ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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一話  亡き恋人を喚(よ)ぶ

 

 その日も、桂木子爵家の離れには香の匂いが立ち込めておりました。正確には、西洋風二階建ての十八ある部屋の一つ、嫡男市雄(いちお)氏の部屋にです。

 

 その部屋は、長屋住まいの平民でしたら二、三家族は喜んで暮らせる広さがありました。ふかふかと柔らかな臙脂(えんじ)色の絨毯の上には、照りのある焦げ茶色をした南洋栴檀(マホガニイ)材の箪笥(たんす)やテーブル、書き物机が並べられており、それらのいずれにもつる草をかたどった見事な模様が彫り込まれていました。

 

 香の煙はそのテーブルの上から立ち昇っておりました。仏前に置くような線香立てには十本あまりの香が立てられています。ただ、それは決して香りを楽しむために焚く匂いではありませんでした。濃い紫色をした線香からは薬と干し花を混ぜたような香りがしました。漢方の薬を商う店の中なら、これに似た匂いが立ち込めているでしょう。

 

 机の上には他にも妙な物が置かれていました。ざるいっぱいに盛られた紙吹雪、それが赤青黒白黄と五色、色とりどりに混ざっております。それに何かの祭具か、短い両刃の剣のつばにいくつもの鈴がついたもの。それと、丼鉢くらいの直径をした金属(かね)の輪っかに、いくつも小さい輪の通ったもの。

レース編みのカーテン越しに差し込む日が、それらの物と、立ち昇る煙を柔らかく照らしておりました。

 

 肘掛けのついた椅子から腰を浮かし、市雄は言いました。

六車(むぐるま)先生、今日もお願いいたします」

 

 市雄の歳は二十より少し上。襟に届く長さを持った波打つ黒髪の優男。背丈の高い痩せ気味の体格に、灰色の洋装が似合う青年でした。その洋装紳士の目が、すがるようにじっと、テーブルの向こうにいる人物を見つめていました。

 

 先生、と呼ばれたのはほんの女の子でした。歳は十一、二。捨て猫のように痩せていて、立てば市雄の胸にようやく頭が届くくらいの背丈でしょうか。大きな目は、檜皮(ひわだ)のような暗く濃い茶色をしていました。日本人形をおかっぱにしたような、おとなしげな少女でした。ただ、そのお人形さんが着ているのは鮮やかな振袖ではなく、経帷子(きょうかたびら)に似た真っ白な着物でした。

 

 少女は椅子の上で小さくうなずきました。少女が座っているのは市雄のものと同じ造りをした椅子でしたが、腰かけているのではありませんでした。草履を横の床に置いて、腰が沈むほどふかふかとした椅子の上で、少女は落ち着かなげに正座をしていました。ときどき体勢を崩しては、慌てたように姿勢を正していました。

 

 市雄は少女の目線まで身をかがめ、笑って言いました。

「先生どうぞ、お足を崩して、楽になさって下さい」

 

 少女は驚いたように肩を震わせ、ほんのわずかだけ市雄を見た後、すぐに目を伏せました。

「いえ、あの、(かんま)んです。田舎やったらいっつもうち畳で、正座でやっとるけん……や、あの、してございますので」

 消え入りそうな声でそう言った後、少女はなおも深くうつむきました。小さな肩がますますすぼまっていました。

 

 市雄は両膝に手を当て、深く頭を下げました。

「申しわけございません、今まで気が回らず。すぐに台と畳を用意させますので――」

「や、そんな、なんちゃ構ん……何にも結構ですので!」

 

 言うなり、少女は飛び下りるようにして絨毯に正座しました。膝を強くつかみ、唇の先をわずかに噛んでうつむいていました。それから、弾かれたように顔を上げ、机の上の道具を抱えて絨毯へ下ろしました。その拍子に、ざるの紙吹雪がいくらかこぼれました。

 

 市雄は微笑むと、少女の向こうにかがみました。紙吹雪を拾ってざるに戻した後で絨毯に正座をしました。そして手をつき、深く頭を下げました。

「では、よろしくお願いいたします。史乃(ふみの)さんを、どうかお願いいたします」

 

