オルフェ片思いからの失恋編
凡庸でないにせよ、平凡な女だとオルフェーヴルは思う。
善意の他になにをも持ち合わせていないような女だ。清濁噛み分けることもなく、その危うさに気づきもせずに、ただ誠意と無垢のみでこの世界を渡っていく女だ。愚鈍でないにせよ、不器用にも程がある女だ。自身の「杖」を、彼女はそのように認識している。
そんな女を気づけば目で追っていることに腹が立つ。トレーニングが始まれば嫌でも会うというのに、授業中もなんとなくトレーナー棟の方角に視線が吸い寄せられることに苛立つ。なんの他意もなく、フォームの矯正やアップの柔軟体操で触れられれば心臓がばくりと脈打つ自分に怒りすらも覚える。
だが全て仕様のないことだ。
オルフェーヴルは、女に恋をしていた。
分かっている。分かっていた。
彼女の師(と金輪際表現したくはないが)は平凡であるが凡庸ではない。危なっかしいが愚鈍ではない。何より不器用ではあるが、不誠実ではない。
だからこんな想いは、受け入れられる筈もなかった。
オルフェーヴルが、(大変不本意ながら)まだ子どもで、一学生であること。トレーナーとウマ娘の指導関係の間に、そういった私情を差し挟むべきではないこと。だから、この関係を色恋沙汰にしてはいけないこと。そんな全てを、オルフェーヴルも恐らくそのトレーナーも理解している。
よってこの恋は叶わない。そんなことは誰に言われなくとも、彼女自身が身に沁みて思い知っていた。
だから言うつもりではなかったのだ。けれど、何故その日が来たのか自分でも分からないくらい唐突に、その言葉は唇から転がり出た。ただ、いつものようにトレーナー室でミーティングをしていただけだったのに。真剣な横顔がいつになくうつくしいと、そう思っただけだったのに。
「好きだ」
その声は、まるで他人のそれであるかように部屋の中に響いた。
一瞬、自分でも自分が何を口にしたのか分からなかった。それを理解した瞬間、柄にもなくさっと背筋から血の気が退く。これは、何だ。一体どうすればいい。そう、口に出した側にも関わらずオルフェーヴルが大いに混乱する。
トレーナーは。トレーナーは、一瞬鳩が豆鉄砲を食ったようにぱちぱちと瞬きをしたあと、にこりと笑ってみせた。そのまま、告げる。
「珍しいね。オルフェがそんなこと言うなんて」
「貴様」
「私もオルフェのこと好きだよ」
トレーナーはこともなげに笑ってみせる。発せられた言葉の意味を誤謬したまま。彼女の愛の告白を、簡単な冗談だと、思い込んだまま。
──意表を突かれた。けれど本当は、僥倖な誤解ではあったはずだ。
そうだな、と微笑してしまえば済んだのかもしれない。トレーナーの無自覚と無防備さ、それに乗って誤魔化してしまえばいつもの日常が戻ってきたのかもしれない。だがオルフェーヴルは何故かその道を選べなかった。
だって、もう、言ってしまったのだ。発した言葉を拾い上げてなかったことにすることはできない。だから言い募るしかなくて、オルフェーヴルは言葉を繋げる。
「ちがう」
「なにが?」
「私は貴様を懸想している」
その言葉を発した瞬間。レースを終えたあとと同じくらい、いやややもするともっと。心臓の鼓動がばくばくと高鳴って、煩いとすら思った。
一瞬、ばちばちと張り詰めたピアノ線のような沈黙が場を支配した。信じられないものを見たかのように目を見開いたトレーナーが息を吸って、吐く。それを何度か繰り返したあと、口を開く。
「それは、ほんとう?」
「……二度言わせる気か」
「……そうだよね、ごめん」
また、沈黙。
続いた静寂を破ったのはトレーナーの方だった。じっとオルフェーヴルのアイスブルーの眼をみつめながら、告げる。
「気の迷い、だよ」
「……は?」
「オルフェくらいの歳の子はね。勘違いしやすいの」
珍しくないことなんだよ。そう告げて、彼女の「杖」はぎこちなく笑ってみせる。
──刹那。激情が胃の腑から喉までを駆け上がる。自分で取り返しのつかない言葉を発しておきながら、トレーナーを困らせておきながら、彼女の反応に対する感情は、紛れもなく怒り、だった。
ちがう。ちがうのだ。
気の迷いになどするな。どんなに不毛な思慕であろうとも、叶うはずもなくとも、自分も相手も傷つけると分かっていても、トレーナーの言う通り、いつか忘れていく思いだとしても。
今、この瞬間こんなにも胸を灼く。
この想いをなかったことにすることだけは、嫌だ。
そんな気持ちに衝き動かされて、オルフェーヴルは叫ぶ。
「巫山戯るな!」
「……ふざけてなんか」
「受け入れられないのはいい。承知の上だ」
声が、どうしようもなく震える。最低の気分だった。今の自分はまったくいつもの自分らしくない。それなのに言葉を押し留めることができない。常日頃そうであるはずの赫々たる王に戻ることが、どうしても、できない。
「だが私の気持ちを否定することは」
「オルフェ」
「貴様にすら許さん……!」
トレーナーが目を伏せる。そうだよね、ごめん、と呟く声はか細い。それから彼女はまだ力のない声で、もう一度、ごめん、と続けた。
「オルフェの気持ちには、応えられない」
理由は、あなたは賢いから分かるよね。そう言ってトレーナーは、弱々しくわらってみせる。
分かっていたのに。その身を支配した感情は、どす黒い絶望だった。日頃王を照らす燦々たる威光すら届かない、真っ暗闇の中にこころが落ちていく。自分の心が陥った奈落のありさまを、オルフェーヴルはある種残酷なまでに、冷徹に眺めていた。
いっそ泣けたならよかったのかもしれない。
けれど涙は出なかった。それは最後の最後に残った王としての矜持か、それとも。
「……ありがとう」
トレーナーは漸くのことで、謝罪以外の言葉をみつけたようにそう口にした。