ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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十話 地獄

 

「なんだか、今日の史乃さんはぼうっとしてらっしゃいますね」

「そう、かしら」

 

 答えはしましたが、呆けたような響きだと自分でも思いました。

「具合でも悪いのですか。……いえ、あなたみたいな人に具合、というものがあるかは存じませんが」

 その意味がよく分からず、少し考えてから言いました。

「ずいぶんな言いようですのね、馬鹿は風邪ひかないなんて」

 

 慌てたように市雄は首を横へ振ります。それから目を伏せました。

「そうではなくて。その……亡くなった、方に体調などはないのかな、と」

 絲子が何か言う前に、無理に笑った顔で市雄が言います。

「そうだ、一度聞いてみたかったんです。あの世というのはどんな所です?」

 当然、絲子も直接知ることではありませんでしたが、史乃のふりよりよっぽど楽な問いでもありました。

 

 目をつむって、眠るような顔をして答えます。

「そう……市雄さま、お豆腐屋さんに行かれたことはおあり?」

 不審げな顔で市雄は首を横へ振ります。

 うっとりと思い出すような表情で絲子は言いました。

「あの世はね、お豆腐の浮かんだ水槽みたいな所ですの。なんと言うか……曇った夜明け前のような、穏やかな金色の空の下でね。同じ色の(ぬる)ぅい海にね、見渡す限り魂が浮かんでますの」

「魂が?」

「ええ、でも人魂みたいなのではありませんのよ、生きてる人やら動物やらの形をしていますの。そんな魂が見渡す限り浮かんで、眠っていますの。まるでお味噌汁(おみおつけ)の中のお豆腐やお()になった心持ちでね、あたくしたち、しじゅうたぷたぷしておりますの」

 

 それは絲子自身が見聞きしたものではありませんでしたけれど、絲子の知る一番確実なあの世の姿でした。祖母のそのまた祖母がその母を呼んだときに聞いたものだそうです。ただ、あの世で魂はほとんど眠っておりますので、その光景はほんのわずか見たものでしかないそうでした。

 

 言った後でふと思いついて、絲子は言いました。

「お味噌汁(みおつけ)と言えば。あなたにいつか、美味しいお味噌汁(みおつけ)を作って差し上げたかったのですけれどね」

 

 それは絲子の気持ちでした。祖母と二人暮らしでしたので、料理や家事は得意でした。自分の作ったものを市雄に食べてもらったなら、どんなにか嬉しいだろうと思ったのです。

 

 市雄は笑いました。

「強がりはおよしなさい、あなたの作れるのは目玉焼きくらいでしょうに」

 少し考えて、絲子は唇を尖らせます。

「ご存じないでしょうけど、そのうち習おうと思ってましたのよ。……その前に、あんなことになってしまいましたけれど」

 

 市雄が表情を曇らせ、視線を下げて言いました。

「もう一つ……あの世のことで聞きたいのですが。あ……いや。やはり、よしておきます」

「なんですの、おっしゃって下さいな。気になるじゃありませんこと」

 目をそらしたまま市雄は言いました。

「……地獄、というものは、あるのでしょうかね」

 

 意外な質問に思えて、考え始めるまで間が空きました。

「そうね……あたくしたち、あの世で眠っていると言いましたわね。魂はそこで夢見ていますの、生前のいろんなことを。だからきっと、悪いことや後悔するようなことをしてきた人にとっては、そこが地獄」

 市雄がゆっくりと、何か恐れるように顔を上げ、絲子を見ました。

「じゃあ……あなたは」

 

 絲子は両手で市雄の手を包むように取りました。

「あなたとの思い出ばかり夢見ておりますので」

「それなら……いいんです。ああ、それなら、いい」

 握り締められていた市雄の手から、強ばっていた顔や肩から、力が抜けていっていました。

 

 

 

 部屋に戻った後。市雄はなぜあんなことを言ったのだろうかと絲子は考えていました。地獄、だなんて。

 

ただの興味で聞いてみたにしては妙な様子でした。もちろん、市雄自身が地獄に落ちることを心配しているなんてことはあり得ません。そのようなことをする人だとは考えられませんでした。ことに、絲子には絶対に考えられませんでした。

 

 では、史乃が地獄に落ちるのを心配していたのでしょうか。遺品でその姿を視たり、市雄から話を聞く限りでは、それもないように感じました。確かにきちんとした人ではなかったようですけれど、悪い人だとも思えなかったのです。

 そう考えて、ふと思いました。なぜ市雄がそんなことを聞いたのかは分かりませんでしたが。

 

 地獄が、絲子の言ったようなものだとしたなら。今一番地獄に近いのは絲子自身なのではないかと。市雄をたばかり、史乃の立場を奪った自分なのではないかと。もちろん地獄うんぬんは絲子の言った嘘なのですけれど、それほどのことをしてしまっているのではないかと。