 従五位の位階を持つ方が土下座のようにするのを少女は止めようとしたのでしょうが、ただ口を開け、何か言いたげに手を上げかけたばかりでした。

 

 顔を上げた市雄に微笑みかけられ、少女はようやく手を下ろしました。

「……務めさせて、いただきます」

 

 同じく頭を下げ、絨毯に額を押しつけた後。少女は顔を上げて姿勢を正し、喉の奥で咳をしました。手にした鈴を、しゃん、と振り鳴らし、輪っかを、じゃりん、と打ち鳴らしました。

 

 わずかに胸をそらせながら、強く短く息を吸います。吐いた声は先ほどまでとはまるで違い、強く低く、太く響く、謡うような声。腹の底から絞り出す、耳の奥まで通るような声。

 

「『エェ、東に伏しては(かしこ)み申す、西に伏しては拝んで申す』」

 そこで、しゃん、と鈴を鳴らします。

「『ソレ、東に抱くは日の(かむり)、畏み畏み申しまする。比良坂(ひらさか)、大岩、開かせ給うて、尋ねるお人がおりまする。黄泉津(よもつ)軍勢(いくさ)八雷(やいかづち)、鎮ませ給うて聞き給え』」

 

 金属の輪っかをそこで捨て、ざるから紙吹雪をつかみます。それを高く振りまいて、舞い散る紙を切るように、強く剣鈴(けんれい)を振るいます。

 

「『秋津の娘はそこにおるか、秋津の史乃はおられるか。音にも我が声聞こゆるならば、(いら)え応えよその音に』」

 

 それから再び輪っかをつかみ、じゃりん、と打ち振り鳴らします。

「『ソレ、西に仰ぐは月蓮台(つきはちす)、拝み拝みて申しまする。川船、御沙汰(おさた)も止まらせ給うて、尋ねるお人がおりまする。浄土の雲から六道歩き、釜底さろうて尋ねまする』」

 剣鈴を捨て、紙吹雪を振りまきます。髪も白装束も五色の紙にまみれながら、打ちつけるように金輪を振るいます。

 

「『秋津の娘はそこにおるか、秋津の史乃はおられるか。(いと)ほど細くも聞こゆるならば、手繰(たぐ)れ手繰れよその絲を。紡げ紡げよ引く紐に。握り離すなその紐を』」

 金輪を鳴らし、剣鈴を振るいます。

「『かんだり・しんそん・けんごんこん、かんだり・しんそん・けんごんこん』」

 

 さらに鳴らし、また振るいます。今度は速く短く。それに合わせるように、謡う言葉も速くなります。

 

「『かんだりしんそん・けんごんこん、かんだりしんそん・けんごんこん。かんだりしんそんけんごんこん、かんだりしんそんけんごんこん。かんだりしんそん――』」

 

 謡うごとに鳴る音は速まり、鳴るごとに言葉は速まります。速まり、速まり、少女は汗をかきました。散るつばが窓からの光に白く光りました。見開いた目の奥の、瞳がわずかに開いていました。じわりじわりと開いていました。光のせいか、濃い檜皮色だったその目が、とろけるように、明るい色に変わっていくように見えました。

 

「『かんだりしんそんけんごんこんかんだりしんそんけんごんこん、かんだりしんそんけんごんこんかんだりしんそんけんごんこんかんだりしんそん――』」

 

 速まり、速まり、鈴の音、輪の音、速まり速まり、速まり速まり、汗が瞳に落ちました。少女はそれでも目をつむりません。汗か涙か分からないものが頬を伝い、あごの先からこぼれました。少女の目はますます見開かれ、瞳もさらに開いていました。口の端からはとろりと、つばが細く垂れていました。

 

「『かんだりしんそんけんごんこんかんだり、し……そ、け、ご……』」

 

 不意に言葉を詰まらせると、少女は身を折り曲げました。と思うと、しゃっくりのように体を震わせ、急に身をそらせます。ひきつけを起こしたように何度も何度も身を震わせ、そのたびに鈴と輪がでたらめに鳴りました。

 

 やがて膝立ちになり一際強くのけ反ると、手から鈴と輪が落ちました。その音と一緒に、少女も絨毯に倒れかけます。

 

