ある日、夢で見たことのない鯨の絵を見た。
絵を描くのをやめた僕は、何かに駆られるようにその絵を探し始める。
そして、1組の絵と彼女に出会う。
全て偶然か、それとも必然か。
挫折と喪失と、過ぎ去った青春の、総決算のお話。
その夢が特別であったと、僕は信じている。

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鯨の骨が眠る場所

 ○

 

 鯨骨生物群集

 深海に沈んだ鯨の死骸を中心に形成される、生物群集のことを指す。

 

 ○

 

 本物の鯨を見たことがある人間が、一体どれだけいるんだろうか?

 

 画像や映像が氾濫する世の中だから、フィルム越しにそれをみたことがある人間がほとんどだろう。

 故に、鯨を知らないなんて言う人をいままで見たことがない。

 

 まあ、鯨を見たことがあるかなんて質問はしたことはないし、本当のところ知らない人がいたのかも知れないけれど。

 でも、『鯨ってなんですか? 初めて聞きました』、なんて台詞が想像できないのも確かなのだ。

 

 多分、僕達は相手が鯨を知っていると言う共通認識を、無意識のうちに抱えているのだろう。

 例えば、林檎や桜、犬や猫と同じように相手がそれのことを知っていると思っている。

 

 でも、僕たちが抱いているその認識は、はたして本当なのだろうか?

 

 僕らは本物の鯨を見たことが無いのだから、その認識の正誤を判定する方法がない。それの擦り合わせをするには実物を見て確認するほかないのだ。

 

 でも、実物を見る機会というのは意外と少ない。

 水族館は全国各地に数あれど、鯨を見ることができる水族館なんてものは、どこにでもあるわけではないらしい。

 

 考えてみれば当然のことだ、鯨を収めるだけの水槽を水族館がおいそれと用意できるはずもない。

 だから水族館に何度か行ったことはあるけれど、そのどれもが鯨を見れる場所ではなく、だからこそ今まで本物の鯨を見たことがなかった。

 

 でも一度だけ、本物に近しいだろうそれを見たことがある。実際のところそれが本物かはわからない、本当は似てもつかないものを勘違いしてるのかもしれない。

 でも、僕は本物であって欲しいと思ってる。

 その夢が特別であって欲しいと願っている。

 

 そう、どこで見たのかと言われたら、僕の夢の中である。

 

 ある冬の日、僕は夢を見たのだ。

 

 夢の中で僕は1人、照明の落ちた美術館を歩いていた。

 奥の方にポツンと残された照明に向かって歩みを進めて、そうしてたどり着いた先に、鯨の、大きな油絵がかかっていた。

 

 見たことが無いくらい大きいキャンパスに、それでも納め切れないぐらいの鯨の絵。

 原寸大で描こうとして、きっと収まりきらなかったのだろう。僕はそう思った。

 

 周りを見渡して誰もいないことを確認すると、絵を囲うように置いてある、立ち入り禁止のロープパーテーションを乗り越えて、まるで当然の権利だというように、僕はその絵を触ろうとしたのだ。

 

 夢の中の行動であるならば、責められる事はない。

 そして現実ではないから、きっと許されるだろう。

 

 でも、その絵が実際に存在したのならば。

 僕はきっと、もしくは自分ではなく別の誰であろうとも、きっとその絵に触ることを試みるだろう。そんなリアリティが、その絵にはあった。

 

 そこにあることを確認したい、もしくは、それが生きていないことを証明したい、そんな衝動を抱いたのを、まだ覚えている。

 

 絵に近づくと、そんなはずはないのに、なんとなく海の潮の香りがした。

 それに気づくと同時に、絵の方から波の音が聞こえたような気がした。

 

 きっと幻覚だろう、未だに夢だと気付かずに首を振って。

 そして、僕はその絵に触れたのだ。

 

 手から伝わってくる感触は予想していたものではなかった。無機質な、絵を保護する為のひんやりとしたガラスとはほど遠い感触。

 

 ぬるりとした、生暖かい肌。

 手から伝わってくる感触は、間違いなく生きている鯨のものだった。

 

 もう幻覚とは誤魔化せないほど強い潮の香りと、波の音を感じていた。

 

 気がつけばあの鯨の、大きな黒い瞳が、僕のことをじっと見つめていた。

 

 

 それが、ことの始まりだった。

 人によってはエピローグだと思われるのかもしれないけれど、僕はそうだと認めたくはない。あまりにも長すぎるプロローグであると主張したい。

 

 でも結局、僕がどう言おうと、判断するのは他人だ。

 だから、言い訳がましい僕の話を聞いて欲しいのだ。そして決めて欲しいと思ってる。

 

 僕が悪かったのかどうかを。

 全て遅きに失した佐竹 光一の話を聞いて欲しい。

 

 ●

 

 僕が朝起きて真っ先にした事は、その夢の中で見た絵が、はたして過去に見たことがあったかどうかだった。

 

 寝ぼけ眼でノートPCを立ち上げる。

 中学校ぐらいまでは気にいった絵をノートに、高校ではスマホのメモ帳に、大学に入学してからはスマホではなくPCに忘れない様に記しておくことにしていた。

 それは誰が描いた絵か、何を描いた絵か、どんな色合いで、どういった特徴を持っているか。絵から文字へと変換にされるにあたり、大幅に情報は削ぎ落とされてしまう。それでも、書いてしまえば大体覚えることができるものである。

 それが気になった絵であるなら、尚更のこと。

 

 たいして多い量ではない文書データに検索を掛けるのに、それほど時間はかからなかった。『鯨』と一文字入れるだけ。

 意外にも検索候補には0と出た。

 

 少々考え込み、代わりに『瞳』と打ち込む。

 検索候補には何個か出てきたが、エンターキーを押して順番に見ていくも、それらしい言葉の羅列は見つからない。

 

 パタンとPCを畳む。どうやら、夢でみたものは夢の中でしかないらしい。

 

 うんと伸びをして、部屋を見渡す。

 殺風景な部屋だった。ベッドと本棚と服が何着かかけられたハンガーラックと。絵を描いていた頃はもっとごちゃごちゃしていたはずなのに、描かなくなってから次第に、歳を取るにつれて、どんどん私物は減っていた。

 

 あれが分岐点だったような気がする。

 と言っても、後悔してるつもりはないのだけれども。

 

 絵を描き続けていたら、夢で見たような絵をかけていただろうか? きっと無理だろう、そんな気がした。

 あれは自分の発想では出てこないような絵だ。

 

 だからこそ過去に見たものだろうと判断して、調べてみたが予想はあっさりと外れてしまった。

 そんなことがあるのだろうか?

 PCに記すまでもないチラ見しただけの絵が、夢に現れたとは考えなかった。

 あそこまで明瞭な絵であったのならば、あやふやな絵を空想で補ったとは思いにくい。

 

 やっぱり自分の無意識的に思った理想の絵なのだろうか。

 たしかに一から十まで頭の中で組み立てたものが出てきたと考えた方が、しっくり来るのだけれども、何となく認めたくなかった。

 

 寝起きの、朝ご飯も食べずぼんやりとした頭で考え込む。やっぱり何処かで見た絵なのだろうか。本当に鯨の絵を見たことはなかっただろうか。

 

 二つ、可能性をあげたけれども、三つ目の可能性がある。例えば、今まで見てきた絵の合成ではないか?

 

 色んな絵の、いいとこ取りをした絵であるならば、それは見たことのない絵になるに違いない。

 その要素全てを、自分が持つ鯨に重ね合わせたのなら、一体どうなるのだろうか。

 

 多分、自分は普通の人と比べて結構絵を見る方なんだろうと思ってる。だから、インプットされた絵の情報はそれなりにあるつもりだった。

 

 他人がどれだけ絵を見てるかなんて知らないけど、美術館にはそれなり行ってる。大体、月に2.3回程度。それも出来るだけダブらないように違う場所へ。

 

 絵を見るのは好きだ。

 それは描き手のことを雄弁に語ってくれる。

 描く側の人はそんな事は無いという言うかもしれないけれど、少なくとも観る人がいる事を想定した絵は、どう見られるかもちゃんと考えているし、どう見せたいかの意図も載ってくるものだから。

 

 だから、僕は絵を見せない。

 それは自分の内面を見せる事だから。他人が受け入れてくれる保証が無ければ、一歩踏み出せない。

 

 だからこそ憧れる、目を逸らしたくても、自分はこうあるのだと突きつけてくるそれが眩しくて、誘蛾灯に轢かれる羽虫の様にふらふらと惹きつけられてくる。

 そう、多分僕は、他人の才能に打ちのめされたくて、絵を見ている。

 

