この世界での初めての記憶は、一面の雪原と、そこに佇みこちらを睥睨する一頭の氷龍だった。
氷の龍は確実にこちらを見て、俺を認識しているはずだが、何も言わずにじっと見つめてきているのみだ。確実に10m以上はあるだろう。下半身を横たえその長い首を起こしている様は、この場の支配者が誰であるかーー黄金の王冠、指輪、王笏で自身を装飾しなければ自らの地位を誇示できない者とは違いーーその身ひとつで悠然と語っていた。
明らかな異常。こんな一面に広がる真っ白な雪原、日本の秘境の中の秘境なのだろうか、目の前のでかい龍はなんなのか、今にもこちらに襲いかかって喰われるのかもしれない、そもそも俺はさっきまでは何をしていた……?俺……?そもそも俺の名前はなんだ……?
いきなりの展開に様々な思考が頭蓋の中を廻り、混乱しそうになるが、その全てに意識が割かれることはなかった。
龍だ。目の前の龍に、この龍の視線が、存在感が、俺の思考を冷やして釘付けにしている。
目が離せない。
しばらく見つめ合っていたのだろうか、この現実感すら曖昧な空間の中、龍の口が開いた。
「……◼️◼️◼️」
「なんだ……?なんて言ったんだ?」
「◼️◼️◼️……◼️◼️」
「ぜんぜん何言ってるかわかんない……よ……」
何かを伝えようとしている気がする、その意図を尋ねようとしたとき、俺の意識はこの空間に舞う淡い雪片のように溶けていった。
結論から言うと、俺は転生したらしい。たぶん前世の俺が生きていたときと同じような時代で、特に違和感なく今世に馴染むことができたと思う。
多分というのは前世の記憶がぼんやりしているからだ。俺の名前は思い出せないし、日を追うごとに徐々にだが前世のことが思い出せなくなっていくのだ。まぁ、そこは考えてもしょうがないのであまり考えないようにしている。
前世のことはひとまず置いておいて、同じ時代に生まれたのは良かったが、前には無かったであろうことが少しある。
一つ目はたまに変な化け物を見ること。家の外を歩いていると、サッカーボールサイズくらいのだいぶデザインが気持ち悪いモンスターがいる。どうやら俺以外に見えていないらしい。
でもこいつらは特に危険じゃない。初めて会った時びっくりして蹴っ飛ばしてやったら、爆発四散して飛び散った血痕もろとも綺麗さっぱり消えてしまったのだ。
危険じゃないとはいっても、俺にとってはだ。この化け物が肩にくっついてる人を見かけたことがある。その人がかなり辛そうだったから、こっそりはたき落としてやったら回復しているみたいだったので、他の見えない人にとっては危険な存在なのだろう。
そして二つ目はたまに変な夢を見ることだ。真っ白な雪原で一匹の氷の龍と対面する夢。龍は喋れるらしく、何事かを話しかけてきている。最初は何を喋っているか理解できなかったのだが、夢で会うたびに言葉が鮮明になってきている気がする。
これは特に俺が何かできることはないだろう。龍が何を言っているか理解できた時に何か進展するの願うしかない。
とまあ、変わったことはこのくらいで、食べて遊んで寝てたまに化け物退治する日常だ。
この時の俺は呑気にこの日常が漠然と続くと盲目的に信じてやまなかった。俺は思い知ることになる。この世界が弱者にとって、どんなに残酷かを。
俺が住んでいるのは結構な田舎で、のんのんびよりとどっこいな場所だ。そこで祖母と二人で暮らしている。田舎だと住民がヤバそうみたいなイメージがあるが、そこに住んでいる人たちは祖母と二人暮らしの俺たちを気遣って、いろいろ親切にしてくれるいい人たちばかりだ。祖母の人徳の厚さもあるのだろう。俺はそんな優しい祖母も地域の人たちも好きだった。
だからバチが当たったのかもしれない。幸運に傾いた天秤を揺り戻すようにその存在はやってきた。
どこかで遠くで天秤が傾いた音が聞こえた気がした。
「…………じ……ぅ!!」
「…………ぅぅん………」
なんだろう、なんかうるさいような……。
「………そ……郎!!」
ばぁちゃんか……?まだ夜中だぞ……?
