ある昼過ぎのこと。
早朝からせっせとシーツを干したり、庭の掃除をしたり、館内の掃除をしたりと、指示された仕事を忠実にこなしていた草十郎は、任されていた最後の仕事である草むしりを終え、引き抜いた雑草を一纏めにしてから額の汗をぬぐった。
この時間になると大部分の仕事は終わっており、残っているのは細かな作業のみである。それさえ終われば、夕暮れまでの数時間は完全な自由時間となるのだが、この時間こそ、唯一草十郎や咲夜がゆっくり休みを取れる時間だったりもする。
草十郎はひとまず言いつけ通り、終了の報告をすべく咲夜の私室へと足を運ぶ。ドアの前に立ちノックをしようと手を上げるが、キチンと閉まっていなかったのか独りでにドアが開く。
見た感じ中に咲夜の姿はなく、違う場所にいるのかとその場をあとにしようとしたそのとき、中から布が擦れるような微かな物音がした。
「いるんですか?」
控えめに呼び掛けても返事はない。
少し迷ったが、入室の許可自体は既に貰っているし、もし泥棒だったら良くないと意を決して部屋の中へ足を踏み入れる。
「ん……」
草十郎の呼び掛けに答えるように漏れでてくる声。
つられてベットの方に目を向けるとそこに彼女はいた。
まぶたを下ろし、胸を上下させながらベッドに体を横たえるのは、草十郎もよく知る人物。紅魔館のメイド長でもあり、上司でもある十六夜咲夜だった。
彼女の銀の髪は窓から差し込む明かりを受けてキラキラと輝き、ベッドの上に広がるスカートは水面に浮かんだ花弁のようだ。
僅かに聞こえてくる息づかいは小さく深い。草十郎が呼び掛けても起きないことから、熟睡しているのが分かる。肩を揺すって起こすことも考えたが、どうしても気が咎められた。それは寝顔を見たことを怒られるとか、入室したことを注意されるから、といった類のものではなく、純粋に彼女を起こすことは良くないと感じたから。
草十郎は今まで彼女の色々な顔を見てきた。
表情を消した顔
凛々しい顔
怒った顔
含み笑いを浮かべた顔
垢抜けて大人びた、十六夜咲夜としての様々な顔を見るたびに彼女という人間の実態が薄れていく。草十郎からしてみれば、咲夜は知れば知るほど分からなくなる不思議な人物に見えただろう。けれど今、草十郎は初めて十六夜咲夜という人間の実像を捉えた気がした。
枕も使わず、毛布もかけず、真っ白なシーツを敷いたベットの上で物言わず深い眠りにつく彼女の表情は、大人びた女性というよりは無垢な少女だ。何一つ飾ることのない無防備な寝顔はあどけなく見えて、起こすことを躊躇わせるほどに安らかだった。
咲夜は己を偽っている訳ではない。全てが彼女のもつ一面であり、それに状況にあわせて必要な装飾を付け足していたのだ。草十郎が見てきたのは彼女であって彼女でなく、それでいて全てが彼女の一部だったのだと気がつく。
今このときこの瞬間、彼女はメイド長でもレミリアの従者でもない。一人の少女として何一つ装うことなく、安らかに眠る咲夜を起こすということは出来ないことではないけれど、咲夜自身も起こせと怒るだろうけれど、それでも草十郎は起こしたくなかった。
草十郎は自分のジャケットを脱ぐとソッと寝ている咲夜にかける。この紅魔館は日光が入らないからか中はひんやりとしていて気温も低い。この部屋は窓があり比較的に暖かいが、それでも日が落ちれば気温は下がる。体を冷やしてしまうのは良くないと彼なりに気をつかったのだ。
残っている仕事は草十郎ひとりでも出来ることばかり。何より普段から咲夜は彼の半分程しか寝ていないのだ。今日くらいはゆっくり寝かせてあげるべきだと部屋を後にする草十郎は、一度振り返って
「おやすみなさい」
そう言葉を残すと、足音を発てぬように食堂へ向かうのだった。
――――――――