 美術館に行く以外にも、それなりに絵を見ている。別に美術館じゃなくても絵を見る場所なんていくらでもある。

 例えば、画廊だとか、ギャラリーだとか。

 

 僕は画廊とギャラリーの違いなんてわからないし、そして今後も調べるつもりもないけれど、少なくとも駅の近くに画廊を名乗ってるところが一つあった。

 

 美術館に行く数には含めなかったけれど、そこの画廊へは頻繁に足を運んでいた。そこではよく個展だったり、グループ展が開かれていた。

 美術館とは違い、名前も知らない絵を描く人が多数ではあったけれど、人の描いた絵はやっぱり好きだし、個展ならば絵の変遷から見えるものがある様な気がするから、それはそれでやっぱり良いものがある。

 自分とは違う視点、自分とは違う経験で描いた絵。

 

 ふと思いついて、椅子から腰を上げた。

 なるほど、違う視点で確認してみるのも良いかもしれない。自分とは違う経験を持つであろう人なら、その絵を見たことがあるのかもしれない。

 

 例えば、画廊のオーナーだとか。

 

 おそらく、きっと、僕よりたくさん絵を見てきたであろう人であるならば、似たような絵を見たことがあるかもしれないし、ヒントの一つや二つ掴めるかもしれない。

 

 忘れないうちに、夢でみた絵の特徴をスマホのメモ帳に書き殴る。問題は、言葉だけで自分の見た絵をどれだけ伝えられるかだろう。

 でも、きっと、何とかなる様な気がした。

 

 肌寒さを感じて、身震いをした。

 寝ている間につけておいた暖房はタイマーが切れて停止して、部屋は次第に冷えつつあった。

 思い出したかの様に窓際へと近づき、力強くカーテンを開く。

 嫌になる程青い空がずっと広がっていた。雪が降るから夜間の交通状況に注意!なんて話を聞いた気がするけれど、そんな事は嘘だと言わんばかりの色だった。

 

 部屋を出て階段を降りる。

 母親が作ったであろう朝ご飯の味噌汁のいい匂いが、廊下にまで広がっていた。

 

 僕は、夢で見た鯨の絵に何でここまで固執してるのだろうか。

 

 リビングの扉を開いた時、そんな考えがふと頭に浮かんだが、それを忘れる事に苦労はしなかった。

 

 ●

 

「鯨の絵、ねえ……」

 

 他の物には目もくれず画廊に入ると、入り口にあるカウンターでぼんやりしていたオーナーに単刀直入に質問を投げかけた。

 夢で鯨の絵を見たが何となく気になる、有名な絵でそれに似たようなものはないだろうか?

 

 突拍子もない質問だが、それでもオーナーは真面目に考えているらしい。カウンターの向かい側で、彼女は椅子に腰掛けながら何かをぶつぶつと呟いていた。

 

 野暮ったい丸メガネに、いつものように雑にまとめたであろうポニーテール。疲れたような雰囲気を漂わせてることから、やる気のないアルバイトのようにも見える。けれども、一応この画廊のオーナーらしい。

 

 少なくとも自分が中学生の頃からはあった画廊であり、通い始めた時から見かけているから地味に長い縁になる。

 そう考えると気になるのは年齢だが、当然女性にそんな質問を聞けるはずもない。そんな失礼な思考を読んだのか、気がつけば彼女はじっとこちらを見つめていた。

 それを誤魔化すかのように僕は慌てて口を開いた。

 

「まあ、夢の中で見た絵は、この画廊に入るぐらい小さなものではなかったんですけどね」

「佐竹くんさぁ、おもむろにこの店の悪口かい?」

 

 結構気に入ってるんだけど、とぼやくも、彼女が気を取りなおすのは早かった。いくら考え込んでも無駄だろうと、夢で見たのはどんな鯨の絵だったか、質問を重ねて手早く絞込みにかかる。

 

 Q.鯨の色は?

 A.青

 Q.もしかして浮世絵?

 A.違う

 Q.そうじゃないとすると写実的?

 A.そう

 Q.色合いは?

 A.青が主体、上に行くにつれて明るくグラデーションされている

 Q.印象に残った点は?

 A.瞳、鯨が正面を向いてるわけじゃ無く、片方の瞳しかないのに、こっちをじっと見つめてるように感じた

 

 そうして一通り話を終わった後、答えはわかったと言わんばかりに彼女は深く頷いた。

 

「うん、さっぱりわからんね」

「やっぱりわからないんじゃないですか」

「いやいや極めて大事なことだよ、佐竹くん。わからないことがわかった、それは結構重要な情報さ。君、もしくは私が知らない絵ではなく、存在しない絵の可能性が高いってことなんだから」

 

 実際、そういうことなんだろう。

 

 もしかしたら、そういう絵が本当はあるのかもしれないけれど、理由もなく期待を持たせるのではなく、知らないものは知らないと断言して、あっさり切り捨ててしまえるのも彼女の良いところなんだろう。

 そうして、果断に人の道を決めることができてしまう。

 

「ま、無いなら無いで君が描いて仕舞えば良い。案外、深層心理で君が描きたい絵がそれなのかもね」

「機会があればね、考えときますよ」

 

 君は絵を描きなさいと、暗に伝えてくるのいつもの事だった。どこで聞いたのか、それとも経験から予測がついたのかわからないけれども、彼女は僕が昔絵を描いていたことを知っていた。

 それまではずっと会話をする機会がなかった。僕はやる気のなさそうな彼女のことをスルーしてたし、彼女も僕のことをよく居る客だと思っていたのだろう。

 

 そんなある日、突然、君は絵を描いてるのか?と尋ねられた。

 画廊には何度も足を運んでいたから、そう思われたのかもしれない。確かに絵を描かない人はそうそう画廊に足を運ばないだろう。

 初めはそう思って、僕は絵を描きませんよと言ったのだけれども、『でも昔は描いていたんだろう?』と畳み掛けられてしまった。

 

 不思議なことに、嘘はつけなかった。

 昔から描いてませんと跳ね除けてしまえば良かったのに、そう言えなかったからこそ、この腐れ縁が続いている。

 それとなく絵を描くことを勧めてくるオーナーと、それを拒み続ける僕という関係はあの日から変わらないまま。

 

「やっぱり、まだ描く気になれないんだ」

「そういう訳じゃないんです、自分が描く意味がまだ見つからなくて」

 

 描く意味が見つからない、僕がそれを描かなきゃいけない理由はあるんだろうか。そして、それを探すために僕は絵を見に、美術館や画廊に足を運んでいるのだろうか。

 いつかそれを絵画が教えてくれると思ってるのだろうか?

 

「そういうのが必要なの? 描きたいように描けば良いじゃん、どうせ意味は後からついてくるんだから」

 

 確かにそうかもしれない。

 でも、それを認めてしまったら僕は絵を描かざるを得なくなるから、卑怯にも口を閉ざしていた。

 

「……そう、急かして悪かったね」

 

 沈黙の後、オーナーが素直に引き下がった。いつものように繰り広げられるやり取りは、今日も同じように終わっていた。

 

「すいません」

「何謝ってんのさ、悪いと思ってるならいつか絵を描いてくれれば良いさ」

「……それは保証できませんけど、絵を完成したらオーナーに見せますよ」

 

 保証できないのか、そう言って彼女は腹を押さえて笑った。確かに、つける必要のない前置きだったことに今更気づいて、思わず苦笑する。

 僕はとことん逃げている、絵を描くことから。

 

「そうだ、一応確認しておくけど鯨の絵は1枚絵だったか?」

 

 ふと笑い止んで、オーナーはそんな質問を投げかけてきた。

 頷く。1枚絵であることは当然の共通認識であったから質問されることもなかったし、あえて自分から口に出すこともしていなかった。

 

「まあ、違うか。そもそも違かったら当然特徴として上がりそうなものだし」

 

 不思議なこともあるもんだ、そう言って彼女は首を傾げた。そのまま帰ろうかと思ってたのに、彼女のその反応を見て、思わず足を止めた。

 

「何が違うんです?」

「今やってる個展に、丁度鯨の絵が1枚あるんだよ。いや、1枚っていう言い方が正しくは無いか」

 

 個展。そして鯨の絵が一枚という括りではなく、何かあるという台詞。

 一度店の奥を見やるが、ここから鯨の絵は見えそうになかった。でも、確かに先週来た時とは掛けられている絵が変わっている。

 すこし、興味を惹かれ始めていた。

 

「わたしはオカルトを信用してはいないんだ。が、気になる点が一つある」

 

 オーナーは自分の瞳を指差して、こう言った。

 

「瞳だ、その絵は瞳が印象深い」

 

