐縮してしまい、顔も合わせようとしなくなった。

 そんないい意味で有名ではないことを訂正したいが、だからといって「イジメられています」なんて、ろくに話したこともない子に話す気にはなれない。零子さんにだって、打ち明けるまでに結構な時間がかかったというのに。

 再び無言の時間が流れる。莉尾がどんなことを考えているかは知らないが、何もないのなら帰ればいいのに、何をずっとここに居続けているのだろうか。少しだけ話した感じ、積極的に「友達になりましょう」という性格でもなさそうだし、逆にあまり人と関わろうとしないという性格とも考えられない。そもそも人と関わろうとしないのなら僕を助けた後、救急車を一緒に待つなんてことをしないだろうし、こんなお見舞いなんて来るはずもない。

 なんだか、よくわからない子だな。

 

「あ、あの、こんなこと訊くのは失礼かも、ですけど、御槻先輩って、いつも何してるんですか?」

「え?」

「あ、あのっ、ごめんなさい! すいませんっ」

「いや、そんなに謝らなくてもいいけど……。でも、どうしてそんな?」

「あの、その、み、御槻先輩ってどことなく、や、優しいっていうか、なんだか、お友達もいっぱいいそうで、それで、ちょっと、いつも何してるんだろうって、思って……」

「……僕が?」

 

 僕のその反応に、莉尾は不思議そうに首をかしげた。違うんですか? とも訪ねてきたので、全然違うと言って返した。この僕に友達がいっぱいいそう、と思っていた莉尾さんにこそ驚きたいところだったのだが、その前に彼女は続けた。

 

「で、でも、私みたいにチンチクリンでもないし、や、優しそうだし、先輩、もしかして私のこと、か、からかってるんです、か?」

「待って待って。僕はそんな莉尾さんが思ってるような人じゃないよ。からかってもいない。全部本当だよ。小学校から友達らしい友達なんていないままだし、むしろ、その、僕はずっとイジメられてきたし……」

「え……? い、イジメ?」

 

 ああ、馬鹿だ。

 ついさっき、イジメられているなんて言いたくない、みたいなことを思っておきながら、もう口を滑らせている。咄嗟に違う言葉が浮かんでこなかったのだ。仕方なかったといえば仕方なかったかもしれない。

 だからもう、隠すことはやめよう。僕のことを全部言って、もう僕とは関わらないようにしっかりと忠言するんだ。もう、あんなのはたくさんだ。

 

「僕はイジメられてる。今回倒れてたことだって、熱中症とかじゃないんだ。だから、誰かに見られない内に君にすぐ帰るよう言ったし、本当ならお見舞いにだって来てくれるなと思ってた。莉尾さんを僕のイジメに巻き込ませたくなかったから」

「……わ、私、そんなの、ぜ、全然知らなくて、ご、ごめんなさいっ、すいませんっ」

 

 莉尾はえらく混乱した様子で謝罪の言葉を言い続けている。

 謝るくらいなら、ここからすぐに帰って欲しかったのだが、今にも泣きそうな女の子を追い出すわけにもいかないだろう。彼女が落ち着くまで待つことにした。

 三度沈黙。莉尾の謝罪の言葉も聞こえなくなり、雨が窓を打つ音だけが耳に届く。

 

「あの……」雨が窓を打つ音にさえかき消されてしまいそうなほどに、莉尾はか細い声で言った。「き、聞いてもらってもいいですか?」

「……聞くよ。ちゃんと聞く」

「あ、ありがとう、ございます。その、なんというか……」

 

 そこで莉尾は言葉を詰まらせた。言葉を選んでいる、という感じではない。これは、恥ずかしがっているのだろうか。

 

「わ、私、倒れてる先輩を見て、本当は関わらずに、そ、そのまま帰るつもりだったんです。もうすぐゴミ収集車も、く、来るだろうからって。でも、その、きっと、ど、どうかしてたんだと思うんですよね、私。この人を助けたら、今の私から変われる。きっと何かを変えていけるって気がして、みんなも見直してくれるんじゃないかって思って……」

 

 こんな体験は、人生で一体何度ほど経験できることなのだろうか。

 

「私も、い、イジメられてるんです……」

 

 莉尾麗という少女にとっての告白は、僕にとって少し前の自分自身を見ている気分にさせられた。まるで鏡を見ているような気分だ。

 年齢も違う、性別も違う、イジメの内容もきっと違う。何もかもが違うはずの僕と彼女は、変わりたい、と願う点で一致していた。それは、零子さん曰く『答えなんてなくて、問題だけを抱えていく』ということ。

 

 莉尾はもう微笑まなかった。苦笑だけが彼女の顔に浮かんでいる。

 同じイジメられている者同士仲良くしましょう、なんて口が裂けても言いたくない。僕と莉尾は仲間を見つけたわけではない。僕らは、同じ穴のムジナだったのだ。相手を励ますことすらできず、相手が倒れたならば助け上げることもできない。お互いがお互いの傍観者にしかなれない。

 

 でも、なぜだろう。

 僕は莉尾に救われた気がした。

僕を介して『変われる』と思ってくれた莉尾に、僕は知らずの内に頭を下げていた。

 

「嬉しいのかな……。わからないけど、ありがとう」

「え、えっ?」

 

 本当に何がなんだかわからなかった。涙が溢れそうになる。

 零子さんの言葉からは苦しいことばかり目立って聞こえていたけど、ちゃんと言ってくれていたんじゃないか。たとえ答えのない問題が相手でも、取り組んだという事実と、ちょっとした充足感程度ならあるのだと。

 答えなどなくとも、ほんの一握りの充足感があれば、前に進む足は止めずに済む。

 もし歩みが止まってしまったとしても、またすぐに歩きだせるはずじゃないのか。死んだから止まってしまったんじゃない。疲れたから止まってしまったんだ。諦めることは決して悪ではない。迷ってしまって当り前なのだ。止まってしまうのもあるいは仕方のないことなのだ。

 僕が挑んでいる問題は、答えなどないのだから。

 

「莉尾さん。僕、君に紹介したい人がいるんだ。もし都合がつくのなら、明日の夕方、またここに来てくれないかな。都合がつかないなら明日じゃなくてもいい。いつでもいいんだ。もちろん、この話を断るならそれでもいい。僕と関わり合いになりたくないのなら、もう僕に構わなくても全然いいんだ。選ぶのは、莉尾さんだから」

「…………」

 

 莉尾は、驚きで固まってしまっていた。それは、僕の言葉に何かを感じたからなのか。もしかしたら、急に明るい調子になった僕に面食らっているだけかもしれない。

 莉尾の表情は驚きから次第に思案顔に変わり、そして、彼女は静かにうなずいた。

 

「その人と、会ってみたいです」

「わかった。僕から連絡は入れておくから。明日でいいんだよね?」

「あ、は、はいっ」

 

 零子さんは莉尾を見て何と言うだろうか。

 迷惑だと呆れられるだろうか。それとも、笑って受け入れてくれるだろうか。

 莉尾のことはもちろんだけど、それ以上に僕にはなんと言ってくれるだろうか。

 

「現金だな、僕って」

 

 莉尾には聞こえないよう、口の中で呟く。

 あれだけ零子さんを突き離しておいて、僕は今さら何を期待しているのか。

 けれども、これは期待もしたくなる。期待の一つでもしないと、今の僕はまた歩き始めることすらできそうにないから。

 人生で何度あるかもわからない、たった一掴みの充足感のために、これからの僕は生きていかなければいけないんだ。いいじゃないか、これくらいの期待なら。

 

「えっと、それじゃあそろそろ、か、帰りますね。雨も止んだみたいなので」

「あ、うん。なんていうか、お見舞い、ありがとう。また明日」

「は、はいっ、ま、また、明日っ」

 