目が覚め、差し込んでいる明かりが赤くなっている事に気がついた咲夜は、今がもう夕方になっている事に気がつき、夢現の状態から慌てて飛び起きた。腰の懐中時計を開き時間を確認すると、既に主の起床時間まで1時間を切っている。
仕事の途中に転寝をしてしまった自分を叱責しながら、間違っても寝癖をつけたままなんてことにはならないように自らの能力をフル活用しつつ身支度を済ます。その途中、自分が飛び起きた際に床へ放り出されたジャケットを見つけたが、それが誰の物かなど態々考えるまでもない。
彼が自分を起さなかったことに思うところが無いと言ったら嘘になるが、そもそもミスをしたのは自分自身。ここで怒るのは八つ当たりに他ならないし、彼もきっと自分に気を使ったのだろう。けれどそれはそれとして、一応後で注意しておこうと考えながら彼女は厨房へと急いだ。だが、結果としてそれは徒労に終わる。
食器を拭こうとしたところ、グラスも皿も、ナイフもフォークも、それら全ては磨かれ終わった後で、彼女から見ても文句の付け所のないほど曇りがない。自分でやった覚えはなく、ブラウニーなんて便利なものはあいにくとこの紅魔館にはいない。いるのは数合わせの妖精メイドだけで、こんなことが出来る人物なんて思い当たるのはたった一人だけだ。
執事見習いの部屋をノックなしに開けると、案の定そこにはジャケットを着ていない青年がいて、どうかしたのかと彼女を見ている。
「忘れ物よ草十郎」
「あ、どうも」
ジャケットを受け取る草十郎は、悪びれた様子もない。まあ何となく予想通りな反応にため息をつきながら感謝と少しばかりの注意をする。
「私の分の仕事をしてくれた事にはお礼を言うわ。ただ気を使ってくれるのはありがたいけど仕事があるんだから起してくれないと。それで怒ったりはしないから安心しなさい」
「いや、別にそういうわけでは……。ただ起したくなかっただけで」
自分のベッドに腰掛けている草十郎に対し、左手の人差し指を鼻先に突きつけて注意をするが、良く分らないことを口にしている。その上、今後はきちんと起すように言っても渋るようなそぶりを見せていた。
これは珍しい事で、言われたことは基本的に二つ返事で首を縦に振っていたのだが、今回のように渋っているは初めてだった。何故という疑問と驚きが彼女の中に湧く。
そこで咲夜は、備え付けの椅子を持ってくると、喋るまで逃がさないという意味も含めて草十郎の目の前に座った。
「それは何故かしら?」
「あのとき、なんというか邪魔しちゃいけないような気がして……。それにきっと、あのときの咲夜さんを起してもいいのは、咲夜さんのことを解ってる人だけだと思うので」
彼が言わんとしていることは何となくは分るものの、そこまで言われると一体自分がどのような寝顔をしているのかが気になってくる。
自然と自分の顔に手が伸びる。如何に完璧なメイドである彼女でも、流石に寝顔までどうこうは出来ないのだ。そもそも寝顔を他人に見られるような事態が稀で、少なくとも紅魔館での生活サイクル上、咲夜が眠っているときに部屋を訪れる者はほぼ皆無である。
ただそこで気になることが一つ。自分の下に彼のジャケットがあったということは、つまり彼は自分の直ぐ傍までやってきていたということだ。当たり前といえば当たり前のことなのだが、つまりそれは自分の間合いに入ってきているのに気がつかなかったというのが不可解だった。
近接格闘が主体ではないとはいえ、咲夜もそれなりの手練れだ。素人に接近を易々と許すほど未熟ではない。ふと、以前美鈴が話していたことを思い出す。曰く、草十郎の呼吸には目を見張るものがあると。気配を消すのではなく、周囲に同化している。あそこまで自然体でいられるのは、一重に理想的な呼吸を行っているからだと彼女は語っていた。ならば彼は一体何者なのか。