 順番に絵がそこにあることを確認していくかのように画廊の奥へと向かう。真っ当な絵の楽しみ方とは言えないだろう。一応、道中に掛けられた絵も一瞥するが、気を引かれるほどではないと思い、ほとんどを一瞬で切り捨てて行く。

 

 街中を写した風景画が主だったから、というのもあるだろう。

 確かに上手い、丹念に描かれた絵だ。時間をかければ他にいいところが見つかるかもしれない。それでも、今優先されることではなかったし、そもそも、これを描いた人も知らなかった。

 焦ってオーナーに話を聞きに行ったばかりに、いつも確認していることが抜け落ちていた。

 入り口に置いてあるプロフィールボードの見落とし。まあ、後で確認すれば良いことではあるが、それを見る見ないで絵の理解度は幾分か変わるものだから。

 

 作者に対しても、絵に対しても不誠実。

 そう独りごちつつ、画廊の奥にたどり着いて。そして、僕はようやく足を止めた。

 

 鯨の瞳が、こちらを見ていた。

 5枚のキャンバスを組み合わせた絵だった。1枚の、あの夢で見たひたすら大きなキャンバスに描かれたのとは違う。

 

 瞳を描いたキャンパスに、それを守るようにサイズの違う4枚のキャンバスが取り囲む。

 それでも、その体の全景を描くには足りることはなく、体の一部しか描かれていないのに自分はそれを鯨だとちゃんと認識していた。

 

 オーナーが、それを鯨だと教えてくれたからだろうか?

 

 多分、違う。

 これの全景を描けたのなら、きっと夢で見たあの鯨の絵と似たような物になるような気がしたからだろう。

 しかし、ほんのちょっとした違和感が頭の中の片隅にあった。

 何かがおかしい。絵の近くに置かれてるだろう作品名を探すが、一向に見つからない。

 題名がない絵だ。でも、無いのは本当に題名か?

 

「何かが、違う」

 

 自分に言い聞かせる為の言葉は、思ったより大きく響いていた。

 証拠は無い、けれども違和感の正体は掴み始めていた。あの瞳。こちらを見続けているあれが肝であることも、間違い無いだろう。

 

「何が、違うんですか?」

 

 不意に背後から声を投げかけられて、思わず振り返る。

 セミロングの髪に、気の強そうな目。ベージュのダッフルコートに身を包んだ女子大生っぽい人物。

 多分、初対面のはずだった。なのに、何故か既視感のある顔。こちらが無言で立ち尽くしている間、彼女はじっとこちらを見つめていた。

 痺れを切らしたのは、彼女だった。

 

「何が、違うんですか」

 

 そういって、一歩こちらに詰め寄ってくる。

 その瞬間、既視感の正体に気づいた。そして、絵の違和感の正体にも。

 

 喉に迫り上がってくるものを感じて、彼女を押し退けて急いで入口へと逃げる。

 

「ちょっと、どこへ行くんですか!」

 

 後ろからそんな声を掛けられるも、それに反応する暇はなかった。口を手で押さえ急ぐ。初めは早足だったのも、気づけば走り始めていた。

 オーナーがこちらに対して何か言おうとしてるのが見えたが、その言葉より先に、僕が入口の扉を開け放つ方が早かった。

 身を切るような冷たい風が顔に吹きつけてくる。そして、そこが限界だった。

 

 道路脇の排水溝に朝食だったものを吐き戻す。

 最高の最低限だ、画廊を汚さなくてよかった。

 

 滲む視界、と言っても地面しか見えないだけれども、その外からオーナーの心配そうな声と、きっと彼女が背中を摩ってくれているような感触を感じていた。

 

 ●

 

 出来れば速やかに家に帰ろうと思ったのだけれども、そうは問屋が下さなかった。

 

 うら若き乙女の顔を見て突然嘔吐したなんて、そんな事を正直に言えるはずもなく、今日の朝食べた賞味期限切れのヨーグルトがダメだったと、見知らぬ彼女にそんな嘘をついた。

 

「それ、嘘だろう?」

 

 彼女に白々しい嘘をついていると、耳元でボソリとオーナーからそんな言葉を告げられた。当たり前だろう、そんな偶然が通るはずもなかった。

 

「掃除はする、代わりに彼女の話を聞いてあげてくれる? 結構彼女も傷ついてるみたいだしさ、誤解は解くべきだと思うよ」

 

 そう言われて逃げられるはずもなかった。

 実際、初対面の人間に話しかけたら、こっちの顔を見るなり嘔吐して、ヨーグルトが腐ってたから吐いたとか、そんな見え見えの嘘をつかれて良い気分であるはずはないのも確かなのだ。

 

 問題は、掃除をすると言っても汚れたのは水が流れてる排水溝であるからたいして掃除の手間がかからないっていうのに対して、何が違うかというめんどくさい釈明から逃げられないという事だろう。

 

 メリットとデメリットは明らかに釣り合っていなかった。

 でも、プラマイを抜きして誤解を解かなきゃいけないという義務が発生してるから、僕はここから逃げられない。

 

 そして、いま画廊の向かい側にある喫茶店で僕と彼女は向かい合っていた。テーブルの上には彼女の分のミルクココアと、僕の分のストレートティーが並んでいる。

 

 彼女はじっとミルクココアを見下ろしてるし、僕はといえば話をしたくないなという気持ちから、口を開くのを躊躇っていた。

 喫茶店に入ってから僕と彼女の間に一切会話はなかった。各々がメニューを見て、別々に喫茶店の店員へ注文を告げただけ。

 

 注文して、注文が来て、それなのに微妙な間合いを取り合いが一生続いている。まるで先に口を開いたら負けるかのような、先手必敗かのような、そんな空気になり始めていた。

 

 でも、何かを話さなければ帰れないのだ。紅茶を一口喉に流し込み、意を決して僕は口を開いた。

 

「最近、ちょっと調子が悪くてね。さっきは本当にごめん、いきなり吐いて驚かせちゃったね」

「……いえ、それは別に全然。でも、本当に病院に行かなくていいんですか」

「今は全然調子いいから、平気だよ。病気に行くほどのことではないから」

 

 病院に行く気はさらさらなかった、気持ち悪くなった理由はわかっていたから。だから家に帰って少し寝ればそれで何とかなるだろうと、しばらく横になっていれば気を取りなおすだろうと思っていた。

 

 それより、彼女がこっちの身を案じた事を不思議に思った。

 彼女は別に僕と強いて話そうともしてなかったということだろう。そうなると、オーナーが気を利かせたのだろうか。

 少し予想外ではあったが、それを彼女に告げ口する必要もなかった。ただ、オーナーがお人好しなだけだろう。僕にとっても彼女にとっても。

 

「で、何か聞きたいことがあるんだっけ。そういえば名前も聞いてなかったね。僕は佐竹 光一、大学に通ってる」

「私は、三橋 蘭と言います。あの個展をやらせてもらっていて、いまは芸大の1年生です」

 

 そういって彼女はぺこりと頭を下げた。

 それを見て、やはりそうだったか、と心の中で呟いた。

 

 聞き覚えのある名前だった。彼女は僕のことを知らないけれど、僕は彼女のことを聞いたことがある。

 僕と彼女の初対面であることは間違いない。もしかしたら同姓の別人である可能性もあるのかもしれない。

 

 しかし、『自分と同じように絵を描く妹がいる』という話を、確かに聞いたことがあった。彼女の妹ならば、きっと才能がないことはないのだろうと思った事も覚えていた。

 なるほど、確かに才能はあったのだろ。

 芸大に行って、それも1年目で個展を開く。早ければ早いほど良いというものではないけれど、その年で実行できる行動力があるというのはやっぱり才能といって間違いないのだろう。

 

 そう、きっとそうなのだ。

 自分が違うと呟いた理由も、これで全部解けてしまった。

 

「あの時、私の絵を見て『違う』って佐竹さんは言ったじゃないですか。それが気になって」

 

 黙って紅茶を口に運ぶ。

 さて、どうやって返事をするべきだろうか。

 違うと言ったのには、意図はしなくても、複数の理由が含まれていた。そして、まっとうに全部を答えるつもりもなかった。

 

 きっとめんどくさい事になるだろうと分かっていたから。それを回避するためにも、言ってもいいことと、言わなくていいこと、少し考えてどうかを決めた。

 1番軽いやつから行くべきだろう。小出しの情報、それで納得してくれれば、深入りする必要はないだろう。

 

「……違うって言ったのは、それが他の絵と違うって意味なんだよ」

「他の絵と、違う?」

「描いた三橋さん自身もわかってると思うけど、あそこにあった絵はほとんど全て風景画だった。つまりは、現実に見た風景を描いた。そうだろう?」

 