 苦笑いではなく、微笑みを残して莉尾は帰って行った。

 僕の中に気持ちのいい余韻があった。それは、決して自分が善いことをしているなどと思っているからではない。僕が変わりたいと願ったのは、善人になるためじゃないからだ。ならこの余韻は一体何なのか。

 僕にだってわかる。これは充足感だ。

 彼女の帰り際に見せた微笑みは、僕にとってのゴールデンドロップだった。

 僕が自分自身で確認できる『変わり始めている』という事実の一滴。

 知らずの内に、僕は病室を出て病院に備え付けてある公衆電話の元に向かっていた。かける相手は、もちろん零子さんだ。明日また、来てもらわないといけない。

 しばらく呼び出し音が続き、やっと出てくれたと思ったら留守電に繋がっていた。それはそうだ。今頃はきっと、仕事をしている最中なのだろう。留守電には昼間の謝罪と、明日も来るのを待っていること、会って欲しい人がいることを入れておいた。

 後は、零子さんがこの留守電を聞いてくれるかどうかだった。

 

「……来てくれますよね」

 

 受話器を置くと、看護師さんに後ろから声をかけられた。

 

「御槻さん、湿布貼り替えますよ」

「あ、はい。今行きます」

 

 病室に戻り、ベッドに腰掛け、看護師さんが僕の右腕の湿布を貼り替える作業をじっと見ていると、看護師さんはいきなりクス、と笑い声をもらした。どうかしましたか、と聞くと、彼女は「ごめんなさい」と言って立ち上がった。

 

「湿布、また貼り替えに来ますから」

「あ、どうも。それで、何かおかしなことでもありましたか?」

「君ってモテモテだなって思って。さっきも女の子来てたでしょう?」

「ああ、僕が倒れてるところを見つけてくれた子なんですよ。わざわざお見舞いまで来てくれて……」

「へえ。じゃあ、昼間に来てた人はお姉さん? 昨日も来てたよね、美人だったねえ」

「いえ、あの人はバイト先の上司で……」

「あら、そうなの? そうだったんだ。へえ」

「なんですか?」

「モテる男は大変そうだなぁって。それじゃあ、お大事に」

 

 言うだけ言って、看護師さんは帰って行った。モテモテだ、なんて言われたけど、莉尾はそういう気持ちで来てたんじゃないだろうし、零子さんは……、どうなんだろう。

 とにかく、そういう色恋沙汰ではないことは確かなのだ。

 莉尾にしたって、そんな余裕があるとは思えない。程度にもよるだろうが、イジメられていながら、そんなことを考えていられるほどの精神的な余裕はないように思う。そうは思うのだが、彩のことが好きだと自覚してしまった手前、そうとも言い切れないか。

 きっと僕が慣れ過ぎているだけだろう。

 その日の夕食は、なんとなくだけど、豪華なものが並んでいる気がした。

 

 §

 

 翌日。

 

「やー、シンちゃん。元気してたぁ?」

 

 零子さんは、昨日のことを微塵も気にしている様子をみせずにやって来た。僕が彼女の態度に面食らっていると、やけに高いテンションで絡んでくる。

 

「ん? うわっ、零子さんお酒臭いじゃないですか」

「ちょっとだけよぅ。この頃お仕事大変でさぁ、ちょっとくらい息抜きしたっていいじゃん」

「そりゃいいですけど、ここ病院ですよ。ていうか、まだ昼間ですよ」

 

 近づかなければわからないほどの臭いではあるが、アルコール臭いまま病院に来るのはいかがなものか。そんなことを説いたとしても、素直に零子さんが聞き入れるとは思い難い。

 

「そもそも、会って欲しい人がいるって携帯に入れておいたはずなんですが……」

「そう、それよそれ。なに。恋人?」

「なんでいつもそっち方面ばかりを……」

 

 どれだけ僕が注意したところで、零子さんはきっとやめないだろう。もはや彼女の挨拶のようなものなのになっているのかもしれない。

 さすがに病院にアルコール類を持ちこむことはなかったようだが、おつまみやジュース類は買い込んできていた。この人は一体何をするつもりでここに来ているのかがよくわからない。

 しばらくはおつまみを食べながらしゃべり続けていた零子さんだったが、やがて暇になったのか、テレビを点けようと身を乗り出したのだが、肝心のテレビが点かない。文句が飛んでくる前にカードを買っていないと言うと、彼女は頬を膨らませながら二本目のビーフジャーキーをかじり始めた。

 

 しばらくはジャーキーをかじりながらおとなしくしていた零子さんも、さすがに我慢ができなくなったのか、「売店に行ってくる」と言い残して部屋を出ていった。おそらく雑誌でも買いに行ったのだろう。

 そろそろ学校も終わる時間だろう。もうすぐ、莉尾に零子さんのことを紹介できる。

 そういえば、零子さんにも莉尾にも「会わせたい人がいる」というだけで、僕は全然詳しいことを教えていない。零子さんになら、帰ってきてからでもどんな子なのかくらいは話すことができるだろうか。

 と、そんなことを考えているうちに部屋の扉が開く音がした。零子さんが帰ってくるにしてもやけに早いな、とそちらを向くと、案の定やってきたのは零子さんではなかった。

 しかし、莉尾でもない。

 

「ほんとに入院してるし……」

「彩……?」

「学校休んでるから何してんのかなって思って、職員室に聞きにいったら入院してるって言うじゃない。ホント、勘弁してよね。めちゃくちゃ心配しちゃったじゃない」

 

 不機嫌を隠す様子もなく彩はベッドの端に座り、今日ここに来た理由を簡単に説明してくれた。一昨日に学校に救急車が来ているのは知っていたのだが、運ばれているのがまさか僕だとは思っていなかったらしい。僕がその日学校を休んでいたことが気になってマンションに行ったが、インターホンを鳴らしても返事はなし。その次の日も休み、そのうえマンションに行ってもやっぱり返事はない。その後学校に戻って、僕はどうしているのかと僕の担任に聞き、入院していることを聞いて、そして今日、こうして顔を見に来たという。

 

「ごめん」

「いいよ、もう。入院っていうからどんな怪我したんだって思ったら……」

 

 不機嫌な様子から一転、大きなため息を吐きながらぎこちない笑顔を浮かべた。

 

「全然大丈夫そうで安心したわ。ていうか、なにこれ」

 

 彩は零子さんが散らかしっぱなしで出て行った一人宴会後を指差す。

 どう説明すればいいのか。

 

「えっと、それはバイト先の上司さんがいて、それで……」

「バイトぉ!? 御槻、バイトなんかしてたの? いつから?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「全然聞いてない。引っ越しン時もそんなこと言ってなかったじゃん」

「あー、そうだったっけ? ごめん。まあ、バイトしてるんだけど」

「バイトしてるって……、なんで?」

「え? なんでって、そりゃお金稼がないと今のマンションにいれないし……」

「あ、ああ。そういうこと。どこで働いてるの?」

「どこって言われたら微妙なんだけど、僕のマンションの隣の部屋だよ。私立探偵してる人がいて、その人に手伝ってくれって言われて、その、流れで働くことになっちゃって。あ、でもいいんだ。その人ぐうたらだけど悪い人じゃないし、給料だってちゃんと払ってくれてるし」

「そ、そうなんだ。へえ……、そう、なんだ。なんだろ、ちょっとショックかも」

「ショックって。そりゃ彩は僕のこと昔から知ってるからそう思うんだろうけど、ショックはちょっとひどくないか?」

「う、うん。だよね、ごめんね」

 