改めて目の前の草十郎を観察してみるが、首をかしげて姿はまるで温厚な羊のようで、至ってのんびりと構えている。この短期間でもうすっかり紅魔館に馴染んでいる草十郎だが、処世術は然程高くはない。気に入られようとする打算的なものは彼とは無縁のものだろう。そう思えるくらいには、咲夜は彼のことを信用していた。
彼女にとって、草十郎は初めて出来た部下であり、教え子である。だからか、必要以上とまではいかないまでも、かなり目をかけていることは事実だ。困ったときの、あのなんともいえない表情を見たくてついついイジワルなことをして楽しむこともある。それは男女間での好意ではなく、手のかかる弟分に抱く情愛のようなものというのが、彼に対する感情なのだろう。色々と謎の多い草十郎だが、今は自分にとって手のかかる弟分。それでまあいいかと彼女は納得した。
自分の中で折り合いがついたところで、不意にまたイジワルなことを思いついた。
「ねえ草十郎、私の本当の顔ってどれだと思う?」
この質問は正解のない問いだ。
十六夜咲夜という人間はこれまでありとあらゆるものを装うことによって生きてきた。そうしないと生きていられなかったのだ。本心、感情などは言うに及ばず、人生や経歴などもすべて。『十六夜咲夜』という名前すら主から与えられたものに過ぎず、幾つもの顔を使い分け、いつの間にか本当の自分が分らなくなっていく。
けれど別にそれでも構わなかった。たとえ偽りだらけの自分だろうと、今の生活が好きだというのは彼女の偽らざる本心である。彼女にとって最早本当の自分などというものはないに等しい。言うなれば、『十六夜咲夜』としての自分が一番大切なものなのだろうと彼女は思う。
幾つも顔の中で一体彼がどれを選ぶのか。優しくされたい、厳しくされたい。そんな彼の願望や趣味趣向でも探ってやろうという軽い気持ちで彼女は聞いた。だからそれは不意打ちだった。
キョトンとして首を傾げたあと、草十郎は笑顔で口を開く。
「全部咲夜さんでしょう?」
変な事を聞くんですねと笑っているが、咲夜は思わず息を呑んだ。
草十郎の答えは答えにすらなっていないようなものだが、何も選ばないということがときには正解になる。
都合よく使い分けてきた顔すべてひっくるめて自分なのだと、咲夜にはそう聞こえたのだ。そんな意図があったとは考えにくいが、彼の言葉はどんなに美辞麗句で飾った口説き文句よりも、十六夜咲夜からしてみれば嬉しいことだ。
そんなこととは露知らず、何も考えていなさそうな顔で草十郎は首をかしげている。それが少しばかり悔しく思えて、咲夜は咳払いを一つして立ち上がると、少し早いが夜の仕事に取り掛かることにした。
「コホンッ。さて草十郎、仕事を始めるわよ。身支度を整えてついてらっしゃい」
「あ、はい分りました」
渡されたジャケットを着て身だしなみを整える草十郎を見つめながら、咲夜は彼に聞こえないように小さな声でこう呟く。
「……ありがとうね、私のブラウニーさん」
「何か言いました?」
「いいえ、何も。ほら、終わったら行くわよ」
その後、きっちりと燕尾服を着こなした草十郎を連れて部屋を出る際に、咲夜はふと何かを思い出したようにドアの前で振り返る。その表情は何というか、良くないことを考えていそうな顔で、今まで何度か見たことのあるものだ。
「それはそれとして、女性の寝顔をまじまじと観察するのは感心しないわ。罰として今度人里に行ったとき老舗の水羊羹をご馳走してもらえると私としても嬉しいのだけど。期待してるわよ草十郎?」
極上の笑顔を浮かべ、一足先に部屋を出ていく咲夜に草十郎は軽くなっていくであろう自分の財布事情を思い涙した。因みに老舗の水羊羹は高級品で、それこそ饅頭に換算すれば十倍近く値が張る。中々高くついてしまったと、がっくり肩を落としながら彼はメイド長の後を追った。