 彼女は首を縦に振った。

 

「でも、あの絵は違う。あれは想像で描いた絵だ」

「何で佐竹さんはそう思ったんですか。水族館なりテレビで見て、それを絵に落としたのかもしれませんよ」

 

 彼女のことを批判するような言葉だと捉えられたのかもしれない、少し棘のある返事が返ってきた。

 確かにその可能性はあるだろう。でも、なんとなくそうではないと僕は思っていた。

 

「そうだとしたら、三橋さんに謝らなきゃいけないね。でも、風景画は昔よく描いてたから、そこから一歩踏み出した時の気持ちもわからなくはないんだ」

 

 それは自分の経験からくる話だ。もしかしたら、彼女は違うのかもしれない。

 自分よりずっと上に図々しい意見をいってる、でも、それで幻滅してくれたらきっと楽になれるだろうから、躊躇いはなかった。

 

「これだという、自分の中で柱が見つかってないんだ。確信を掴んで描けないから、そういうブレが見える事がある」

 

 絵は、自我を押し通せるかどうかも才能だと思うのだ。これは良いと思ったものを、自分が見たいように見せてやるという傲慢さが、少なからず必要なんだと思っている。

 それをやる時に必要なのが自信なのだろう。そして、僕になかったのも絵を支えるための自信だった。

 風景画は好きだった、風景自体がその絵のことを保証してるから。しかし、そこから先に進めるためのプラスアルファが自分には見つけられなくて、ここが僕の限界だと思ったのだ。

 

「これは別に絵が悪いといってるんじゃない、ただそう言う特徴があるってだけで。想像で描いた絵はこう見せたいって感情が乗るんだ、良くも悪くもね。それがエネルギーになる。だからあの絵はいい絵だと思うよ」

 

 自分の言った台詞を思い返して、下手なことを言ってないか再確認する。5年以上も絵を描いてないくせに、こんな寒い意見をよく言えるものだと思って、思わず苦笑いがこぼれた。

 

「佐竹さんは、本当にそう思ってますか?」

「思う、間違いなく」

 

 確認を求められて、否定することはしなかった。彼女はこっちの様子をじっと見つめて。しばらくしてからココアに手を伸ばした。

 

「佐竹さん、違うって思ったのは別なんじゃないですか」

「別?」

 

 かちゃりと、ソーサーにカップを置く音が響いた。

 どうやら、彼女はまだ納得していないらしい。

 

「あの画廊の店主との話を少しだけ聞かせてもらいました、佐竹さんは夢で鯨の絵を見たんですよね」

「ああ、聞かれてたんだ。ちょっとオカルトじみた話になっちゃうからいう必要もないかなと思ったんだけど。そう、夢で見た絵とは、確かに違かった。その意味も含まれていたね」

「本当に、それだけですか」

 

 僕が気づいてることに、彼女も気づいたのだろうか。

 彼女の顔を見てすぐに目を逸らす。目が潤んでいるように見えたのは、きっと気のせいだと自分に言い聞かせて、知らないふりをした。

 

「お願いします。今だけは、嘘をつかないでください。本当に違かったのは、それだけですか」

 

 沈黙を返すほかなかった。

 言わないほうがいいとわかってる。

 このまま言わなければ、全部無かったことにして仕舞えば良い。全部、僕の中にとどめて仕舞えばいい。不思議な夢を見た、それに似た絵を画廊で見かけた、それで全部話を終わらせることもできるのだろう。

 

 きっと、ここが分岐点なのだろう。

 

 彼女は、それを指摘されることを望んでいる。きっと他の誰かが気付きはしても、断定はできないだろう。でも、僕は気づいてしまった彼女がそう望むことを知って、確信してしまった。

 

 そして、彼女もまたそのことに気づいている。僕が気付いたことに、気付いてしまったことに。逃げようとしたから、嘘を吐こうとしたから、上手く繕えなかったから。今更後悔しても全てが遅かった。

 

 僕がこの後も知らないふりをしても、嘘をついたことは当然バレてるのだろう。そしたらどうなってしまうのだろうか。

 僕はそれで良い、でも彼女は?

 

 答えは決まった、どうするかも。

 これからどうなるか、考えたくなくて。

 それから目を逸らすために、僕は口を開いた。

 

「あの絵は、5枚組である必要があった。そうだよね」

「……そうです」

「断定はできない。だから、見当違いなことを言ったら謝ることしかできない」

 

 そんなことはありえないと思いながら、その前置きを置いた。その絵の作者は、目の前にいる彼女ではなく別の誰かだと指摘するために、それをいう必要があった。

 そして誰が描いたのかも、予想がついていた。

 

「でも、間違いなく、あの絵の内、瞳の部分を描いたのは君ではない」

 

 気付かないはずがなかった。

 あの絵の前に立った時、昔を思い出したのだ。あの懐かしい日々を、過ぎ去ってしまった日々のことを、あの負け続けてた苦い日々を、そして1番眩しかった時期のことを。

 

 今まで何枚も、僕より上だと思う絵を見てきた。

 そのうちの、1番僕の近くで作られていた絵。

 僕が憧れ続けた彼女の絵。

 

 他の4枚とは違い、瞳だけは確固とした自信で描かれていた。

 これはこうである。いや、これはこうあるべきだと言わんばかりの絵。

 こちらを一瞥で貫かんとするあの瞳は、あの個展の中で一際異彩を放っていた。そこに至るまでの風景画とは一線を画す絵、だから違和感を覚えたのだ。

 これを描いた人は、ここに来るまでの風景画を本当に描いたのだろうか、と。

 

 1人だけ、そういう絵を描ける人に心当たりがあった。そして彼女の苗字を聞いて確信した。

 三橋、確かに聞き覚えのある苗字だった。

 

「あの絵は、あの瞳を柱にして描いたものだ」

「……はい」

「誰が描いたかは教えてくれなくてもわかる。君の姉が描いた絵だ、そうだろう?」

 

 僕の初恋の相手。

 ずっと憧れだった。そして、ずっと届かなかった人。

 

 そして、僕が絵をやめた理由。

 僕は彼女のようになれない、それは自分に見切りをつけるきっかけだった。彼女と出会わなくても、遅かれ早かれだったろう。彼女でなくても、きっと別の誰かに才能に打ちのめされていただろう。

 でも今よりずっと軽症になってたに違いない。

 

 そして、もう2度と出会えない人。

 中学校を卒業してから、別の高校に進んで、彼女と出会うことはなかった。ただ、大学に入って、しばらくしてから彼女が若くして病気で亡くなってしまったという話だけが僕に届いた。

 

 気づかないはずがなかった。でも、何もなければ気のせいだろうと思い込めたのだろう。

 彼女と出会わなければ。

 

 でも、本当にそうだろうか。

 今この時は自分のことを誤魔化せても、時間が経てばどうなったのだろうか。知るべきでないことを知る為に、奔走していたのではないだろうか?

 

 誰も僕の問いに答えてくれやしない。

 喫茶店に、対面の彼女が泣く声が静かに響いている。

 

 ○

 

 中学校の頃の自分は、それなりに上手かったと思っている。自惚れでもなんでもなく、他の人よりずっと絵を描いていた。

 よく観て、よく描く。忠実に、正確に描いていくのは嫌いではなかった。

 

 でも、美術部に入ったのは他に入りたい部活もないっていう消極的な理由にすぎなかった。

 体験入部の時も、先輩にはやる気があるように思えなかったし、やる気に比例して実力も無かった。

 やる気のない部活、やる気のない先輩、現れない幽霊部員。

 でも、部活に入る事は義務であったし、他の部活に入るぐらいならば美術部に入ってしまえば、部活時間に絵を描けると考えると、たしかに悪くは無かった。

 

 そうして何となく入った部活で、三橋 鈴と出会ったのだ。

 もう、顔はあまり思い出せない。あまり髪を伸ばさず、基本的にショートカットで前髪をヘアピンで止めていたのは覚えている。

 

 同級生ではあるけれど、同じクラスになることも無く、中学校のあの美術部の中の縁でしかなかった。

 

 彼女は、デッサンがそんなに上手くなかった。

 ちゃんとよく観ていないのか、デッサンに興味がないのか。

 自分の分はそこそこに切り上げて、僕が描くのを後ろからぼんやりとよく眺めていた。

 

 僕はというとデッサンは、得意だった。

 形を捉えて、陰影を落とし込んでいく。そもそもの話、目の前のものを正確に描けないのであれば、頭の中のイメージを他人に表現できないだろう、そう思っていた。

 だから、ひたすら描き続けていたし、それが間違っていたとも思わない。

 

 小学校の頃、県で賞を貰ったことがあった。

 それは正確に描く、ということが評価されたんじゃないかと思っている。

 

 三橋 鈴が優れていたのはクロッキーだった。

 つまりは、速写である。雑なところはある、が、情報の取り捨てが上手かった。

 雰囲気を的確に捉え、それを伝える才能。

 

 三橋 鈴が学校外でどういう生活をしていたのかは知らないけれど、彼女が持っているクロッキー帳を見た事はある。

 中には鳥や、野良猫、美術部の窓から見えるグラウンドの生徒とか、そういったものが描かれていた。

 それらを見た後、手帳サイズのクロッキー帳の表面には32と小さく書かれていたのをよく覚えている。

 

 絵の実力とは、何で決まるのか。

 

 世間に名前が知られているかどうかだろうか?