「先生!」

 市雄は飛びつくように少女の体を抱えました。それから後ろに回り、少女の頭を自分の腹に乗せるように抱きかかえました。

 

 少女は目をつむり、眠ったように動きませんでした。開いたままの唇の端から、透明なつばが、とろとろとろ、と、滴り落ちておりました。

 

「先生、大丈夫ですか先生」

 市雄が小さく揺り動かしますと、少女はゆっくりと目を開きました。

 

 市雄は声をかけました。

「先生……いえ。史乃さん、ですね」

 

 少女は子猫のように伸びをすると、市雄を真っすぐ見上げて微笑みました。

「ええ。いつ以来かしら、お変わりなくて?」

 

 市雄は微笑み返します。

「ありませんよ、ついこの間も会ったばかりです」

「また、お呼びになって下さいましたのね」

 少女は、史乃と呼ばれた少女は、体を起こすと市雄の腕に抱きつきました。それから背伸びをして、その肩に頭を預けるのでした。

 

 

 

 

 ――少女は、六車 絲子(いとこ)という名をしたその少女の心は、自らの体にありませんでした。

 自らが呼んだ秋津 史乃という女性の心に押し出され、その辺を――自分でもどの辺なのか分かりませんが、とにかく体からそう遠くない辺りを――漂っておりました。それはちょうど、目をつむって耳に栓をして、あお向けに浮かんでいるような気持ちでした。ぬるくて重い水の上を、ただ漂うような心持ちでした――

 

 

 

 

 市雄は史乃の手を、少女の体に入った史乃の手を取り、ゆっくりと立たせました。何か言おうとした史乃を手で制して、その髪と体に散っていた紙吹雪を一つ一つ取っていきます。

「せっかくの美人が台無しですよ」

 

 聞くと、史乃は手で口元を隠し、可笑しそうに笑いました。

「そうおっしゃられても。今あたくし、ほんの子供に間借りしておりますのよ」

 市雄はひざまずくように身をかがめ、目を見つめました。

「どんな姿であれ、あなたならば美しい」

 その真顔を見て、史乃は小さく口を開けて、それから可笑しそうに笑うのでした。

 

 

 

 

 ――絲子の心が体から押し出されるときというのは、何というほどのことでもないのでした。型から突き出される心太(ところてん)のように、別のものに、つるり、と押し出される。それだけのことでした。ただ、押し出され易いように心を滑りよくしておくことと、入れるべき心を呼んでおくことに少々骨が折れるのでした。

 それさえ済めば、何も苦労はありませんでした。心は心太(ところてん)と似たようなものでした。それらはとても柔らかいのでした。震えるほどに柔らかい、ただそれだけのものでした――

 

 

 

 

 史乃はしげしげと自分の――絲子の――手を眺めました。

「それにしても不思議ですわ。その……二度とお会いできなくなって、それでもこうしてお会いできるなんて。ヒナカタ、でしたっけ? 世の中にはすごい方たちがいらっしゃるものですね」

 

 市雄はなぜか目を伏せました。

「ええ。……この先生を見つけられていなかったらと思うと、僕は――」

 

 史乃――絲子――の小さな手が、市雄の手を握りました。

「そんなことおっしゃらないで、この先生がいてくだすってよかったじゃありませんこと。いろいろありましたけど、それはもう……ね」

「……ええ」

 市雄は言って、史乃の肩に手を置こうとしましたが。史乃は構わずきびすを返すと、部屋の中を歩きました。片足をわずかに引きずる、腰をくねらせるような歩き方でした。振り返り、可笑しそうに笑います。

 

「なんだか、足を縛られてでもいるみたいですわ。歩いても歩いてもなかなか進めません」

「だいぶお小さいですからね。今の史乃さんは」

 

 史乃は窓際の書き物机の方へ歩き、その上にあった写真立てを手に取りました。そこには市雄と、同い年くらいの女性が並んで写っておりました。市雄より頭半分だけ小さい、背の高い女性でした。艶やかな長い髪が肩にかかる、洋装の似合う綺麗な人でした。それが、生前の史乃でした。

 

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