 

 

 

 数日後、絲子は市雄とバルコニーにいました。無論、史乃としてでした。離れの二階にあるバルコニーにテーブルがしつらえられており、そこでお茶を飲んでいました。朝食よりも前のことでしたが、市雄の希望でそうしたのでした。

 

 そこからは中庭とその向こうにある本邸が見渡せました。真四角の中庭は歩いてすぐに回れるくらいの広さでした。噴水を中央に、上下左右対称な文様のように刈り込まれた、幾何学的な美しさのある生垣がありました。離れの回りには桜が並んで植わっていました。花はまだ咲いていませんが、もうつぼみが膨らんでいる時期でした。

 お屋敷の外、ずっと向こうの川の辺りには霧が出ていましたが、空は東の方を日の光に紅く染めながら、高く青く澄んでいました。

 

 風が髪を揺らしました。冷たくはありましたが、冬のような厳しさのない、さらりとなでるような風でした。

 それでも絲子には、その空の青さや風の心地よさが落ち着かないものに感じられました。もっと灰色の空ならばよかったと思いました。暴くように真っすぐ注がれる日差しではなく、曖昧な光だったなら。

 

 座ったまま足を伸ばすと、草履の先で小さく床を蹴りました。それから、足をぶらぶらと揺らします。その後で、史乃のすることではないと気づいて足を止めました。ため息が出ました。

 どうあがいても、絲子は史乃ではないのでした。

 

「どうしました。今日もぼんやりとしてらっしゃる」

 絲子は答えず、視線をうつむけました。これも史乃のやり方ではないと思いながら。

 自分が史乃ではないと知ったら、市雄はどう思うでしょうか。どんな顔をするでしょうか。どんな風に思うでしょうか。

 考えたくありませんでした。自分がそれだけのことをしている、それも考えたくありませんでした。なのに、考えてしまうのでした。

 

 市雄に頼んでフィガロを一本もらいました。好きなわけではありませんでしたが、吸っていればため息は隠せると思いました。市雄の擦ってくれたマッチでつけた煙草の火は、東の空と同じ色をしていました。

 

 不意に、ドアの開く音がしました。

「おはようございます、兄上。それに先生」

 大窓の並んだ端にあるガラス張りのドアを開け、次道がバルコニーに入ってきていました。こちらに来ると、同じテーブルの空いた椅子に座りました。

 

 絲子は笑ってみせました。

「はずれですわ、あたくし史乃です。お久しぶりね、懐かしいこと」

「お久しぶりです。まあ、そう言うのも妙な気分ですが。ご機嫌はいかがですか」

 絲子は少し考えてから微笑みました。

「また会えて嬉しいですわ、次道さんもご機嫌はいかが」

 次道は足を組み、椅子の背にもたれました。

「あの世で礼儀でも教わってきたのですかな。以前お会いしたときは、次ちゃんなどと言って大変馴れ馴れしく……可愛がっていただいたのに」

 嫌な鼓動が響くのを感じながらも絲子は笑いました。

「こちらに来ていられる時間も限られてますので。せっかくお会いできたのに、失礼があってはつまりませんもの」

 

 市雄が言います。

「まったく、失礼なのは次道だろう。よく言っているだろう、誰に対してもそのような態度を取るべきでは――」

「『取るべきではない、ましてお前は(まつりごと)に関わる志があるのだろう。全ての人のために行なわれるべきことに関わる者が、その人に無礼でどうする』。もう覚えましたよ」

 

 さすがに市雄の表情が固くなります。

「覚えたならいいというものではないだろう」

 表情を変えず次道が答えます。

「なるほど、さすが兄上は違いますな。口だけではなく行動を伴っておいでだ、身分の別なくつき合っておられる」

 市雄が口を開きかけたとき、次道は椅子を引く音を立てて立ち上がりました。

「お邪魔いたしましたね、もう失礼します。ああ、ねえさま」

 絲子の顔を見て続けました。

「覚えておいでですか。生前、いつか三人で出かけようとおっしゃって下さいましたね」

 

 それには答えず、絲子は笑って言いました。

「あら。お兄さまを見習う気になりましたの」

 次道は薄く笑いました。

「ねえさまと約束したことでもありますしね。どうです、もう少し温かくなれば三人で海など見に行きませんか。このところ、兄上もあまり出歩かれていませんので」

 返事を待たずに歩き出します。出入口のドアに手をかけたところでこちらを振り向きました。

「ところで。していただいたもう一つの約束、今日はお忘れのようですね」

 次道が指差したのは、絲子が手にしていた煙草でした。

 絲子はごまかすように笑って灰皿に押しつけます。

「あら、そういえばお嫌いでしたっけ、煙草」

「嫌いなのは煙草ではなく、煙草を吸う女子(おなご)です。お忘れなく」

 音を立てて、バルコニーのドアが閉まりました。

 

 

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