 でも、中学生で名前が知られてるなんて事はあり得ないだろう。

 

 賞を取れたか否かだろうか?

 そうかもしれない。1番わかりやすく、決着が付きやすい。同じ賞ならどうなるかという問題はあるけれど。

 

 でも、それらの判断基準は結局、第三者から見たものなのだ。当人間ではまた話が違ってくる。負けたと思えば負けるし、勝ったと思えれば勝ちなのだ。

 そして僕は、三橋 鈴に一度も勝ったことがないと思っている。

 

 彼女が自分より才能があると気付いたのは、2回目に行われた、部活内でのイラストコンクールの時だった。

 僕は放課後の誰もいない階段を描いて、三橋 鈴は50メートル走の体力テストの順番待ちをしている絵を描いた。

 

 部員内で集計した票数では自分の方が上だった。それは多分、自分の方が綺麗に描いていたからだろう。

 それでも、負けたなと思っていた。

 間違いなく、彼女の方が発想は良かった。ゴールは遥か遠くに描かれ、コースの横にある校舎の窓際には人影が並んでいた。見られたくないという感情の裏返しだろう、そう思った。

 

 彼女と同じ題材で書けと言われた時、僕は彼女以上に描けただろうか?

 

「いやぁ、佐竹君はやっぱり上手いね。この絵は結構自信があったんだけど」

 

 そういって苦笑する三橋 鈴に、僕は何も言えなかった。

 

 僕は風景画をよく描いた。家にはもう残ってないが、祖母にあげたものは何枚か残っている。今見ても上手く描けたなといえる程の出来だ。

 でも、それらの感情は結局上手止まりなのだ。

 その絵を描いて、何を伝えたいのか、

 何を思ったのかを僕は載せられなかった。

 

 三橋 鈴にはその才能があった。

 全校集会で表彰され、下がる時に思い切りコケるのを笑われてる姿も、僕は壇の下の遠くから眺めていた。

 

 彼女はよく賞を取っていた。

 自分もたまに取る事はたまに取ることは合ったが、彼女を上回る事はなかった。

 

 部活内のコンクールも、彼女が賞を取ってからは彼女が大体勝つようになっていた。たまに自分が勝つ事はあったが、その勝った時ですら彼女の方が上だと思っていた。

 

「光一君もさ、美術高校に行くよね」

 

 ある日、デッサンの途中でそんな話題の振られ方をした。放課後の部室、彼女はいつものように、後ろからこっちを眺めていた。

 彼女のいう美術高校は絵を勉強したいなら、それほど悪い選択肢ではなかった。何人か先輩も行ってるし、僕の家からも確かに通えない距離でもない。

 しかし、どうするかは決まっていた。

 

「僕は、普通の高校に行くよ」

「やだなぁ、冗談でしょ。勿体無いって」

「本気だよ、三橋さん」

 

 ずっと前から気付いていた。

 自分には才能がないってことに、絵が上手いのではなく、ただ早熟なだけだったってことに。

 

 描きたいものがない、それは余りにも致命的な欠点だった。

 ただそこにあるものをそうあるように描くだけなのだ、僕は。それならば自分が描く必要がない、カメラで撮って仕舞えば片がつく。

 

「三橋さんと比べて、僕には才能がないからね」

 

 嫌味な言い方をしたと分かっていた。

 そんな前置きをおく必要が無いのに、彼女の意見を封じる為だけにそう言ったのだ。

 

「だから、僕が絵を描くのは中学校までだよ。卒業したら描かない。普通に勉強して、普通に仕事して、普通に暮らすさ」

「……才能がないから?」

「そう、才能がないから」

 

 返事はなく、1人で石膏像のデッサンを続けていた。中学校を卒業したら絵を描かないって決めたのは、もうずっと前なのに、今も未練たらしく描いてるのは何故だろう。

 ただの習慣だろうか。それとも、中学に居るうちは負けたくないと思ってるからだろうか、そんなちっぽけな意地がまだ残っているのだろうか?

 それとも、僕に才能がないことを認めなくなかったのか。

 

「違うよ、光一君。それは違う」

 

 長い沈黙の後、彼女はようやく口を開いた。彼女の方を見ずにそれを背中で聞いていた。

 

「光一君は負けたくないから。だから、絵を描くことから逃げるんだよ」

 

 思わず振り返って、そして動きを止めた。

 彼女が涙を流していたから、そしてその原因は間違いなく僕なんだろう。

 

 彼女と目があったのは、一瞬だったような気もするし、長い時間だったような気もする。先に動いたのは彼女の方だった。僕の返事も待たずに、彼女は部室から飛び出して、僕だけがぽつんと取り残されて。

 

 彼女の言った言葉を、1人で噛み締めていた。

 

 負けたくないから、絵を描くことから逃げる。

 

 確かにそうだった。

 才能がないから辞めるとか、そんなの言い訳に過ぎなかった。

 

 それでも、そうだとしても。

 

 結局、三橋 鈴とはその後も何事もなかったかのように美術部で話していた。あの日のことを触れてはいけないことのように過ごすことで平穏な生活を続けていた。

 

 僕は普通に高校へ行き、彼女は美術高校に進んだ。

 彼女との縁はそれっきり。

 

 そうして僕は、高校に進んで、大学に進んでも、絵を眺めて暮らす生活をしていた。絵を見ながら自分はこうなれないなと思うのだ。

 やっぱり、自分には才能がないなと思って、そう思うたびに、君は負けたくないから描かないだけだという彼女の鋭い台詞を思い出して、心がちくりとする、そんな日々。

 

 そんな日を続けていた、去年の冬、久しぶりに中高を共にした同級生と街中で会い、話すことがあった。

 昔を懐かしむ、過去の話ならば人を傷つけないだろうから、話しやすい話題ではあった。そんな時にふと、あいつは声のトーンを落として言ったのだ。

 

「そういえば中学校の頃の、お前は美術部だったから名前を知ってると思うけど三橋 鈴、死んじゃったらしいぜ」

 

 寝耳に水の話だった。

 

 若いのにガンになっちゃって、進行も早いから大変だったらしいぜ。お前も体には気をつけろよ。わかってるって、煙草も酒も飲まない健康優良児だぜ僕は。君は? 30歳まで生きられるかわかんねーわ。どんな生活してるんだよ、やばすぎるだろお前。

 ずっと遠いところで、誰かが白々しい会話をしている。

 

 気がつけば、路上で1人突っ立っていた。

 夢だと思った、ずっと醒めない夢を見ている。

 

 昔の友人と出会ったのも、そこで三橋 鈴が死んだという話を聞いたのも、全部現実ではないような気がして。

 誰でも良いから嘘だと否定して欲しくて、事実を確認しようとして、それが本当だと知るのが怖くて、僕は何もしなかった。

 

 人は死ぬ、当たり前だ。

 神様は平等で、理不尽だから。

 

 そして僕も薄情なんだろう。

 気を取り直すのは簡単なことではなかったけど、不可能なことではなかった。

 

 大学に行く、絵を見る、気に入った絵の特徴を記録する。その繰り返しが戻ってくるのに、そんなに時間はかからなかった。

 

 ●

 

 既に火がついてた蝋燭を使い、線香に火をつけて、煽いで消した後に立てる。鈴を一回鳴らして、位牌に手を合わせた。

 

 自分の記憶の中の彼女より少し成長した姿だった。まだ元気だった頃の彼女の写真が仏壇の隣に置かれていた。

 振り返ると、三橋 蘭はちょうど石油ストーブの電源を入れたところだった。

 その流れで座布団を部屋の隅から引っ張りだしてきて、自分から少し離れたところに、僕と同じように正座する。

 

「わざわざお邪魔して、悪かったね」

「いえいえ、きっとお姉ちゃんも喜んでますから」

 