 そういうわりに、彩はまだ動揺しているようだ。チラチラと、いつも僕がするような感じでこちらの様子を窺っている。

 思い返せば、確かに彩に僕がバイトしていることは伝えていなかった。引っ越しを伝えることばかりに気を取られていたからか、そっちを伝えるのをすっかり忘れてしまっていた。

 ということは、あのとき鞠屋と一緒にいたのも仕事だったのだと伝えていないことになるし、このおつまみの持ち主があのときの女性だということも知らないことになる。

 いらぬ誤解を招く前に、話しておいた方がいいかもしれない。

 

「あのさ、鞠屋がストーカーに襲われてるとき一緒にいた女の人覚えてる? 実はその人が隣に住んでる探偵なんだ」

「は? え、あ、あの人? あの人が、御槻の隣に住んでる人なの……?」

「そうだよ。もうすぐ帰ってくると思うけど」

 

 そのとき、部屋のドアが開き、待ち人である零子さんが帰って来た。

 手には売店の袋を持って、きょとんと僕らのことを眺めていた。そのままスタスタと一人宴会を開いていた場所まで戻り、ぺこり、と彩に向かって頭を下げていた。

 

「えっと、お久しぶり?」

「あ、はい。お久しぶりです」

 

 どうやら、僕の紹介したい人が彩だと勘違いしているらしい。

 彩も零子さんもどう反応していいのかわからないらしく、ぼーっとお互いの顔を眺め続けていた。やがて零子さんは硬く笑い始め、彩は僕を見て説明を求めてきた。

 

「鞠屋がストーカー被害に遭ってるって零子さんに依頼してきたんだよ。それで、ストーカーを誘き寄せるために僕と鞠屋が恋人ごっこをしてたんだ。まあ、そういうこと」

「へ、へえ……」

「あと零子さん、人違いですから」

「へ? あ、そ、そうなの? なぁんだ、そうだったの。びっくりしちゃった」

 

 いつも通り笑っているように見えて、どこか硬い。この人はもしかして邪魔をしたのではないか、とかまだ勘違いしているのではなかろうか。

 

「あー、もしかして私邪魔しちゃったりした?」

「えっ? い、いえ、そんなことありませんけど、全然」

 

 彩と零子さんがしゃべっている。なにやらくすぐったくなってくる。

 

「えっと、シンちゃんからよく聞いてるわ。真澄彩ちゃん、よね? はじめまして」

「シンちゃ……? ええと、はい。初めまして。えっと?」

「ああ、ごめんなさい。私は赤司零子。一応探偵よ。これ、名刺ね」

 

 目の前で起きていることが、どこか浮世離れしたもののような気がする。一度会っているとはいえ、僕を介して誰かが知り合っているのだ。これまでの僕から考えれば、ありえないことだ。

 今までの僕の世界は、彩が繋げていてくれたようなものなのだ。それが今は零子さんも一緒に繋げていてくれている。ああ、なんだ。そう考えると、僕の世界はもうとっくに変わり始めていたんじゃないか。

 今までの僕の世界は、彩ありきのものだった。

 

 それが今では、零子さんというもう一本のパイプが出来上がった。

 ああ、なんだ。こんなことでも嬉しいと思えるのか。

 

「てことは、シンちゃん。もう一人ここに来るってことよね?」

「あ、ああ、はい。彩がここに来てるってことは、もうすぐそっちも来ると思うんですが」

 

 どれだけ帰りのホームルームが長引いていると言っても、あまりに遅すぎやしないか。

 いや、そういえばイジメられているのだったか。もしかしたらイジメのグループに捕まってしまっているかもしれない。だとしたら、まだこちらには来れないだろう。

 

「え、っと。私そろそろ帰りますね。御槻も大丈夫みたいだし」

「もうちょっとゆっくりしてってもいいのよ? ほら、おつまみだってあるし、もっと話したいこととかあるんじゃない?」

「すいません。今親がうるさいんですよ。学校からも各家庭に連絡はいってるみたいで、早く帰って来いって」

「そうなの。残念ね。また今度、そのときはもうちょっとゆっくりお話しましょう」

「そう、できればいいですけどね」

 

 苦笑を浮かべながら、彩は帰って行った。

 確かに、零子さんが終始このテンションだったらゆっくりお話しするもなにもない。きっとまた一人宴会をして、いつの間にか眠ってしまっていたりするのだろう。

 残念ねぇ、と愚痴りながら、零子さんがスルメをかじり始めたときだった。零子さんの懐から着信音が鳴り始めた。

 じとり、と零子さんをにらむ。

 

「ちょっと、零子さん」

「あはは。ごめんごめん。それじゃ、ちょっと電話出てくるから……」

 

 そう言って、零子さんも彩の後を追うように部屋を出て行った。

 少しはしゃいでしまったからだろうか。落ち着いてみると小腹が減っていることに気がついた。ちら、と零子さんが買ってきているおつまみを覗く。食事制限もされていないし、少しくらいもらってもバレやしないだろう。

 スルメにすっと手を伸ばしたのと、扉が開くのはほぼ同時だった。

 

「…………」

 

 不機嫌、というよりもむしろ怒りに近い表情をしながら、零子さんが戻ってきていた。

 

「ご、ごめんなさい」

 

 袋から手を引っ込め、反射的に謝ってしまっていた。

 

「え? ああ、違うのよ。ていうか私そんな怖い顔してた?」

「ちょっとならバレないって思って、つい」

「……ごめん。すぐ済むと思うから、この部屋借りてもいいかしら?」

「ええ、まあ、いいですけど。何するんですか?」

「神戸の馬鹿が電話かけてきてね。今すぐ会えないかって」

 

 それだけで何のことなのかを悟った。鞠屋が殺されたことについて、何か新しくわかったことがあるのかもしれない。できることなら僕も同席していたいが、たぶん、そうも言っていられないだろう。前回はきっと特例だ。何度も何度も、一般人が聞いていいような話じゃないはずだ。

 

「零子さん、あの……、僕も一緒に聞いちゃダメですか?」

 

 だけど、それでも僕は是非を訊いた。訊くだけならタダなのだ。ダメならダメでもいい。何も聞かないまま追い出されるよりも、ずっといい。

 

「……私は別に構わないけど、神戸がなんて言うか。とりあえず、シンちゃんが紹介したいって子がいつ来るかもわからないから、こっちに呼んだんだけど……」

「は……?」

 

 返ってきた答えはもっともなものだったのだが、その後に続いた言葉の意味がよくわからない。零子さんはつまり、警察をここに呼び出したと言っているのか。

 

「私ね、神戸の都合でスケジュールが壊されるの大っ嫌いなのよ。だから、できるだけ先約のシンちゃんを優先できるように、ここに呼びつけたの」

 

 それだけの理由で警察を呼び出したのか、この人は。それに従う神戸警部も神戸警部だとは思うのだが。この二人の力関係は一体どうなっているのだろう。

 十分も経たずに、神戸警部と大河内巡査はやってきた。神戸警部は僕を一瞥してから、何かを言おうとして零子さんの言葉に阻まれた。

 

「シンちゃんも一緒にいていいかしら?」

「そ、そんなのダメですよ!」大河内巡査は慌てて反論した。「そもそも赤司さんに依頼したのだって、許可をもらってるんだと思ってたら全然無許可だったじゃないですか! あのときは流れで言いだせそうにないから黙ってましたけど、子供にまで捜査情報漏らせませんよ!」

「――だ、そうだが?」

 

 神戸警部は僕を見下ろし、いかにもな威圧をかけてくる。

 生唾を飲み込み、深呼吸をし、慎重に言葉を選ぶ。

 