「宗次郎!!」
「!!」
ばぁちゃんに布団を強制的にぴっぺがされた俺は、それまでまどろんでいた意識が明瞭になった。
「宗次郎!早く起きなさきい!!はやく!!」
「な、何!?こんな夜中にいったいどうしたの!?」
「いいから早く起きて逃げるよ!!」
逃げる!?逃げるって何から?どこに逃げるんだ……!?
ばぁちゃんにいきなり起こされたと思ったら、初めて見るような鬼気迫る表情で逃げるだのなんだのと言われ、とにかく落ち着かせてどういうことかと状況説明を促そうとした俺は気づいた。
なんか家の外の遠くの方が騒がしいような……それに少しだけ焦げ臭いような匂いもする。村の方で火事でも起こってるのか……?
「ばぁちゃんどうしたの?村の方で火事でも起きた……?」
「違う!いや、火事も起きてるけど……ば、化け物が村で暴れてるんだよ!!」
そのあとばぁちゃんと一緒に逃げる途中、村の方を振り返った俺は見た。
見知った人たちの家々が燃え盛る中、村人たちの血と肉で狂乱の宴の限を尽くして全てを蹂躙しようとする、できうる限りの悪性を煮詰めたような醜く巨大な化け物を。
「はぁ……はぁ……はぁ…………」
村から離れてどれだけ経っただろう。俺は祖母を連れて、少し離れたところにあるという別の集落まで森の中を進んでいた。
祖母がいうことには定期的に連絡を取り合っており、子供の足でも二時間ほどでつくという話だったが、全くつく気配がない。俺も祖母も腕時計などの時間を把握できるものは身に着けてはいないが、なれない夜の森の中を歩き疲労があるていど溜まっている頭でも、確実に三時間は歩いているはずだとおもっている。
道を間違えているということもないはずだ。なのにずっと同じ場所を巡っているような気がする。そういえばあの木……さっきも見たような……。
「…………」
「…………」
「なぁばぁちゃん……すこし休もう」
「……………」
「……?ばぁちゃん……!?」
途中から祖母のことは俺が背負っていたのだが、とにかく逃げなければならないという焦りと疲労で気に掛けることができなかった。
祖母は気を失っており、よく見ると手や足の部分に紫の斑点が見える。これはおそらくあの化け物の仕業だ……!
どうすればいい……?このまま逃げられたとして別の集落に行って助かるのか……?いや、直観だがこの森からは抜けられない。正確にはあの化け物をなんとかするまでは抜けられない、だ。おそらくあまり時間はかけられない。祖母のこの状態が長く続いたらまずいことになるのは馬鹿でもわかることだ。
行くしかない、あの化け物のもとに。あいつはたまに見る奴の超上位個体といったところだろう。おそらく対話は不可能。できたとしてもいい結末は待っていないだろう。
勝てるだろうか……?
これまで村から離れるため数時間森の中を歩いたというのに、村に戻ろうと歩き始めたら十分かそこらでついた。やはり森から出られなかったのはあいつが何かやっていたらしい。だが、これからおそらく殺し合いになるというのに、また数時間かけて戻ることにならずによかったというべきか……。
村に戻った俺が目にしたのは、燃える家、子供、成人、老人の手足や首、
逃げるときに聞こえた村人たちの悲鳴は鳴りを潜め、家がバチバチと燃える音だけ。
そして、村の広場に血の池が広がり、その中心にあいつが鎮座していた。 空には真っ赤で今にも落ちてきそうな真ん丸で大きな月が浮かんでいる。
顔がどこにあるのかもわからないが、こちらをまっすぐに見つめる視線を感じる。
もしかして俺を待っていたのか……?
やっぱりでかいな……。幅は五メートル、体高は三メートルはあるだろうか。体中から人間の手足が無数に生えていてそれが触手のように常に流動的に動いている
真っ黒な泥の丘が動いているようだ。
俺が好きだった風車も真っ二つになっていた。あまり娯楽がない村での俺はよくあの風車の近くまで行って、ぼぅと見るのが好きだった。
気づけばついに化け物と十メートルというところまで近づいていた。相手はというと相も変わらずこの距離に近づいてくるまで身じろぎせず、じっとこちらを観察しているようだ。
”ここまで来たはいいがどうするか……後ろに回り込んでなぐりかかる……?それとも……”
"ブンッ……!!"