 お参りさせて欲しいと自分から頼み込んだ。葬式にも参加できなかった僕だから、きっと今を逃せば、機会は訪れない気がした。

 断られることはなく、初めて彼女の家へと伺うことになった。お墓はちょっと遠いから、そっちに行きましょうと言われて、断れるはずもない。

 

 画廊から、10分ほど歩いた場所。

 自分の家とは画廊を挟んで、およそ対角の位置に彼女の家はあった。

 

「意外と、僕と彼女の縁はそこまで強くなかったんだよ。中学校の頃の美術部しか接点はない、同じクラスになったこともなかった」

 

 たった3年間。もう20年以上生きていて、そのうちの6分の1以下の時間。しかも、放課後の部活のみと考えるとさらに短くなる。憧れはあった。それ故に一線を引いて、そこから先に近づこうともしなかった。

 

「それでも、あの少しの時間の共有で彼女は三橋 鈴は天才なんだと思ってた。彼女からすれば、僕なんてそこら辺の路傍の石にすぎなかったんじゃないかって思うんだ」

 

 美術高校に行った彼女なら、そのことに気づいたはずだった。僕よりずっと上手い奴らが、ずっと努力をしてるのだ。

 彼女が僕のことを覚えているとは、到底思えなかった。

 

「それは、違いますよ」

 

 だから、彼女の反応は少し予想外のものだった。一瞬の躊躇いもなく、こちらの言葉を否定する。

 戸惑うも、すぐに気を取り直した。三橋 鈴が天才だということを否定したかったのだろう。僕と違って、彼女をすぐそばから見ていた妹からすれば違う視点もあったのだろうと。

 

「佐竹さん、あなたの事はお姉ちゃんからよく話を聞いてました」

「そんな、たいした事はしてなかったと思うけど。そういえば、僕も君の話は少しだけ聞いたことがあるよ。妹も絵を描いてるって、なかなか上手だって」

「私の事はどうでも良いんです。佐竹さん、あなたの事は私もよく聞かされてました。その意味がわかりますか?」

 

 話を強引に筋を戻してくる。

 まるで自分が逃げるのを阻止するかのように、それから目を逸らすなと言わんばかりに。しかし、僕の話を姉から聞いていたからと言って、だからどうだっていうのだ。

 

「僕より君のお姉さんの方が凄かったし、さらにいうなら、僕より君の方がすごいんじゃないか」

 

 僕と彼女の賞を取った数の差を、美術部内でのコンクールの結果を、目の前にいる彼女はちゃんと知ってるのだろうか。自分よりずっと、三橋 鈴が優れていた事を知っているのなら、それに固執する必要はないだろう。

 

「芸大に入るのもすごいし、その一年目に個展を開く。すごい事だと思うよ」

「個展をなんて誰でも開けますよ。なんなら、もっと早くやらなきゃいけなかった」

 

 きっと、三橋 鈴が生きているうちに、自分の個展をみせてやりたかったという事なのだろう。

 

 ふと、疑問が思い浮かんだ。

 彼女は、三橋 鈴は個展を開かなかったのだろうか。

 

 彼女の病がどういう経緯を辿ったのかは知らないけれど、中学校の頃からそれなりの生産スピードではあった。

 妹がどれぐらい描いて、人に見せられると判断する割合がどれぐらいかは知らないけれど、それが三橋 鈴と同程度であるならば、もしかして、彼女も個展を開けるだけの作品数はあったのではないだろうか。

 

 まあ三橋 蘭と違って、個展を開く理由がなかった可能性はあるだろうけれど、何となく不思議な気がした。

 

「佐竹さん、何で私が風景画を好んで描くようになったか知ってますか」

 

 こちらの思考を遮るかのように、そんな言葉が飛んできた。不思議な質問だった、ヒントのない答えようのない質問のように思える。

 少し考えるも、思いつかず首を横に振る。闇雲に答えるより、彼女の答えを聞いた方が早く済むだろう。

 

「お姉ちゃんの憧れが、貴方だったからですよ」

 

 一瞬、ぽかんとしてしまった。

 彼女が、僕に憧れていた?

 ありえない、ふっと笑いが込み上げてきてしまう。彼女が僕に憧れる理由が無いじゃないか。

 

「そんなお世辞はいらないよ」

 

 その言葉に返事はなかった。

 彼女はすぐさま何かを言い返そうとして、それを必死に歯を食いしばって堪えているようにみえた。

 

「……そうやって、逃げるから」

 

 恐らく、本当のことなのだろう。僕より彼女の方が三橋 鈴のことを知っているのは、当然だ、改めて否定できるはずがなかった。

 彼女は僕に憧れていた。

 何故?という純粋な戸惑いがあった。

 

 わからない。美術高校に進んだ先で、僕より技術が上の人物に間違いなく出会っているはずなのに、そんなの中学校の頃の思い出なんて一時期の幻影に過ぎないと彼女も気付いたはずだ。

 でも、もしかしたらそうなのかもしれない。

 

 僕からしてみればわからないけれど、彼女から見て僕の絵にも光るところがあったのかもしれない。

 評価を決めるのは自分ではなく、他人だ。

 こうあると決めつける絵と対照的に、私が絵の価値を決めるなんて烏滸がましいという彼女の言葉も確かにあった。

 その時は、他人の絵なんてどうでも良いと思ってるんだろうなと思っていたけれど、本当のところはどうだったのだろうか。

 

 疑問が分裂して、そして次第に小さくになるにつれて、それに隠れていたもう一つ、形容し難い感情が渦巻いていることに気付いた。

 

 認めたくなかった。そう、その事実を認めなくなかった。僕が憧れていた三橋 鈴が、彼女も同じように僕に憧れていたことを知って、今更何がどうなるというんだ。今更何が変わるのか。

 

 それを知っていたら、僕は今も絵を描いていたのだろうか。幾分か心の慰めを得て、多少なりとも道は変わったのだろうか?

 そうかもしれないが、きっと遅かれ早かれ僕が挫折することは変わらないような気がした。

 

 ならば、彼女が死ぬことが変わったのだろうか、病気から逃げきることはできたのだろうか?

 否だ、そんなはずはないだろう。

 僕と彼女の関係性は変わったとしても、一番変えたい現実から逃げられないのなら、どうしてほっといてくれなかったのだろう。

 どうして彼女はありえもしない夢を見せようとしてくるのだろう。

 

 気分が、ひどく悪かった。

 もう吐くものはないのが、幸いなところだった。先ほどより、ずっと遠くから彼女の声が聞こえた気がした。

 

「私は佐竹さんに凄い人であって欲しいと思ってるんですよ」

「……うん」

「お姉ちゃんが憧れた人らしくあって欲しいと、それになりたかった私が馬鹿らしくないように」

「でも、勝手な意見だよ。それは」

 

 会ったこともない人に期待して、そうであれと勝手に願う。あまりにも我儘な言い草に、少しだけムカついた。

 それを一言否定するのがやっとなぐらい、僕は疲れていた。

 

「自分勝手なのは、貴方もでしょう」

 

 そうだ、僕も自分勝手だった。

 三橋 鈴が否定しないことをいいことに、勝手に僕が抱く幻想を重ねて、自分が同じように重ねられれば、すぐに逃げ出そうとする。

 

 きっと、僕が1番卑怯なのだろう。

 

 そう気づくと、怒りが引いて冷静さを取り戻せた。何でこんなところで喧嘩しそうになってるのか、こんな事をしに来たはずじゃなかったのに。

 これを招いたのは自分なのに、どうして。

 

 もっと早く、彼女が生きているうちに三橋 蘭に会っていたら、どうなったのだろうか。

 僕が三橋 鈴に幻想を抱いていたことに気づけただろうか?

 そしたら、もしかしたら何かを話せたかもしれない。僕は大した奴じゃないと釈明して、同じように怒られていたのかもしれない。

 

 僕が今も絵を描いていたら、どうなったのだろうか。

 自分が人に負けたくないことに、素直に向き合えているだろうか?

 彼女が部室から飛び出して行った時に、素直に謝れていたらどうなったのだろうか。

 美術部の中でしか成立しなかった縁は、高校に行った後ももしかしたら続いていたのではないだろうか?

 もしかして、亡くなるまでずっと続いていたのかもしれない。

 

 全部、自分が原因じゃないか?