「関係者でもないのに聞くのは確かに間違っていると思います。でも、僕は聞きたいんです」

「なるほど。悪いということはわかっているわけだな」

「はい。でも、やっぱり僕は聞きたいんです」

「なら構わない。どうせ共犯だからな。大河内、お前もだぞ」

「ちょっとお!? それってあんまりじゃないですか! 僕は止めましたからね!」

 

 もう知りませんよ、勝手にしてくださいよ! と、半ばやけくそになりながら、大河内巡査も僕が同席することに同意してくれた、と言ってもいいのだろうか。とにかく、僕はここにいて話を聞いていてもいいということで間違いはないらしい。

 

「なら、続けるぞ。鞠屋ゆいの件についてだが、一昨日、陸生仁と神原(かんばら)光輝(こうき)、真澄彩にそれぞれ話を聞いたわけだが、ここから凶器がわかった」

 

 陸生君と彩に並んで名前をあげられていることから、神原光輝というのは、おそらく剣道部部長の名前なのだろう。

 

「陸生仁のナイフが、おそらく鞠屋殺しの凶器だろう。彼はそのナイフを持ち帰っていないと証言しているからな。現場近くで発見されなかったことも考えて、まだ犯人が所有している可能性は高い。陸生仁の話では、市販のサバイバルナイフで、どの種類を買ったのかも覚えていてくれてな。ナイフを取り寄せて調べてみると、鞠屋ゆいの傷口と一致した。通り魔の線で捜査を続けていたが、通り魔がたまたま同じ型のナイフを持っていたとは考えにくい。海外製のものらしくてな、出回っている数はそう多くないそうだ」

「つまりですね、あの三人の中に鞠屋を殺した犯人がいるんじゃないかってことになってたんですよ。あとそれとは別に、陸生仁と神原光輝には傷害未遂あたりの罪が当てはまりそうなことを言ってましたからね。そっちでも罰せられるんじゃないかと思いますよ。でも――」

「ナイフねえ。通り魔って線は完全に消えたの? 私にはそうは思えないけど」

「真澄彩に突き飛ばされたときにナイフを手放した、と聞いている。確かに、即座に拾えるのはそこにいた三人のうちの誰かということになるが、誰もが回収をし忘れて、第三者がそれを拾い犯行に及んだとも考えられるか」

「つまり犯人である可能性があるのは、通り魔、陸生仁、神原光輝、真澄彩、というわけです。ですが先輩――」

「……だが、俺はここから陸生仁を外してもいいと思う」

「どうして? ナイフをなくした張本人だから、とか言ったら笑ってやるわよ」

「笑われずに済みそうだな。殺意、というか傷害目標が違うからだ。陸生仁は御槻君、君に対して憎悪を抱き、君を刺そうとしたんだってな?」

「あ、はい。鞠屋の方には目もくれずに、僕の方へ」

「対して、神原光輝は鞠屋ゆいを木刀で殴り殺そうとした。明確な殺意の相違だな」

「待って。シンちゃんを殺し損ねて、じゃあ鞠屋さんを、という可能性はないの?」

「あるにはあるが、彼の御槻君に対する憎悪は半端なものではない。証拠に、今彼はこうして入院しているじゃないか。そう易々と殺意の対象を変えるとは考えにくい」

「他には何かないの?」

「――それが今日の本題だ」

 

 そう言って、神戸警部は懐から一枚の写真を取り出し、零子さんに手渡した。それを見た彼女はすっと顔色を悪くしてから、写真を神戸警部へ突き返した。

 

「あのねえ、唐突に遺体の写真見せるのやめてくれない? こちとらそっちと違ってあんまり耐性ないんだからね?」

「それは悪いことをしたな。まあ、つまり、第二の犯行が行われてしまったわけだ。発見されたのは今日の朝。現場は最寄り駅の線路の高架下。普段から人通りが少なく、フェンス越しの視界が悪いこともあって発見が遅れたようだ。例によって、発見者は六十代の男性浮浪者だ。フェンス越しに見つけた遺体を、はじめは酔っぱらって寝てしまった女性だと思っていたらしい。何度呼びかけても起きる様子がないので駅員に連絡して一緒に起こしに行ったところ、それが遺体であるとわかった」

「で、その遺体に何か問題があるの?」

「今まで話していた内容全てを振り出しに戻すだけの問題がある。鞠屋ゆいを始め、陸生仁、神原光輝、真澄彩のどの人物とも結びつかない。つまり、通り魔の犯行であることを決定づけることになったわけだ」

「なんでそれを先に言わなかったわけ? 時間の浪費よ」

「文句なら御槻君に言ってくれ。俺は始めからこれを話すつもりだったが、御槻君が一緒に聞いているのなら、始めから話した方がいいだろう」

「はあ。大河内だっけ? あんたも知ってんならはじめからこいつのこと止めなさいよ!」

「ええ……。僕さっきから言おうとしてたんですけど……」

 

 問題なら他にもある。神戸警部たちは話していないだけでちゃんと把握しているだろうが、犯人である通り魔が鞠屋のストーカーというカテゴリから逸脱してしまったことだ。それはつまり、捜査範囲の拡大を意味している。漠然とした『ストーカー』というヒントがあった以前までとは違い、完全に犯人を見失ったことになる。

 通り魔的で突発的、関連性も皆無。

 五里霧中とはこのことを言うのだろう。

 

「……だが、さいわいながら手掛かりはゼロではないし、ある程度の予防策も用意した」

「ええ、そうでしょうね。よかったわね、シンちゃん。病み上がりですぐ学校に行かなくてもよくなったみたいよ」

「どういうことですか?」

「それは――」

 

 写真を見せるかどうかを迷ったらしいが、さすがにそれは刺激が強すぎると判断したのだろう。神戸警部は差し出しかけた写真を懐にしまい、替わりに言葉で説明してくれた。

 

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 ――なるほど。それならば手掛かりはゼロではなくなるし、休校という予防策も張れるということか。通り魔のターゲットがウチの学校の生徒だけならば、犯人が捕まるまでの間、休校にして生徒を外に出さなければ被害は抑えられる。

 ただ、そうする限りは犯人の早期逮捕が不可欠となるはずだ。学校も慈善事業ではない。いつまでも休校にできるわけではないだろう。

 

「こっちもそこらじゅう走りまわってるけど、それらしい人物を見た人はゼロ。あんた、成果がゼロでもちゃんと報酬は払ってくれるんでしょうね?」

「それはもちろんだ」

 

 こんなときに言う内容なのか。

 

「はぁ……。で、その遺体の身元はもうわかってるの?」

「一応はな。でなければあの四人と関係がないともわからないだろ」

「そりゃそうか。私の方でも学校寄りで情報収集してみるわ。期待せずに待っといて」

「ああ、助かる」

 

 と、そのとき、部屋の扉が開いた。

 入って来たのは昨日も僕の湿布を貼り替えてくれた看護師さんだった。病室にいる人数に面食らっているのか、ぽかんとしている。

 

「湿布貼り替えますね」

「どうもー」

 

 若干放心したまま看護師さんは湿布の貼り替えを始め、零子さんはそれににこやかに対応している。うちのがお世話になっています、という電話対応などでよく聞かされる、零子さんのオクターブ上の接待音声。どうでもいいけど、うちのが、って別に僕は零子さんの身内ではないだろう。

 

「そういえば、今日も昨日のあの子来てたね。カッコいいですもんね、御槻さん」

 

 という、何気ない看護師さんのセリフ。それは零子さんに向けられたもので、零子さんも何のことかわからないまま対応している。

 

「昨日のって?」

「来てたじゃない。ポニーテールの女の子。昨日も来ててさ、幼馴染なんだって? 大事にしてあげなさいね」

「――え?」

 

 なにを言っているんだ?