触手の一つがブレたと思った瞬間、脇腹を抉られていた。誓って油断していたわけじゃないし、もちろん目を離してもいない。ただ相手が俺の想像を上回っていただけのことだ。
咄嗟に体をずらしていなければ胴体の真ん中に穴が開いていただろう。
とにかく見てから避けるなんてことができる攻撃じゃ無い。なんとか攻撃の予備動作を見つけて予測して避けるしか無い。
と思った俺の体は気づいた時には地面に倒れ伏していた。
それはそうだ、人間は脇腹を抉られたら立っていることなんてできっこない。まして子供の俺は尚更だ。
俺はここで死ぬのか。せっかく転生して人生まだまだこれからだっていうのに……
化け物がゆっくり近づいてくるのを最後に、俺の意識は落ちていった。
「小僧」
気が付けばまたいつしかの一面の雪景色。前とは違うのは龍がはっきりとこちらに話しかけていること。いや、前から話しかけてはいて、言葉がはっきり聞こえるようになったのか。
それに今気づいたが、服は破れたままなのに脇腹の傷がきれいさっぱり無くなっている。
地面からむくりと起き上がり、龍と真正面から相対する。
「戦いたいか?……勝ちたいか?……それとも生きたいか?
どれだ?」
「……生きたい。生きて祖母を助けたい」
「ならばこれを引き抜け」
「これは……?」
「お前の半身であり、お前の武器。”斬魄刀”だ」
さきほどまで何もなかった目の前に、一振りの刀が刺さっていた。
刀をよく見てみると、重なった四角形をずらした花弁のような鍔に、柄頭から鎖が伸びており三日月の装飾がついている。刀身は触れたものすべてを切り裂いてしまいそうなほど鋭く、美しく、俺の顔を反射している。冬の気配がする刀だった。
「ざんぱくとう……」
俺はゆっくりと手を伸ばし、柄を力強く握りしめた。
“…………ッつ!!”
瞬間、この刀の情報、使い方が頭に流れ込んできた。
それははっきりとした意識はなかった。それは古い呪いであり、年月を重ねるうちにいろいろなものと混じりあって、ただ本能のまま破壊の限りをつくすときをーーコップに水を限界まで注ぎ、表面張力によってぎりぎり保たれている均衡が何かの拍子に決壊するようなーー待っていた。
そして数年前、それが祭られている近くの村の一人の少年の覚醒によって、それが一押しになり封印が徐々に解かれていって、今暴虐の限りをつくしている。
それはほぼ本能に身をゆだねながらも、ゆえに鋭敏に自身の危険を感じ取っていた。いまだ完全覚醒に至らずとも、その者の奥に潜む”確実に自らを死に到らしめんとする気配”を!
ゆえに確実に殺すため、村を不完全とはいえ領域でとじーー通常村一つ全てを内に収めるほどの領域を発動するには、このレベルの呪霊では不可能だが、長年この土地で祭られてきたということ、この土地以外では領域を展開できないという縛りによって成り立たせていたーー一対一の状況を作った。
そして今、その策が功を奏したかわからないが、その者は目の前に倒れ伏している。
ただの一撃によって地面に沈んだことに、自身の本能との乖離にいぶかしみながらも最後のとどめを刺すため警戒しながらゆっくり近づいていく。
先ほどのように触手のひとつを振り上げ、頭めがけて落そうとしーー
”ずるり……”と落ちていくのが見えた。
「…………!!」
「待たせたな。そして待たせた所悪いが、すぐに終わらせる……!!」
”なんだ!?何が起きた……!?”
気が付けば背後には先ほどまで倒れ伏していた少年がいた。
手には抜き身の刀が月の光を反射させていて、周囲に薄い血の匂いを漂わせ、ピリピリとした殺気がからだを貫く。
とりあえず触手を呪力で再生させながら、距離をとっーーーー
「霜天に坐せ……氷輪丸!!」
あたり一帯に蒼の風が吹き抜け、呪霊は塵となりその風に乗ってひらひらと、どこかへ飛んで行った。