 分岐を変える選択肢はいくらでもあったのに、悉くを外して、僕は今ここにいた。

 そう考えると、肩の力がふっと抜けた。

 多分、全部僕が悪いのだと。

 

「本当に、ごめん」

「何で、佐竹さんがそんな顔するんですか」

 

 僕は今、どんな顔をしてるのだろうか。

 よくわからなかった。きっと、酷い顔をしてるのだろう。彼女の方が泣きそうな顔になってるのに、そんな心配をされるぐらいなのだから。

 

 腰掛けていた座布団から立ち上がり、和室を出る。その後ろから彼女がついてくる。

 靴を履いていると、再び後ろから声を掛けられた。

 

「佐竹さん、またお姉ちゃんに会いにきてくれますか」

「……考えとくよ」

「……あと、もう一つだけ」

「何?」

「佐竹さんが夢で見た鯨の絵を、描いてくれませんか」

 

 思わず振り返る。本気で言ってるのだろうか。でも、三橋 蘭は冗談めかしてる様子ではなく、真面目にそれを求めているようだった。

 

「それは」

「あの鯨の絵は、お姉ちゃんが夢で見た絵なんです」

 

 不思議な夢を見たと、お姉ちゃんは言ってんです。誰もいない美術館で、とても大きな鯨の絵を見た。

 

 俄かに信じがたい話だ。

 確かに、僕が見た夢と似たようなシチュエーションではある。

 

 そんなことが、本当にあり得るのだろうか。僕とオーナーの話を聞いて、でっちあげたのではないだろうか。

 

「夢で見たあの絵を描きたいって、それで」

 

 その時には自分の寿命がどれぐらいか彼女は気付いていたのだろうか。多分、知っていたのだろう、だから1番先に重要である瞳を描き終えた。瞳以外の完成を後回しにしてまで、最優先に。

 

「でも完成させる事はできなかった。病院に入院することになったから、だから代わりに続きを描いて欲しいって頼まれたんです」

 

 彼女は他人の協力を前提にした描き方をしていたと、三橋 蘭はそのことに気づいてるのだろうか。

 気づいても、気づいていなくても、どちらにしろ結果は変わらなかったのだろうと思う。

 彼女は姉に頼まれたら、気付いていようとそうでなかろうと描くだろう。僕だって同じ状況なら喜んで描くだろう。

 少しだけ、羨ましく感じた。三橋 鈴に最後に絵を託されるのが、ほんの少しだけ羨ましかった。

 

「私は、お姉ちゃんが見た夢と、佐竹さんが見た夢が同じものだと思うんです」

 

 ありえないと思った、でもそんな奇跡があってもおかしくないと思った。こんな偶然が続いてるのだから。

 でも、本当にそうだろうか。

 

「……君があの画廊で、個展をやろうと思ったのには、なんか理由があった?」

 

 少しの違和感がずっとあった。

 

 偶然かもしれない。ここから1番近い画廊があそこだったから、個展をやるのなら一番の選択肢があそこになるだろう。

 でも、もしも、その理由でないのならば。

 

「はい、お姉ちゃんに個展を開いてみたいって言ったら、あそこが良いよってお勧めしてくれて」

 

 脳天を撃ち抜かれたような衝撃だった。

 今になって、ようやく違和感の正体に気付いた。何処からが、必然だったのだろうか。

 

「でも、良かったですよ。偶然にも佐竹さんと会えましたし」

「……たぶん、違うよ」

「え?」

「なんでもない、気にしなくて良いよ」

 

 三橋 蘭は本当に偶然だと思っているようだった、そんなことないのに。

 すぐに確認しなければいけない、ここから出た後の行き先はもう決まっていた。

 

「それじゃあ、お暇するよ」

 

 玄関を開けて外へ出る、冷たい風が容赦なく体に突き刺さり、思わず身震いする。最後に振り返り、思い出したかのように彼女の希望への返事をした。

 

「絵はそうだな……出来たら見せるよ、でも完成しないかもしれない」

「待ってますよ、ずっと」

 

 そうして、僕は彼女の家から出た。

 振り返ることなく去っていく、扉の閉まる音は最後まで聞こえなかった。

 

 見上げた空は白く濁っていた。朝は晴れていたのに、今となっては曇天。天気予報通り今にも雪が降りそうな雲行きだった。

 

 強く吹く風に急かされるように、僕は走り始めた。

 

 ●

 

 画廊の店先にはプロフィールボードが置かれていることに、今更気付いた。三橋 鈴、彼女の名前と経歴が書かれている。

 

 さっき来た時はオーナーに確認に急いでいたから、見逃していたのだろう。それを見つけてたら、僕は引き返したのだろうか。

 そんなことはしなかっただろう、きっと。

 逆に見覚えのある名前に、吸い寄せられたに違いなかった。

 

 ドアチャイムの音に、オーナーは本から顔を上げると手を上げた。

 

「よ、おかえり。調子はどう? しばらく休んで元気になったかい、佐竹くん」

「元気ですよ、それより確認しなきゃいけないことがあるんです」

「ふーん、なんだい?」

 

 尋ねるべき事は、いくらでもあった。

 彼女はどこまで想定していたのだろうか。

 

「オーナー、僕が絵を描かなくなったことを誰から聞いたんですか」

「……へぇ、もしかして気付いた?」

 

 否定して欲しかったのに、あっさりと彼女はそれを認めてしまった。やっぱり、そうなのだろう。知らなかったのは僕1人だけだった。

 

「全部偶然だったら良かったのに、そんな事はないんですね」

「当たり前だよ。世界は偶然半分、必然半分出てきている。君が今日鯨の夢を見たのは偶然だろうけどね」

 

 全部、必然だった。

 ここで個展が開かれることも。

 僕が、その絵に気づくだろうことも。

 そして、三橋 蘭と出会ったことも。

 

 個展を開く場所は、三橋 鈴が誘導していた事だ。

 多分、それは、僕がくる場所だから。

 僕が夢を見ていようとそうでなかろうと、多分あの絵がこの空間の中で異彩を放ってることには気付いただろう。

 気付いて仕舞えば、その絵を誰が描いたのか僕は注目する筈だ。

 三橋 蘭が今日ここに訪れなかったとしても、オーナーを介して彼女に接触を図ろうとしただろう。

 

「三橋 鈴は、この画廊によく来てたんですか」

「それなりに、ね。君ほどじゃないけど」

 

 頻繁に訪れていたのに、彼女とは偶然出会わなかったのか。いや、多分、そんな事はありえないだろう。

 三橋 鈴は僕がここに訪れている事を知っていた。それならば逆に、僕を避けることも当然できた筈なのだ。

 

「君は行動をパターン化しすぎるんだ。ここに来るのは大体土曜だし、彼女がそれを避ける事は難しい事じゃなかった」

 

 ルーティン化した行動だからこそ、彼女と出会わなかった。皮肉なことに、僕の行動は全部裏目に出ていたらしい。

 それは、僕を避けてもらうための行動ではなかった。

 

「もちろん、曜日がずれて出会う可能性もあったろうけど、そんな偶然は起きなかったから、やっぱり必然なんだろうね」

「そうですか、やっぱり避けられてましたか」

 

 偶然を装って僕と出会うことも出来ただろう。でも、彼女はそうはしなかった。

 会わない選択肢と会う選択肢があったのに、彼女は会わない選択肢を取った。そのことに、僕は今まで気付くことはなかった。

 

「でも、気にする事はないよ。嫌われてたわけじゃないし、むしろ気に入られてたからこそ、そうしていたんだ」

「気に入られていた?」

「妹ちゃんと喫茶店で話したんだろう。聞かなかった?」

 

『お姉ちゃんの憧れが、貴方だったから』

 そんな台詞が頭の中で思い返された。彼女の思い込みではなく、本当にそうだったのだろう。

 

「懐かしいね。もうずっと前のことなのに、まだ覚えてる」

 

 オーナーは遠い目をしていた。

 

「最近、あの男子高校生がよく来るなと思ってたら、話しかけられたんだよ、彼女に『あの、さっきの高校生ってここによく来るんですか?』って、心当たりは君しかいなかった」

 

 僕の知らない時に起きた彼女達の会話。

 耳を塞いで、全部聞かなかったことにしてしまいたかった。でも、それは僕が知らなきゃいけない事なのだろう。

 

「青春だなーって思ったよ。多分この子はあいつのことを好きなんだろうって、だから応援したくなっちゃった」

 

『あの男子高校生なら、よく来てるよ。大体土曜に見かけるかな』

『そうですか、よかったぁ』

 

「好きなのかって聞いたら、顔を赤くして慌てふためいてさ。『違うんです、まだ絵を描いてるんだろうなって思ったから』」

 

 そんな事はない、そんな事はなかった。

 僕は絵を描いていなかったし、卒業から6年以上たった今でさえ絵を描こうとすらしていなかった。

 

「そういって、彼女は逃げるように店を出て行った。だから次に来る時、佐竹くんにも興味本位で聞いてみようと思ったんだよ」

 