 昨日、(ポニーテールの女の子)は僕のところに来てなんかない。昨日僕のところに来たのは莉尾だけだった。莉尾と零子さんだけだったはずだ。彩は来てなんかいない。

 嫌な汗が流れてくる。身体の芯は痛いくらいに熱いのに、表面が肌寒くて仕方がない。心臓の音がうるさいくらいに耳に届く。何もかもがおかしい。どうして、どうして昨日来ていないはずの彩のことを、この看護師さんは知っているんだ。なぜ彼女が僕の幼馴染だって知っているんだ。

 湿布の貼り替えはいつの間にか終わり、零子さんの声の調子もいつもの高さに戻っていた。

 気持ち悪い。おかしい。何が起こってるんだ?

 

「はぁ……っ、はぁ……ッ」

「? シンちゃん、どうしたの?」

「あの、神戸警部」

「何だ」

「今回の被害者の写真、見せてもらえないですか?」

「……正直見せたくはない。かなりひどいからな」

「じゃ、じゃあ、その、被害者の、な、名前は……?」

「ふむ……?」

 

 神戸警部は手帳を開き、ペラペラとページをめくってメモを探しているようだった。どうやら情報漏洩だけではなく、被害者の名前もろくに覚えていない不良刑事らしい。外見と中身が一致していない人だ。

 やがて神戸警部のページをめくる手が止まり、僕と目が合う。

 

「莉尾麗」

 

 その名前を聞いた瞬間、我慢し切れずに嘔吐した。

 胃の中が空っぽになるまで吐き続けたが、まだ嘔吐は続いている。胃液が食道を焼く。つんとした刺激臭が鼻を突く。鼻水と涙と吐瀉物で顔がぐしゃぐしゃになっていく。息がうまくできない。くらくらする。立っているのか座っているのか浮いているのかがわからないくらい頭がくらくらする。涙でかすんでいた視界が、次第に黒く塗り潰されていく。

 莉尾が、殺された――?

 

 §

 

 次に目が覚めたのは、夜中だった。

 寝汗がひどい。体中がベタベタしていた。

 シーツや掛け布団、入院服は交換されたようで、吐いた後は残っていなかった。

 

「…………」

 

 すぅっと深呼吸すると、まだ吐瀉物の臭いが鼻の奥に残っていた。

 

「どういうことだ?」

 

 来ていないはずの彩が昨日来ていた。

 今日来るはずの莉尾が殺されていた。

 どういうことだ?

 これは、どういうことだ?

 頭蓋骨のなかで銅鑼でも鳴らされたのかと思うほどの衝撃だった。まだ余韻が残っていて気持ち悪い。頭痛がする。喉もヒリヒリする。不意にまた吐きそうになって、ぐっと堪えた。

 

「う……、うぅん」

「……零子、さん?」

「すぅ……、すぅ……」

 

 宿泊許可でも貰ったのだろうか。折りたたみ式のレジャーチェアに座りながら、零子さんがベッドの横で眠っていた。とにかく寝心地が悪いのか、眠りやすい姿勢を探すために結構な頻度で身体を動かして、寝やすい位置を探している。

 

「……莉尾さん」

 

 今日の朝、遺体で見つかったと言っていた。

 ということはおそらく、病院から帰る途中に犯人に襲われ、高架下に放置されたということになる。僕と別れてすぐ、帰る途中で襲われ、殺された。鞠屋のときと状況は似通っている。

 ――でも、もしそうだとして、なぜ?

 わけがわからない。どうして殺す必要がある。殺さなければ理由でもあったのか?

 そんなこと、あるわけがない。殺されなければならない理由なんて、誰にもない。

 鞠屋はただ、変わりたいと願っていた。

 莉尾はただ、変われるのだと思っていた。

 変わることはそんなにいけないことなのか。答えがないことを求めるのは、それほどに愚かなことなのだろうか。殺されなければならないほどいけないことで、愚かなことなのか。

 

「そんなわけ、ないだろ……」

 

 学校は明日から休校になるという。僕も、明日の昼には退院できる。

 そんなことあるはずがない。間違いに決まっている。

 心の中で犯人像をいくら否定したとしても、犯人は一人だけ。たった一人だけ。

 そして、否定してしまうということは、おそらく、それが正解だからだろう。

 

「……寝よう」

 

 もう一度布団にもぐりこみ、目を閉じる。

 最後に一言、彼女が寝る前に言えなかった言葉を言う。

 

「零子さん、おやすみなさい」

 

 §

 

 その日はやけに鋭い空気だった。

 右腕はまだ少し痛むけれど、先生はもう退院しても問題ないと言ってくれた。

 ただ、やはり定期的に通院しなければいけないことは変わりないらしく、今度は無茶をしないようにと釘を刺された。

 

「ありがとうございました」

 

 昼。零子さんと一緒に先生にお礼を言い、病院から出てきた僕らを出迎えてくれたのは神戸警部の車だった。助手席には大河内巡査も乗っている。

 

「どうぞ。送るよ」

 

 ひとまず、学校は一週間休校になった。

 あと、大河内巡査は猛反対したらしいのだが、神戸警部の計らいで昨日の出来事を本部に報告はしていないらしい。つまり、この殺人事件の真相に迫ることができるのは、今ここにいる四人だけということになる。

 まあ、真相もクソもないようなものなのだが。

 神戸警部の車に乗り込むと、彼は車を静かに発車させた。

 

「それじゃあ、聞かせてもらおうか。昨日のことを含めて」

「はい。僕は三日前、学校でリンチされて入院するはめになりました。そのとき、僕を起こして救急車を呼んでくれたのが莉尾麗さんでした。翌日彼女は僕をお見舞に来てくれて、そのときの会話の内容から、僕は彼女を零子さんに紹介しようと思い、その翌日、つまり今日から考えて二日前に会う約束を取りつけました。そして約束の日、つまり昨日のことに繋がります」

「なるほどな」

「……それで、その、一昨日、莉尾さんがお見舞いに来てくれた日ですけど、その日、僕は零子さんと莉尾さんにしか会ってないはずなんですが、あの看護師さんが言っていたように、どうやら彩も来ていたみたいなんです」

「ちょ、ちょっと待って。それだけで真澄彩が犯人だって言うのか、君は? そりゃ、確かに御槻君の話を聞いていたら疑わしくはあるけど、でも逆に()()()()()()()()わけじゃないか。彼女が犯人である決定的な証拠なんて何にもない。僕には殺すだけの動機があったようにも思えない。やっぱり反対だ。神戸先輩も、こんな子供の戯れ言に付き合う必要なんかないじゃないですか!」

「戯れ言に聞こえるか? 彼が興味本位で捜査に口出ししてきたと思うのか?」

「いや、本気だとしてもですよ! 本部にも報告してない、令状もない。ないない尽くしの状態で真澄彩の家まで行くなんて、おかしいですよ!」

 

 大河内巡査が言わんとしていることは解る。

 正直なところ、僕もこれが間違っていてくれれば言うことはない。

 

「大河内、俺がそんなことに耳を貸す真面目な人間に見えるか?」

「最初は見えてましたけどね? 尊敬する警官の一人でしたよ? こんな不良刑事だとは思っちゃいませんでしたよ、ホントにね!」

「別に俺たちが直接行かなくてもいい。今回俺たちはタクシー代わりだ。そう気負うな」

「ええもう、そりゃ解ってますよ! いいですか、御槻君、赤司さん。今回のこと、僕たちは一切関係ありませんからね? あなたたちの独断専行ってことにしてくださいよ。ホントはこんなことに付き合うのも嫌なんですからね? こんなこと今回限りでやめてくださいよ」