 だからあの日、突然オーナーに尋ねられたのだ。

 今になってようやく気付いた。

 それまでは僕はよくある客に過ぎなかったのに、三橋 鈴の介入で僕はその枠組みから外れてしまった。

 その次に重ねられた質問も、僕が昔は絵を描いていたという前提を知りえたからこそだった。

 

「次の土曜日、君はもう絵は描いてないって言った。だから、それを彼女にも伝えたんだ」

「肩入れしすぎですよ、オーナーなのに」

「あの時は親の手伝いだったんだよ、だからセーフだ」

 

 社員じゃないからセーフという理論に呆れるも、追求する気にはなれなかった。

 じゃあその後はどうなんだ、今はどうなんだとか突っ込みどころはいろいろあるけれど、そんな細かいことは今となっては全部どうでも良い事だ。

 

「凹んでいたね、でもそんな長い時間じゃなかった。『まだ絵が好きなら、きっとそのうち描き始めるよね』、彼女はそう言ってたよ」

 

 そう言いながらオーナーは眼鏡を外して無造作に服で拭き始めた。

 彼女の予想は、今のところは外れている。冷静に考えると期間を定めてないから、いつかは当たる高確率の賭けではあったのだろう。

 まだその賭けは続いているのだろうか。彼女が生きているうちに描き始めなかったのは、彼女の負けになるのだろうか。

 

「三橋 鈴に何回か絵を見せてもらったことがある。間違いなく彼女に絵の才能はあった、だからここでいつか個展を開かないかって聞いたこともある」

「断ったんですか? 彼女は」

「そしたら、きっと、佐竹君はここに来なくなるだろうからってさ」

 

 勝手な意見だった。

 でも、彼女が個展を開いたのなら、僕はそれを見てどう思ったのだろうか。

 きっと打ちのめされていたのだろう、間違いなく。あれから努力し続けていたのなら、もっと良い絵を書けるようになっていたに違いない。

 彼女が最後に描いたであろう鯨の瞳も、素晴らしい出来だったから。

 

 画廊に来なくなったかもしれない。

 絵を見るのも、もしかしたらやめていたのかもしれない。

 

「……どうして、彼女がここに来てることを教えてくれなかったんですか」

「君が、絵を描くのをやめていたからね。三橋 鈴は佐竹くんが絵を描かない内は会わないほうがいいと思ったんだよ。だから私は、その意見を尊重した」

 

 君にも、聞かれなかったしね。

 あえてツッコミどころとして付け加えたであろうそれに、僕は何の反応もしなかった。

 聞けるはずがない、当たり前だ。でも、そう責められる事を彼女が望んでいるような気がした。

 

「でも、もしかしたら彼女も偶然君に出会うことを期待してたのかもしれない。今思うと、きっとそうだったんだろう。だから、彼女はここに来ていた」

 

 でも、会わなかった。

 会わなかったからこそ、僕は今ここにいるのだ。

 

「彼女が病にかかってから、グッと来る数は減って、佐竹くんに知らせようかなと思った事はあったんだ」

 

 僕は知らなかったことも、全部オーナーは知っていたのだろう。それをおくびにも出さないで、いつものように振る舞っていた。

 

「でも、彼女はそれを拒んだ」

 

 いまは会えないって、心配されたくないって。

 勝手な意見だった。でも、きっと、僕が彼女の立場だったら同じ事を言うだろうと簡単に想像ができた。

 

 誰も責めることはできない。

 教えてくれなかったオーナーの事も、教えないことを選んだ彼女の事も。

 どうすれば良かったんだろう、僕は。全てを解決するための行動はあったのだろうか?

 

 一つだけ、あった。

 解決には至らずとも、幾分か状況を好転させる方法が一つだけ。

 

「彼女の状況を伝えたら、君は絵を描いてたのかな」

「多分、描いてたと思います。でも、それはきっと彼女が望んだ形では無いんでしょうね」

 

 僕が絵を描き始める事。それはきっと彼女が望んだ事であり、僕が唯一できる事だったのだろう。

 彼女が描いて欲しいと言えば、僕はきっと描いただろう。何枚でも、いくらでも描いただろう。

 

 でも、それは半分呪いだ。自分のためだけに絵を描いてくれ、そういうタチの悪い呪いなのだ。

 呪ってくれればよかったのに、彼女がいなくなった後にどうなろうと気にしなければよかったのに。

 でも彼女は、三橋 鈴はそれをしなかった。

 

 その立場を使うのは卑怯だと思ったのだろうか。自分が助からないことを悟って、その後に残される自分のことを思っていたのだろうか。

 わからない、その答えを知ってる人はもう何処にもいないのだから。

 

「でもやっぱり、彼女も酷いよ」

 

 ふっと、オーナーは笑みを浮かべた。

 

「鯨の絵、君も気付いたんだろう?」

「だから、ここに来たんです」

 

 気付かなければよかったのに、気付いてしまった。

 それが全ての発端だった。

 

「オーナーも気づいてたんでしょう、あの鯨の瞳だけは三橋 蘭が描いたものじゃないって」

 

 ここにある絵は全部三橋 蘭が描いたことになっている。一つだけ姉が描いていることに気付いたのに、彼女はそれを通した。

 ふと、鯨の絵を見た時に周りに作品名の表示がなかったことを思い出す。

 あれは、もしかしたらオーナーなりの仁義の通し方だったのだろうか。

 

「三橋 鈴はここで個展を開きたいと思ってた。でも条件があった」

 

 条件は簡単に予想が付いた。

 僕がここに来なくなることを恐れて個展を開かなかったと言った。逆に言えば、その恐れが解消されたのならば。

 つまり、

 

「僕が描かないうちは、ってことですか」

「君が絵を描きはじめたらまた会えると思ってた。そうなるように願ってたんだろうね」

 

 でも結局、僕は絵を描き始めなかった。

 無為に日々を過ごして、この日になってしまった。

 三橋 鈴と再開する事もなかった。僕が絵を描かなかったから、その権利を持たなかったから。

 彼女の個展も開かれなかった。

 知らないところで締め切りを敷かれて、僕は何も知らずレッドラインを超えてしまった。

 

「妹に展示したい絵を見せられた時、すぐに気付いたさ。これは姉の方の絵だって」

 

 何枚も絵を見ている彼女からすれば、あの絵が他の風景画から一線を画すことに気付いただろうし、それを見逃すはずがなかった。

 

「でも彼女から何も言われなかったし、私も何も言わなかった」

 

 そして、その絵は僕の目の前にやって来たのだ。

 三橋 鈴の想定する通りに、最後のメッセージを携えて。

 

「これは最後のお願いだと思ったんだ。別に他の人は気づかないだろうし、君も気づかないだろうと思った」

「本当に、そう思ってますか?」

 

 オーナーは、こちらと目を合わせようとしなかった。

 それが答えなのだろう。

 

「嘘だよ、本当は気付くんじゃないかと思った。君に、気付いて欲しいと思ってた」

 

 三橋 鈴も届くと思ってたんだろうか?

 僕に、届いて欲しいと願っていたんだろうか?

 最後の絵を見て欲しいと、僕にこれは私が描いた絵だと気付いて欲しいと思っていたのだろうか。

 

「……帰ります」

 

 話すことはもうなかった。

 全部知りたいことを知ってしまった。

 

「佐竹くん、本当にすまなかった」

 

 振り返らずにドアを押し開く。

 冷たい風が吹く、相変わらず空は雲に覆われていた。

 

「謝る事じゃないですよ。全部、僕が悪かったんですから」

 

 振り返ると彼女はこちらに頭を下げていた。

 そんなこと、する必要ないのに。

 全部、自分が原因だというのに。

 

「また、来ます」

 

 それだけ言って、僕は画廊の外へと出た。

 やることは決まっていた。

 絵を描こう、たくさん絵を描こう。

 

 僕が納得するために、今更何をしても取り返しがつかないかもしれないけれど、せめて自分が納得するためだけでも絵を描こう。

 

 駅前にある本屋に行って、画材を、つまりはスケッチブックを買って帰ろう。デッサン用の鉛筆は、まだ家にあっただろうか。

 

 ふと、首にひんやりとしたものを感じて空を見上げた。

 何も見えない、気のせいだろうか。

 

 足を止めて、右手を前に差し出す。

 その手のひらに雪が一粒落ちて、一瞬で消え去っていった。

 

 




Q.そういえばなんで鯨の絵の夢を見たの?本当に同じ夢?オカルト?
A.同じ夢、そしておおよそ同じ鯨の絵を見ている。佐竹と三橋と同じ理想の絵だったから。全て奇跡というわけではなく、骨格標本というガイドラインになるモチーフもあったが、佐竹は絵としての記憶ではないので彼は覚えていない。もしくは死を連想するので思い出せない。

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