「文句ばっかり言う男ねえ、あんた。真面目なのはいいことだけど、真面目すぎたら損するだけよ? もっとポジティブに考えたらどうかしら。もし彼女が犯人だったら、あんたたちの手柄になるんじゃない? 警察なんてやってんだから、それくらいの思考持っときなさいよ」

「ええ、そりゃもうそういうことは考えましたよ。でもね、明らかにリスクの方が大きいでしょうが。ホント勘弁してくださいよ。朝からもう胃が痛くてたまんないんですってば……」

「あとで胃薬を奢ってやる。さて、少し飛ばすか」

 

 神戸警部はアクセルを踏み込み、車はなめらかな加速をしていく。

 制限速度もある程度無視してはいるのだが、常識の範囲内での速度だった。ただ、それを警察官が運転しているのだから、本当にこの神戸警部は不良刑事だと思う。大河内巡査が胃を痛くするのも無理はない。――まあ、今回のことに限れば僕たちにも責任はあるのだろうが。

 

 助手席ではまた大河内巡査が愚痴っていた。どうすれば責任逃れができるだろうか、とぶつぶつ呟き、それに腹を立てた零子さんが黙れと言わんばかりに助手席を後ろから蹴りあげ、それを見た神戸警部が「俺の車になにしやがる」と怒鳴る。

 それに乗じて笑うような心の余裕を、僕は持てなかった。

 

 鞠屋と莉尾、共通の知り合いが僕だった。一昨日、本当は彩も病院に来ていた。

 この二つだけで、彩を犯人だとは決めつけられない。まだ偶然の範囲内に収まる。むしろ、本当にただの偶然で、彩は全く関係ないとなれば警察の人たちには悪いが、僕にとっては最高以外の何物でもない。

 だけど、僕には妙な確信があった。

 

 転じて、それに自己嫌悪。なぜ確信しているのか。僕は、本当なら大河内巡査と同じ立場でいなければならないはずなのに、彩は犯人なんかじゃないと信じなければならないのに。

 今の僕は願っているのだ。彩が犯人ではないことを、僕は願っている。

 僕の中で、彼女が犯人ではないと願うことは、暴君に直訴する愚民の如く、叶うことのない願いを乞うているも同然としか思えないほどの確信を持ってしまっているのだ。

 

「着いたぞ。俺たちはここで待機する。何かあったら携帯を鳴らせ」

「鳴らせる状況ならね。シンちゃん、行くわよ」

「……はい」

 

 彩の家から少し離れたところに車を停め、僕と零子さんはそこから彼女の家へ向かう。

 心臓が早鐘を打つ。一歩進むごとに息をすることが苦しくなる。足が重くなる。

 だけど、前へ行けないことはない。

 苦しいからなんだ。重いからなんだ。

 また立ち止まってしまうには早すぎる。僕はまだもう少し、進んでみたい。

 数分もしないうちに彩の家に着いた。インターホンを押す指が震える。

 ピンポーン、と軽い音がして、すぐに彩の母親が出た。

 

『はい?』

「御槻です。お久しぶりです」

『あらぁ、御槻君? ほんと久しぶりねえ。彩ならニ階にいるから、あがってちょうだい』

「えっと、連れもいるんですけど、大丈夫ですかね?」

『ええ、もちろんいいわよ』

 

 玄関で靴を脱ぐと、リビングからおばさんが出てきた。僕の連れがこんな大人の、それも女性だとは思わなかったのだろう。零子さんを見て固まっていた。

 

「ええと、御槻君ってお姉さんいたかしら?」

「いえ。私、こういう者です」

「あ、どうも……。探偵さん? あの、もしかして、例の殺人事件と何か関係が?」

 

 零子さんが「はい」と答えようかどうか迷っている間に、僕がそれに答えた。

 

「それをこれから確かめに行くんです。おばさん、できれば家から出ていてもらえませんか?もしかしたら、彩と喧嘩になるかもしれないから」

「……ワケあり?」

「事件のこと、彩もおばさんに聞かれたくないかもしれないからですよ」

 

 僕と零子さんの顔を交互に見て、心配はないと判断したのだろう。うなずいて、玄関から外へ出て行ってくれた。

 階段をゆっくりとあがっていく。と、途中でドアの開く音がした。

 

「お母さーん? 誰か来たのー? ……って、御槻じゃん。それに、赤司さんも?」

 

 僕らの訪問に、彩は心底驚いているようだった。

 そのまま部屋に通され、飲み物を取ってくるという彩を引き留め、座らせた。

 

「急にどうしたの? 退院したってわざわざ教えに来てくれたわけじゃないんでしょ?」

「答えてほしいことがあるんだ。できたら、嘘はいわないでほしい」

「……うん。御槻がそういうなら、嘘は言わないよ」

 

 気持ち悪いくらいに心臓が脈打つ。気を抜いたらまた吐いてしまいそうなほど緊張する。口の中がカラカラに乾いていく。ここから先の言葉が喉に引っ掛かってしまったようで出てこない。身体が固まる。まばたきも、息さえも忘れてしまいそうだ。

 ――ばしん!

 

「んっ!?」

「しっかりしなさい」

「れ、零子さん」

 

 僕の様子を見かねたのか、零子さんに思いっきり背中を叩かれた。

 そうだ。今は一歩でも前へ進まなくちゃいけない。

 言わなければいけないことを、しっかり僕の口で言うんだ。

 

「彩」

「うん。なに?」

「彩が、鞠屋さんと莉尾さんを殺したのか……?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、彩は首をかしげ、不思議そうな顔つきになった。

 この反応はやっぱり、彩じゃないのか? 彩じゃないのなら、早く違うと言ってくれ。

 と、不思議そうにしていた彩の表情は崩れ、一転して、優しく微笑みかけてくれた。

 

「やっぱり、御槻が最初に気付いてくれた! 嬉しいっ!」

 

 その反応は、肯定の場合でも、否定の場合でも、僕が考えつきもしないものだった。

 今の僕の頭では、それが肯定なのか否定なのかさえも、ハッキリとわからない。

 彩の顔には朱が注し、もじもじとどこか恥ずかしそうな様子さえ窺えた。

 

「ホントは、高校卒業してからのつもりだったんだけど、もういいよね?」

「え? な、なに、が?」

 

 彩は唐突に近づいてきて、僕の手を取り、ぎゅっと握ってくれた。

 

「私ね、初めて会ったときからずっとずっと、ずぅっと御槻のこと大好きだったの。だから、私は絶対に御槻のために生きようって決めてたんだよ」

「……は?」

 

 恍惚の表情を浮かべながら僕のことを見つめる彩は、文句なしに可愛かった。見惚れそうになり、しかしそれも一瞬で終わる。

 彩は、何を言ってるんだ?

 

「小学生の頃からね、ずっとずっと好きだったの。好きなんて言葉じゃ足りないくらい好きなんだよ。だから、御槻が虐待を受けてるってこと知って、真っ先に御槻のお母さんのこと殺しにいったんだ。でも、やっぱり御槻にとってはお母さんだから、直接見せたくなかったの。それで友達に御槻と遊んでてって頼んで、私は御槻のお母さんを殺しに行ったんだよ。私が家に行ったらね、御槻のお母さん、『いらっしゃい』って笑って出迎えてくれたんだけど、それは嘘なんだって知ってたから油断しなかったんだよ。それでね、御槻の家にあった包丁で、御槻のお母さんのこといっぱいいっぱいいっぱい刺したんだよ。声も出ないくらいに痛がってて、でも御槻はもっと痛い目にいっぱい遭ってるんだって思ったら、それだけじゃ足りなくてもっともっともっと刺したんだ」

 

 僕だけではなく、そこだけはさすがに零子さんも反応した。

 彩は一体、何を言ってるんだ?

 目の前の女の子は、本当にあの彩なのか?

 

「私、御槻を絶対に幸せにするって決めたの。でも、もしかしたら御槻は違う子を好きになっちゃうかもしれないじゃない? そんなのは絶対嫌。ありえない。私が御槻を幸せにするんだもの。御槻のために私は生きるんだもの。御槻も、私のために生きなくちゃダメだもの。御槻が私以外の子を好きになるなんて裏切りよ。でも、それは御槻が悪いんじゃないの。御槻に言い寄ってきた子が悪いのよ。そんな子、御槻の傍に置いておけないじゃない。ああ、それで、そういう子がいなくなるように、御槻にはすごく悪いことしたと思ってるけど、御槻がみんなからイジメられたら、みんなも御槻のこと好きになったり、気になったりなんか絶対しなくなると思ったの。だからね、私がウワサを流すの。御槻は、本当は悪い子なんだよってウワサを流して、そういう空気を作っちゃうの。ね。そうしたら、誰も御槻のこと好きにならないし、気にもならなくなる。そうしたら、私だけはずっと御槻のために生きてるんだもの、御槻はきっと私のことしか見なくなるでしょ? 私のこと、好きでしょ? 私が好きなんだもの、御槻も私のこと好きよね? 私と同じぐらい、私のこと好きだもんね」

「……何、言ってるのさ、彩」

「? 私なんかおかしいこと言ってる? ギブ&テイクじゃない。私が御槻のために生きるんだもん。御槻も私のために生きてくれるよね? ああ、本当に御槻が最初に気付いてくれてよかったわ。だって、こうして秘密を共有できるようになったんだもん。素敵じゃない」

「鞠屋さんを、莉尾さんを、どうして殺したの?」

「やだなあ、御槻ったら。さっき言ったじゃない。それに、鞠屋のときは私謝ったでしょ? 私がもっとちゃんとしてたら、鞠屋が御槻のこと好きになることなんてなかった。だから、そんなことになってごめんねって。迷惑だったよね。でも私がきっちり殺しておいたから。安心して。――なんて、言えないよね。ごめんなさい。また、御槻のことが気になる人ができちゃったよね。でも、今度こそ、絶対に大丈夫。秘密も共有したし、これからは本当にお互いのために生きていけるよね!」

「…………」

 

 言葉を失った。

 目の前にいる少女を、どんな言葉で表せばいいのか全くわからない。

 

「彩ちゃん、私のこと、なんだか蚊帳の外に追い出しちゃってるけど、わかってる? その秘密、私にまで話しちゃってたらダメなんじゃないの?」

「え? まあ、いいんじゃないですかね。どうせ殺すし」

「――っあ!?」

 

 ドタン! と大きな音を立て、彩は弾けるように零子さんに襲い掛かった。さいわいナイフは持っていないようで、ぐっと零子さんの首を絞めているだけに留まっていた。

 だが、楽観などできる状況ではない。急いで彩を引き離そうとすると、金切り声で彩が叫んだ。

 

「御槻、ねえ、お願い! 机の引き出しにナイフ入ってるから取ってくれない? 首絞めるのって疲れちゃうのよ!」

「はぁ……!?」

「早くしてよ! こいつ力強い!!」

 

 苦悶の表情を浮かばせながらも、零子さんは彩の力に抗っていた。彩は現役のインターハイ出場経験もある剣道部員だぞ。どうしてそれに力で対抗できるんだ、零子さんは。

 

「早くナイフ取って! こいつを外に出したら……、そんなの嫌でしょ!? 私と何年も会えなくなるなんて、そんなの御槻も嫌でしょ!? 早く、ナイフでこいつ殺してよ!!」

 

 ――以前の僕なら、こんなときどうしていただろうか。

 こんなときなのに、僕はそんなことを考えていた。彩の言葉に従って、共犯関係になっていたのだろうか。いや、そもそも、以前の僕のままならば、こんなことになどならなかったはずだ。鞠屋とも、莉尾とも出会うことなど、絶対になかった。

 そして、零子さんとも。

 

「や、やめろ、彩!!」

「ぎゃッ!?」

 

 彩を蹴り飛ばし、咳き込む零子さんを支える。

 

「し、シン、ちゃん……?」

「み、御槻? なんで私のこと蹴ったの? どうして邪魔するの? そいつ殺さないとダメなんだよ? 私も御槻も、幸せになれないんだよ? そんなの嫌でしょ? どうして蹴ったの? どうしてそいつを庇うの? 裏切るの? 私、私を裏切るの!?」

「彩、おかしいよ、こんなの」

「おかしい? おかしいってなにが? おかしいのはお前の頭だろ!! ここまで私が尽くしてあげてるのに裏切ってさ。ねえ、まだ今なら許してあげるよ御槻。ねえ、目を覚まそうよ。そいつ抑えててよ。ねえ、私が殺すからさ。御槻やり方知らないでしょ? 私がナイフで殺すからさ」

「おかしいだろ!」

「おかしいのはテメエの頭だっつってんだろ、御槻さあ!! 私は御槻のために生きて、御槻は私のために生きなくちゃいけないんだよ!? それが私にとっても、御槻にとってもずっとずっと幸せで暮らすための方法なのよ! それが理想なの! 私にとっても、御槻にとっても、それが理想の世界なの! 私がいて、御槻がいて、それだけでいいじゃない! それで満足してたんじゃない、アンタも!! 私だけがいたらよかったでしょ? 友達も、家族も、私以外いらなかったんじゃないの? 私、御槻のためなら何でもするよ? 御槻が誰かを殺せって言うんなら殺してあげる。死ねって言われたら死んであげる。犯させろっていうんなら喜んで股を広げてあげるわ! でもね、私の言うことだって聞いてよ! 私が誰かを殺してっていったら殺してよ! 私が死ねって言ったら死ねよ! 私が抱いてって言ったら私に御槻の精液をちょうだいよ!! そうでしょ!? そういうことでしょ!? 私は御槻のために生きて、御槻が私のために生きるってそういうことでしょ!?」

「それが誰の理想だって? 誰かのために生きるって本当にそういうことでいいのか? 死ねって言われて死ぬなんて、そんなの生きてないじゃないか」

「もういいでしょ? ねえ、御槻。もうそんなワガママやめようよ。殺そうよ。そいつ殺して終わりにしようよ。そしたらもうずっと幸せでいられるよ。私だけで生きていけるよ。御槻は私じゃないと生きていけないよ」

「もういいだろ、彩」

「よくない。よくないよ。けど、ごめんなさい。ねえ、謝るよ。ごめんなさい、御槻。もう謝るよ。だから、こっちに来てよ。お願い。こっちに来て。ねえ、私のこと好きって言ってよ。好きって言ってください。お願いします。御槻、お願い。ごめんなさい。大好きなの。御槻のこと大好き。だから、好きって言ってください。私、じゃないと、ああっ、うああっ、やだやだやだやだ! いやだよ、御槻嫌だよ! そんなの嫌だよ! お願い。ごめんなさい。嫌いにならないで。御槻、私のこと嫌いにならないで。お願いします。お願いします!」

 

 彩は、土下座した。

 ごめんなさい。お願いします。大好き。嫌いにならないで。御槻。

 僕は、いつから彩のことが好きだったのだろうか。彩のどこを、好きになったのだったか。

 強くて、凛々しくて、優しくて、僕のことを気にかけてくれていた彩は、ここにはいない。

 僕が好きになった真澄彩は、ここにはいない。

 ここだけではない。

 僕が好きになった真澄彩は、本当は最初からいなかった。

 

「ダメだよ。私がいなくちゃ、いてあげなくちゃ、御槻不幸になっちゃうよ」

 

 不幸……?

 そういえば、僕は自分のこと不幸だなんて思ったことはあっただろうか。

 父親は顔さえ知らなくて、母さんからは虐待を受けて育った。だけど、出掛けた時の母さんは優しくて、一緒に笑ってくれて、僕はそれだけで充分だと感じていた。不幸じゃない。

 小学校に入って、四年生までは普通に友達と過ごしたりしていた。ただ、四年生のときに母さんが殺された。学校でもイジメられるようになった。でも彩がいてくれた。不幸じゃない。

 中学もイジメられた。毎日毎日、イジメられた。気が休まるのは休日だけで、外にだってろくに出掛けたこともなかった。だけど、彩がいてくれた。不幸じゃない。

 そこまで考えて、思わず、隣にいる零子さんの手を握った。

 

「シンちゃん?」

「……僕は、不幸になんかならないよ。僕が大好きだった彩がいてくれたおかげで、僕はずっと不幸だなんて思ったことすらなかったよ。ずっとずっと、大好きだった彩がいてくれたから」

「謝るから! 謝るから、過去形なんかにしないで! 嫌いにならないで、お願いします。ごめんなさい。私も大好きだよ、ねえ、嫌いになんかならないで!!」

 

 高校。

 もうイジメられないようにと、割合偏差値の高い私立高校を逃げるように受験した。だけどそれもダメだった。たったの一ヶ月でイジメは始まって、中学と変わらない日々が一年間続いた。そうして、二年になってすぐの頃に駅前で零子さんと出逢った。それからは彼女に付いて香織ちゃんと出逢い、鞠屋と出逢い、莉尾と出逢った。だけど、僕の傍にずっといてくれていた彩が、鞠屋を殺し、莉尾を殺し、零子さんまで殺そうとした。

 

 だけど、それでも。

 握っていた零子さんの手を、より強く握った。彼女は「痛っ」と声をあげたが、それでも構わない。隣には、間違いなく零子さんがいるのだから。

 

「御槻は私がいなくちゃダメなの。だから、もう私のこと好きじゃなくてもいい。私の傍にずっといてよ。お願い。一緒にいて。ずっとずっと、私と一緒にいてくれるだけでいいの。それでいいの。きっと、それだけで御槻も満足してくれるよ。理想に近づけるよ」

 

 鞠屋が殺された。莉尾が殺された。零子さんも殺されかけた。

 でも、僕の隣には、確かに零子さんがいてくれている。

 

「零子さん。頼みがあります。一生のお願いです。『錬金術』を使ってください」

「……れんきんじゅつ? ねえ、御槻、なにそれ? ねえ、やめてよ。そんなことしなくても、ずっと一緒にいてくれればいいんだから。お願いします。やめて、やめて!」

「彩、『錬金術』っていうのは、魂の再生なんだってさ」

「やだよ、聞きたくない! やだやだやだ!」

「零子さん、『錬金術』でトラウマを治すって言ってましたけど、それってトラウマだけじゃないですよね。たぶん、トラウマに関係のある事柄(きおく)をなかったことにして、それを治すって言ってるだけ、なんですよね?」

「――そうね。その気になれば、人一人を簡単に廃人にできるわ」

「なら、お願いします。それで、記憶を消してください」

 

 視線を彩に向ける。零子さんが何をするか勘付いたのか、彩は立ち上がり、部屋の隅へ逃げて行った。

 

「やだ……。やだ! 忘れたくなんかない! やめてよ! そいつ止めてよ、御槻! やだ、御槻のこと、忘れたくなんかない! 私はずっと御槻のことが好きなんだもの。嫌だよ! 御槻のこと忘れちゃったら、私どうしたらいいの!? ずっと御槻のことが好きで、御槻のために生きるって決めた私から、御槻の記憶がなくなるなんて考えられない!」

「大丈夫さ」

「大丈夫じゃない!」

 

 いいや、大丈夫。

 零子さんが彩に向かって歩き始めた。違う。そうじゃないんですよ、零子さん。

 

「零子さん。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 僕がそれを言った瞬間、零子さんと彩が同時に固まった。

 これが、どういう意味を持っているのか。僕自身も、実はよく解っていない。

 簡単に考えれば、僕の半生の記憶を消してくれ、と言っているようなものだろうか。

 今までの僕は、彩がいてくれたから不幸なんかじゃなかった。その姿がたとえ幻だったとしても、確かに僕を支えて、励ましてくれていた。そんな彩の記憶を、僕から消すのだ。

 もっと率直に言えば、彩という存在が僕の中から消える分、今までの人生を不幸へと転換すると言えるのかもしれない。

 

「な、何言ってるの? いやだよ。私のこと、きらいでもいい! お願い、忘れないで! ごめんなさい! 忘れないでください! ねえ、御槻、ごめん、もう誰かを殺したりもしないから! だから忘れないで、私のこと忘れないでよ! いやだよ! やめてよ!」

 

 零子さんを押しのけ、彩はまっすぐに僕のところに走って来た。ぎゅうっと強く抱きしめられ、胸元からは彼女の泣き叫ぶ声が聞こえてくる。忘れないで。ごめんなさい。

 零子さんは僕らを見て、僕の選択が本当にいいことなのかを決めかねている様子だった。

 僕はおそらく、生まれて初めて自分で選択肢を用意し、そのどちらかを選んだ。

 

 つまり、彩から僕の記憶を消すか、僕から彩の記憶を消すか、だ。

 僕から彩の記憶を消すことを選んだのは、僕から彩への、今までのお礼だったのかもしれない。彩がどれだけ僕のことを好きでいてくれたかは、どこか釈然としないものがあるが、今の様子を見れば痛いほど伝わってくる。そんな彼女から僕の記憶を消してしまうのは、きっと殺人も同義だ。僕のために生きると言ってくれた彼女から僕の記憶を消すということは、きっとそういうことに違いないのだ。

 

 だから僕は、自分の中から彩の記憶を消す。

 今までの僕は、彩がいてくれたから不幸じゃなかった。そんな僕から彩の記憶を消してしまうということは、それもまた殺人に違いない。

 でも、彩の記憶を消すのは、今までの僕じゃない。今の僕なのだ。

 

「忘れないでよ……っ! お願いだから、御槻ぃ……っ!」

 

 覚悟を決めて、零子さんに目配せする。やってください、と。

 一歩ずつ静かに近づいて来る零子さんに、彩は気付かない。

 

「私、そんなのどうしたらいいの? 誰のために生きていたらいいの? 忘れないで。お願い御槻、私のこと、忘れないでよぉ……っ!!」

 

 零子さんが真正面に立つ。視線だけで、心の準備ができているかを問われる。

 

「彩。それじゃあ、ね。僕も、彩のこと大好きだった」

「やだ、やめてよ! お別れみたいなこと言わないで! 忘れないでよ!!」

 

 どん、と彩を突き飛ばし、巻き込まれるものなのかどうかは知らないが、巻き込まれないよう離れさせ、それに代わるように零子さんが僕のことを優しく抱きしめてくれた。

 そう。彩の記憶を消すのは、今の僕。

 そして、今の僕には、この人がいる。

 赤司零子という、誰にも替え難い、僕の大事な人。

 その人といて、知ったことがある。誰かに知ってほしいことがある。

 尻もちをついている彩に視線を向けて、僕は最後の言葉を彼女に送った。

 

「彩、大丈夫だよ」

 

 

 

 

 この世界は確かに僕らの理想の世界じゃないけど、生きていく分にはきっと充分だから。

「この世界は確かに僕らの理想の世界じゃないけど、生きていく分にはきっと充分だから」

 

 

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